ナイーブなデザインの進化5-1: Norman & VergantiとLangrishのけんか 1of3(途中まで)
はじめに
- 初回は太刀川英輔 (2021) 進化思考
- 第二回はLongo, G. (2009) Epistemological Turn,
- 第三回はPetroski, H. (1992) The Evolution of Useful Things(未完成),
- 第四回はWhyte, J. (2007) Evolutionary theories and design practices,
- 第五回は三回にわけてNorman & Verganti (2014)をめぐる議論を紹介する(2022-08-21ゲームコンソールまで)。
まず今回、5ー1では1082回も引用されている高名な理論家ふたりによるNorman & Verganti (2014a)[1]をレビューする。つぎの5-2ではそれに「進化の観点が欠如している」と突っかかるLangrishのコレスポンデンス(2014)[2]をレビューする。さいごの5-3ではさらに、再反論Norman & Verganti (2014b)[3]を検討する。
背景
- ノーマンとヴェルガンティは別々の道を歩んできた。ノーマンはHCDなどと呼ばれるデザイン探索の創始者のひとりである。HCDには共通の周回的なフレームワークがある。周回により教訓を学んでいき、結果が満足できるものになるか、時間がなくなれば周回を終える。
- ノーマンは想定したユーザーに品質をチェックしてもらうと漸進的な
incremental
改善が見込めることに気づいた。また、これが局所最適解を探索する山登り法の一種であることにも。山登り法をデザインに適用する:多次元の丘を考えてみよう。高さが製品の品質をあらわす。高さ以外の次元の座標はデザインの選択肢choices
であり、多数のデザイン上のパラメータに対応する。たいていは次の図のように二軸のみであらわす:
-
山登り法はデザインのような丘の形が事前にわかっていない場合に用いられる。ゆえに現在地からわずかな変分で何度か移動させてみて、高さが向上したものを選んでそこに移動することを、満足するまで繰り返す。この移動法はまさにHCDにおけるラピッドプロトタイピングとテストでやっていることだ。目隠しされた人が、ほうぼうの大地を触りながら丘の頂上を目指す状況を考えればよい。触ったなかで最も高いところに移動し、あらゆる方向が現地点よりも低くなる(頂上にたどりつく)まで繰り返すのだ。
-
山登り法は連続的な改善を保証するものの、ほかにより高い丘がデザイン空間のどこかにまだ存在するかを知る方法がないのだ。それゆえ山登り法は極大値
local maxima
に陥る。漸進的イノベーションはいま置かれている丘の最高点をめざす。抜本的radical
イノベーションは最も高い丘をめざす。HCDは漸進的イノベーションにのみむくのだ。 -
ノーマンはこの分析にイラつき、反例を探した。そして失敗した[4]。あらゆる抜本的イノベーションの例はデザインリサーチに欠け、人や、なんなら社会のニーズまでも丁寧に分析していなかったのだ。そもそもデザインリサーチが存在するずっと以前から抜本的なイノベーションはあった。しかしこんにちの、FacebookやTwitterのごときSNSといった抜本的イノベーションも「やってみたら面白そうだったから」はじまっているのだ。HCDによって生み出された抜本的なイノベーションをノーマンは見つけられなかった。ノーマンは抜本的イノベーションはデザインリサーチや正式なニーズの調査なしに技術の変化によって生み出されると主張する。しかしひとたび抜本的イノベーションが開発されれば、HCDは魅力をのばし改善するにはとても良い方法だ。Google, Facebook, Twitterの改善や、自動車製造会社のゆっくりと、しかし連綿とした変更がいい例だ。
抜本的イノベーションは技術の変化によって生み出される、というのはやや同語反復ぎみだがまあよいとして、その技術の変化が適応度地形のデザイン空間に含まれていないのがよくわからない。その技術の変化はどこから生み出されたのかといえば漸進的な変化によるもののはずだ。たしかに基礎的な技術(インターネットの技術など)の変化のレイヤーと、その応用法、とくにアイディア的なもの(Facebookなど)の変化のレイヤーはわけて考えることはできると思うが、それでいえばFacebookはなにも抜本的ではない。Facebookが登場する何年も前からMyspaceが大きな成功を収めていたのだ。ごく小さな変更がその成功を大きく上回る成功を生み出したのだから、変化の幅という意味では抜本的でもなんでもないのではないかというのが私の感想だ。
