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ナイーブなデザインの進化2: Epistemological Turn: Technology, Bricolage and Design

2022/08/03に公開

2022-08-03 アカウントを移行。以前のものは削除

Longo, G.O. (2009) The Epistemological Turn: Technology, Bricolage and Design. Conference on "Multiple Ways to Design Research". via NOEMA Accessed 2022-07-24

https://noemalab.eu/ideas/essay/the-epistemological-turn-technology-bricolage-and-design/

アブスト

  • テクノロジーの進歩にともない、完璧な合理性や完璧な制御といった夢を放棄するようになった
  • 技術が科学を追い抜くようになって、デザインではブリコラージュが再興しつつある
  • ブリコラージュは一見原始的なデザイン戦略で、意図された方法と違う方法でツールなどを使うことを含む
  • ブリコラージュは合理主義というより便宜主義的で、短期的な利益を重視する。
  • ブリコラージュはものを理解する方法にも多大な影響を及ぼしている。つまり、エピステモロジーに大きな変容をもたらしている

このアブストを読む限りそこまで進化は関係なさそうなのだが、読んでいくとわりと進化学に関連づけている。認識論epistemologyをまったく理解していないし正直興味もわかないのだが、進化関連のところを読みたいがためにざっと読む。太字部分は私が疑問に思う部分。

1章:科学と技術

  • 20世紀後半に技術が科学を追い抜いた。理論なしでも、アルゴリズムがあればいい。数式はレジュメみたいなものだが、アルゴリズムは明確な指示の集合だ。
  • 実際、西洋の科学では理論哲学について考えることのほうが車を運転することよりも尊いことだとされてきた。
  • しかし、ICT(情報通信技術)の発展が速すぎて科学は追いつけていない。一貫した説明を提供できていないのだ。行動、計画、事業において、われわれは意図的な目的によって突き動かされているが、その結果はしばしば期待とマッチしない。これは実世界の複雑性に起因するものだ

かつては理論が実践よりもエラかったということ自体は確かにそのとおりだろう。しかし、理論と実践の地位の差の話と、どちらがどちらの後追いをしているかの話がまぜこぜになっておりわかりにくい。

さらによくわからないのは、ICTの発展が速すぎて科学が追いついていけておらず、こんな事態ははじめてだ、という部分だ。まずは後半の、最近になって科学が技術に追いつけなくなったという部分についての疑念について。たとえば薬学はどうか。効き目はわかっているのだが、それがなぜ効くのかの機序はわかっていないという薬は多いと聞く。そのため、すべてではないにしろ、薬学の相当部分は今も昔も技術の後追いだといえると思う。医学も似たようなものではないだろうか。
つぎに前半の、ICTによってそのような事態が引き起こされているという部分についての疑念について。Flash crash of 2:45のようなICTの発展によって生み出された新種の予測不能性というのはたしかにあると思う(下の動画参照)。しかし、全体としてはむしろ日常の予測可能性はICTによって向上している。いままで予測できなかった天気が予測できるようになったり、自動車道の混雑具合を勘案して到着時刻を正確に予測できるようになったりしたのはICTによる恩恵だ。いまがいままでよりもVでUでCでAだという主張に私は賛成できない。

https://www.youtube.com/watch?v=ENWVRcMGDoU

しかも、いままで理論の発展が技術の発展を生んできたという前提からしてやや怪しいのではないか。デネットが言うところのcompetence without comprehensionみたいな現象は、たとえばライト兄弟やリリエンタールがベルヌーイの定理を理解していなくても鳥の羽根から学べたり、ニュートンの光の三原色の理論構築以前にもプリズムで分光できることはわかっているような例があげられる。

