Chapter 03

第一章 進化と思考の構造

松井実・伊藤潤
松井実・伊藤潤
2022.08.24に更新

「狂人性と流動性知能性の一致をここに見ることができる」(p31)

狂人性は犯罪を犯すことと同義となってしまう。p30の定義「人のやらないことをやること、すなわち常識からの変異度を指している」と違う。 (伊藤、2022-08-01定義の引用元を追記)

さらに調べていく中で発見した興味深い事実は、図1-2(33頁)のように、この流動性知能の曲線が、犯罪をどの年齢で犯しやすいかを調査した「年齢犯罪曲線」のピークとほぼ一致することだ。

(伊藤、2022-08-01修正(以降の内容を第四章最後の出典一覧から移動))

元のグラフと思われるもの(グラフの出典元については出典一覧にて述べる)を以下に示す。読み取りやすくするためにシアンとマゼンタの線を加えた。
キャッテルの「流動性知能」の曲線のピークは15歳から16歳の間である。

一方、「年齢犯罪曲線」のピークは19歳である。16歳は29歳くらいと同じ水準であり、19歳のピークの6割くらいである。

これを「ほぼ一致する」と言い得るかというとかなり苦しいだろう。3歳しか違わないではないか、ということかもしれないが、それを言うならば、10代後半にピークを迎え、その後ゆるやかに衰えるというデータは無数に存在しそうである。(伊藤)

p33: この図はspurious correlationの一種だと言われても反論できないのではないだろうか。単なる偶然の一致では、という当然沸き起こる疑問に答えられていない。無理やり説明すれば、開放性のピークと同調性の低さが若年期に重なる、と言えなくもない。 (松井)

「現在よく知られている『感覚的な右脳』と『論理的な左脳』」 (p38)

右脳左脳論は俗説であるとされている。 (松井)

p42: 個人の頭の中での発散と収束を、変異と適応に言い換えているようだが生物での変異も適応も集団的な現象であることがまるまる抜けている。 (松井)

p42: ランダムに動く不規則性(狂人性=変異の思考)」と周囲の食物に対する近くの2つのプログラムにおける、最小の組み合わせ (松井)

「走性」 (p42)

は「適応的な知覚」のみを指す。ランダムに動くことは「走性」とは呼ばない。 (伊藤)

p43: 適応を「あらゆる生物」が、「不思議なほど、形態や行動、身体機能などが、その生存戦略とうまく合致している」ことを指しているとする。適応はその生物が環境の提供する諸条件への合致であり、生存戦略との合致ではない。また、あらゆる生物が適応的であるわけではない。 (松井)

p44: 種の起原がダーウィンとウォレスによって発表されたということになっている。p270図14-3, p274も。これは著者から「誤植だ」とのコメントがあったが、投稿時点ではErrataには更新されていないようだ。 (松井)

「生物は、遺伝するときに個体の変異を繰り返す」 (p44)

遺伝するとき?個体は変異しない。生物も変異しない。遺伝子が変異する。また、変異は基本的に一度きりだと思う。「生物の設計書の一部である遺伝子は、継承されるプロセスの途中(多くはコピーの途中)でごくまれに変異することがある」ならよいと思う。 (松井)

「自然のふるいによって、適応性の高い個体が残りやすい」 (p44)

自然のふるいによって、というよりも、「残りやすい」ということがそもそもふるいなので、なんとも。「そのような変異の中には、個体の適応度を高めるものや、逆に低くするものがある」ならよいと思う。 (松井)

「形態の進化:世代を繰り返すと、細部まで適応した形態に行き着く」 (p44)

意味不明。削除したほうがよいのでは。 (松井)

「種の分化:住む場所や生存戦略の違いが発生すると、種が分化していく」 (p44)

どういうことだろう。これは「進化論の構造」ではないと思うのだが。種の分化は進化の結果のひとつであって、進化に必須のものではないと理解しているがどうなのだろう。種の分化は生存戦略の違いによって発生するものではないのでは…。ボス猿とベータオスは生存戦略(というか、振る舞い全般)がかなり違うが同じ種だ。オスとメスでもかなり違う。種の分化は至近要因としては遺伝子距離の乖離によってうまれるし、究極要因としては地殻変動などの環境変動があげられると思うがどうか。 (松井)

