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技術観光ガイド 横須賀編

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エンジニアの視点で世界を見ること

オンラインゲームをはじめてみればその低レイテンシーに驚き、どのようなインフラ構成なのかを気にする。個性的なアニメーションのウェブサイトを見かければ、ソースコードを開いて使用されているフレームワークやライブラリを確認してしまう。音楽ライブに足を運べば、演奏よりも音響機器に目が向き型番まで調べている...。こうした経験は、多くのエンジニアにとって馴染みのあるものだろう。つまり、つい技術に目が行ってしまうのだ。

あなたがこれに共感できるならば、もう一歩進めて、技術的なものを探しに積極的に街に出かけてみてはどうだろうか。見慣れた街であったとしても、技術に心を寄せて辺りを見渡せば、それに関わるものが数多く見つかるはずだ。それは思いがけずたのしい時間になるかもしれない。そこで今回は、神奈川県の横須賀市に出向いてみよう。

ヴェルニー記念館


グレア・アンド・ロス社製スチームハンマー(ヴェルニー記念館所蔵)

JR横須賀駅で降車すると、東京湾に続く横須賀本港が眼前に広がっている。そしてその左手に見える石壁の洋風建物がヴェルニー記念館だ。ヴェルニー記念館は、江戸時代末期に幕府の招聘により来日したフランス人技師、レオンス・ヴェルニーを称えた博物館である。ヴェルニーは幕府の勘定奉行・小栗上野介の進言により始まった横須賀製鉄所の立ち上げに携わったほか、日本最初の西洋式灯台として知られる観音埼灯台をはじめとする、東京湾各地の灯台建設に従事した。

ヴェルニー記念館の展示物のなかで白眉となるのは、グレア・アンド・ロス社製の巨大なスチームハンマーで、1866年から横須賀製鉄所で使用され、富岡製糸場の鉄水槽をはじめとする大型鉄製品の鍛造に使われたという。大政奉還ののち、明治政府に引き継がれた横須賀製鉄所は横須賀造船所と名を替え、のちに横須賀海軍工廠へと発展して数多くの軍艦製造を担った。現在ではその一部が米軍横須賀基地となっているほか、湾沿いの道はヴェルニー公園として市民の憩いの場となっている。

記念艦三笠


記念館三笠

ヴェルニー公園を越えて国道16号線を東進し、しばらく歩くと辿り着くのが三笠公園だ。三笠公園には、日露戦争のおりに連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍大将が乗船し、艦隊旗艦を務めた名戦鑑・三笠が保存・公開されている。三笠はイギリスのヴィッカース社により1902年に建造され、1904年にはじまる日露戦争を転戦した。1923年にはワシントン軍縮条約により軍艦としての役割を終え、その後何度も廃艦の危機に見舞われたものの、有志により修理・再建され、その威容を現代に伝えている。

このように歴史浪漫に事欠かない記念艦三笠であるが、乗船してみると、その中は軍艦製造の技術的背景や、艦内での暮らしぶりを知ることのできる博物館となっている。ふだんソフトウェア開発をしていると忘れそうになるが、私たちが暮らす街は巨大な人工物であり、建物や乗物とはそれぞれが人の手による技術の結晶だと言える。そんな技術に囲まれた現代の私たちにとっても軍艦の製造とは途方も無いことなのだから、百年前に三笠を見た人々の驚きは如何ほどであったのか。

パチンコ誕生博物館


ジンミット, 正竹ゲージオール15連発式(パチンコ誕生博物館所蔵)

京急本線に乗車して京急大津駅で降車し、30分ほど歩くと辿り着くのがパチンコ誕生博物館である。パチンコ誕生博物館は、法政大学出版局より刊行されている『ものと人間の文化史 パチンコ』などで知られるパチンコ研究者、杉山一夫氏が営む個人博物館だ。日本のパチンコの歴史は、通説によれば1948年に正村商会の正村竹一が開発した「正竹ゲージ」が草分けとされている。これに疑問を呈したのが杉山氏で、独自に収集した数々の資料や物証から、正村竹一の功績を評価したうえで、日本のパチンコの歴史を再構築してみせた。そのあらましは前掲書に述べられているのだが、とにかく同館は、パチンコのみならず日本のアミューズメント産業の発祥を伺い知ることのできる稀有な博物館となっている。

なかでも筆者が驚いた展示物に、大正末期に製造された遠藤美章商会製の「球遊機」がある。この球遊機の外観は若干部品の少ないパチンコといったところであり、その様式をほとんど満たしているが、大正末年は1926年であるから、1948年の正竹ゲージと比べればはるかに先んじた仕事である。また遠藤美章商会といえば、日本のアミューズメント産業の先駆である遠藤嘉一が創業した会社であり、遠藤は1931年に開業した日本最初の現代的ゲームセンターである浅草松屋スポーツランドの立ち上げに関わったことでも知られている。このように、日本のアミューズメント産業の歴史はいまだ謎めいたところが多いのだが、同館ではそういった歴史の深淵に踏み込む杉山氏の情熱をありありと感じることができるだろう。なお老夫婦が営む個人博物館であるから、入館には事前の予約が必要となる。

