進む学習と進まない学習 - 学習を完了させるには
この記事は、その勉強、いつまでするの? - 学習完了の定義の続きの記事です。
学習を完了させるためには、当然ですが、学習を進める必要があります。
ここで注意すべき事があります。学習は、進むときと進まないときがあるのです。
進まない学習にいくら時間をかけても、ほとんどがただの無駄な時間になり、体力や精神を浪費するだけになってしまいます。
そこで、この記事では以下のことについて説明します。
- 学習が進むときと進まないときの違いはなにか
- 進まないときは本当に進捗がゼロ、ほぼ何も得られない
- 頭の回転の速さは学習速度には影響するが、学習が進むか進まないかには影響しないこと
- ただし、前提知識が自動化していることは必要になる
- 学習が進むように記号接地をするための技術
なお、ここで学習と書いているのは、いわゆる勉強に限らない認知科学的な意味での学習のことです。つまり、人間が何らかの概念や知識を獲得する際の普遍的な仕組みについての整理をしています。したがって、この記事で述べることは、仕事やその他社会生活全般においてもそっくり当てはまると思っています。
ここで述べる技術や構造理解は、学習者本人としても使えるものであり、またもし教育者がいるならば教育者としても使えるものです。
人間は勝手に学習していくが、何でも学習するわけではない
まず、学習ということについて整理します。ここでは、簡単に「ある個人が、自身の保有する先行知識に基づき、新しい知識を付け加えていくこと(累加または再構造化)」としておきます。[1]
赤ちゃんが生育する過程を想像すると、ほぼすべての人は学習を行うものである、ということがわかります。ここでいうほぼすべてとは、何らかの深刻な病気を抱えていなければ例外なく学習を行う、という程度の意味です。[2]
そのような意味で、 阻害要因のない学習は、かけた時間に比例して進行する[3]という性質があります。阻害要因がなければ、学習は常に進捗するのです。
ただし、この進捗の速さは、人によって異なる場合があります。例えば、知識が文章で記述されている場合には、文章を脳内で処理するスピードによって学習の速さが変わる場合があります。このような学習速度と関係する要因としてしばしば取り上げられるものに、いわゆるIQ・頭の回転の速さというものがあります。この速さが厳密にIQに依存するのか、それは先天的に決まるのか後天的に得られるものなのかといったことには諸説ありますが、そのような何らかの要素が存在していることは間違いがないでしょう。学習の速さには個人差がある ということになります。ただし、これは決して0と1のような差ではありません。たとえゆっくりであったとしても、進捗があるならばいつか必ず同じところにたどり着く、というような純粋に速度にのみ影響する性質のものと私は考えています。[4]
一方で、赤ちゃんにおいて「高度な知識を脈絡なく獲得する」ということはありません。ここで高度と書いているのは、様々な理論の積み重ねによって得られた知識、という程度の意味です。赤ちゃんがいきなり政治を論じたり、脱構築について説明したり、それこそ記号接地を概念として説明し出すようなことはない、というようなことです。知識の獲得は、いつも前提となる知識を獲得していることが必要になっています。その意味で、 周囲の人がなんでもかんでも学習してほしいと思ったとしても、本人がいま学習できることは限られている ということがあります。本人が前提となる知識を有していて、興味を持つことができて、といった条件を満たさなければ、学習は進みません。少し言い方を変えれば、 学習できる知識は、本人の有する知識によって規定される というような言い方もできるかもしれません。学習にはある程度の順序性がある、ということになりますが、この順序が個人を超えて普遍的なものと言えるかは、難しいところだと思います。この順序性を無視して学習を進ませようとしても、前提知識の欠如が阻害要因となり、学習が全く進まないということになります。一般に、このような種類の阻害要因があると学習は全く進まなくなります。
ここで要点をまとめると、次のようになります。
- 阻害要因のない学習は、かけた時間に比例して進行する
- 学習の速さには個人差がある(ただし、0と1のような差ではなく、あくまでも速度の差)
- 学習できる知識は、本人の有する知識によって規定される
- 阻害要因があると、学習が全く進まない
学習できない理由
阻害要因があると、学習が全く進まないということを述べました。この阻害要因というのを、意欲などの部分を除いて平たくいうと、「本人の有する知識と、獲得しようとしている知識がうまく噛み合っていない」ということになります。これを単純化すると、次の2つに分類できます。
- 知識不足で記号接地ができないケース
- 記号接地した知識が矛盾を起こすケース
前者においては、知識が不足しているので、別の知識の学習が必要です。一方、後者においては、少なくとも部分的には誤った知識があるので、新しい知識を学習する前に今の知識を修正しなければなりません。これは、今の知識の前提範囲を狭くしたり、根本的に忘れたりといった色々なテクニックがありますが、何にしても現在の知識を修正するという意識を持って直していく「アンラーン」を行う必要があります。