「生物の形態は[...]自然に発生したことを論理的に証明した」 (p44)

p122「自然発生することはないと証明した」p174 「白い光になることを証明した」p250 「パターン形成仮説が分子生物学的にも証明された」 p270「ダーウィンらは、論の構成とその証明に慎重を期して」「ダーウィンらの進化論を証明する科学的証拠は」p274「間違いが証明されてしまう」p460「進化論の証明に繋げていく本なのだ」 科学的仮説に対して証明という言葉を多用しているが全て間違い。証明は数学のような形式科学において命題に対してなされる。検証されたとか確かめられた、であれば問題ないだろう。この区別は非学術系の読者にはどうでもよいかもしれないが、どうでもよくない者にとっては、シリコンとシリコーンの混同、JavaとJavaScriptの混同、ガソリンと灯油をごちゃまぜにするようなものだ。そして、人はたいていガソリンと灯油をごちゃまぜにするバス運転手のバスには乗りたくないものだし、もし乗ろうとしている人がいれば止めたくなるものだ。 (松井)

p44: そもそもダーウィンは進化論を確立したとは言えないのではないだろうか。その論は穴ぼこだらけであり、いくつかの反論にその当時の知見では答えられなかったのだと理解している。(松井)

初期の進化論は、ダーウィンの仮説に見られるように、画期的ではあったが、事実かどうか検証するのに必要な証拠が十分に無いままに主張されていた面もあった -Wikipedia

「道具とは何か。それは擬似的な進化だ」 (p47)

デザインは進化するが人工物は進化しない。道具は進化の主体ではない。擬似的なものでもない。 (松井)

「創造性は、疑似的な進化を人類にもたらしてきたのだ。」 (p47)

ここでの箸のような合目的な身体の拡張は「創造性=狂人性(変異の思考)+秀才性(適応の思考)」と言えるだろうか。フグや納豆を最初に食べる、は狂人性が必要かもしれない。 (伊藤)

「創造とは、言語によって発現した『疑似進化』の能力である」 (p48)

人間のデザインは進化であって疑似進化ではない。疑似というタグをつければ科学的に妥当でない牽強付会のアナロジーを展開しても問題ないことにはならない。「もし言語が文化の進化のカギを握っており、ネアンデルタール人が言語を持っていたとしたら、彼らの道具はなぜ文化的な変化をほとんど見せなかったのだろう?(マット・リドレー『繁栄』p100)」 (松井)

「創造とは、言語によって発現した『疑似進化』の能力である。」 (p48)

言語はどこから出てきたのか? (伊藤)

「進化は、(中略)自然発生する創造的な現象だ。」 (p50)

「創造的」の定義が不明 (伊藤)

「おまじないレベルの発想法が横行していて」 (p53)

素敵表現 (伊藤)

「創造は、進化と同じく変異と適応の繰り返しによって生まれる」 (p54)

生物進化のことを単に進化と呼んでいるのだとしたら、略さず生物進化と書くべきだと思う。生物の進化は進化というクラスの1インスタンスである。 (松井)

「自然のように考える」 (p54)

自然という環境は「考え」たりはしない。考えたり学習したりしている「かのように」ふるまうことはあっても。 (松井)

「進化における生物の知的構造と同じように」 (p54)

著者が「進化における生物の知的構造」で何を意味しているのかを理解している自信がないが、進化する生物の遺伝子に知的構造を認めなくても(遺伝子じたいは当然考えることができないので)、遺伝子は進化する、というのが進化学の考え方だ。そのため、完全に間違った記述としか解釈できない。私のこの解釈が完全に誤解であるか、著者が進化を全く理解できていないかのふたつにひとつである。 (松井)

「適応によって自然選択する」 (p54)

意味がわからない。進化学における適応は自然選択の結果生まれる環境への適応のことであって、適応によって自然選択する、というのは…何を意味しているのだろう…?よくいって怪文である。 (松井)

「自然に則った形でその構造を捉えられる」 (p54)

どの構造?自然に則るとは?何かアイディアを考えるときに、自然に則っているかどうかはどのように判断するのだろうか。 (松井)

「変異を生み出すミクロな構造と、適応性によって自然選択されるマクロな構造は、そもそもまったく質が異なる」 (p55)