- この分析結果を発表する過程でノーマンはヴェルガンティの本『デザイン・ドリブン・イノベーション』をみつけ、似たようなことを主張していることを知った。
- ヴェルガンティはイノベーション・マネジメントの研究者であり、技術的イノベーションのマネジメントからデザインに移籍してきた。デザインを技術やマーケットのようなほかのイノベーションをうみだす要因と分かつデザインを
making sense of things
と定義づけ、この定義に根ざす探求を続けている。この定義はKrippendorfやHeskettが次のように説明するものだ:
デザインという語の語源はラテンのde + signareからくる。なにかものをつくったり、サインでそれを区別したり、重要性を与えたり、他のものや所有者、ユーザー、もしくは神との関係を方向づけ
designate
したりすることを意味する。この原義から、Designとはmaking sense (of things)することだと言えるかもしれない。
—Krippendorff, (1989)[5]
デザイン:意図的で理由付けられた環境の変更や作成であり、我々のニーズを満たしたり人生に意味を与えるもの。
—Heskett (2002)[6]
- ヴェルガンティとノーマンの見解は似ている。HCDは漸進的イノベーションに重要で、抜本的イノベーションにむかない点で合意した。技術的変化が抜本的イノベーションを牽引することについても。しかしヴェルガンティはもう一歩進んでこう主張する:抜本的イノベーションは意味の変化をとおしても生み出されることを示したのだ。この論文は2011年ミラノでのふたりの共同で行った講演に基づくが、講演の聴衆の大半は我々がHCDの重要性を巡ってバトることを期待していたため落胆していたようだ。
- 我々はデザインとは
making sense of things
するプロセスであると考えている。それゆえ、我々が知りたいことはより正確にいうとこうなる:ものの意味についてどのようなタイプのリサーチが行われているだろうか?そしてそのようなリサーチはどんなイノベーティブなアウトプットに結びつくだろうか?デザイン・リサーチとデザイン・イノベーションというふたつのコンセプトはどのように結びつくだろうか?
理学が工学に結びつく、科学(よりよく知ること)が工学(よりよいものをつくること)を生み出すという牧歌的な考えであることがわかる。技術がイノベーションを生むんじゃなかったの…?
- これらの疑問を解決するうえで、我々の目的は特定のツールやステップを紹介することではない。それらは既に十分に開発され紹介されている。そうではなく、ここでは、イノベーションに携わるもの
innovation player
全員が誰しも、特定のツールを使う前にしなければいけない根本的な意思決定について扱う:イノベーションの難問innovation challenge
に取り組むにあたり、どんな一般的なアプローチがとられるべきか?どんな理論、プロセス、ツールの集合が考慮されるべきだろうか?というものだ。 - 漸進的イノベーションと抜本的イノベーションの差を説明できる理論的なフレームワークを提供するのが本論の目的だ。次の3つの方法でイノベーションをみる:
- トポロジが未知で新奇な丘陵地形における極大値
maxima
を見つける試行attempt
として -
技術変化
と意味変化
の2軸の直積空間product space
[7]における動きとして - Stokesの
理解の前進
(advances in understanding
)と実用性の考慮
(consideration of practicality
)の2軸をめぐる四角形のデザイン・リサーチとして
- トポロジが未知で新奇な丘陵地形における極大値