  • 結果として、不確定性が歴史、社会、市場に入り込んできた。社会と技術の関係性は予測不能になったが、それは技術革新の多くが未完成で、確固とした領域分けがないからだ。デザイナーはイノベーションの種を作る。これがデザインの規則によって、または環境とのランダムな相互作用のもとで進化する。技術応用の結果を見積もるのはどんどん難しくなっている。たとえば遺伝子組み換え作物が従来の作物と接触し、予見できない事態を引き起こすように。ソフトウェアプログラムがユーザーによって改善されるように。もしくは数百万ものユーザーの貢献のうえに成り立つSNSが危なっかしい改良を加えられるように。これらは自己組織化そのものだ:カオスから沸き立つ、整然とした現象だ。
  • 現状を改変しようとするとき、たいていデカルトの方法を我々は使う。現状をいくつかのパーツにわけ、パーツどうしの相互作用がないように独立にしてしまう。しかし実際には相互作用はつねに働いているため、そういった介入をリスクに晒す。早い話が、実行能力が理解力を超えたということだ。市場やご家庭に忍び込むのに、技術は科学の認可を待ってはくれない。
  • ある意味、昔からずっとこうだったともいえる。ほとんどつねに、初歩的な発明は理論的な理由づけなしにもうまくいってきた。しかしだいたい14世紀なかごろくらいからかなり複雑な機械が登場するようになり、並行して発達してきた科学による厳密な根拠づけによって支えられてきた。しかし、どんどんと科学はその役割を果たせなくなってきている。たとえばマルコーニの無線は、物理学者から傲慢と評価され、無線は「やってみた」くらいのお遊びであって電磁気学的な探究とはみなされなかった。実際、研究者の一部は無線などうまくいくはずがないと主張し続けた。ニューカムはラングレーの有人飛行機が理論的に不可能だと強く反対した。
  • 科学と技術のいばらの関係を解きほぐそうというのではない。実行能力が実行の結果を予測する力を上回ったといいたいのだ。これはICTの進展、とくにシミュレーションの進展によるものだ。技術的な機材のユーザーはそれを使うことにしか興味がなく、機材がどのように動くかになど興味がまったくないというのはおもしろい。技術によって何ができるようになるかが重要なのであって、何がわかるかではないのだ。

後半を読んでもやはり、実行能力はつねに理解力を超えてきたので、最近になってそうなったのだという主張に賛同できない。螺旋の式がわかっていなくても巻き貝は美しい螺旋をつくれる。包括適応度の式がわかっていなくてもアリは血縁選択をする。なにもわからずにキャッサバを複雑な手順で毒抜きし(Henrich, J. (2016: ja 148)『文化がヒトを進化させた』)なにもわからずにトウモロコシに灰を混ぜ(Henrich, 2016: ja 156)、効果を理解せずに香辛料を食べる(Henrich, 2016: ja 168)。むしろ最近になってやっと少しは予測できるようになったというべきだと思う。技術を応用した結果が見積もりにくくなっている部分はたしかにあるだろうが、その例がよくわからない。遺伝子組み換え作物に反対する人々は既存の植物との交雑を盛んに警告するが、けっきょく言われていたほどにまずいことにはなっていないと理解している。ソフトウェアプログラムがユーザーによって改善される、というのも、結果そのものは確かに予測しきれないにしても、ユーザーからのフィードバックをデザイン改変に活かす枠組みはトップダウンに与えられた、デザインされたものなのでその枠を超えない。たとえば古来から行われている墨流しだって滲み絵だって結果は見積もれないが、大枠としては予測の範疇だろう。SNSに至っては「危なっかしい変更」を加えるのはユーザーではないので予測できるはずだ。よくわからない。

シミュレーションは実行能力ではなく実行の結果を予測する力だ

筆者はこの章で、「理論から演繹して、明らかにこう実行すればこういう結果になるはずだ」というデカルト的なempiricalな予測と、「理論からシンプルな数値計算をたくさんすると数値的にわかる」という数値解析的analyticalな予測を混同しているように思う。数学者なのに…?そんなことある?そうでなければ意図的にやってるのだろうか。技術が「動く」、科学が「わかる」だとしてものすごく雑にまとめると、次のようになるのではないかと思う。人類が獲得した順に:

