技術観光ガイド 新宿編
あなたの知らない新宿の技術世界
これまで、技術者の視点から川崎と横須賀を巡ってきた。今回は新宿である。新宿はこれまでの二箇所と比べても、日常的に親しんでいる人が多い土地ではないだろうか。新宿駅の一日あたりの利用者数は300万人とも言われており、日本人のおよそ40人に1人が日々この駅を利用している計算になる。また、新宿にはIT企業も数多く集まっており、筆者自身もかつて西新宿の企業に2年ほど勤務していた。とはいえ、当時の私は新宿について充分に理解していたとは言い難い。実際、今回の旅とその事前調査を通じて、新たに知ることがたいへん多かったのである。そのようなことだから、日頃から新宿で働いている人にとっても、本稿が新たな発見をもたらす旅となるのではないかと思う。
切り通しの坂

切り通しの坂
今回の旅を、とある坂道からはじめることにした。新宿駅から西南の方向、東京都庁と代々木公園入口の中間あたりにあるそれは、一見すると辺鄙な裏路地に過ぎない。じつを言えば甲州街道を越えて南側であるから、行政区としては渋谷区内に位置している。そのうえで筆者がこの場所を選んだのは、近代のはじまりにおける新宿の姿を伝えるにふさわしい場所だと考えたからである。なぜならここは、いまから百年以上を遡る大正4年に、大正期を代表する洋画家の岸田劉生がその傑作『道路と土手と塀』で描いた坂であるからだ。

岸田劉生『道路と土手と塀』1915 (東京国立近代博物館 所蔵)
現在ではアスファルトで覆われた道路も、大正の頃には土を踏み固めただけのありさまで、その姿はおそらく江戸期以前と変わらない。『道路と土手と塀』のなかで近代の気配を感じるのは、左手に見えるいかめしい塀と、右から差し込む電柱の影のみである。しかしそのわずかな気配こそが、この赤黒く起伏も露わな土の坂道と、都内有数の高層ビル街である現代の西新宿が地続きであることを証明してくれる。
東京水道発祥の地

東京都庁舎
切り通しの坂から北進し、東京都庁舎の威容を眺めてみよう。平成2年に竣工したそれは都政の中心であるだけでなく、西新宿のランドマークとして名高い。設計者は丹下健三で、彼はモダニズム建築の巨匠として知られるだけでなく、『東京計画1960』をはじめとした都市計画家として高名である。だから東京都庁においても、神殿を思わせる都庁舎を中心として、円形の広場を囲む都議会議事堂や、新宿駅へと続く地下道をはじめとした周辺地域が、神話的なスケールで幾何学的構造を実現しているのだ。さて、その東京都庁舎の隣、新宿住友ビルの屋内にひっそりと佇むのが「東京水道発祥の地」である。

東京水道発祥の地
東京都庁舎周辺に広がる広大な敷地は、もとはいかなる土地であったのか。現在の東京都庁の前身は、明治31年に通水し、昭和40年まで都民に生活用水を供給し続けた淀橋浄水場である。さらに時を遡れば、この地は江戸時代初期に開削された玉川上水の江戸城下への導入口でもあった。明治期に入ると、都市の水需要の増加と公衆衛生への関心の高まりを背景に、東京初の本格的な近代浄水施設として淀橋浄水場が建設された。戦後になると、関東大震災や東京大空襲の反省として、東京の都市機能を山手台地へと移転する構想が進められ、浄水場としての機能は東村山浄水場などに引き継がれることとなった。そして、その跡地に建設されたのが、現在の東京都庁である。都庁周辺に見られる高低差のある複雑な地形は、かつての淀橋浄水場の貯水池の形状に由来するという。「東京水道発祥の地」では、かつて淀橋浄水場で使用されていた巨大な蝶型弁を間近に見ることができる。そこから都庁舎を望めば、西新宿の百年にわたる都市の変遷を一望のもとに感じ取ることができる。
新宿駅

GUNKAN東新宿ビル
新宿には名建築が数多い。先に紹介した東京都庁は広く知られているし、前川國男の紀伊國屋書店新宿本店、明石信道の安与ビル、渡邊洋治のGUNKAN東新宿ビル、磯崎新の新宿ホワイトハウス、梵寿綱のドラード和世陀、坂倉準三のアンスティチュ・フランセ東京など枚挙にいとまがない。しかし、やはり新宿の中心であり、最大の複合構造物である新宿駅こそが、新宿を代表する建築と言えるのではないだろうか。

新宿駅東口 ルミネエスト新宿
新宿駅は、一日あたりおよそ300万人が利用するという、世界最多の乗降客数を誇る鉄道駅として知られている。複数の路線が交差する巨大なターミナル駅であり、JR山手線をはじめ、JR中央・総武線、JR埼京線、JR湘南新宿ライン、小田急小田原線、京王線、京王新線、都営地下鉄新宿線、都営地下鉄大江戸線、東京メトロ丸ノ内線といった路線が乗り入れている。また、新南口には都内有数の高速バスターミナルである「バスタ新宿」を構えており、鉄道と高速バスの結節点としての役割も果たしている。ところで新宿の起源は、江戸時代前期に甲州街道沿いに整備された宿場町に遡る。江戸から最初の宿場として設けられた内藤新宿は、当初より人々の往来が絶えない場所であった。そして、時を経て現代に至り、ついには世界一の人の発着地となったのである。
2025年現在、新宿駅周辺では2040年代を目処とする再開発事業が進んでいる。新宿駅を構成する建築物においても、坂倉準三が設計を手がけた小田急百貨店新宿店や、南口に位置するミロード新宿はすでに閉館し、圓堂政嘉が設計した京王百貨店新宿店も、近くその幕を下ろす見込みである。これら、数えきれない人々を迎え、また送り出してきた建築群も、通り過ぎる人波と同様に、やがて時の彼方に流れゆくこととなる。
統計博物館

