Chapter 06

第四章 コンセプト;終章 創造性の進化;おわりに;出典一覧

松井実・伊藤潤
松井実・伊藤潤
2022.08.03に更新

第四章 (p444–)

「メスの持つ適応的な遺伝子プールを保つ卵子が出会い」 (p452)

遺伝子プールは集団全体に対する概念であるので、この書き方は正しくない。 (伊藤)

「有性生殖の生物がたくさん存在しているのは、もちろんそこに適応的な優位性があってのことだ」 (p453)

有性生殖がなぜ進化したのかは非常に興味深い進化学上の課題で、未だに定説はないため、「もちろん」と言い切れるほどに(本来の意味での)適応かどうかはわからない。その証拠に、ミジンコのように有性生殖をやめて進化の袋小路に追いやられた生物もいるし、植物も多くが単為生殖に移行している。非常に長期的にはミジンコには進化的に未来がないとされていたと記憶するが、生物進化は長期的なビジョンを持たない。なので、同じ趣旨のことを書くとすれば「多細胞生物の大部分がなぜコストのかさむ有性生殖を採用しているかの解明は進化学上の難問で、いくつもの仮説が提示されているが、そのどれにも共通するのは『こんなに成功を納めているからには、きっとそのようなコストを上回る適応的な利得があるからだろう』という適応主義的な作業仮説だ」だろうか。 (松井)

「有性生殖の理由は、進化しやすくなり、環境の変化についていけるようになるためだったといわれている」 (p453)

これはWikipediaのEvolution of sexual reproductionのSpeed of evolutionの項にあるように、基本的には支持されていない仮説だと思う。有性生殖のパラドックスについては反寄生説やラチェット説など少なくとも多数の仮説が並立しており、いまだにホットな分野なので、そのうちのひとつ(しかもよりにもよって支持の薄い学説)をあげて「これのせいだといわれている」とは言うべきではないのではないだろうか。これはp462の「交配、すなわち有性生殖の獲得は、進化のスピードを加速した」にもあてはまる。 (松井)

「要するに、オスは変異のために進化の中で追加された機能なのだ」 (p454)

進化学の研究者はおそらく誰もこのようには断言しないと思う…。前述のように、オスの「発明」「機能追加」はいくつか有力な説がでるくらいには解明しているが、ひとつの仮説を定説として専門家の誰もが合意できるほどには証拠が出揃っていないので、変異のためなのかどうかは著者以外には断定しようがないはずだが。専門家の意見が聞きたい。 (松井)

「選択が発生する寿命を待つよりも」 (p460)

選択が発生するのは寿命が来たときとは限らない。生殖の際にも、受精の際にも、発生の際にも、成長の過程でも、配偶者探しの過程でも起きうる。 (松井)

「創造も交配できるのか。そうはいってもオズボーンさん、そんなの、いったいどうやるんだ。そんな声が聞こえてきそうだ。大丈夫。ここまで進化思考を一緒に探求してきたあなたなら、そのための方法はすでにあなたの手中にある。」 (p461)

既に指摘しているが、オズボーンの同書から言葉だけ引用し、所謂SCAMPERを一切無かったことにして話を進めるのは白々しすぎないか。 (伊藤)

「こうして変異と適応を往復し、その山を登るうちに[...]高みに置いてなお[...]到達できない高さ[...]初めて創造性は価値として姿を」 (p468)

著者が進化を天まで続く梯子のように崇高なものへと登っていくものととらえているのはここでの表現から明らかだ。 p61への指摘参照。 (松井)

「図17ー2」 (p468)

この図で唯一よいと思うのは、個人学習、asocial learningに比すべき「個人の遊びと好奇心」と、社会学習に比すべき「社会への価値」(やや意味不明ぎみなので、社会での篩とか、市場での試練などのほうがまだよいと思う)をわけつつも順に繋がったプロセスとしている部分だ。これは文化進化学での誘導された変異の、個人学習の試行錯誤のプロセスの中にも集団的な進化のアルゴリズムのプロセスが走っていることを示すことができるはずのものだ。ただしそもそもの前提の進化の螺旋が全面的に間違っているため、その部分に関しては作り直しが必要だ。 (松井)

終章 創造性の進化

「終章 創造性の進化」 (p472)