  • 理解なしの技術革新:「なんかわからんけどうまいこと動く」
  • 演繹:「わかっていることから新しいことがわかる」
  • 演繹による予測:「わかっているので、こうなるはずだ。ほらそうなった」
  • 演繹による技術革新:「こうわかっているからこうやればうまくいくはず。ほら動いた」
  • シミュレーション:「ふつうにやるとわからないけどわかる範囲からたくさん計算するとどうなるかわかる」

つまり、シミュレーションは決して「なんかわからんけどうまいこと動く」ものではなく、リジッドにすべてのアルゴリズムを決定し、あらゆるものを(乱数生成でさえもシードによって!)制御下においたうえで発生する「わかる」なので、理解なしの技術革新とはあまり関係ない。シミュレーションは著者がいうところの「実行の結果を予測する力」そのものだ。

2章:ブリコラージュ

  • 最近の技術からの産出品は必ずしも過去そうであったように明確な個々の「機器」とか「ツール」ではなく、もっと複雑な、フラクタルの境界のごとき明確な領域設定に欠けた「wholes」や「システム」である。遺伝子組み換え作物などの特定の人工物は未完成のまま出荷され、世に放たれてから独自の進化を遂げる。

ここにきてやっと、ここでいう「未完成」というのはどうも「出荷後に変更が加えられる」という最近のトレンドについて言いたいだけだということを理解した。よく指摘されるわりにはあまり馴染めないというか腹落ちしない概念なのだが、出荷後に変更が加えられるかどうかという区別がそこまで重要ではないと思うのは行く川の流れの絶えない日本に住んでいるからなのか、それともそれがふつうになりつつあるからなのか。政府やルールは太古から変更されつつもそのアイデンティティを保っている。紙幣も少しずつ変わるし、工業製品もフィードバックを得て変わるし…。なんらかのデザインを未完成のまま世に放つ行為はたしかに最近とみに増えており、それが戦略的に市井でのデザインの改善を見込んでいるという展は興味深いと思うが、行為自体は昔から行われているように思う。

  • そう考えると、現代的な技術のプロセスや製品をブリコラージュと呼ぶのは適切だ。インターネットや、ソフトウェアのうちかなりの部分、バイオテクノロジーの一部は合理的な・有機的なデザイン法ではなく、ブリコラージュの力によってデザインされていると言うことができる。ブリコラージュについて説明するには、レヴィ・ストロースの「野生の思考」を引用しよう。この本は科学と魔法と神話の関係を論じており、知覚と具体に基づいた新石器時代の科学と、概念と抽象に基づいた近代の科学を区別する。ブリコルール(ブリコラージュする人)という言葉は英語にうまく訳出できない。ブリコルールはなんでもやる人だが、英語で言うところのodd job manとはまた違うのだ。レヴィ・ストロースの引用が続く。
  • ブリコラージュの特徴は以下の通り。
    • 使いさしの材料の二次利用;
    • ツールや方法の目的外利用;
    • ほかで使われている部品や構造を組み合わせて新奇のものをつくりだすこと
  • 言い換えれば、ブリコルールは材料や機器、構造や方法を回復recuperateし、ほかによりよいものがないときにそれらを喫緊のニーズを満たすために調整するのだ。ブリコラージュは単なる従来のエンジニアリングや建築の代替手段ではない。ブリコラージュは世界を違う方法で見る方法なのだ。

。。。このへんからポエムが始まり理解する気が失われる。ブリコラージュでは秩序は帰納的に生ずるとかいうのだが、ブリコラージュの最も重要な例だと私が考える、Apollo 13のCO2吸収フィルターにおいて秩序は帰納的に生じているのだろうか。帰納的に生じるってなに?あとからついてくるってこと?少なくともこのアポロの例ではそんなことはないと思う。