この記述じたいはかなり(完全に、とは言えない、適応性が何を指すのかがわからないので、せめて適応度fitnessの差によって自然選択される、としてほしい)正しい記述だと思う。このミクロ(分子レベルの、どこまで大きく見積もっても表現型レベルの)な変異・マクロ(というか集団的)な自然選択、という区別は、本書を通して維持してほしかった。残念ながら、きちんと書かれているのはこの一文を含めごく一部である。 (松井)

p56: 適応と自然選択と変異に関する暗闇での玉入れアナロジー 懐中電灯で照らすのが適応で、玉投げが変異、自然選択は…適応が「わかる」とおのずと発生するらしい。理解が追いつかない。ここではカゴではなく、進化学でよく用いられる適応度地形fitness landscapeを使ったほうがよいのではないだおるか。すでに非常によく使われ、有用であることが知られている(車輪的な)考えを援用するのではなく、より不正確で理解が浅い自前の考えを使うことで読者を一層混乱させているという意味で、車輪の再発明よりも悪い。framework is like a toothbrush; everyone has one, but nobody wants to use anybody else's. (松井)

「懐中電灯が『適応』を」 (p57)

表している、というのが適応思考であるとしたら、適応思考は進化学で言うところの適応とは無関係である。デザインの淘汰には、生物進化とはやや異なる淘汰のフェーズがある。遺伝子プールの大きさは任意の集団にとって考えられるのと同様、大きなスケールでは、市場などの資源をめぐる大規模なシェア争いがあり、いわゆるダーウィニスティックな競争が大きな集団レベルで行われる。あるスマホのモデルが他社のスマホモデルのシェアを食ってしまう、など。これはデザインにとっては「本番」の淘汰環境である。野に放たれたデザイン案の成否を握るのは多数の、財布を握った消費者によるドル投票であったり、ある部署が提案したものが社内の他部署に拒絶されるような企業内などでの淘汰もあるだろう。あるプロジェクトである人が提案した案ではなくもうひとりの同僚の提案した案が採用されるようなデザイン室での淘汰もありえる。これは実験的な淘汰であり、いわば品種改良する際などの「誘導的な変異guided variation」であるが、同時に「これを市場という野に放ったらこのような反応があるはずだ」という、より大きな規模でのバイアス(選択ともいう)の予測をしている点で、前述の「本番」とは違う、実験的な、模擬的な環境である。意識的に行われるなかではおそらく最も小さな実験室による耐久試験が、個々人のなかにある。ここではいくつものアイディアが生まれるが、実現性や面白さ、伝えやすさ、他人に伝えたときの評価など様々な要素が勘案され、問題がないと判断されたときのみ、口や手などを伝って体外に漏れ出る。そのため、もし「意志をもって、意図をもって、方向性をもって新しいデザイン案を考えつく」ことを懐中電灯でたとえているのならば、それは誘導的な変異であって、適応ではない。繰り返すが、自然選択は集団的な現象であって、ここでいう自然選択とか適応がどのレベルの単位(どのフェーズのアイディアなのか)なのかを説明しない限り理解できない。 (松井)

「新しい玉を無数に投げてエラーを起こしつづけなければ絶対に達成できない」 (p57)

これもよくわからない。 (松井)

「変異的に玉を投げ続ける人は、いつのまにかコントロールが良くな[る]」 (p57)

よくわからない。変異するだけでなぜコントロールがよくなるのか?適応度地形において、生物(より正確には生物の遺伝子)は適応度地形の全体を理解していなくても、一部さえ理解していなくても、適応度地形のより高いところへ登っていけるのが生物進化のアルゴリズムのプロセスとしての根幹である。それに対して、たしかに人間による文化形質の創造においては、ある程度適応度地形を理解していることがある(たとえば、鉄ではなくチタンを使えば同じ重さで強くできる、など。さらに高度に、スマホを薄くすればより売れる、などの理解もありうるだろう)。そのため方向性をもたせた変異、「誘導された変異」を生み出すことが可能な場合がある。このように適応度地形を不完全ながらも把握(コントロールがよくなる現象)できるためには様々な筋道があるが、たしかに教育や訓練によって適応度地形を他の人よりもより正確に把握できるようになることはある。しかしそれは「変異的に玉を投げ続ける人」だからとは限らない。その意味で、「リサーチだけで創造を生み出すのは不可能」と断言する意味がよくわからない。リサーチも適応度地形の(より)正確な把握には役立つことがありうる。ランダムな、あてずっぽうな変異に関しては、意図しないコピーミスなどの「文化的変異cultural mutation」という概念があるが、ここでのカゴの考えとはかなり違った考えであるように思うので割愛する。 (松井)

p57: 物質文化における自然選択に比するべきものはドル投票、つまり市場での受容だと思う(他にも、生殖や発生の時点での自然選択に比するべきものとして前述のデザイン室内や発案者個々人の脳内から外へでるときの自然選択はある)のだが、そうではなくアイディア発想段階で「おのずと生じる」「必然的に起こる」とされているのがよくわからない。 (松井)