川口式電気集計機(統計博物館 所蔵)
新宿駅から北進して歌舞伎町を通り抜け、大久保通りを東に進むと総務省第2庁舎が見えてくる。そこで受付を済ませて庁舎を渡るとその先にあるのが統計博物館だ。統計博物館は総務省統計局が運営する博物館であり、国勢調査をはじめとした近代の大規模統計調査について学ぶことができる。
展示の白眉となるのは逓信省の川口市太郎技師により明治38年(1905年)に製造されたと目される川口式電気集計機である。その外観は、アメリカの機械技師ハーマン・ホレリスが1890年に製造した最初の国勢調査用作表機によく似ている。逓信省は総務省の前身となった省庁のひとつであるが、ホレリスが創業したホレリス・タビュレーティング・マシン社がのちにIBMとなりアメリカのコンピューティングを先導したように、逓信省は日本の多くの機械技師を育成し、ファクシミリの発明者丹羽保次郎、「みちのくの電信王」谷村貞治、カシオ計算機の樫尾俊雄らを輩出した。そのほか同館では、電子計算機の登場に至るまでの歴代の集計機や、パンチカードの穿孔機、機械式計算機などの計算機械が展示され、コンピュータ・マニアには垂涎のものである。同館の近隣には産業遺産情報センターや帝国データバンク史料館が並び、技術情報の集積地ともなっているが、いずれも入館には事前の予約が必要となるため注意してほしい。
関孝和の墓

関孝和の墓
次に向かうのは関孝和の墓である。それは日蓮宗浄輪寺の境内にある。関孝和は江戸時代前期の和算家であり、江戸期最大の数学者として「算聖」とまで評された人物だ。関が考案した「点竄術」は現代数学でいうところの「行列」の先駆と見られており、もちろん西洋でゴットフリート・ライプニッツらにより発達した行列とは別個に発想されたものであるが、鎖国下の江戸で独自の発展を遂げたようだ。このような関の功績に敬意を表し墓を詣でることで、計算世界の奥深さを知ることができるだろう。
聖徳記念絵画館前通り

聖徳記念絵画館前通り ワービット舗装
旅の終着地に向けて、都道319号、通称・外苑東通りを南下していこう。その先に広がるのは、国立競技場、神宮球場、聖徳記念絵画館といった施設を擁する明治神宮外苑である。とはいえ、今回の目的地はそれらの建造物ではない。目指すのは、聖徳記念絵画館前の通り沿いにひっそりと存在する、柵に囲まれた小さな空間である。その柵の内側を覗き込むと、周囲の真新しい敷石舗装の道路とは対照的に、ひび割れた古いアスファルトがむき出しとなっている。これは一体何であろうか。じつは、これこそが大正15年に敷設された、日本最初の車道用アスファルト舗装なのである。
ここで本稿の冒頭に紹介した、大正4年の道路風景を描いた『道路と土手と塀』を思い出してみたい。あのように土を踏み固めただけの道路は、昭和中期に至るまで、ごくありふれた存在であった。昭和期の映画にしばしば登場する「オート三輪」と呼ばれる三輪自動車が広く普及したのも、土や砂利といった未舗装道路において走行の安定性を保てたためである。これに対して、現在のように舗装が進んだ道路環境では、設置面の広い四輪自動車の方がはるかに安定する。実際、今日の日本では舗装道路が全国に張り巡らされ、都市部ともなれば未舗装の道を探し出すことすら難しい。そして、その始まりこそが、聖徳記念絵画館前通りに残る、このアスファルト舗装なのである。
新宿における技術の様相
旅を終えて考えるに、新宿における技術のありかたとはどのようなものなのか。まず思い起こすのが、絶え間ない人の流れであろう。内藤新宿の頃より甲州街道の通過点としての役割を果たし、世界一の鉄道駅に発展したことは先に確認した通りである。このような人の流れが、日本最初の車道用アスファルト舗装という土木技術史上の歴史的一事に繋がったことは間違いないだろう。だが、それだけではない。新宿には、玉川上水と淀橋浄水場という水の流れや、総務省統計局に象徴される情報の流れがあった。つまりはそれら一連の「流れ」こそが、新宿の技術を通底するものだと言えないだろうか。
話は逸れるが、ここでふと思い起こされるのは、「完成とは何か」という技術的な問題系である。巷では、スペイン・バルセロナの著名な教会建築であるサグラダ・ファミリア聖堂が、着工から143年を経ていよいよ完成すると話題になっている。しかしながら、この間に多くの建築素材や技術が登場し発展してきたため、その完成形とはいっても、設計者アントニ・ガウディが143年前に構想したものとは必然的に異なる。実際、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂をはじめ、世界中の聖堂は補修や増改築を繰り返しながら、姿を変え続けているのだ。このような事例を踏まえれば、「完成」という概念自体が、西洋近代思想の枠組みによって構築された仮構にすぎないのではないかという疑問は、人類学者ティム・インゴルドをはじめとする多くの人が提起しているとおりである。この問いに明確な答えを与えることは容易ではないが、巨大な小田急百貨店新宿店が姿を消し、新宿の空がかつてないほど広く見える今、その問いの意味を身をもって知ることができるのではないだろうか。
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