最高にクール

もしくはウェブカムとしてiPhoneを使うためにiMac上に置くホルダーはどうか:

松井実 (2020)「ウェブカムとしてiPhoneを使うためにiMac上に置くホルダー」

そのへんに転がっていた厚紙とダンボールとiPhoneの箱と割り箸とテープとマグネットでできているのだが、秩序、帰納的に発生してます?それともこれもブリコラージュではない?「意図、計画、行動、結果はつながってはいるが弱い」と著者は主張するが、ここで挙げた二者はどちらとも意図も計画も行動も結果もすべて強く連携している。「方法と使われる素材のあいだの関係」というが、たしかにいくつもの素材を検討したり試したりはしていないが…。やはり、残念ながら上のふたつは筆者のいうところのブリコラージュではないような気がする。では次のようなものはどうか。この例では確かに「計画」はなかったと思うが、その他は連携しているように思う。総じて、私の理解だとブリコラージュとはそこまで大げさで「すごい」ものではないので、齟齬が生じている。

ともかく、ここから進化との関連が論じられるので詳しくみていく。

  • 生物の進化と同様、ブリコラージュの秩序と意味は解釈から生じるが、進化が盲目であるいっぽう、ブリコルールは目的やねらいによって方向づけられている。その方向づけがあいまいでだいたいのものではあるにしても。
    進化が盲目であるwhile evolution is blindは生物進化をさすのだと思うが、ここでbiologicalは落とせない。while biological evolution is blindであればまあ。次のパラグラフはよくわからずうまく訳せない部分が多いので、私がところどころ [] で付記している。

  • 目的や解釈は意味づけをしたりスキームをつくったり用途をつくったりするなかで言ったり来たりする。先験的a prioriな目的と帰納的a posterioriな解釈によって、意味のある構造や形が絶え間なく算出される。ここには生物[進化]との興味深いが部分的な共通性がある。中央制御よりも部分ぶぶんでやりたいこと[initiativesの訳出が…]が優先され、デザインの統一性よりも変数や座標の多様性[coordinate multiplicity. 意味わからず]が優先される。限られた貴重なリソースを無駄にしたり、過度なリスクにさらされている先の見通せない状況下では、ブリコラージュが最も優れた方針となりうる。

  • ソフトウェア開発はブリコラージュだ。特にオープンソースの開発では、ユーザーの個人的なニーズに応じて改変されたりする。このようなイノベーションは、しばしば試行錯誤やランダムな試行によってなされる。

  • 最も成功したソフトウェアは、最も頻繁にこうした変更をうけたものであることがある。あたかも、ある程度の支離滅裂さや進化的可塑性、無秩序さや冗長性がこういった”オーガニズム”にとって役立っているかのようだ。ソフトウェアは最初期には非常に低質の状態からはじまることが多く、また活用されるためにはたくさんの改善が必要であることが多いため、特に説得力の高いブリコラージュの例なのだ

進化的可塑性とのつながりがよくわからない。そもそも進化的可塑性が何をさすのかよくわかっていないのだが…。表現型の可塑性ならわかる。同じ遺伝子から発現していても、環境に合わせて表現型が大きく変わるというものだ。雌雄が変わる場合もあれば、バッタのように密度が高くなるとムキムキになったりする。また、ソフトウェアはブリコラージュだということの説明で、「活用されるためにたくさんの改善が必要」であることをあげている。しかし、ブリコラージュは改善の余地がたくさんあるショボい人工物ではあるものの、活用するにはじゅうぶんなのではないか。アポロ13のフィルターはたしかにショボいが必要十分な・satisficingな能力を発揮した。私のスマホホルダーも、斜面の水抜きパイプに突っ込んだ木片とそれに巻きつけた針金も、ショボいが「やりたいことはできている」し、これ以上たくさんの改善は「できる」が「必要」ではない。