- 抜本的なプロダクト・イノベーションはHCDではなく、技術の進歩もしくはプロダクトの意味の意図的な変化によって引き起こされることをまずは提議したい。これに反する例を見つけることはできなかった。漸進するイノベーションは意図的なデザイン・リサーチ戦略の結果として、もしくは製造者とユーザーのコミュニティの二社が相互に適応し双方をいい感じに揃えることで遂行されてきた。それに対し、抜本的なプロダクトの登場をたどっていくと、つねに新しい技術の登場がデザイナーに新しいアフォーダンスを提供していたり、新しい意味がプロダクトやその使用に付与されることで既存の技術を使いながらも抜本的な変化が生み出されていたりすることにたどりつくのだ。
- 目下進行中の技術決定論や社会決定論をめぐる論争について、この考えは中立的な立場をとる。技術ドリブンな抜本的イノベーションを技術的決定論の例と解釈することもできよう。同様に意味ドリブンのものを社会的決定論として。HCD的な漸進的イノベーションはどちらでもありうる。おそらくどちらの決定論にも関連するようなファクターがつねに絡んでいるのだろう。
アフォーダンス!?どっちの?詳しくなく興味もないのでわからず。決定論に詳しくなくここも撃沈。分かる人教えてください。
デザイン・リサーチの種類
- デザインにおいてリサーチには2種類の異なる形態をとりうる。ひとつめは知識の進歩や理論の構築、理論の応用に結びつく探索・実験としてのリサーチだ。デザイン理論家によってこのようなリサーチは分類されたり提議されたりしている。たとえばFraylingはデザインの
into
リサーチ、デザインをとおしたthrough
・リサーチ、デザインのためのfor
リサーチという3分類が有名だ。ほかにもいろいろ。これらの定義は形而上的な基礎を共有している。 - もうひとつは、あるトピックをより理解するためのデータの収集と分析としてのリサーチであり、これはたとえば小学生がトラが何を食べるのかを調べることも含む。この見方は実務家が採用している。たとえばエスノグラフィーリサーチや人の観察をつうじてユーザーのニーズを理解したり、プロダクトリサーチを通じて可能な解決法をみつけたり、マーケットリサーチをつうじて人が買いそうなプロダクトや価格感応性を調べたり、ユーザビリティリサーチでユーザーとプロダクトの相互作用をみたりする。このリサーチ法はプロダクトと売上の両方を改善しようとする。本論ではこのリサーチ法にフォーカスしたい。
二種類のイノベーション:漸進的、抜本的
- イノベーションにはいろいろありうる。起きる場所でも、それを誘導した要因でも、強度でも。ここでは次の二つのプロダクトやサービスに生じるイノベーションにフォーカスする:
- 漸進的:ある解決法のフレーム内での改善。すなわち、「今やっていることをもっとうまくやる」こと
- 抜本的:フレームの変更。すなわち、「今までやっていなかったことをやる」こと
- この二つの大きな違いは、以前から受け容れられてきた慣習の連続的な変更なのか、新しくユニークで断続的かだ。抜本的イノベーションかどうかを判定するための3基準をDahlinとBehrensは提案している:
- 基準1:当該発明は新奇でなければいけない。かつての発明とは似ていないものでなければいけない。
- 基準2:当該発明はユニークでなければいけない。今ある発明と似ていないものでなければいけない。
- 基準3:当該発明は採用されなければいけない。将来の発明に影響を与えるようなものでなければいけない。
- 基準1と2は抜本ぐあいを定義し、3はその成功を定義する。1と2はいつでも起きうるが、3は社会的・市場的・文化的な力がちょうどいい具合に揃っていなければ起きない。正しいアイディアがタイミングを間違えて登場すれば失敗するのだ。例:90年代初頭のアップルのQuickTakeデジカメやNewtonは基準1&2を満たしていたが、市場では失敗し、3を満たすことができなかった。ノーマンは当時アップルの重役だったが、社会的決定論者にとって格好の症例だと考える。
Newtonは商業的に失敗しておりメインストリームに採用adopt
されてはいないと思うが、のちのiPadやiPhoneに少なからぬ影響を及ぼしている気はするので、将来の発明に影響を与えており基準3を満たすような気がする。
- イノベーション論は長年、抜本的なものばかり取り扱ってきた。破壊的
desruptive
だとか能力破壊的competence destroying
