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技術観光ガイド 名古屋編

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これまでの技術観光ガイド: 川崎 / 横須賀 / 新宿

名古屋には何がある?

技術者の視点から各地を巡る本シリーズも、これで第4回となる。これまでは筆者の居住地の都合から、関東地方を中心に紹介してきたが、そろそろ遠方にも目を向けてみたい。そこで最初の目的地として選んだのが、名古屋である。

名古屋は、古くから繊維産業で栄え、現在ではリニア中央新幹線の開業予定地となるなど、日本有数の産業・工業の中心地として広く知られている。一方で、筆者の主観ではあるが、名古屋にはディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンに比肩する知名度のテーマパークが存在せず、また、京都や奈良のような古い景観もあまり残されていないことから、一般的な観光地としては他都市に一歩譲る印象があることも否めない。

しかしながら、視点を変えて丁寧に見ていけば、名古屋には見どころとなる場所が実に多い。とりわけ、科学技術系の博物館や技術にまつわる史跡が数多く存在し、技術者としての好奇心を強く刺激する都市でもある。そのようなことだから、今回は名古屋に降り立ち、その街中を巡ってみたい。

愛知県庁


名古屋城

名古屋の観光地としてまず挙げられるのは名古屋城であろう。名古屋城は、古くは織田信長の生誕地とも言われる那古野(なごや)城を前身とし、江戸期に入ると、徳川家康の普請により慶応7年に築城され、尾張徳川氏の居城ともなった名城である。屋根の頂にある金のしゃちほこをシンボルとして、その威容を長らく同地にとどめていたが、昭和20年、太平洋戦争さなかの名古屋大空襲によって炎上、倒壊することとなった。したがって、現在その地で見られるのは築城当時の名古屋城ではない。昭和34年に現在の施工技術によって再建された姿である。言ってしまえば今の名古屋城天守とは、鉄骨鉄筋コンクリート構造のビルに、時代風の装飾を施した巨大なイミテーションなのである。しかし、だからといって、筆者はそれが無価値なものであるとか、観光地として劣等なものであると主張したいわけではない。むしろ、その実利に即した合理的態度と、外観が同じであれば問題なしとする思い切りの良さに、深く感嘆するのだ。さて、名古屋城については一旦ここまでにしておこう。以上のような経緯を踏まえ、訪れたい場所がある。それは愛知県庁舎だ。


愛知県庁舎

愛知県庁舎はその名が示す通り、愛知県知事をはじめとする県職員が勤務する建築物であり、西村好時・渡辺仁 両建築士の設計により昭和13年に竣工した。外観上の特徴をなすのは、壁面を埋める花崗岩による黄褐色のタイルと、眩しい緑青の破風屋根である。現代の美意識からすると、西洋の石造風の建物に東洋風の屋根を帽子のようにかぶせた姿は、いささか奇異に映るかもしれない。これは帝冠様式といって、昭和10年前後に全国的に流行した建築様式なのだ。このような建造物の類例は、東京国立博物館本館や京都市京セラ美術館などの公共建築に今も残されており、名古屋市内には他にも名古屋市庁舎や徳川美術館といった帝冠様式の傑作がある。

ところで、一見してわかるように、愛知県庁舎の破風屋根は名古屋城天守に似せて作られている。いわばこれも名古屋城のイミテーションなのである。そのオリジナルは空襲によって落城し、再建されて、結果ふたつのイミテーションが残った。そのようなことを考えながら、名古屋の旅をはじめていこう。

庄内用水元圦樋門


名古屋港跳上橋

名古屋城を囲む堀の水は、市内北部を流れる矢田川から取水され、堀川を経て堀に流れ込んでいる。堀を通過した水は、市内を南へ一直線に縦断し、最終的に伊勢湾へと至る。そしてその流路には優れた土木構造物が数多く存在する。名古屋駅付近には、鋼製アーチ橋として国内で二番目に古い岩井橋(大正12年竣工)が架かり、さらに、築造当時「東洋一の大運河」と称され、現在でも名古屋のランドマークの一つとされる松重閘門(昭和7年竣工)がある。そこからさらに南下してゆけば、伊勢湾にさしかかる頃には、国内で現存最古の跳上橋である名古屋港跳上橋(昭和2年竣工)を見ることができる。さて、この堀川の始点となるのが庄内用水元圦樋門である。