  • 遺伝的アルゴリズムは最も明確なブリコラージュの例だ。遺伝的アルゴリズムでは各個体が前世代よりもますます良い解へと進化していく。各世代で適応度を測定し、優れた個体を残して、それをさらに変異させていく。ダーウィン的なメカニズムによる生物進化との類似性は明らかである。また、選択のプロセスがその場その場で行われる(local character)ため、遺伝的アルゴリズムはブリコラージュ的な性質を持っているのだ

生物進化と違い、遺伝的アルゴリズムでは確かに「ますます良い解へと進化していく」という表現を使っても問題はない。まあ、できれば「進化する」ではなく「更新されていくupdated」や「置換されていくsubstituted」のほうがよいとは思うが…。それくらい遺伝的アルゴリズムと生物進化には乖離がある。

https://twitter.com/windowmoon/status/1551074541149257728

最大の違いは適応度の位置づけ・意味づけだ。生物進化における適応度はじつは非常に複雑で難しい概念らしい(cf. 下のMcElreathの"What the Fitness")が、ここではよく使われる、次世代の子の数ということにする(大変雑な定義なので、気になる方はWikipediaでも…)。いっぽう、この論ででてくる遺伝的アルゴリズムの適応度とは、アルゴリズム開始時に予め定められた適応度関数=目的関数(余談:評価関数だと思っていたが違った)の評価値のことであって、じつは全然違うのだ。結果的に評価値の高い個体と似た個体が次世代で無理やり増やされるので適応度も増えているといえなくもないが。ともかく、類似性は明らかといえば明らかなのだが、相違性も明らかといえば明らかなので、ここで遺伝的アルゴリズムを持ち出すのはあまり適切ではないと私は思う。また、遺伝的アルゴリズムはブリコラージュ的とは真逆の存在であるように思う。遺伝的アルゴリズムを実際に使える状況下においては既に問題もその解き方(ほかの最適化アルゴリズムではなく遺伝的アルゴリズムを使う、ということも含めて解き方である)も境界条件も明確になっているはずで、全てを計画しつくしてはじめてRunボタンを押せるため、ブリコラージュっぽさが皆無だと思うのだが…。

https://twitter.com/rlmcelreath/status/1301052600469594113

  • ブリコラージュと生物進化の親族関係を裏付ける重要な特徴は、歴史への依存性である。両者の生成物は過去の状況やパターンに依存するからだ。いっぽうで、ブリコラージュは未来を計画するテクニックとしても捉えられる。このような解釈は、われわれが実行・構築・操作能力がわれわれの予測・思案・理論化能力を大幅に上回っているという紛れもない事実により支持される。自らの行いの結果を正確に予測できないからこそ、途方もない遠大なる徹底的計画立案とか急進的な革命、遠大なる変革を試みるよりも、つまり大海原への航海をめざすのではなく、沿岸沿いをちょっとずつ進んだほうがたいていはよいのだ。こういったことから、ブリコラージュはきわめて重要な、創造的かつコンテクスチュアルな即興であるということができる。

ここはまあわかるのだが、未来を計画するテクニックa technique for planning the futureは計画でよいのだろうか。計画がないのがブリコラージュだったのでは?未来を実装するとか未来を試行する、であればわりとよいように思う。

数学出身のロンゴ氏でこの適当さというのがこのデザインという分野の学術的アマチュアさを物語る。選択圧が足りていない!最近、あらゆるものに文句つけるひとになってしまっているが、たとえばリドレーの本を読んでもこんなふうにはならない。

3章:ホモ・テクノロギクスの黎明、惑星クリーチャー

  • テクノロジーの進化は人類の進化を引き起こし、人類の進化はテクノロジーの進化を引き起こした。いわば生物-文化的な、もっといえば生物-技術的な進化だ。このような進化において、進化の単位はハイブリッドな生物hybrid creatureホモ・テクノロギクスである。ホモ・テクノロギクスはつねに変化しつづける一種の共生体であり、そうやって考えてみると人類という種はつねにテクノロジーと融合してきたため、つねに共生体ホモ・テクノロギクスでありつづけたともいえるのだ。