だとかブレークスルーだとか、過去との断続性が強調される。いわゆる「デザイン思考」においてもそうだ。差別化につながるかもという重要性から、みなが望む抜本的イノベーションだが、成功は驚くほど少なく、試みはほぼ全て失敗する(一節には96%とも)。どんな分野でも、5から10年に一度起きるくらいだ。 - 先述の基準3からいっても抜本的イノベーションが生じるには長い時間がかかるし、なにより完全に新奇なイノベーションなど起こり得ない。すべてのアイディアには先駆者があり、つねに既往の仕事のうえに成り立つ。改善だったり、既存のアイディアの新しい組み合わせだったり。アップルのマルチタッチインタフェースはこんにちの抜本的イノベーションのひとつだが、アップルがなにもないところから創造したものではなく、20年以上にわたりコンピュータやデザインの研究所でマルチタッチは研究されてきたし、ジェスチャーについても長い歴史がある。アップル以前にもマルチタッチを採用したプロダクトは市場に存在した。アップルの製品は科学コミュニティには抜本的でなくとも、大きなシフトを生み出し、意味をもたせたのだ。
抜本的とそうでないものの差がよくわからなくなってくる。完全に新奇なものなどないが似ていないdissimilar
ものでないと基準1&2は満たせない。漸進的なものから抜本的なものまで連続的なスペクトラムを成しているのだろうが、となるとなぜその両極端をもとに二値化してしまうのか疑問だ。漸進的なイノベーションが従来からいわれているなにかに、抜本的なイノベーションが従来からいわれているちがうなにかに対応するならまだわかるが、今まで区別していなかったものを2つに区別するのなら、そのメリットがわかりたい。そこで適応度地形の「谷」が効いてくるのだろう。しかし「ほとんどは失敗する」と本論も認めているように、抜本的なインベンションはデザイン空間において飛躍すること、つまり離れたところにピョンと離れることを意味すると考えたほうがよいように思う。というか地形しだいでは距離がそこまで離れていなくてもかなりの変化になりうる。
丘は複数あり、現在はある丘Aに位置するとしよう。また、丘Aの局所最適解付近にまで競争相手はたどりついているが、自らの位置は丘Aに位置する集団のなかで最高の標高ではなく、かなり遅れを取っている(業界一番手ではない)と仮定しよう。どんな距離であれ、ピョンと跳ぶとだいたい次のようなことが起こりうる。それぞれについて、たいていはどのような意思決定が続くかを考えてみる[8]:
- 丘Aに着地する。
- 前地点より低い裾野に着地してしまう。単に今までと同じことをやりつつ改悪してしまう場合。自らの新しい座標での標高が判明し次第、前いた地点に引き返したほうがよいだろう。
- 前地点より高い頂上付近に着地する。より上位の競争相手を模倣したり、地道な改良を施したり、HCD的なアプローチでカイゼンできた場合が該当する。
- 丘Aよりも低い丘Bに着地する。
- 前地点より低い裾野に着地してしまう。基本的には引き返すべき状況だろうけれど、もしその丘がほとんど手つかずで競争相手がいなければいわゆるブルーオーシャンと言える(鶏口となるも牛後となるなかれ)。小さな丘でもそこでしばらく山登りをする余裕があって一番乗りできそうならという条件付だが新規事業としては有望だろう。すでに競合相手がウヨウヨ頂上付近にいたらレッドオーシャンであるが、
- 前地点より高い地点に着地する。この場合は丘Aと丘Bのどちらが山登りしやすそうかで判断することになるだろう(それが正確にわかるわけではないが)。状況次第では鶏口を目指す。
- 丘Aよりも高い丘Cに着地する。
- 前地点より低い裾野に着地してしまう。本論で登場する適応度地形ではこの場合しか説明されていない。状況次第だろうけれど、やはりしばらく山登りをしなければならないし、蓄えを食いつぶすまでに一気呵成に登れるような滑らかさとも限らず、しかも、丘Cに着地したからといって、「お、ここの頂上はどうも丘Aのそれよりも高いようだ!」とわかるわけではないので、着地した時点では2-1.の状況と見分けがつかない。
- 前地点より高い地点に着地する。これは特に、
- 丘Aに位置する競争相手のうち最も高い標高の個体よりも高い位置に着地した場合。これは丘Aよりも丘Cのほうが高いことを強く示唆するため、自身を持って新天地に移動することになるだろう。ただし、丘Aに位置する有象無象がこの成功を知って後追いしてくるため、逃げ切るなり知的財産権などで妨害するなりしたほうがよさそうだ。
- 丘Aに位置する競争相手のうち最も高い標高の個体よりは低い位置に着地した場合。3-1と同様、2-2.と見分けがつかないため意思決定としては状況次第ということになるだろう。
