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成功と失敗、学習と混乱 - 混乱を乗り越えるには

2025/01/02に公開

この記事では、学習における混乱の意味やメカニズム、その乗り越え方について説明します。

突然ですが、失敗は成功の母、という言葉があります。日本国語大辞典によれば、

失敗してもそれを反省し、欠点やこれまでの方法の悪い点を改めてゆけば、かえって成功に近づくというたとえ。失敗は成功のもと。

という意味です。当然ですが、同じ失敗をただ繰り返すだけでは成功に近づきません。そうではなくて、失敗から得られる知見を用いて修正すれば、物事が物理法則に従う限りは再現性があるので、同じ失敗は超えることができ、成功に近づいていく、ということですね。
やや極端な言い方では、失敗なくして成功なし、というものもあります。実際、いくつもの可能性が考えられる中で、全く失敗をせずに成功するということは現実的に不可能です。人間はいつか必ず失敗するので、ただその結果で一喜一憂するのではなく、それをどう活かすかということが重要です。

このことと似たような、しかし幾分複雑な事象が、学習と混乱です。
一般論として、学習を進めていると、自分の理解や進んでいる方向が正しいのかが全くわからず混乱してしまう、ということがあります。あるいは、他者からの指摘の意味が理解できずに混乱する、といったことがあります。そのような混乱がどうして発生するのか、またそれを乗り越える方法を説明していきます。[1]

学習で混乱が生じるメカニズム

学習で生じる混乱には、当然ですが、きっかけとなる事象があります。自分自身の認知でうまく説明できない物事の存在を把握したとき に混乱が発生します。ポジティブな言い方をすると、新しい知識を学習する可能性のあるとき、まさに学習できる可能性のあるときに混乱が発生する、とも言えます。後述するように、そのような物事の存在を把握したときに常に混乱する訳ではありませんが、重要なきっかけ事象となっています。
このような、自分自身の認知でうまく説明できない物事が学習中に発生するのは、次のいずれかによります。

  1. 直面している事象が、既に有している活用可能な知識と結びついておらず、事象を活用可能な知識で説明できない
  2. 直面している事象を活用可能な知識と結びつけようとするときに、この結びつけ方が既存の知識と矛盾してしまい、事象を説明できない

1と2は、似たようなことを言っていますが、少し言いたいことが違っています。

1のイメージは、ジグソーパズルで説明できます。ジグソーパズルの各ピースが知識を表すものとしましょう。このとき、知識がつながることはピースがつながることとして表現できます。
次のジグソーパズルの画像を見てください。

この画像で、外周に接続されているピース(四辺とつながっているピース)が、感覚と接続していて活用可能な知識であるとします。
画像の中央で組立中のピースたちは、ピース相互に接続していますが、外周とは接続されていません。このようなピース=知識は、感覚と結びついておらず、自由に使いこなすことができません。1の状態は、こういうことです。

2のイメージは、普通のジグソーパズルでは説明できないので、2つのジグソーパズルを使って説明します。知識とピースの対応関係は同様です。次の画像を見てください。

赤枠で囲った部分は、なんとピースの形が全く同じだったために形式的にピタッとハマってしまい、なんとなくそれっぽい感じになってしまったのですが、よく見ると絵が明らかに接続できておらず、絵画として見ると矛盾というか誤った状態になっています。これに近いことが、2で言いたいことです。
現実の知識に関しては、このようにピタッとハマるようなことは普通は無いのですが、それでも誤った接続をしてしまうケースはあります。
この状態で誤った知識が定着してしまうと、後から「正しい知識」が見つかったとしても、それを接続し直すことが簡単にはできなかったりして、混乱を生じます。

一般論として、ある知識が、その他の知識を介して感覚などと結びついているとき、その知識は記号接地していると言います。このジグソーパズルで言えば、あるピースが四辺とつながった状態のとき、その知識は記号接地できた状態である、ということです。[2]

この記号接地という語を用いると、1と2のケースを以下のように短く言い換えることができます。

  1. 知識不足で記号接地ができないケース
  2. 記号接地した知識が矛盾を起こすケース

この2つのケースが、学習で混乱を生じるケースになります。[3]