進化の単位は遺伝子だ。相互に影響を及ぼしているからといって進化の単位がそれらのハイブリッドになるわけではない。私が死ねば私の腸内細菌たちの身体もその遺伝子もそこまでだが、私は腸内細菌とのハイブリッドではないし進化の単位もそのような「共生体」ではない。ランとその蜜を吸いたいスズメガのように密接に環境を共有する異種どうしの共進化と同様といえるかどうかはわからないが、たしかに遺伝子と文化の共進化(gene-culture coevolution)は存在する。e.g., Richerson, P.J., Boyd, R., & Henrich, J. (2010) Gene-culture coevolution in the age of genomics. しかしそれが共生体なのか?ランとスズメガは共進化はしていても共生体ではないと思うし、ボルバキアと絶対共生する虫[1]のような相互に遺伝子のやりとりすらするような「共生体」とは意味が違うのではないか。これについてはすぐあとの火縄銃のパートで少し説明する。

  • 昔はホモ・テクノロギクスという生き物のかけ合わせ種としての、そして変容する性質はそこまで露骨ではなかった。そのため人間の本性というものは変わらぬものとされてきた。しかしいまや、技術の急速な発展がホモ・テクノロギクスの絶え間ない進化を明白なものとしたのだ。

👮‍♂️進化警察:(…まあ「進歩に書き換えろ」と目くじらを立てるほどの記述ではないか…)

  • 道具の発明は組み合わせとして発露する。人間に「接ぎ木」されるたびに、新技術[とそれを接ぎ木された人間]は新たな進化の単位(もしくは共生体)を結成する。この共生体は新奇の知覚的・認知的・動作的潜在能力を獲得している。こんな現在進行系のプロセスの行く手を阻むものを想像するのは難しい。
  • 新奇の潜在能力が頭角をあらわすと、ほかの能力は弱まったり消えたりする。技術はフィルターなのだ:手持ちの能力すべてを平等に拡張してくれるのではなく、選別する。たとえばICTは効率向上や分析能力を向上させるが、詩的・演技的表現能力を減退させる

ここはさすがにポエムとしか言いようがない。ICTが詩的・演技的表現能力を減退させる。ゲームが脳をダメにする。スマホの電磁波があなたを殺す。YouTubeやSoundCloud、Instagramなどで表現する人やその能力はずっと増えたと思うが…。「道具がヒトを弱々しい太っちょに(Henrich, 2016: ja 110)」を読んだほうがなんぼか有益である。

  • このますます人工的になりつつある環境において古き良きホモサピは、より高次の技術との共生を果たした他種(higher- and higher-technology symbionts)に追いやられる立場にある。
  • 技術の登場により人間にかかる淘汰は弱まったとか、ときには打ち消されたとまでいわれる。これは正しくない。人間-機械共生体へと作用する重心が移動するだけで、ホモ・テクノロギクスもまた淘汰圧をうけるのだ。たとえば、火縄銃兵と剣兵では異なる能力が要求され、選択されるからだ。また、変異が発生するメカニズムも変化する。生物における偶発的なものだけでなく、ゴールドリブンのテクノ-科学的発明や文化的イノベーションにも依存するからだ。

人間が以前とは大きく異なる淘汰圧に晒されており、それが文化的産物によっても左右されるということじたいは同意できる。しかし作用する重心が移動する、という考えにはにわかには賛同しかねる。火縄銃兵にはたとえば目の良さや手元の正確さが、剣兵には筋骨隆々であることが生存に有利に働くはずだから、そういった表現型をつくりだすような遺伝子型が選り好みされるということがいいたいのかと思うが、少しわかりにくいように思う。それはそうかもしれないが、そうでないかもしれない。証拠がないからだ。せめて証拠がある例をあげるべきだと思うが、2009年に書かれたこの論文にそこまで求めるのは酷かもしれない。以下に最近読んで勉強になった講演要旨を引用する:

