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その勉強、いつまでするの? - 学習完了の定義

2025/01/11に公開
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勉強が完了した、とはどういう状態なのか。みなさんはご存知ですか?
私は昨日まで知りませんでした。例えば20年ほど昔、大学受験をしていた頃。学校の勉強は何をしたら終わりなのか?ということが全くわかりませんでした。大学に入っても、大学院に進んでも、社会人になっても、子どもが生まれても、保育園を卒園する歳になっても、ずっとわかりませんでした。

問題集を解いたら終わり?テストで高得点が取れるようになったら終わり?何らかの†実感†を得られたら終わり?

形式的には、宿題や問題集などの一定の範囲を解けば終わりということでしょうが、それが本質的でないことは明らかです。テストで高得点を取れるからといって理解しているわけではない、ということを私は大学で嫌と言うほど実感しました。例えば私はF=maF=maの本質的な意味や主張すら理解できていませんでした。一方、高校生の頃には物事を理解したという†実感†を得たことはほとんどなかったので、†実感†を得るまでの勉強を私はしていませんでした。
この終わりや行為の意味がわからないということが一つの原因で、私は学校の提出物というものをほとんど出さずに過ごしました。

この問題の本質的な答が、つい昨日、ようやく得られました。

学習は、対象となる知識が記号接地されて生きた知識として定着し、かつ自動性を獲得したとき、"一旦は"完了したと言える。

これが私の思う結論ですが、少し背景や意味を説明します。

自動性とは

心理学の分野において、自動性(automaticity)とは、低レベルの詳細に意識を奪われることなく物事を行う能力のことであり、それが自動的な反応パターンや習慣となることを指します。
例えば、多くの日本人は箸で食事ができるような教育を受けており、箸を使いながら他のことに意識を向けて会話をしたりすることができます。ところが、箸をまさに習得しようとしている人、初めて箸を使う人などは、箸を使いながら意識せずに会話をするということは不可能でしょう。このような物事について、多くの日本人は箸を使うという行為について自動性を獲得していて、意識しなくても箸を使えると表現します。ある種の楽器、例えばトランペットやバイオリンなどで安定して音を出すということも、初めて触れる人がいきなり実現するのは難しいですが、熟練すれば音を出すということ自体にものすごく集中をしなくても自然な音が出せるようになります(ただし、より良い音を出すための集中は発生すると思うので、音を出しているときに集中していないということではないと思います)。
自動性の概念は、身体性の高い行為に限らず、もっと別の考える行為についても存在します。例えば、ある年代の人は「アーボ・イーブイ・ウツドン・エレブー」という語の並びを聞くと「カビゴン・カブト・サイドン・ジュゴン」という語の並びが自然に出てくると思います。より一般に、日本人に対して「ににんが?」という謎の呪文を投げかけると、小学3年生以上の多くの人は「死」という呪いの言葉を投げ返してくるでしょう。いや、「四」です。すみません。。。冗談はさておき、このように身体性の乏しい物事においても、自動性を獲得することができ、また実際に小学校では「ににんがし」などといった呪文が自動的に出てくるように教育をされているのでした。「これやこのゆくもかへるもわかれては」[1]といった呪文も似たようなものですかね。

ここでは敢えて呪文などと言っていますが、自動性自体は根本的な物事の理解とは関係がないことに注意します。単に言葉として記憶しただけでも、すぐに出てくるようになっていれば、それは自動性を持ってはいます。
一般的な事例として、コーディング(あまり長くないプログラミング)においては、次の記事に書かれたやり方が自動性の獲得につながります。
https://hayapenguin.com/notes/Posts/2024/04/24/how-to-practice-coding-effectively

