Chapter 05

第三章 適応

松井実・伊藤潤
松井実・伊藤潤
2022.08.01に更新

WHY

「失敗するくらいなら、やらないほうがまし」 (p206)

変化の回避は創造性を阻害する、ということらしい。それはそうかもしれないが、進化は(基本的には)変化を嫌う。そのため、失敗するくらいならやらないほうがましだと考えるのは進化によって得られる自然な判断ともいえる。ヒトの進化においても、進化適応環境EEAではrisk aversion的なバイアスを進化の途上で獲得したらしい。それが生存などに関わらない起業などでも発揮されてしまっているため、もっと起業すればいいのにという意味でrisk takingな行動を勧めることがある。つまり、本能的に勘定するリスクは過大評価しがちなので、努めてその感覚に抗って、「怖く思えるけれど、実際のリスクは今私が感じているものよりも矮小なはずだ」と思えるかが成功の鍵となる、という研究がある。 (松井)

「ルール」 (p206)

が唐突に登場した。 (伊藤)

「思い込みの発生だ。思い込んでしまうと、わかったつもりになって、実はわかっていない自分に気づかなくなる。だから自分とは違うものの見方をする人を見ると、相手が間違っていると考えてしまう。」 (p207)

この文で締め括りたい。 (伊藤)

p208: ティンバーゲンの4つのなぜ 解剖生理学とは…?個体発生学を解剖として統合するのは無理がある。発生生物学は解剖の一分野ではない。適応はティンバーゲンの4つのなぜにあてはめれば静的な究極要因にあたる。適応を観察するために予測を加えるのはどういう理由で?ティンバーゲンの4つのなぜは動物の行動behaviorを対象にしていて、適応は「この行動にはどのような繁殖・生存上の利益があるのだろうか、という適応の観点からある行動を分析(リバース・エンジニアリング)する」ということであって、「この適応を解剖しよう」とか「この適応を系統にあてはめよう」ということではない。ほとんどあらゆる動物行動は適応の結果であるからといって、ティンバーゲンの4つのなぜが適応を対象にしているということにはならない気がする。学習learningをあてているが、ティンバーゲンの4つのなぜは探究studyingのほうが近いのではないか。時空観とは?結局、著者の提案する「時空観マップ」とティンバーゲンの4つのなぜには関連はあまりないといわざるをえない。用語の借用と、用語の奥にあるコンセプトの援用には深い溝がある。別物として捉えなければいつまでもティンバーゲンの4つのなぜの表との対応を見出せず苦しむことになる。 (松井)

「4つの観点が揃うことで初めて、現在の事象を網羅的に理解できる」 (p208)

進化生物学は基本的には未来をうまく予測しないので、現代の生物学は生物を網羅的に理解できないということだろうか。 (松井)

「系統樹」 (p208)

からもその先は「予測」できよう。ミクロ-マクロと過去ー未来の2軸を設定しているが、「解剖」も「生態」も直近でも現在のことであり、現在のことは1秒後には過去となる。基本的にはいずれも過去におこった出来事を理解するためにおこなうことである。「予測」だけが次元が違うので、同列に扱うこと自体無理がある。
そもそも、「観測」や「理解」はこれからの「未来」を「予測」するために行っているといってもよいと思う。 (伊藤)

p210: 外部ー内部、過去ー未来の2軸自体はよくできていると思うので、生物学の「援用」は全く必要ない。「予測」は生物学ではない。 (伊藤)

「時空観学習を義務教育へ」 (p212)

ぼくのかんがえたさいきょうの教育法だ。EM菌、江戸しぐさ、水の記憶の類だ。本書のように完全に間違った進化学の理解を子どもに教えるのだけはやめてほしい。自己啓発スピリチュアルデザインセミナーはそれ相応の聴衆が(主に企業などに)いるはずだ。疑似科学は20歳になってから (松井)

1 解剖 (p216–)

「生物学における解剖は、次の三つの考え方に大別できる。」 (p223)

