叱ることと褒めること。いつワークして、いつワークしないか。
原始的なコミュニケーションに、叱ることと褒めることがあります。これがいつワークして、いつワークしないか、ということの重要な条件がわかったので、それを書きます。
少し冗長な序文(省略可)
この叱る・褒めるというコミュニケーションは、時として感情の発露を伴い、親子をはじめとして日常生活のあらゆる場面に見受けられるコミュニケーションです。叱ってはいけない、叱らないといけない、褒めてはいけない、褒めないといけない。じつに様々な言説があります。
赤ちゃんを育てるにあたって、全く叱らないということはまず不可能でしょうし、今後の人生において怒りを露わにする場面をゼロにはできない以上、その対処法を学ぶという意味で怒りに触れるということも必要でしょう。一方で、褒めすぎについては賛否があるものの、全く褒めることなく人を育てることにも困難がつきまとうでしょう。叱ることも褒めることも、少なくとも完全に避けられるようなものではありません。少なくとも自分自身を振り返ったとき、それが多少のバイアスを含むにしても、いずれも効果的に作用した場面があります。
そのような叱る・褒めるというコミュニケーションがいつワークして、いつワークしないか。という重要な条件を書きます。
叱ることも褒めることも、それが記号接地しないとワークしない
叱ることや褒めることには副作用がありますが、仮に副作用がなかったものとして、単純に叱ったり褒めたりしたことが意味をなさないのは、どのような場合か。この答えは明快で、「叱ったことや褒めたことの内容が、本人の中で記号接地していないとき」つまり「叱られたことや褒められたことの意味を本人が自分の言葉で 理解できる状態にならなかったとき」です。
ものすごく当たり前のことを言っているかもしれませんが、本人がその意味を理解できていなければ、叱ることも褒めることも、それ自体の効果は無いということです。
ここで重要なのは、記号接地という言葉の意味、つまり上で太字にした「自分の言葉で 理解できる状態にならなかったとき」という意味です。一般論として、叱られた言葉や褒められた言葉をその場で繰り返したり、表面的に善悪を問われて善悪を述べたり、推奨されること・してはいけないことについて説明させる、といったフォローアップ手法があります。これをできていればよいのか?というと、そういうことではありません。つまり、自分の言葉で とここで言っているのは、表面的に理屈として辿れる・文言をオウム返しできる状態のことではなくて、自分の経験に根ざした自分自身の言葉と感覚的に結びついて、心からその言葉を正しいと思って、また確実にやれる・やり切るということを思ってはっきりと言えるかどうか、というような意味です。
この説明が難しい場合は、ぜひ次の記事を読んでください。特に、以下で引用した部分が、ここで言っているような言葉の意味です。単に棒読みで言われた通りのことを言っても記号接地していない状態の一例がこのような状態です。
柔道・永瀬貴規、五輪連覇の裏側。「王者でない」コーチだから見えた選手の本音と可能性
日本代表チームは、例えば海外遠征に行くと試合の前後に振り返りをする。まず選手と監督の井上康生との振り返りだ。そうすると、永瀬は金丸に、監督の井上が言った言葉をそのまま話すときがあった。
どうだった? 金丸が尋ねると「組手をこうしたほうがいいと思います」と井上に言われたとおりのことをそのまま言う。棒読みに聞こえるうえに、表情を観察すると本人はそこまで思ってはいないように見えた。
「永瀬の表情や、その言葉と言葉の“間”を汲み取らないといけないんです。彼の言葉を慎重にかみ砕いていくと、これは額面通りではないぞという発見がよくありました」
注)永瀬:東京・パリ金メダリスト、井上:全日本監督、金丸:永瀬のコーチ(敬称略)
ここで重要なのは、現時点で二連覇のオリンピックチャンピオンにあってさえ、監督の言葉がすぐには記号接地しないということです。といっても、監督の言葉を理屈として全く理解できてないとすれば、オリンピックチャンピオンがそれを繰り返すというようなことはあり得ないわけで、理解できる内容が部分的に合っているにも関わらず、不安や微妙に接続できない部分を完全に解消して自身の感覚と完全に繋がって記号接地した状態にならなければ伝わらない ということです。[1]
いま説明した例は叱るとか褒めるとかいう話ではない、もっと事実を伝えるコミュニケーションですが、叱るとか褒めるとかいう行為においても、根本的に伝わるかどうかはそれが記号接地するか否かにかかっている、ということです。
言い方を少し変えると、叱る・褒めるといった手法の良し悪し以前の問題として、単純にその内容が記号接地できるものでなければ根本的に意味がない ということです。ものすごく当たり前かもしれないのですが、この大前提を満たさない叱る・褒めるという行為が世の中には沢山あるのではないかと思ったので、それを指摘するためにこの記事を書いています。
以下、叱ることと褒めることのそれぞれで、記号接地できていない例を挙げてみます。
叱って背伸びさせる、無理やり理屈上正しいことを言わせる