庄内用水元圦樋門

庄内用水元圦樋門は明治43年に築造された樋門であり、庄内川と矢田川を横断し、堀川へとその水流を繋げている。元圦樋門で注目すべきはその古さだけではない。今では失われた「人造石」を用いた工法が使われているのだ。人造石とは、土と石灰を混合して製造する人工の石材であり、愛知県碧南市出身の土木技師、服部長七により明治9年に発明された。当時はセメントが高価であり、また、水中でセメントがうまく固まらなかったことから、その代替手段として港や水門の築造に広く用いられたという。その後、セメントの改良と鉄筋の普及により現在では使われなくなってしまったため、庄内用水元圦樋門は現存する人造石工法の構造物としては貴重なものとなっている。現在ではその史的価値と古風な外観が評価され、地域のランドマークのひとつとして親しまれているそうだ。

トヨタ産業技術記念館


G型自動織機(トヨタ産業技術記念館 所蔵)

続いて、名古屋において最大規模を誇る技術博物館についても触れておこう。それが、トヨタグループが運営するトヨタ産業技術記念館である。同館はグループの創始者である発明家・豊田佐吉が、大正元年に創業した豊田自働織布工場を起源としている。

トヨタといえば、現在ではトヨタ自動車の印象が強く、グループ内においても最大の事業体となっているが、その祖業は織機をはじめとする繊維工業にある。現在の愛知県にあたる三河地方は、古くから棉の栽培と綿織物の生産で知られており、明治期には海外から機械織機が導入され、日本有数の繊維工業地帯として発展した。そのような状況下で、安価な国産機械織機を発明し、トヨタグループの礎を築いたのが豊田佐吉であった。同館では、豊田紡織からトヨタ自動車へと至る企業の発展の過程、さらには日本の繊維工業の歴史について、多数の貴重な実機を通じて学ぶことができる。

なお、トヨタグループは本館のほかにも複数の博物館を運営しており、たとえば長久手市のトヨタ博物館、豊田市のトヨタ鞍ヶ池記念館、静岡県湖西市の豊田佐吉記念館などが挙げられる。いずれも企業博物館としては申し分ない規模を持っており、トヨタグループの歴史と技術を知るうえで見逃せない施設である。

ブラザーミュージアム


ミシンの壁(ブラザーミュージアム ミシンゾーン)

続いて、トヨタ産業技術記念館と比較すれば規模や知名度においてはやや劣るものの、その内容の興味深さにおいては決して引けを取らない企業博物館を紹介したい。それが、ブラザー工業が運営するブラザーミュージアムだ。ブラザー工業は、明治41年に安井兼吉が創業した安井ミシン商会を起源とする企業であり、現在もジャノメ、JUKIと並んで国内三大ミシンメーカーの一角を占めている。そのため、ブラザーミュージアムは安井一族による国産ミシンの開発の歩みを中心に、ミシンの技術的・産業的な発展の歴史を学ぶことのできる施設となっている。だが一方で、同館の内容はミシンにとどまらない。なぜならブラザー工業は、プリンターをはじめとする事務機においても国内外で大きなシェアを誇り、同館においても数多くの貴重な事務機が展示されているからだ。

なかでも同社初のタイプライター「JP1-111」(昭和36年発売)、同社初の高速ドットマトリクスプリンター「M101」(昭和41年発売)、通信カラオケに革新をもたらした名機「JOYSOUND JS-1」(平成4年製造)などは、いずれも見逃せない存在である。しかし、とりわけ興が深いのが、「ソフトベンダーTAKERU」(昭和61年サービス開始)であろう。


ソフトベンダーTAKERU(ブラザーミュージアム 所蔵)

TAKERUは、当時としては画期的な仕組みを備えた世界初のパソコンソフト自動販売機である。コンピュータ回線を通じて端末とデータを送受信し、ユーザーはその場でフロッピーディスクに書き込むことでソフトウェアを購入することができた。最盛期には全国に約300台が設置されたものの、あまりに時代を先取りしていたためか、サービスは10年ほどで終了している。しかし、その開発および運用で蓄積された知見は、通信カラオケなど後の事業に応用され、日本のエンターテインメント史を語る上でも重要な意義を持つ存在と言える。

剣の宝庫 草薙館


断夫山古墳

ここで、名古屋という都市の起源について目を向けたい。名古屋周辺には、石器時代から人々が居住していたと考えられており、玉ノ井、高蔵、堀越町の各遺跡からは縄文時代の土偶が出土している。これらの考古学的成果は、当地域において早い段階から比較的大規模な集落が形成されていたことを示唆している。古墳時代に入ると、当地を支配していたのは尾張氏であり、熱田神宮の社伝によると、尾張氏は景行天皇の命を受けて各地を転戦していた皇子ヤマトタケルノミコトを支援したという。その際、ヤマトタケルノミコトと心を通わせ、のちに結ばれたのが尾張氏の娘ミヤズヒメであった。