実際には、ここにさらに適応度地形の時間的な変化が加わるため話はさらにややこしくなる。上記場合分けはあくまである一時点でのスナップショットだ。さらに、本論文では適応度ではなくproduct qualityという言葉でまとめてしまっているためあまり関係ないのだが、これを適応度地形として読み替える場合、技術は適応度とは別に性能という標高がある気がする。鳴かず飛ばずでしばらく水面下で地道に改善され続けてきた技術が、性能が閾値を超えるなり、それを支える他の技術が進展するなどしてようやく日の目を見る(DNN)というのは、他のより高い丘に跳躍するという本論文の抜本的イノベーションとは別物であるように感じる。この考えを採用すると、地道な積み重ねはすべて失敗し、最後の一手のみが抜本的な革命であるという捉え方になってしまう。DNNの例で言えばSGDが最後の決め手だったのだ、と主張することはもちろんできるだろうけれど、いくらなんでも後知恵、一つの要因にすべての原因を見出しすぎであるように思う。
もうひとつの問題は、上記の議論はすべてある一個体(一社でも一事業部でも一デザイナーでもなんでも)による一デザイン案にフォーカスしていることだ。進化は集団的に考えなければあまり意味がないと思う。そのための方法…をいくつか考えたがあまりに本筋から外れるため割愛する。
いずれにせよ、最も問題だと思うのは、実際の例をきれいに分類できないことだ。
たとえば本論で取り扱っているアップルのマルチタッチはどうか。けっきょくこの技術は漸進的なイノベーションなのか、抜本的なイノベーションなのか?本論を読むと明らかに抜本的なイノベーションとして扱いたがっているが、その技術的な快挙は漸進的に達成されたことを認めている。そのねじれを「意味の変化」というふんわかコンセプトでなんとかまとめて説明したことにしようとしているが、詭弁のように思えてならない。そんなものを持ち出さずに、すべてが漸進的に達成されていると言ってしまってはなぜいけないのかがわからない。アップルはそもそも前地点がわからない…が、便宜的にNewtonということにしてみよう。不毛のPDA丘からBlackberryなどのスマホ丘陵地帯を眺めている。スマホ丘陵地帯はわりと小高いところが多く、市場としては魅力的だ。丘のひとつにマルチタッチスマホ丘があるのに目をつけたアップルは、その近くにもうひとつ、誰も登ったことのないマルチタッチジェスチャー全画面丘があるのをみつけた…?のか?まあそうだとして、そこに登ると、「それは破壊的イノベーションではない(笑)」とクリステンセンに言われるなどするが、圧倒的な標高差を見せつけた…のだろうか。それをみた競合がよってたかって追いかけてくるが、その過程で得られた知見を双方が盗みあって、より高いところへとかけっこをはじめたのだ。やはり抜本的・漸進的の区別は特に必要ないように思う。少なくともA丘=PDA丘よりはC丘陵地帯=スマホ丘陵地帯のほうが標高が高いところが多いことは誰しも知っていたし、iPhoneが前地点(それがNewtonではないとは思うが、ではどこなのか…?iPod?)よりも低いところに移ったとは思えないし、少なくとも著者たちが想定しているコースをたどっているようには思えない。
失敗したデザインであればうまく説明できるのだろうか。そうであったとして、コンコルドの着地した点は上記1.2.3.のどれなのか?亜音速ジェット機という丘Aから超音速ジェット機という丘Bに移動したのだろうか、それともジェット飛行機という丘でくくれば丘Aにとどまってしまったのだろうか。丘Aにとどまったのが敗因で、ほんとうはロケットを使ってロケット丘に飛躍すべきだったのかもしれない。ロケット丘は現時点では全然探索されておらずとても低い丘Bのように思えるが、探索していないから知られていないだけで、本当はあらゆる飛行機を陳腐化するような効率のよい方法なのかもしれないのだ。では丘C?そうかもしれないし、丘Bかもしれない…などなど、すでに失敗した(どこか低いところに着地した)ことが確定したと言ってよいデザインに関してすらうまく分類できない。やはりこの地形の全貌がいつまでたっても人類にはよくわからないからだ。その分布をMCMCでサンプリングして推定しているのだが、あまりに計算が遅いうえにノイジーで相手が変化しやすすぎるのだ。理論上で考えるぶんには有用そうなのだが、少なくとも実際の例の分類にはむかなそうだ。