ここで文化はどの程度淘汰圧になっているのかという問題がある.これはしばしばセンセーショナルに取り上げられているが,よく吟味すると実はあまり大きなものではないかもしれない.そうだと思えるのは牧畜と乳糖耐性,農耕とアミラーゼぐらいだ.たとえば小麦を主食とする文化で,遺伝的にグルテン不耐性の人々が見られる(セリアック症).これに関連する遺伝子を見るとそのいくつかには免疫にかかる正の淘汰圧を受けた形跡がある.小麦を主食とする文化圏で小麦を食べられないのはとても不利だろう.それでも正の淘汰を受けている.つまり文化よりも感染症の方が淘汰圧として大きいということになる.同じような例として東アジアに多いアルコールに弱い遺伝的変異(これも正の淘汰を受けた形跡がある)がある.稲作と関連していそうだが,なぜ弱い方がいいのかについてはやはり感染症の問題かもしれない(飲み過ぎ防止という仮説は怪しい).淘汰は多面的にかかるので分析は難しい. — 招待講演 ゲノミクス時代の文化進化 松前ひろみ via shorebird (2021) 第14回日本人間行動進化学会(HBESJ 2021)参加日誌 Accessed 2022-07-28

  • 長期的には淘汰はそういった共生体をも変容させる。受容感覚、認知、能力的変化はホモ・テクノロギクスの表現型におよぶことがあるが、遺伝子型にもおよぶことがある

表現型におよんでいるということは遺伝子型が変化しているはずだが…。延長された表現型が変化するにしても一対一対応ではないにしても必ず対応する遺伝子型があるはずなので、やや理解が浅いと言わざるをえない。それとも私にはわからないなにかを表現しようとしている?

  • 生物学的継承と異なり、文化的継承は同世代の個人間でも模倣や学習により伝達しうる。そのため文化的な新奇性は非常に広まりやすい。繰り返すがこれらの進化は独立ではない。文化的新奇性は生物学的進化、特に、これに限られるわけではないが、生殖に関連する場合に影響を及ぼしうる。あたらしい受精技術や障害児の維持、補助など。生物-技術的進化はダーウィン的な進化とラマルク的な機序の組み合わせだ。共生体が融合し、一種のグローバルなcognitive有機体、プラネタリークリーチャーを形成するとき、この組み合わせは特に複雑になる。インターネットによって結合知性connective intelligenceが形成されるようになったため、人類と知的機械がこんにちよりもさらに密接に協力するようなポストヒューマンの時代が到来しつつあるという科学者もいるくらいだ。

ここはかなり同意できる。プレネタリークリーチャーとかいう新しい概念を持ち込む必要があるかはわからないが…。しかし「人類と知的機械がこんにちよりもさらに密接に協力するようなポストヒューマンの時代が到来しつつある」という記述じたいはまあそうかもしれませんね、なのだが、インターネットを活用できる文明が栄える、インターネットを活用できる人類が(学習や模倣により)増えるというのはわかるが、インターネットを活用できる人類の適応度が、そうでない人類に比べてあがるという現象はいまのところないのではないか(むしろ先進国のほうが人口は減っているわけだし…)。また、インターネットを活用できる遺伝子があるわけでもないので、人類の進化に関係するかというと…。しない。

  • プラネタリークリーチャーはホモ・サピエンス、ホモ・テクノロギクスに続く進化的なステージだ。このステージに至って、集団的・結合的知性が個人の知性に権勢を振るう。人類全体が実質的にひとつの有機体、でなければ蜂や蟻のコロニーのようになりつつあるように思う。社会的昆虫は集合知能、集団行動をもつ。同じことが言語とICTによって連結した人間に起きている