混乱の発生は、必ずしも内容の正誤とは関係がない

ここで重要なことは、混乱が発生しているとき、その原因になった「自分自身の認知でうまく説明できない物事」は正しい場合も間違っている場合もある、ということです。例えば、これまで陰謀論に触れずに生きてきた人が、いきなり過激な陰謀論に触れると混乱します(あるいは、混乱すらせずに単に無視するかもしれません)。このような場合においては、混乱して陰謀論をすぐに受け入れないということにも重要な意味があります。混乱をするというのは、決してそれ自体が悪というようなことではなく、ある意味では正常な人間の反応でもあると言えることに注意しておきます。
ただし、逆のパターンで、過激な陰謀論を信じてしまっている人もまた、陰謀論を否定されると混乱してしまいます。この場合には、混乱を克服して陰謀論から脱却することが望ましいでしょう。これは、シンプルに事実と整合的であれば信じる価値があり、事実と整合的でなければ信じる価値がないということです。

記号接地できていない事象に人間はどう反応するか

ここで改めて、混乱に限らず、記号接地できていない事象があったとき、それに対して人間がどう反応することがあるかを考えてみます。

全く受け入れない

理解できないことを全く受け入れず、切り捨てます。この場合は学習対象にもなりません。場合によっては、むしろ「このような知識を切り捨てる」というメタ的な学習が進むこともあります。
切り捨てようというつもりを持っていなくても、認知の限界で結果的に切り捨てられるということがあります。意図せずにこぼれてしまう、というような。
この反応を選んでしまった場合は、同じことが改めて問題になった時に強く衝突してしまう場合があり、何度も同じように大きく混乱することがあります。

継続的な思考を(一旦)放棄する、判断留保

全く自分がわからないことについて、「へー、そうなんだー」に近いような受け止めです。これは、記号接地できていない知識を一旦頭の中に置きつつも、自由に扱える知識としてではなく、よくわからない自由には使えない"死んだ知識"として一旦頭の中に置いておくということです。受け入れないのと比べると、とりあえず柔らかく受けておいて、そのうち考えることとして寝かせておく、というような違いがあります。
この受け止めは実は大事で、知識が増えたり経験が増えたりすることでわかるようになる場合もあるので、一旦は混乱して消耗する状態を脱することができます。同じことが改めて問題になりそうになった時にも、改めて判断留保することで、混乱を継続しない状態にはできます。(ただし、再混乱した時のダメージが完全になくなるということではない)

なお、亜種としてわかったフリをする、というのもありますが、これは判断留保よりずっと悪い状態に進みます。わかったフリをした場合、周囲からはわかっているものとしてみなされてより混乱を招く状態になり、最終的に破綻するのです。なにか悪いことをした子どもに、その場の勢いで約束をさせ、しかし実際には記号接地を伴っていなくて約束が守られずに破綻する、といったケースが顕著です。

接地を試みて疲弊する

メタ的に、この知識が記号接地できていないということが理解できていて、どうにか記号接地することを試みます。ただ、記号接地の前提となる他の知識が増えたり、アンラーンで矛盾する知識がなくなっていたりといった改善がなければ、勝手に記号接地できることはないので、単に疲弊します。

学習によって知識が増え、記号接地できる

学んだことによって知識が増え、結果的に記号接地できるようになるというケースです。混乱があれば、問題なく解消して腹落ちした状態になります。(イメージは省略します)

アンラーンによって矛盾する知識がなくなり、記号接地できる

アンラーンによって矛盾する知識がなくなり、結果的に記号接地できるようになるというケースです。混乱があれば、問題なく解消して腹落ちした状態になります。(イメージは省略します)

混乱したあとの状態遷移 - 解消するまで、いつまでも混乱し続ける

上記の記号接地できていない事象に対しての人間の反応を踏まえると、一度混乱してしまった人は、次のような状態遷移をします。

  • 学習またはアンラーンで根本的な対応ができれば、混乱が解消する
  • 再接地を試み続けると、疲弊して混乱し続ける
  • 全く受け入れない状態になると、一時的に混乱を避けられるが、同じ事象が発生したときに再混乱する
  • 思考放棄(判断留保)によって、一時的に混乱を避けられ、また再混乱を和らげることができる