「創造的な人の脳内ではこの往復が暗黙的に行われていて、吟味された発想が飛び出すから」 (p57)

非常に惜しいところまできていると感じる。ここで著者が「吟味」と表現するプロセスはたしかに生物進化における自然選択に比することのできる、文化・アイディアがフィルター=ふるいにかかるプロセスのひとつだ。しかし真に進化的に思考するなら、もっと集団的思考を織り込んだほうがよいと思う。いくつもの対立するアイディアの集団がある人の脳内にあるとしよう(集団)。脳内にあるアイディアたちのうち、実際に人に伝えたり(伝達、社会学習)、より磨き上げたり(個体学習)することのできるアイディアは少数だ。どれを選択してお話しようか/磨き上げようか、という吟味をして選ばれてから、次のステップ(他人に伝達したり、個体学習として試行錯誤するプロセス)に移る(継承)、というような説明ができるだろう。
この吟味は、アイディアが市場で成功するかとか、アイディアが社内で承認されるかとかの適応度地形上の争いではなく、個人の頭の中での適応度地形上の争いなので、文化小進化よりもさらにミクロなすステージでの進化であり、ミーム学以来あまり、というかろくにとりあげられていない分野でもある。こここそがまさにデザイン・創造性の観点から文化進化にアプローチする際の独自性になるのではないかという気もする(し、そうでないかもしれない…。ノーエビデンス)。

なんにせよ、カゴと球のアナロジーは進化の観点からいうと絶望的にわかりにくいというか端的に言えば完全に間違っているのでぜひとも改善を望む。 (松井[1])

「新しい球を無数に投げてエラーを起こし続けなければ」 (p57)

「コントロールが良」いかどうか、はエラーの発生率の問題であるが、あらゆる可能性を試す、あるいはパラメーターを変化させる、のが「当てずっぽうでも玉を投げまくる」ことである (伊藤)

「イノベーションを目指すさまざまな現場での間違い」 (p58)

はいくらなんでも藁人形論法ではないだろうか。 (松井)

「卵の産卵数が多いほど生存可能性が上がる」 (p59)

ではなぜ人間の女性は毎年1億の子を産まないのだろう?めちゃくちゃな記述である。 (松井)

p59: #進化思考 より #MCMC思考 のほうが近いのでは…試行、評価関数による吟味(ただしこの評価関数がとてもノイジー)、確率的な移動、また試行、吟味、確率的な移動などの概念が説明できる。 そのサイクルが速いほうが「新しい可能性にたどり着く確率を上げる(p59)」のは確か (松井)

「まさに進化論のプロセスの図示そのものだ」 (p60)

なぜ「振り子」ではなく螺旋なのか
中心軸からの距離は何を表しているのか、縦軸のGenerationが等間隔でないのはなぜか (伊藤)

p61: 進化の螺旋 「まさに進化論のプロセスの図示そのもの」 なぜ適応側でも枝分かれしているのかわからない。同様に、変異側でもバツ印はついていないにしても剪定が起きている。単に、枝分かれ=変異、剪定=適応なら非常にわかりやすい。しかしこの図はそうなっておらず、適応側でも変異側でも枝分かれと剪定が起きている。
「最適に向かうデザインの収束」が生物進化とはかけ離れている。(さまざまな局所)最適に向かうデザインの発散、枝分かれが進化と理解しているが。これでは樹状になっているとは言い難く、ダーウィン以前の、梯子を登っていくかのように単純→複雑に、よりよくなっていくというチェインモデルの側面を強調したもののように思える。
進化とは「どんなものでもさらに良くできる(p60)」ことらしいのだが、それは進化ではない。生物を死に至らしめる有害変異も進化の重要なプロセスの一部だ。全体的に「進化とは進歩で、よりよくなっていく梯子を登る行為」というダーウィン以前の考えで創造を説明している。cf. p468への指摘 (松井[2])

脚注
  1. 2022-08-24: 表現を大幅に修正 ↩︎

  2. 2022-08-24: やや読みにくいので細部を変更 ↩︎