このような、足りない知識や誤った知識の管理を行って、学習やアンラーンを進めるようにしないと、阻害要因をなくすことができず、いつまで時間をかけても学習ができないという状況が発生します。
したがって、学習が停止しないようにうまく進めるためには、学習中に進捗がゼロになっていないかにとても気をつけて、もし進捗がゼロになっていたら具体的にどの知識の欠如や誤りが進捗をゼロにしていて、学習またはアンラーンを用いてどう直せばよいか を考えることが必要になります。
ここで、進捗がゼロかどうか?ということを判断するのは中々難しいのですが、前回の学習完了の定義の記事で書いたことが効きます。学習完了とは
箸を使うことと同じぐらい(あるいは慣れ親しんだ歌や九九を暗唱することと同じぐらい)当たり前のこととして自分の身体に馴染ませ、またその馴染んだ知識がその他の知識を通じて自分の実際の経験や感覚と強く結びついていると確信が得られたとき、"一旦は"学習が完了したと言える
ということでしたが、この状態に近づいていると言えるかどうか、ということです。速度的に速くなくても、この状態に近づいていると自分で判断できるならば進捗ゼロということは無いでしょうが、この状態に向かって進んでいる感じがなければ、進捗はゼロです。このような場合には、自分が既に持っている知識と新しい知識の間の記号接地に失敗しているので、意図的に記号接地失敗している部分を探って記号接地させにいく必要があります。 この進捗の判断は、厳しく行ったほうがよいです。というのは、自分の中で十分に腹落ちする材料のない状態で考え続けても、ほとんどの時間はただの無駄になってしまうからです。自分の考えが進んでいるか、ということに対してシビアになり、考えが進んでいなければ何が考えを進められない原因なのか、ということを考えて手を打ちます。
阻害要因の検出フロー
上記の阻害要因の検出フローを図にしてみました。最終的に、前提知識の学習またはアンラーンを行う必要があるので、いずれを行うべきかという判定まで含めたフローにしています。
厳密にこれだけで運用できるかは不明ですが、私の場合は(細かい順序などは別にして)概ねこういったことを考えています。
ちなみに、自分でどこの部分がわからないかがわからない場合には、説明しようとしてみるのが良いです。説明しようとすると、ある場所から先が説明できない、というような具体的な問題が発生するので、そこからわからない部分を把握できます。記号接地できているかを判断したい場合にも、説明を試みたときに自分の言葉で説明できるかどうかで、自分の感覚となじんでいるかが分かったりします。
記号接地のための技術
これまでに述べたことを踏まえて、具体的に記号接地していくための技術についていくつか提案します。
メンタルモデルやスキーマについての理解
まず、人間が、メンタルモデルやスキーマという自分の中で構築した理論をもとにして物事を認識しようとする ということを理解しておきます。何かを考えようとするとき、すでに保有しているメンタルモデルを自然に通して考えてしまう、というようなことです。このメンタルモデルやスキーマの構造によっては、知識の獲得に必要な概念が抜け落ちてしまったり、知識の形が歪んでしまったり、といったことがあります。
また、メンタルモデルには、適用範囲という概念があります。例えば、ニュートンの力学法則は(ある程度の範囲で)正しく、これによると「力が加わらない物体は等速直線運動を続ける」となります。これは正しいことですが、しかし日常生活で速さ>0となるような等速直線運動を続けている物体は極めて少なく、身近に触れる多くの物体は静止しているように見えます。「普段の日常生活の範囲において、力が加わらない物体は静止している」というのは、厳密には間違っているとしても、日常生活の範囲の概念としてそこまで間違っていることではありません。一般に、あらゆる状況で成立するというメンタルモデルは少なく、メンタルモデルには何らかの適用範囲、前提となる条件が存在しています。
一見矛盾するように見えるメンタルモデルでも、適用範囲が異なっていればそれぞれ正しいことがあり得る というのは重要なことで、これがアンラーンの技術にも関わってきます。
矛盾する知識の適用範囲を狭くする
前提知識と学習対象知識の間に矛盾がある場合に、それぞれの知識の適用範囲を狭くすることで矛盾を解消するという方法があります。「大きな主語を小さくする」と覚えるとよいでしょう。
前提知識の適用範囲を狭くする
例えば、世間でしばしば言われていたこととして、「コンピュータでは実数を厳密に扱えない」というようなことがあります。これは、コンピュータで数値を取り扱う際に、例えばfloatやdouble等という名称で定義されているような小数を扱う方式で取り扱うと、その方式で定義されている適当な精度までしか扱えない、という意味で正しいです。ただし、一方で人間が紙上で行うのと同程度の計算をすることは可能であり、その意味でπや√2などを扱うことも可能であり、またそれらの数について任意桁の精度で計算をすることも可能です(メモリ等が許す限り)。
「コンピュータでは実数を厳密に扱えない」という主張と「コンピュータで円周率を任意桁計算できる」という主張は単純に解釈すると矛盾しますが、「コンピュータでは実数を厳密に扱えない」の方に適用範囲や前提を補うことで、これらの主張は最終的に矛盾しないように正しい理解にすることができます。