寄り道しすぎた。本文に戻ろう。
- エジソンの電球もアップルのマルチタッチジェスチャーと同様、革命をもたらした。しかしエジソンは電球を発明していない。既存の電球の寿命を改善したのに加え、それと同じくらい重要なインフラの整備をした。システムが必要とする発電機から送電システム、室内配線からソケットまで考えた。
- 漸進的イノベーションは性能の向上やコスト削減、欲しさ向上などの小さな変更だ。ほとんどのうまくいっている製品は漸進的イノベーションを経験している。抜本的イノベーションほどエキサイティングではないが、重要度では引けを取らない。抜本的イノベーションは登場初期はポテンシャルのわりに期待はずれの品質であることがほとんどだ。使いにくく高価でやれることが少ない。漸進的イノベーションはそういった抜本的アイディアをアーリーアダプターの後追いをするユーザーに受け容れられるように変更するために欠かせない。抜本的イノベーションなしでは漸進的イノベーションは行き詰まる
reaches a limit
。漸進的イノベーションなしでは抜本的イノベーションがせっかく切り開いたポテンシャルをものにできない。
技術と意味にドライブされるイノベーション
- デザインとリサーチとイノベーションをつないでみよう。まずは技術-意味-イノベーションをマッピングしてみる。前2者の変化がイノベーションをどうドライブしするかをみる。コンソールビデオゲームと時計を例に、技術と意味の2次元でプロダクトがどう変遷したかを説明する。
ビデオゲーム
- 着目するのは家庭用コンソールゲームが登場し成功してから少しして、三大勢力に支配されたころだ。SonyのPlayStation、MicrosoftのXbox、そしてNintendoのGameCubeだ。コンソールゲームで遊ぶことは器用なものにのみ門戸が開かれたバーチャル世界に入り込むことだった。レビュワーもプレイヤーもよりよいグラフィックを、より速いレスポンスを求めたため、イノベーションもまたそういったものを追求した。
- そういった技術的な競争は非常にコストがかかるため、戦の趨勢は三大勢力のうち企業規模の大きいSonyとMicrosoftの覇権争いに発展していった。PlayStationとXboxの登場は抜本的なイノベーションだった。全く新しい類のゲームがつくれるようになり、市場を2機種で制覇した。彼らはより高速なプロセッサ・高速なインターネットを背景にグラフィックを改善し、
- MMOを開発したりした。
- 任天堂はそういった道のりを拒否し、違う方向にいった。あまりゲームをやったことのない初心者むけに、「意味」の軸にかじを切った。安価になったセンサーを使って「意味の変化」を生み出した:みんなのためのゲーム
games for everyone
だ。Wiiの登場により熟練したプレイヤーの小さなニッチだけでなく、家族全員が大したスキルなしにスポーツやエクササイズがプレイできるようになった。Wiiは比較的単純な技術の変化と大きな意味の変化の組み合わせによって、遊び場を再定義したのだ。SonyとMicrosoftは追いつくのに必死だった。数年後、Microsoftは技術を進歩させ、Wiiのような手持ちのデバイスなしでも体のジェスチャーでコントロールできるKinectを発表した。 - 任天堂の成功の裏で、他2社は熟練したプレイヤーに着目した製品づくりをしていたせいでセンサーを原始的で関連の薄い技術だと考えていた。
- Wiiの成功はMEMSデバイス-加速度センサーや赤外線センサーの応用に依拠していた。これにより全く新しいゲーム体験ができるようになった。Wii登場以前にもMEMS加速度センサーなど全ゲーム機メーカーに周知の技術だった。しかしM社とS社は既存のターゲットユーザーのニーズに応えるのに有用だと考えなかった。エキスパートゲーマーはより洗練されたVRを求めていることを2社のデザインリサーチは示していたのだ。そこで2社は巨額を投じてよりパワフルな機器を開発した。いっぽう任天堂はゲーム機の従来の意味を問い直し、ブレークスルーな体験を提供した。Wiiが遅いプロセッサーでショボいグラだとかは関係なかった。
- 今やこの(新しい)意味が支配的となり、競争相手は同じ方向性に投資している。Kinectはより進んだ、ジェスチャーによるコントロールを可能にした。イノベーションの進化はふたたび技術の軸に戻ってきた。