ミヤズヒメはヤマトタケルノミコトの死後、その遺品となった神剣・草薙剣を祀るため、熱田神宮を創建した。以降、尾張氏は代々同社の大宮司を務めることとなり、その神職家としての地位は長く続いた。また、県内最大の規模を有する前方後円墳である断夫山古墳は、ミヤズヒメの墓と伝えられており、このことからも当時の尾張氏の勢力の大きさを窺い知ることができる。

このように、古代の名古屋は尾張氏と熱田神宮の勢力を背景として発展を遂げていくのだが、令和3年、その熱田神宮の境内に、新たな博物館が開館したのをご存じだろうか。それが「剣の宝庫 草薙館」である。


模造 大太刀 銘千代鶴國安(剣の宝庫 草薙館 所蔵)

草薙剣は、皇位継承の証として伝えられる「三種の神器」の一つに数えられており、その起源は、嵐の神スサノオノミコトがヤマタノオロチを討伐した際、その蛇体から出現したとする神話にさかのぼる。このような神剣を祀る経緯から、熱田神宮には古来より数多くの名剣が奉納されてきた。そうした背景を受けて、同館では、重要文化財に指定されている真行、国友、備州長船兼光などの名刀に加え、戦国時代に剛力無双の武者として知られた真柄直隆が振るったとされる大太刀も展示されている。館内の体験コーナーでは、この大太刀のレプリカに実際に触れることができ、その重量感を通じて、真柄の驚異的な腕力を追体験することができるだろう。

岡部又右衛門住居跡


岡部又右衛門住居跡(現 ファミリーマート 熱田白鳥三丁目店)

旅の終着地として筆者が選んだのは、熱田神宮の参道脇にある一軒のコンビニエンスストアである。この店は一見すると普通のコンビニに過ぎないが、実のところ、戦国期に当代随一の大工棟梁と評された岡部又右衛門の旧居跡に建てられている。

岡部又右衛門は、熱田神宮に仕えた宮大工であり、もとは足利将軍家に仕えた由緒ある大工の家系であるという。その才能を高く評価したのが、織田信長であった。信長は名古屋の出身であり、熱田神宮に対して深い崇敬の念を抱いていたことが知られている。彼は、今も境内に現存する「信長塀」などを寄進しており、その関係の深さを物語っている。やがて、信長が天下統一を目前にして築いた居城・安土城の造営を指揮したのが、岡部又右衛門であった。以降、岡部は信長と親しく交わり、一説には本能寺の変の際、信長と共に討死したとも伝えられている。

ところで、岡部又右衛門の死後にその後を継いだのが孫の岡部宗光であり、彼が築城を指揮したのが名古屋城である。こうして名古屋城にはじまった名古屋の旅は、近代と古代をめぐり、ふたたび名古屋城へと帰ってきたのである。

名古屋における技術の様相

この旅を終えて考えるに、名古屋における技術とはどのようなものなのか。本稿では冒頭において、名古屋城のイミテーション性を強調した。とはいえ、それをもって名古屋全体を「模造の街」と断ずるつもりはない。実際、名古屋には長い歴史があり、伝統を受け継ぎながら発展してきた都市でもあるからだ。

ただし、その伝統の継承方法には、どこか大雑把というか、表層的とも受け取られかねない側面があるのも事実である。誤解を恐れずに言えば、これは名古屋の特性を端的に表しているのではないだろうか。思い返せば、名古屋の名物料理といえば味噌カツ、台湾ラーメン、あんかけスパゲティといった、いずれも味の濃い料理が多い。素材の風味よりも、ソースやタレの力強さで勝負しており、これもまた名古屋の技術的感性を考察するうえで、一つの手がかりとなるのではないか。

繰り返し述べてきたように、名古屋は長らく産業の街として発展してきた。そのため、城が鉄筋コンクリート造であることにも頓着せず、歴史的大工棟梁の旧居跡にコンビニが建つことにも違和感を抱かない。そこには、実利性と表層性を両立させる、ある種の合理的な価値観が存在している。こうした実利と表層の力強いベクトルこそが、名古屋における技術の特徴であると言えるのではないだろうか。

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