このようにして、「コンピュータでは実数を厳密に扱えない」という実際には正しくなかった知識について、適用範囲や前提を補って正しい知識にするのも、アンラーンの一つの役割となっています。
学習対象知識の適用範囲を狭くする
ところで、上記の例の学習する順番が逆だったとしたら、どうでしょうか。
つまり、「コンピュータで円周率を任意桁計算できる」ということや、その他数式処理・計算に関してはコンピュータは人間が紙上で行うのと同程度のことができるということを先に学んでいた人が、後から「コンピュータでは実数を厳密に扱えない」などと言われた場合です。
この人からすると、学習対象知識(コンピュータでは実数を厳密に扱えない)はシンプルに間違っていますが、上述の通りに適用範囲や前提を補えば、意味のある内容として解釈することもできます。例えば、素朴な実装をしたプログラムでは数値誤差が発生しがち、というようなことです。(ちょっと苦しいですかね??)
私の経験上、このような場面は小学校以降で結構たくさんあり、既に持っている知識と比較したら単純に間違っているような主張もよくあったのですが、そのような場合には適用範囲や前提を付け加えることで、ある程度は間違いの少ない内容にできます。そうすると、主張として許せるような内容になり、一旦受け入れることができるようになります。振り返ってみると、私はこれをかなり頻繁にやっていました。
これを実践するときに大事なのは、例えば会話でこのパターンが発生した場合において、矛盾する知識を述べている人を自分より劣っているなどと見たりしないことです。単に自分が経験したような知識がなかったり、時間的な制約によって細かいことを説明できなかったり、といっただけで、その他の知識や人格そのものは決して否定しないようにします。
また、人によっては常に主語が大きい人や主語を明示しない人なども居るので、その場合には適宜主語を小さくする「翻訳」を挟むようにします。
記号接地する知識を変えてみる
知識はそれぞれの人の中で記号接地することで生きた知識になりますが、最初の接地地点が常に同じである必要はありません。例えば、算数の割合について学習したいと思うとき、日常生活では以下のようなものを割合と関連する対象として考えることができます。
- クラスの男女の人数
- 洗濯するときに使用する水と洗剤の量
- お風呂に入浴剤をいれるときの水と入浴剤の量
- 料理をするときの具材と塩の量
他にも事例としてはあるでしょうが、記号接地の最初の一歩として使う知識は、どの知識であっても構わないでしょう。入口としてどの前提知識を使うのが有効かは、一般にその人の持っている知識の形に依存します。その人に適した知識をまず最初に使うことができれば、記号接地もしやすくなります。
知識との感情的な結びつきを取り除く
記号接地には感情を利用することができ、感情の結びついた知識は自動性を獲得して思い出しやすかったり強く印象に残ったりといったメリットがありますが、一方でその感情が強すぎて他の知識との接続においては邪魔になったり、他人と知識を共有する上での障壁になったりという場合があります。そこで、意図的に感情的な結びつきを取り除くということも時に有効な手段となります。これには、次のようなパターンがあるかと思います。
前提知識が過剰に悪い感情と結びついているのを解きほぐす
前提となる知識に対して悪い感情を持っていて、それによって新しい知識を受け入れられないケースがあります。例えば、先入観で「文系の学問は浅い」と言って文系の学問を一切受け入れようとしない、みたいな場合です。[5]
このような場合にも、その悪い感情を捨てることがアンラーンにおいて役に立ちます。
前提知識が過剰に良い感情と結びついているのを解きほぐす
前提となる知識に対してすごく良い感情を持ちすぎていて、新しい知識を受け入れられなくなる状態を解消します。例えば、ライバル関係にあるスポーツチームAとBがあった場合に、自分がAのファンで、Aに対して強い気持ちを持ちすぎていると、Bに関する肯定的な感情を持ちにくいといったことがあります。上述の「文系の学問は浅い」ということも、過剰に理系の学問を持ち上げた結果という場合もあるかもしれません。
事例によって矛盾する内容をそれぞれ検証する
前提知識と学習対象知識の間に矛盾がある場合に、それぞれを直接的に検証するということも考えられます。実験できるものなら実験をしてみる、思考の対象であれば両方の知識について条件を揃えていくつかのパターンで思考してみる。その結果、それぞれの知識が暗黙のうちに適用範囲を持っていたり、あるいはシンプルに片方が間違っていたり、ということが明らかになります。
前提となる知識が自動性を獲得するまで学習する
前提知識が一応存在はしているものの、自動性獲得までは至っていない場合に、理屈が理解できても腹落ちできないという場合があります。このような場合、前提知識はそれを理解しているというだけではダメで、自動化されて勝手に出てくるぐらいになるまでに習得している必要があります。学習完了の定義は記号接地と自動性獲得の両方なので、その意味では「前提知識の学習が完了していないとダメ」な場合があるということですね。