走水低砲台跡


走水低砲台 弾薬庫

京急バスに乗車して馬越海岸を横目に進むと、その東端には走水漁港がある。そして漁港を望む岬の高台に残されているのが走水低砲台跡だ。明治期に差し掛かると、東京湾を首都防衛の要として三浦半島東岸の要塞化が進み、数多くの砲台が築造された。その代表的なものが千代ヶ崎砲台、観音崎砲台、走水低砲台などで、なかでも走水低砲台は多くの砲台跡が密集しているほか、観光地として良好な状態で遺構が整備されている。

砲台跡を囲む堡塁は半ば植生に侵食され、すでに遺跡としての趣を感じさせるほか、レンガ造りの弾薬庫が美しい。ここから南進すると先に紹介したヴェルニー創始の観音埼灯台があり、そこから多くの船を見送り迎えた人々や、砲台の上で敵艦の襲来に備えた人々の姿が想起されてくる。

たたら浜


たたら浜

一見すると技術とは無縁に思えるかもしれないが、今回の旅で私がどうしても訪れたかった場所がたたら浜である。この浜は、1853年にマシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊が来航した、いわゆる黒船来航の舞台として著名である。さらに100年後の1954年には、映画『ゴジラ』で怪獣ゴジラが初めて上陸した浜としても知られるようになった。しかし筆者の関心は別で、それは「たたら浜」という名称にある。つまり「たたら」という音が日本古来の製鉄法である「たたら製鉄」に通じることから、横須賀における古代製鉄の痕跡を探してのことであった。

さて実際に訪れてみると、澄んだ海水と白い砂を特徴とする美しい砂浜であり、カップルや家族連れを多く見ることができた。白い砂浜のところどころには黒ずんだ砂地があり、磁石を持参しなかったために確証は得られなかったが、砂鉄を多く含んだ砂浜なのかもしれない。のちほど調べたところによれば、たたら浜の由来は二つの説があるそうだ。

この付近で砂鉄を原料とした「たたら製法」による製鉄が行われたとか、三浦氏の支配時代、三浦義明の四男、多々良四郎義春が館を構えていたからだとか言われています。[1]

浦賀レンガドック


浦賀レンガドック

今回の終着地となるのが浦賀レンガドックだ。浦賀レンガドックは明治32年に築造された造船ドックであり、以来1000隻以上におよぶ船舶を建造したのちドックとしての役割を終え、2021年に住友重機械工業から横須賀市に譲渡された。レンガ造りのドックとしては国内唯一現存し、保存状態も良好であることから、横須賀の新たな観光地として期待されている。現在は少人数の見学ツアーが時折開かれているのみで、筆者も塀の上にカメラを掲げて撮影できたものの、残念ながら肉眼で見ることは叶わなかった。同地の観光地化はこれからのことであるから、今後に期待したいと考えている。

横須賀における技術の様相

さて、横須賀は横須賀港を擁する港湾都市であるから、海や船に関わる技術史跡を見ることは事前に期待できた。しかしながら、同地を訪れて浮上した意外なキーワードが「鉄」であった。それは江戸末期の横須賀製鉄所に始まる鉄船の製造にとどまらず、古来より「たたら製鉄」が行われていたと推察できることは先に確認したとおりである。また、浦賀で崇敬を受ける神社に叶神社がある。叶神社は現在では浦賀港を挟んで西叶神社と東叶神社の二社に分かれるが、社伝によるとそのはじまりは、1181年に文覚上人により石清水八幡宮を勧進したことにあるという。それは源頼朝の挙兵から間も無くのことで、頼朝と親しかった文覚上人は、その勇躍を願って源氏の氏神である八幡を祀ったと考えられる。

さて八幡信仰といえば、柳田國男の指摘によると、もとは鋳物師の鍛治神信仰から発生したものだという。それが正しければ浦賀の八幡信仰も、その背景には同地の「たたら製鉄」に従事した人々の存在がなかったか。

八幡神が本来鍛治神であることは、柳田國男『炭焼小五郎が事』に書かれて以来、今日では通説になっている。実際、八幡神は一面、鍛治の神として信仰されていて、『宇佐託宣集』第五巻には、八幡出現の伝説を(中略)、鍛治之翁の縁起を語っている。[2]

以上のような諸々の事柄が、横須賀の地を「鉄」と結びつける。もはや確証のない連想に過ぎないかもしれないが、恥はかき捨てと考えて、技術世界への没入をたのしむのが旅の秘訣である。

脚注
  1. 県立観音崎公園|横須賀市 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/kannon5.html ↩︎

  2. 皆神山すさ 著『一つ目の諏訪大明神』2021, 彩流社, pp82 ↩︎

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