記号接地、生きた知識とは

これらの語について、詳しい話は『学力喪失』の本に述べられていますが、言葉(記号)による知識が、(場合によっては他の言葉を介して)その人の経験や感覚などと接続されている場合に、その記号は接地されている、などと言います。記号接地の概念は、もともとAIなどの分野で言及されたもので、例えば言語(記号)を統計的・その他数学的に処理してAIを構築する場合には、AIの中でその言語(記号)たちは相互の関係性を反映した状態になったとしても、その言葉(記号)の本質的な意味、たとえば「甘い」という言葉の意味する、人間が持っている甘さの感覚のようなものとの接続は得られず、そのような意味で経験や感覚などと「接地」した状態に単純なAIは至らない、といったことを指摘する文脈で生じたものです。ただ、この概念は生きている人間の認知においても有効な概念で、実際に認知やAIを専門とする研究者から、学力が低い人においては、この記号接地に失敗している概念が多く見受けられる傾向があることが指摘されています。
ある知識の記号接地ができていない場合、その人は当該知識の本質的な意味を理解できていないことになり、うまく活用することができません。このような状態の記号接地できていない知識を記号的に暗記しても、それは生きた知識とは言えません。記号接地できた状態になって、はじめてその知識は生きた知識となります。
九九も、記号操作としての計算を可能にするための準備として重要なことですが、九九だけでは掛け算の本質的な理解が深まっているとは言えません。例えば整列した物の個数を掛け算で計算できるとか、面積を掛け算で計算できるとか、九九と足し算を知っていれば任意の自然数の掛け算を計算できるとか(分配法則)、掛け算が足し算の繰り返しになることは実は分配法則を公理とすると導出することができるとか、そういった接地された知識と暗唱可能な九九が組み合わさることで、掛け算に対する本質的な理解が深まるといえます。

これらの言葉の意味を踏まえると、つまり、
箸を使うことと同じぐらい(あるいは慣れ親しんだ歌や九九を暗唱することと同じぐらい)当たり前のこととして自分の身体に馴染ませ、またその馴染んだ知識がその他の知識を通じて自分の実際の経験や感覚と強く結びついていると確信が得られたとき、"一旦は"学習が完了したと言える
ということです。
極めて当たり前のことを言っているかもしれませんが、学習が完了したとは、特定の問題集や宿題が終わったとか、授業が終わったとか、テストで高得点を取れるようになったとか、そういうことではなくて、自分が小さい頃に聞いていた流行歌のように自然に頭に出てくるぐらいに、深く馴染んでかつ自分の感覚と結びついた状態になったときのことを言うのです。
自動車の教習においては、自動車の運転技術と交通に関する法律の知識がともに記号接地して自動性を獲得した状態になるまで、教習を繰り返しています。これもまた上記の学習完了を目標としていると言えます。プロとして働くにあたって必要な技術、仕事で必要になる技術についてもそうであるべきで、実際に水準の高い集団においてはそれが当たり前になっています。

セミナーの準備のしかたについて

この理解を踏まえて、何度かネットで話題になったことのある、河東先生の「セミナーの準備のしかたについて」という文章を読んでみましょう。
この文章では、丁寧かつ具体的に、上記太字部分の内容について説明されています。たとえば、次のような文があります。

さらにそれができるようになったとしましょう.今度は,紙に書き出すかわりに頭の中だけで考えてみます.「定義は何か」,「定理の仮定は何か」,「証明のポイントはどこか」,といったことを考えてみます.複雑な式変形などは頭の中だけではできないでしょうが,全体の流れや方針,ポイントは頭の中だけで再現できるものです.できなければ,それはよくわかっていないということですから,本やノートを見て復習し,ちゃんとできるようになるまで繰り返します.

この文は、

  • 流れや方針、ポイントなどをはっきりと記号接地して生きた知識にすること
  • それらがある程度の自動性を持つ知識となり、本やノートを見なくても頭の中で再現できるようにすること

ということを述べており、つまりは記号接地と自動性獲得について述べていると解釈できます。もちろん、この文章の中のセミナーの時間配分などは今回の記事では述べていない対象ですが、知識的にセミナーで発表できる状態を学習が完了した状態とするならば、まさしくこの記事で述べている内容と本質的に同じであると思えます。