最終章のタイトルであるが、読んでいるうちに「創造性」がよくわからなくなる。序章では「創造」に「creation」の訳語を当てている。「創造性」の訳語は「creativity」である。「創造」「創造性」共に初出は「はじめに」である。p4「なぜ、これほどまでの作品を創造することができたのか。」、p5「実はどんな人でも、創造性を発揮する驚くべき力を秘めている。」(太字伊藤)
「はじめに」を読む限り、「誰もが「創造性」を発揮すれば何かを「創造」することができる(が「創造性」について体系的に教わっていないので充分に発揮できていない人が多いのが残念である(がだからこそ可能性がある))」というのが主張であろう。
人がもつ「創造性」のポテンシャルについて、p5「私はそう確信している。」と書いている。つまり、「創造性」を「発揮」することが重要だということだ。
前章終わりのp469「創造的であることはヒトの生存戦略そのものであり、創造性の発揮に幸せを感じるように、私たちは進化してきたのだろう。私は誰もが幸せに創造性を最大限に発揮しながら、その結果として生態系との共生が形作られる世界を見てみたい。」も同じ主張と捉え得る。
ところが、ここに至り「創造性」に「進化」が必要だ、という新しい主張が登場したのである。p478「自然に立ち返った教育の進化は、世界中の人の創造性を進化させるだろう。」というのは理解可能である。「それが進化思考の挑戦」だという。「だが歴史を振り返れば、危機的な状況を乗り越えてきたのも、また創造性の進化だった。」ということで、次に「創造性」の「進化」について書かれていることが想像される。だが、そこにあるのは「ルネサンス期の創造性の爆発は、」から始まる文である。「爆発」は「進化」ではなく「発揮」の最上級であろう。さらに「そして創造性によって社会に変化を生み出す人が、あと全世界にどれくらい増えれば、未来は今より素敵になるのだろうか。」とあり、やはり「創造性」を「発揮」することが求められている。著者によれば「進化」は「エラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す」ことだというのだが、「創造性」の「エラー的な変異と自然選択による適応を繰り返す」というのはどういうことなのか。
p479「時間を超えて創造的な仲間を増やすことは出来るのか。その成否は、創造性を体系的に学べる理論と教育を今の私たちが生み出せるかどうかにかかっている。」とあり、これは「誰もが「創造性」を発揮すれば何かを「創造」することができる(が「創造性」について体系的に教わっていないので充分に発揮できていない人が多いのが残念である(がだからこそ可能性がある))」という「はじめに」の主張と一致している。結局のところ、「創造性」を「発揮」することができるようにする「体系的」な教育を著者は志向しているのだろう。その点について異論はないが、「体系的」に学ぶことができれば良いのであって、その学ぶべき対象が「進化」する必要はない筈である。
「そして創造性の本質は、進化という現象の中にこそ眠っていると私は確信する。」というが、確信するのは各人の自由であるので、これも尊重しよう。私は同意しないがそれも自由であろう。
最後の文も「こうした未来の仲間の創造性に役立つために、私はこの本を書いた。創造性は私たちが自然から学べるものであり、私たち全員に宿った本来の力を活かす方法でもあるのだ。」となっており、「創造性」の使い方が混乱している。この文の最初の「創造性」は「創造性の発揮」とでもするべきであろう。二つ目は「創造性」という「性質」は後天的に身に付けられる「もの」だという主張である。私個人としてはやや同意しかねるが、著者の考えであるから尊重する。だが、「創造性」は「本来の力を活かす方法」ではないだろう。「創造性」が「発揮」できれば「本来の力を生かす」ことができるので、その「方法」を今まで語ってきたのだろう。
「創造性」の語の用法が一貫せず、非論理的である、と書けば終わることだったかもしれないが、「非論理的だ」とだけ指摘されて直せるくらいなら初めからそのような文を世に出さないであろうから、老婆(爺)心ながら長々書いた次第である。 (伊藤)

「生物の進化系統樹を眺めてみる。すると、その先端には人がいる」 (p472)

「無数に存在する進化の危うい頂点の一つとして」どんなに好意的に解釈しても、誤解を招く表現と言わざるを得ない。その先端にはみみずもいるし、著者の嫌う寄生者もいるし、シーラカンスもいるのだが、それを読者に感じさせる表現とは言いにくい。この表現と先述の梯子状の進化の理解をあわせて読めば、人間「のみ」が頂点にいる進化の図を想像する読者も多いのではないかと思う。 (松井)