これは、例えば誰の目から見ても明らかな失敗を繰り返しているケースなどです。こうしたケースにおいては、しばしば自分で腹を括って、改善することを宣言する、という方法が有効な場合があります。実際、私自身は、過去にそのような方法で何度か反省・改善を宣言してやり抜いたことがありました。しかし、これがワークしないケースもあります。例えば寝坊に対する改善を考えてみます。特殊な病気ではなくて単にゲームのやり過ぎで寝坊が頻発する人について、「寝坊しないように前日日付が変わる前には寝ます」という宣言をさせたとします。でも、一ヶ月もすると寝坊が始まる、といったことがあります。寝坊が幼稚に見えるor本当に病気なのではと気になってしまう方は、次のような事例で考えてください。顧客のメールを無視する、状況報告をしない、手が止まる状況でも相談しない、作業目的を確認せず取り違える、書いたコードを正しくテストしない、nullチェックをしなくてバグる、リストが0件でバグる、連打でバグる、比較的平易な排他制御でバグる...いずれも、実際に複数回反省させられたが全く改善定着せず、ほぼ同じ頻度で事象が繰り返すのを見かけた事例です。
本当に不思議なのが、この反省の宣言をする場においては、本人は自分の中ではそれを強く改善しようと思っていて、かつ自分が悪かった・改善すると心から思っていて、生まれ変わるぐらいの気持ちで述べているように見えるのに、実態が全く伴わないことがよくある、ということです。一般論としては嘘もあるでしょうが、私が見かけた事例では、気持ちとしては反省しているように見えるのに持続しないという事がよくありました。
このような事象は、当人の中で根本的な記号接地ができていないから生じています。つまり、表面的なその場での感情や、あるいは一般論としての道理については本人が納得していても、それが行動習慣なども含めた本人の深層的な部分も含めた記号接地には至っておらず、いわばAIのように言われたことに対して期待されるように応答しているが、実態が何もない空虚な応答をしているというような状態にあります。(ChatGPT-4oは、一時期使えなくなったときに返して欲しいと世界的な騒動が発生した"優しいモデル"ですが、このモデルはいまだに9.11と9.9の大小の説明を秒で間違えます。その"空虚さ"と似ています。ChatGPT-5も深く考えないと正しい回答ができないのか、10秒ほど考えてようやく答を出してくれます。理屈で考えてもわからない、または理屈で考えればわかるが身についている訳ではない、というような状態です。
https://chatgpt.com/share/68b37135-f0b8-8007-b8a6-77da0160d4a3 )
"偶然"できたが記号接地していない結果だけを褒める
私はごく最近まで、叱った時に背伸びさせて無理やり正しいことを言わせなければ、記号接地ができていない状態を強化する・記号接地できていないのに無理やり突き進ませるようなことはないと思っていました。しかし、褒めることによっても、(悪意なく)記号接地できていない人を無理やり突き進ませることが可能でした。
どういうことか。なんと、本人が理解できていないがうまく行ったことについて、結果だけを褒める とそうなります。実は結果だけを褒めて発生する心理的状態は、上述の理屈で正しいことを言わせた状態と似ています。というのも、叱って背伸びをさせるにしても、最終的には高揚というか、やれるよね、というのを思わせた状態で宣言させますが(やれないとその場で思っている事を言わせるのは明らかに意味がない)、褒めた場合にもやはり高揚のような感覚はあり、次もがんばろう、となります。
これは、1分間マネジャーなどでも称賛法として述べられているような内容です。
参考情報(1分間マネジャーのゲームプラン)
参考まで、新版と旧版のそれぞれで、「ゲームプラン」を引用します。
新版(https://note.com/yasuoyasuo/n/n98d3cef41e65 より孫引き)
旧版(http://jibunhack.com/7605/ より孫引き)
しかし、このとき、実は褒められた本人の中で記号接地できていなかったとしたら、どうでしょうか。確かに、その場では結果に対して「やれた」という実感は生じるでしょう。しかし、それは理屈として整理されて、自分の中で説明できる状態にはなっていません。今後、この褒められた内容の更に発展的な内容と向き合う必要が出てきたとき、この内容の記号接地ができていなかったとしたら、適切な知識を積み上げることができなくなります。つまり、成長・学習ができないということです。
下手に結果を褒めるということは、このような成長・学習の機会を奪うことになるわけです。1分間マネジャーに足りていなかったのは 部下の記号接地 の概念で、これは部下が単に上司の言ったことを文字面だけ理解して「高度なオウム返し」ができたとしてもダメということでした。
ここの見出しでは"偶然"と書きましたが、本質的なのは本人が記号接地できているか否か、ということです。例えば仕組みがしっかり出来てレールの敷かれたプロジェクトをマネジメントする場合、それが本当の意味での偶然ではなくて必然的にうまく行った事であったとしても、その成功の過程が本人の中で記号接地できていなければ、レールが外れた途端に失敗するということです。これは、メガベンチャーでは上手く行っていたがスタートアップに来たら途端に活躍できなくなるような事例などにも当てはまります。メガベンチャーでは称賛されていた"実力者"であっても、それは環境から切り離された当人の実力ではなく、実際には用意されたレールや仕組みの力が大きかったということです。
叱ることと褒めることの副作用