頭で考えすぎずに、経験してみてから考える
理論先行で教えられる場合などは、明文化された説明が経験よりも前に来ることが多くありますが、単純に経験すれば解決するという場合もしばしばあります。百聞は一見にしかずとも言いますが、言葉で100回説明されてわからないことが、1回と言わずとも10回体験すれば感覚的に理解できるということもよくあります。そのような場合は、先に言葉ですべてを理解しようとせずに、言葉と経験の両方を通じて記号接地していくという考えを持つことも重要です。
特にその場合は、相手の言っていることが理解できない状態から経験してみるといったことが突破口になったりもするので、時には相手を信頼してとりあえずやってみることを大事にします。
むすび
学習をしようとしているのに、阻害要因によって学習が進まないというのは大変残念なことです。その状態を少しでも早く検知して阻害要因を取り除けるよう、阻害要因の検出フローを適宜実施して、もし記号接地が必要となったならば提案した技術を通じてうまく記号接地することで、学習が進まない状況をいくらか避けることができます。このあたりのことを技術として整理している内容をあまり見たことがなく、まとめました。
思い返せば、私の場合は腹落ちする・納得するということをかなり大事にしていました。そのため教科書や先生が間違っていると思うことはしばしばあって、そのような時には毎回必ず自分で納得できるような適用範囲・前提を勝手に追加していました。その中には間違ったものもあったかもしれませんが、そうやって自分の考えと不整合のある状態は極力すぐに脱するようにしていたので、混乱することが少なかったのかもしれません。本を読むときも同じで、必ずしも批判的ということでもないのですが、本の間違いや受け入れにくい主張が存在するというのは前提にしていて、その上で自分の意見も含めて結論を理解する、というような読み方をしていました。[6]当時の私には記号接地という概念はありませんでしたが、結果的に記号接地を頑張っていたのだな、と思います。記号接地できないものは勉強しないという筋金が入っていたので、高校数学ではベクトルの一部を完全に無視するといったこともしていました。(当時から数学に進もうとしていたのに!)
他にも学習が進まなくなったときに解消するような技術があればぜひコメント等で教えてください。
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学習の定義とは難しいことで、様々な議論もあると思いますが、厳密な定義を求めることが目的ではないので、一旦はこの定義で十分と思います。文言としては https://cogpsy.sfc.keio.ac.jp/cog-learn/11cl01.pdf を参考にしていますが、この資料をそのまま使っているわけでもありません。 ↩︎
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実際に、検診では学習状況についての確認を行い、多くの赤ちゃんがその検診を問題なしとして通過することになります。 ↩︎
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成果を考えると、ある時点で急激に成果が上がるといったこともあるため、厳密には比例という表現は適切でないかもしれません。ただ、単調増加というとそれはそれでニュアンスが失われるように感じ、敢えて比例としています。赤ちゃんの身長・体重の分布がそこまで極端ではない正規分布に従うのと同程度に、学習結果もそこまで極端ではない正規分布に従うと思っていて、一定時間で概ね同じ程度に収束するというニュアンスを雑に比例と言っています。 ↩︎
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このことには、まだ科学的にはっきりとした結論はないと思いますが、例えば囲碁や将棋のようなものでは、IQはルールを理解してある程度の力をつけるまでの速度においては支配的だが、最終的な棋力において、例えばプロ棋士のIQを測定すると棋力とIQは無相関であるということはいくつかの調査でわかっています。 ↩︎
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実際には単純な先入観ではなく、ソーカル事件のようなものや、あるいは統計処理の不適切さ、論理展開の恣意性(実質的な反証性の乏しさ)などを根拠として文系の学問を受け入れないということもありますが、これも文系の学問として十把一絡げに悪い感情と結びついているという意味で、あまり適切ではないと思います。 ↩︎
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具体的な読み方の事例としては、「プログラマー脳」の本の感想と賛辞 〜 意味波と具象と抽象とや良いコード/悪いコードで学ぶ設計入門の感想と注意点などがあり、私はどんな本を読む時もこれぐらいは考えるようにしています。これは本を読んで得られた知識の記号接地のための重要な工程と考えています。 ↩︎
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