つまり、根本的に混乱が解消しない限り、同じ事象を扱うことがあれば再混乱する、混乱した状態が継続するということです。かつ、混乱状態にあるということは、対象を生きた知識にできない、理解することができないということを意味します。苦しい上に知識が増えるわけでもない、ただしんどい状態が継続するということです。
これが教科の勉強について起こると、いわゆる「落ちこぼれ」になります。前提となる知識が欠如したり間違ったりして、知識を吸収できない状態が継続する、いわゆる学ぶ力を喪失した状態です。
この混乱は、教科の勉強以外の、認知の関わるあらゆることで発生します。

学習は常に半自動的に行われていて、一方で常に正否を指摘されたりはしない

ところで、学習というのは、自分自身の意図しないところでも、常に半自動的に行われています。
例えば、友達と冗談の会話をするとき、それを強く覚えようと意識する人はそんなに多くないと思いますが、下らない冗談の話でも内容を勝手に覚えていたりします。もちろん、すべてを思い出せるかと言えばそんなことは無いでしょうが、記憶は勝手に行われています。あるいは、チャイムの音など、音をすべて覚えようというつもりがなくても、何度も流されることで勝手に覚えているものがあるでしょう。CMなんかもそうですね。
学習一般についてもそうで、もちろん自分が意思を持って勉強に取り組むことで特定の学習をするという場合もあるでしょうが、そのような意思を持っていない対象についても勝手に学習は行われています。
このような学習には、事実として正しいことも、事実として正しくないことも含まれるでしょう。もう少し丁寧に言えば、ざっくりとは正しいが厳密には正しくないとか、適用範囲によって正しかったり正しくなかったりすることとか、そういった色々なことを、無意識的に学習していきます。
厄介なのが、学習をした瞬間には、その学習をしたことが正しいか間違っているかの答え合わせをしてもらえるわけではない、ということです。誤った学習をしてしまったとしても、常にその瞬間に指摘を受けられるわけではありません。ずっと誤りに気付かず、いつの日か、その誤った知識が問題になった時に初めて誤っている可能性に気づくことができる、といった場合があるのです。
一層難しいのが、単純に白黒はっきりするような事実についての言及であれば正否が存在するのでまだ良いですが、そもそも単純な正否がない・いわゆる正解の無いことや、適用範囲によって変わるといったことも沢山あります。こうした答えのない半自動的な学習が、絶えず行われているのです。

新しい知識を得ようとするとき、混乱は避けられない

このように絶えず学習が半自動で行われる中で、間違えずに事実として正しい知識だけを積み上げることは、不可能です。成功するためには失敗を避けられないように、新しい知識を得ようと思うと混乱を避けることはできません。知識不足で記号接地できない場合も、記号接地した知識が矛盾を起こす場合も、いずれも全て避けてただ正しい知識だけを混乱せずに得るということは不可能なのです。
仕事として失敗してはいけない場面があるのと同じように、混乱してはいけない場面もあるでしょうが、しかし根本的に人間が失敗するのと同じように、混乱もするので、その前提で物事を考える必要があります。

混乱とどう向き合うか

では具体的にどうするか。失敗に対するアプローチと同様に考えることは一つの方法ですが、その質的な違いに気をつける必要があります。
失敗は一つ一つの事象に対することなので、例えば一個人のヒューマンエラーが大失敗を産まないようにするために、様々な工学的な安全措置によって最終的な失敗を防ぐということがあります。一方で、混乱は個人の状態であり、ある個人が混乱するとそれを解消するまでは混乱状態が継続します。パフォーマンスが下がったり、正しい結論に至れずに貢献できなかったり、といった状態が継続する、ということです。そのような意味で、混乱は発生している個人において解消する必要があります。
混乱自体は避けられないにしても、その害を少なくして、より短い時間で混乱から復帰できる状態を目指すことはできます。今の時点で私が考えているのは、次のようなことです。