ところで、さきほど叱ることと褒めることの副作用を一旦割愛しました。しかし、実際には叱ることや褒めることには副作用があります。この副作用についても、代表的なものを少し説明しておきましょう。
なお、先ほど少し述べているように、叱る場合も褒める場合も、最終的には高揚に持っていく、モチベーションを高めるような動きに結びつけるような感情的作用をもたせることができて、これは正しく作用すれば行動を強める効果があります。
叱られて「正解当てゲーム」に向かう
叱られ続けると、段々と何が「正解」かがわからなくなり、その背後に存在している理屈・認知ではなくて、「正解当てゲーム」をするようになっていきます。このあたりのメカニズムについては、以前以下の記事で説明しました。
「質問しろ」「自分で考えろ」のダブルバインドのメカニズムと解消法
また、必ずしも叱るということに直結するものではないですが、叱られるような場面ではしばしば誤解や混乱が存在しており、混乱も様々な悪影響を生じます。
成功と失敗、学習と混乱 - 混乱を乗り越えるには
褒められて自尊心が強化される、「これで良いんだ」と思う
一方で褒められると、まず単純に気分が良くなりますが、その際に自尊心が強化されます。これは、本来至るべき水準に至っていない場合などは厄介で、褒められるのに結果が出ないことについて認知的不協和が生じたり、あるいはその説明を心理的に行うために事実を捻じ曲げて解釈したりといったことが発生します。そのような物の見方が固定化されると、特に自分に都合よく物事を考えるようになってしまいます。
また、そこまでの認知的不協和がない状態であっても、「この仕事はこの程度の水準で良いんだ」といったメッセージを与えてしまうことになります(意図していなかったとしても)。これは、水準を超えている場合には主体的な行動の促進として重要なことですが、水準に満たないとすれば別の問題を生じ得ます。
また別の極端な、しかしよくある事例では、早熟な勉強のできる子どもが「すごい」と言われ続ける事で、結果として受験勉強やある種のテストのような領域に限ってその才能を発揮する、というか当初夢として掲げていたような領域では才能を発揮できないといった事があります。これは先天的な能力の問題という事ではなく、本質がわかっていない過剰かつ表面的な称賛によって、変なところに連れて行かれてしまった不幸な事故です。
むすび:優秀な人には聞くだけでもいいが
ここまで、叱ることも褒めることも大前提としてコミュニケーションであり記号接地できないと通じないこと、また記号接地とは別に副作用があることについて述べました。どのようなコミュニケーション手法を使うにしても、究極的には記号接地(ないし認知の拡張・共有)をどう行っていくかということが本質であり、叱ることにも褒めることにも落とし穴がある、というのが言いたいことでした。
さて、では、叱る・褒めるという方法から根本的に離れることはできるのでしょうか。
永瀬選手について、コーチの金丸氏は、自分自身がオリンピックチャンピオンではなくてわからないので、聞くことに徹しているというようなことを書かれていました。特に優秀な人のコーチの場合は、実際にそれで良い場合もあると思います。スクラムではないですが、当人(たち)が記号接地していくスピードを最大化することが、最も効率的な状態になる。他方、育成のステージにある人は、必ずしもそうではありません。もちろん、自分自身で心の中に理論を作っていく、生きた知識を作っていくということは必要で、そのために記号接地は間違いなく必要ですが、では記号接地は叱ることや褒めること無しで聞くだけで十分な速度になるかというと、私にはわかりません。やはり、時に叱って、時に褒めて、ということは必要になるのではないかと思っています。
ただ、その場合も記号接地できるということが大前提であり、記号接地できない内容であったとすれば無意味というかマイナスだと思うので、なんらかの記号接地を促す方法は必要です。
そのためにどうすればよいか、具体的かつ統一的な答は私にはまだないですが、まあ、地道に理解を促していくしかないのだろうとは思っています。
叱る・褒めることの是非によらず、記号接地できる人が育つ
ともあれ、理想の方法が何であったとしても、現状の世界において叱られることも褒められることもどちらもあります。そうすると、受け手の心構えとして、叱られた時も褒められた時も成長に繋げられる方が効率的であるのは間違いがありません。何事も自分で記号接地しようとする。あるいは、金丸コーチのようなサポートメンバーが記号接地の手助けをする。叱る褒めるに限らず、その人の触れるあらゆる物事の記号接地を助ける事が、人の成長を手助けする効果的な教育です。チームで活動する場合においては、チーム全体でこのような機能性を担保できれば、成長を続けられます。個人・チームの双方で、記号接地を目指す在り方が、今考えられるベターかなと思います。
おしまい。
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なお、ここに書いた観点以外にも、お互いに一定の信頼関係があってさえ額面通りではないコミュニケーションが発生しうる、というのも重要な観点だと思っています。(が、この記事の主題からは外れるので割愛します) ↩︎
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