「かつてリチャード・ドーキンスは、個体が種全体を保存する本能(群淘汰)を否定し、個体の利己性が進化を生み出すと説いた」 (p474)

誤り。遺伝子の利己性、個体の利他性という題名にするべきだったかと後悔している、とドーキンスが述べている(たしか)とおり、個体は遺伝子にとって利己的である範囲内に限られるものの利他性を獲得できる、というのがドーキンスの主張である。著者は利己的な遺伝子を読んでいないか、満足に理解できていない。 (松井)

出典一覧

「図1-1 Cattel, Theoretical life span curves of intellectual ability, 1987をもとに著者作成」(p496)

とあるが、まず書籍のページ数が書いていない時点で出典の書き方として正しくない。さらに著者のファミリーネーム(姓)だけしか書いていないのもまずい。図0-1では「Marc Pascual」とフルネームで書き、図0-2では「E. Haeckel, E. H. P. August」とファミリーネーム以外を頭文字で略している。図1-2は図1-1同様に「Blockland」とファミリーネームのみである。さらに図1-3は「Dr. J. Sobotta」と「Dr.」の敬称が付いてしまった。流石に面倒なので調べていないが、他にも博士号持ちの著者は沢山いるであろう。少なくともレイモンド・キャッテルは1929年に心理学の博士号を取得しているため、「Dr.」の敬称を付けてもよいことになるが、そもそも文献リストでは「Dr.」の敬称は付けないのが普通である。
なお、図0-2の「E. Haeckel, E. H. P. August」のように2人の場合(3人以上の場合は最後の2人)はカンマではなくandで繋ぐのが、学術論文に限らず一般的な英文のルールである(APAスタイルのように&で繋ぐ場合もある)。<本文>の10(p499)ではちゃんと「Lydia Ramsey Pflanzer and Samantha Lee」とandで繋ぐことができているのはご愛嬌というか、たまたま引用元がそうなっていたのだろう。
と、ここで気付いたのだが、図0-2はハッケルの単著の本の図であり、「E. H. P. A. Haeckel」となる筈である。何をどう参照し損なうと「E. Haeckel, E. H. P. August」と謎のカンマが登場し、あたかも複数著者のような書式になってしまうのだろうか?(そして最早些末なことのようにも思えてくるが、このレイモンド・キャッテル博士の綴りは「Cattel」ではなく「Cattell」である)
統一性どころか、ありとあらゆる書式を使っている。滅茶苦茶である。
おそらく適当にググっただけなのであろう。所謂「孫引き」というやつである。
本文の出典も、25、35、49、56のように稀にページ数が書いてあるものもあるが、基本的には一次資料を確認していないことが明らかである。
コロナ禍で図書館などへの物理的なアクセスが困難であった、ということはあり得るが、それは世界中の人が同じ状況下にあるため、言い訳にはならない。

出典の書き方については、分野や学会によって形式は様々であるが、重要なのは同じ本や論文、レポートの中で書式を統一することである。「特に学会にも所属していないし専門分野もまだ決まっていない」という場合は差し当たり国立研究開発法人科学技術振興機構が制定した科学技術情報流通技術基準(SIST)の小冊子「参照文献の書き方」の書式にでも倣えば良いだろう。(伊藤、2022-08-03追記)

さてこの図0-2の出典は、図の名前を「Theoretical life span curves of intellectual ability」としていることから、
Roberto Colom, Intellectual abilities, Handbook of Clinical Neurology, 2020. vol. 173, pp. 109-120.
であると推測される。厳密にはこの記事はAbstractとReferencesしかネット上では確認できないため、このPreprint版(2019)を参照したと思われる。そのどちらの文献においても、図の出典は、「Cattell, R. B. (1987). Intelligence; Its Structure, Growth and Action. North-Holland.」となっているのである。せめてそれくらいは正しい情報を読者に提供する努力をして欲しいものだ。その文献のp206のfig. 7.11.が元の図であり、本来のタイトルは
「Derivation of phenotypic from genotypic maturational process illustrated by investment theory of fluid into crystallized intelligence.」である。(伊藤)

(伊藤、2022-08-01修正(以降の内容を第一章に移動))