  • 混乱(の原因になる認知のズレ)は確率的に必ず発生するものとして捉える
    • 混乱が発生した場合にどう対処するか、ということを心構えとして前もって考えておく
  • 混乱している人の前提知識の不足が混乱を生じているのか、前提知識の誤りが混乱を生じているのか、を考えて対応する
    • 前提知識を学習または不要な知識をアンラーンすることで、記号接地できる状態にする
      • ただし、アンラーン対象の知識がなにかを見抜くことや、アンラーンを遂行することは難しい場合もある
      • 普段からアンラーンに注目して、アンラーンの練習をしておく
  • 必要な前提知識と現在充足している前提知識の間に大きな隔たりがある場合は、一足飛びに結論に向かわず、正確でないメンタルモデルを中間的に設定することを考える
    • 不正確で遠回りに見えても、結果的にそうしないと理解が進まないこともある
  • 根本対応に時間がかかる場合は、一旦判断留保することにし、またこの問題だけを継続的に考えなくてすむようにする
    • 例えば別の仕事に取り組むなど
    • ここに混乱があるという事自体は理解をしておく
  • そもそも大きな混乱がいきなり起きないように、細かく密に会話をする
    • 日常的な会話を通して、認知のズレを都度細かく修正しておく

最終的に記号接地するのは混乱している本人ですが、それをどう助けるかということについては、様々なやり方があると思います。ただ、何にしても混乱が勝手に治るということはないので、状況を変えるか努力するかしなければ、同じ事象についての混乱はいつまでも続きます。混乱の一つの事例として、勉強で落ちこぼれてしまった場合に、何もせずに落ちこぼれから回復するということはありません。回復には本人や周囲の努力が必要になりますが、それと同じような構造のことが、他の無数のことで発生し得る、ということです。
混乱を恐れず、学習の中でごく普通に発生する事象として理解したうえで、それを乗り越える方法を考えていきましょう。状況が許すならば、単に自分が混乱していると宣言することも有効な方法であると思います。お互いが混乱するものだと理解できていれば、混乱によってその人の価値が減るということはなく、建設的に混乱から回復するための記号接地の施策を考えることができるからです。(もちろん、これは周囲の混乱に対する理解などの状況によりますが...)

むすび

混乱は、新しいことを学ぶ上で避けられません。その意味で、学習と混乱の関係性が、成功と失敗の関係性に似ていると思ったのがこの記事を書こうと思ったきっかけでした。ただ、似ている部分だけではなくて、学習それ自体には正解不正解がなく、かつ混乱は単純な失敗と比較して他の人がフォローしにくい[4]という性質を持っていて、もう少し難しい事情があります。そのあたりを言語化したうえで、混乱を受容しながらどうやって学習や仕事を進めていくか、ということを整理したくて書き上げました。
そもそも、私は最近まで「混乱」ということをテーマにして考えた事がほとんどなかったのですが、ここで扱っている混乱は自動回復しない、というのが私にとってとんでもない結論でした。もちろん自己救済できればその限りではなく、ネガティブ・ケイパビリティを使って判断留保しつつ根本解決していくという手を取れればよいのですが、それができずモヤモヤを取り除かなければずっとモヤモヤする、ということがこんな風に整理されるのかと思ったりしました。

まだうまく述べられていないこととして、なんらかの"外力"を加えない限り混乱の状態は変わらないので、混乱というのは失敗(エラー)を生み出す"速度"であり、単純な失敗の"微分"になっている...というような与太話がありますが、これはまだ整理できていません。

脚注
  1. ちなみに、混乱には色々な種類があり、集団的なものや物理的なものなどもありますが、ここでは学習等に伴う個人の心理的混乱を扱います。特に個人的なものであっても高熱で錯乱状態になってしまったとか、手術によるせん妄とか、そういった事は扱わず、学習等に伴って生じた心理的混乱のみを対象とします。 ↩︎

  2. ジグソーパズルはあくまでも比喩、メンタルモデルの一つであり、完全な説明ではないことに注意しておきます。例えば実際の知識は縦横の方向以外にも無数の方向があると思いますし、接続もこんなにべったりしたものでは無く、頂点と辺で成立するグラフ・ネットワークのような構造かもしれません。話を伝えやすく、簡単にするための考え方の一つと思ってください。
    ↩︎

  3. もちろん厳密には、学習対象がPTSDと関連していて学習を進められないとか、ディスレクシアのように文字を読むことに困難があるとか、そういった原因での混乱もあり得ると思います。ここではそういった問題がなく、学習を進める中で 自分自身の認知でうまく説明できない物事の存在を把握したとき (記号接地できない事象の存在を把握したとき)という前提で考えたときには、土台になる知識がないか、すでに持っている知識と矛盾するか、混乱を生じる要因は少なくともいずれかに該当するであろう、ということです。 ↩︎

  4. もちろんフォローしないということではありません ↩︎

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