常に完了できるとは限らないし、完了の先もあるが

河東先生の文章では50時間〜100時間とあるように、実際に記号接地・自動性獲得ができた状態に至るまでにすべての物事に取り組むと、時間が足りないケースもあると思います。実際、高校までの教科で習う内容について、すべての教科書の内容が記号接地できて自動性獲得までできているとしたら、普通に東大に合格できます。現実的には、東大の受験は難しいという事になっており、何らかの条件を満たさない限りは、一般的な教育の枠組みの中ですべて記号接地・自動性獲得を達成するのは時間的に難しいかもしれません。
なお、これは東大に合格できれば記号接地・自動性獲得ができているという主張ではないので、ある種の受験勉強のように必ずしも記号接地に至らなくても受験勉強のハックは可能であると思います。実際、河東先生は東大において上記セミナーの準備のしかたを説明しているので、東大においても(少なくとも一部の学生に対しては)このようなセミナーの取り組み方を説明する必要があると理解しています。

そのような意味で、常に与えられた時間で学習を完了できるかというと、それはノーなのだろうと思います。ただ、それなりにきちんと物事と対峙する必要が出た場合に、その学習をいつまで・どこまでやればよいのか?という事の一つの答として、ここで述べた学習完了の定義は大変重要なものであると思います。
以下、補足です。

学習完了における障壁について

ちなみに、学習を完了するにあたって、(真剣に学習に取り組んでいる場合に)記号接地の障壁になるケースが2つあります。

  1. 知識不足で記号接地ができないケース
  2. 記号接地した知識が矛盾を起こすケース

1は前提知識の学習、2は前提知識のアンラーン(学習棄却)が必要になります。このうちの学習は当然のこととして、アンラーンについては世間的にあまり詳しく教えられていないように思います。
アンラーンがなぜ、具体的にどういった場面で必要になるのか、といったことについては、(システム開発の文脈ですが)次の記事に詳しくまとめています。

https://zenn.dev/339/articles/30c6352c62ec5f

また、上記1と2の詳しい補足、およびこれらが出来なかった場合に日常生活でどういったことが起こるかについては、次の記事に詳しくまとめています。

https://zenn.dev/339/articles/088de75b24d392

"一旦"完了の先についての補足

なお、記事中で"一旦は"などと表現してきたように、逆にここでいう完了にはその先もあります。100m走において多くの人が自動性を獲得している「走る」という行為を競い合うように、自動性を獲得できた物事にも精度や深さなどを求めることは可能であり、先はいつまでも続いています。ただし、上述の通り一般的には時間制限もある中で、では現実的な解としての"一旦"完了がどこにあるのか、というのがこの記事で述べたかったことでした。この"一旦"完了を経て、自分自身で更に深めるという判断をした場合には、一層学習を深めていくことに意味があると思いますし、完了したから学ぶことがないというような意味ではありません。

つづきの記事はこちら:
https://zenn.dev/339/articles/dd25269ce962fd

脚注
  1. しるもしらぬもあふさかのせき ↩︎

Discussion

さざんかぬふさざんかぬふ

あとから見つけた関連資料(これもまた今井むつみ氏)
https://cogpsy.sfc.keio.ac.jp/cog-learn/11cl01.pdf

認知的学習観

  • 学習は主体的な行為
  • 学習は知識の変容である(累加または再構造化)
  • 学習は先行知識によって導かれる

「うまくできる」ことよりも、この事態を整合的に説明できる「理論」を自分なりにつくり、それを試す
ことをめざす

学習完了に至るまでの筋を良くするための課題

  • アンラーンやアウフヘーベン、知識の変容をどう制御実践するかというメタ理論の構築
    • どう既存の知識を変容させて今目の前にある現実を説明するか、という方策の整理と、自分がどう方策を利用しているかということの理解
      • 端的には、「いまアウフヘーベンを使った」とかを感じ取れるようにして、かつそれの統計的な感覚を得る
  • 「筋の良い理論」(筋の良いメンタルモデル)を導くメタ理論の構築
    • 初手の筋が悪すぎる人がおり、初手の筋が悪いところから修正していくのも大事だが、そもそも初手を筋の良い手にするようなメタ理論を構築できないかということ
    • ただし、初手が変な人のほうが、次のステージに立ったときに新しい理論を思いつく可能性はあるかもしれない
  • いくら考えても進まない状態と、考えたら進む状態の区別
    • 思考停止している、していないということの判断
    • 思考停止は、自分自身が考えるのをやめていないつもりでも、実質的な進捗が無いという場合
      • 記号接地を阻害する既存の理論が邪魔をしているか、記号接地が遠すぎるか
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