↑本論文が出たころのシェア。Wiiだいぶ落ち目じゃない…?思いついたころにたまたまWiiがものすごい勢いでセールスを伸ばしていたのはわかるのだが、目の前のトレンドを説明するために事後諸葛亮で理由付けしたような印象がなくもない image via Global Annual Gaming Console Sales
Fig. 2は枝分かれが一応生じているが、図にするほどのことか…?というような内容だ。やはりむしろ模式図的なものでもいいから系統樹としたほうがよかったのではないか。
ダメでした
時計
ゲーム機の次は腕時計。
- 1970年代の電子式の登場以前は、腕時計は宝飾品扱いだった。宝飾店で扱われ、スイス製だった。電子式時計は当初機械式のムーブメントを置き換えるだけで意味の変容はなかった。
- セイコー、シチズン、カシオといった日本の会社が電子技術により時計を宝飾品から道具にした:色々な機能が追加された。スイスの時代遅れのメーカーは大変な損害を受けた。
ここで図3でスイスの宝飾品→電子式時計を宝飾品の文脈で作ろうとした(失敗)→日本のメーカーが道具としての腕時計にした
HCD
漸進的イノベーションと抜本的イノベーションの関係
デザイン・リサーチ四角形
基礎的なデザイン・リサーチ
デザイン・ドリブン・リサーチ
人間中心リサーチ
ティンカリング
デザイン・リサーチは抜本的イノベーションを生むか?
感想
内容はともかく、とても読みやすい…。ABCを述べた文の次にBCDを述べ、DEFを述べ、パラグラフの最後でADFを述べる…重複は多くなるが、一つのパラグラフで一つのメッセージを色々な方向から説明する流れが読みやすさを生んでいる。パラグラフ単位でも、Aを中心にBCも述べたパラグラフの次にBを詳しく述べるパラグラフ、次にCを詳しく述べるパラグラフ…となっており、箇条書きが思い浮かぶ。英語も極めて平易ですごい。
-
Norman, D. A., & Verganti, R. (2014a) Incremental and Radical Innovation: Design Research vs. Technology and Meaning Change. Design Issues. 30, (1) 78-96 ↩︎
-
Langrish, J. Z. (2014) A Response to Donald A. Norman and Roberto Verganti’s “Incremental and Radical Innovation: Design Research vs. Technology and Meaning Change,” Design Issues 30, no. 1 (Winter 2014): 78–96. Design Issues, 30(3) 104-106. 題名長すぎでは… ↩︎
-
Norman, D. A., & Verganti, R. (2014) Hill Climbing and Darwinian Evolution: A Response to John Langrish. Design Issues, 30 (3) 106-107 ↩︎
-
このパラグラフの書き出しは感動的だ:"Norman was bothered by his analysis and tried to find examples that refuted this conclusion; he failed" エッセイ,カナ⁉️😅 ↩︎
-
Klaus Krippendorff, “On the Essential Contexts of Artifacts or on the Proposition that ‘Design is Making Sense (of Things),’” Design Issues 5, no. 2 (1989): 9–38. ↩︎
-
John Heskett, Toothpicks & Logos: Design in Everyday Life (New York: Oxford University Press, 2002). ↩︎
-
直積空間がよくわかってないのだが、デカルト座標系とかじゃダメ…? ↩︎
-
他にもいくらでも場合分けできるだろうけれど、ここでの議論では意義が薄いと判断したものは省いた ↩︎
Discussion