これはないでしょ。自殺的攻撃など、とくに宗教や政治信条などの強力なミームがからんだときに、われわれが蜂や蟻のような真社会性昆虫かのようにふるまうことはあるし、それはそれで非常に面白いトピックだと思うが、だからといって人類全体のためでもないし、人類全体がそうするわけではない(そういうふうに変化しえないと言っているわけではない(ほぼありえないと思うけど)。現時点では全くその気配がないということ)。そもそも蜂や蟻だって、「自分の家族」というほとんど全く同じ遺伝子を共有する血縁コロニー単位で仲良しなだけであって、ヒアリという種全体のために行動するわけではない。このような考えはナイーブな群淘汰とよばれる。

  • もちろん人類は進化を加速的に続けるが、肉体的にというよりも知性的にだ。 蜂コロニーとプラネタリークリーチャーの差は、蜂の個体の知性は低いscantyいっぽうで、ヒトは気持ちや感情、意識があることだ。プラネタリークリーチャーへと融合するにあたり、われわれがこういった特徴を一部または全部放棄するのかは不透明だ。反抗する勢力が生じるかもしれないし、競争や闘争心といった昔からの形質がプラネタリークリーチャーの創設を邪魔するかもしれない。

文化の進化を人類の進化であるかのように記述するのは混乱を招くだけだと思う。人類の進化とは人類の遺伝的な進化であって、人類のつくりだす文化の非遺伝的な進化のことはささない、としたほうがよいと思う。人類が遺伝的な意味で知性をさらに発展させるような進化を遂げるということはもちろんありえなくはないが、べつに脳の容量がここ100年で爆増しているわけでもないので…。あ、でもIQはなぜかあがっているんだっけ。フリン効果とよばれる。まあでも身体的に変化していないなら身体に由来する知性も変化していないと考えるのが自然だろう。学術研究がすすんで昔はわからなかったことがわかるようになったり、技術開発がすすんで昔はできなかったことができるようになる、という変化を「人類の知性的な進化」とよぶことはできない。

また、感情があるとプラネタリークリーチャーになれないかも、というのもよくわからないし(蟻にも蜂にも複眼があるがわれわれにはないので、複眼を作らないと真社会性を獲得できないといっているようなものだ)、競争や闘争心に関してもそもそもこのナイーブ群淘汰が根拠不明なのでこれ以降触れない。

  • このようなシナリオが正しいなら、有機体と人口体の不連続性やミスマッチにこそ私は興味がある。これらふたつの進化は異質なものであることは疑いがない。技術が従前からの苦痛の一部を解決してきたとはいえ、我々の生物としての苦痛に加え、このようなミスマッチによって新たに生じる苦痛がさらにのしかかる可能性がある。
  • ナノメーター級の人工臓器を身体・脳に流し込んだとしても、我々の身体的特性が消え去るわけではない。ホモ・テクノロギクスの初期メンバーであるこんにちの我々ですら、人間-機械間のミスマッチと拒絶反応に悩まされているように、これからはさらに深刻な摩擦が生じるだろう。例:ユーザーフレンドリーな機械の開発は、人工物が潜り込めるような「麻酔された」ゾーンをつくりだすことだ。言い換えれば、我々はわざと、太古から設計のほとんど変わらぬ身体を、思いつきで生じた新奇のブツが侵入できるように弱らせようとしているのだ。

最後のユーザーフレンドリーさについての記述は非常に面白いと思う。

4章:心の機械

  • 技術進歩の根源は技術そのものにあり、科学の進歩によるものではない。特にコンピュータだ。物質やエネルギーを処理するのではなく、記号や情報を処理する機械の登場だ。言ってみれば心の機械だ。コンピュータは
脚注
  1. このあたりの記述はあまり自信はないが、駒場での深津先生の共生進化学の集中講義にもぐったのは非常に面白かった ↩︎

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