根拠が不明。形態学的な解剖につきると思うが。少なくとも「3 要素がどのように発生するのかを理解する―発生学的な解剖」は時間軸に沿った「形態学的な解剖」ではないか。 (伊藤)

p226: 生物も無生物もコンポーネントを交換できるということになっているが、交換可能なモジュールの単位として臓器をだしてくるのはさすがに無理がある。臓器交換も(あとはたとえば輸血なども)自然科学の発展によって人工的に、無理やり、交換できるようにしたのであって、生物全般でいえば臓器は交換不可能なものの代表である。逆になにであれば交換可能なのかといえばたとえば細胞であって(とはいえ色々条件が揃わないと正常に交換できないが)、細胞というモジュールを壊してはまた新しい細胞を作っている。造血幹細胞など。臓器は不全に陥れば基本的に死あるのみ。ヤドカリの殻も交換可能か。モジュールと言えるかは怪しい。蟻は足を失えば一生足を失っている。 (松井)

p228: 解剖生理学が生物学の一分野とされているが、医学ではないだろうか (松井)

「アプリをクリックすればソフトウェアが立ち上がる」 (p228)

著者が誤解しているとは思わないが、クリックするのはアイコンであり、アプリはソフトウェアである。 (伊藤)

p230: 目的のベクトルとは?目的のベクトルで繋がるとは? (松井)

p230: 目的の入れ子構造 この記述自体は正しいと思う。しかしここでは解剖をとりあげており、個体発生学と生物の機構というHOWを問う観点を(「解剖生理学」)を解剖として集めているのだから、目的(機能、適応的な視点)はスコープ外のはず。「なぜこの人工物(テーブル)はこういう機能(「平面を提供するため」「モノを置くため」「食事を便利に扱うため」)があるのか?」を考えるのは機能・適応を考えるフェーズでやるはず。つまりこのパラグラフは「生態」のところで展開するべきだったのではないだろうか。ティンバーゲンの4つのなぜを自ら取り上げているが、正確に援用できていない。ティンバーゲンの4つのなぜは、対象を深く知るためのフレームワークであって、対象を改善するためのフレームワークではない。深く知ることで改善に結びつけることができる、という主張はよくわかるし私もそのとおりだと思うが、「対象を知る」と「対象を改善する」はそれこそ混じり合うことのない、振り子の両極端だと思う。 (松井)

p236: 自然選択としての張力 そんなものはない。物質や構造が十分な時間をかけるとある安定な形状に落ち着くことは確かにあるし、それが自然によるデザインであるということができるということに関してはよいと思うが、それと進化学における、集団を篩にかける自然選択を結びつけるのは無理がある。皮肉でもなんでもなく、この「自然選択」アイコンはなんのためにつけているのだろう?カッコつけだろうか…。学術用語を適当に散りばめればカッコがつくとは私には思えないのだが。 (松井)

p239: サグラダファミリアのカテナリー曲線について。カテナリー曲線はロープを垂らしたときの曲線であって、ガウディが有名な鎖や糸と重りで模型を作ったのはカテノイド(曲面)である。さらに、鎖でできた模型はカサ・ミラに展示されている模型、もしくはコロニア・グエル教会のためのものではないか。紐をたくさん垂らした、という記述からはおそらく紐と重りをつけた模型のことを指しているのかと思うが、こちらもコロニア・グエル教会のための模型で、サグラダ・ファミリアの設計のためであることが明らかなポリフニクラ構造の模型は私は知らない(サグラダ・ファミリアにカテナリー曲線が使われていない、という意味では ない 。ガウディの当初のデザインでは確かにカテナリー曲線を使うことに構造的な利点があった可能性は高いが、工事が遅延するのに伴って建設に応用できる技術も進展し、現在ではより簡便で低コストで高性能なカテナリー曲線とは似ても似つかない直線的なコンクリート構造の上に、装飾的にカテナリー曲線を模している(まさに先述の、騙しの要素のある擬態の一様態)という大変に教訓的な事態に陥っていることにも、建築意匠出身の者としては触れてほしかった。 (松井)

p239: カテナリー曲線や泡の張力は生物学の文脈で言うところの自然選択とは全く関係がない。集団的な思考が欠如しているのは本書の大きな欠点で、もし泡の形態が自然選択の産物であると論じたいのなら、たとえば泡一つ一つを無理やり生物個体に準じる個体に見立て、それらにバリエーションがあり(これは実際生じるだろう。大きさや位置、形、不純物の具合など)そのバリエーションによって泡の生存率に差があり(これも一応ありうる。不純物が多い泡は潰れやすい、など)、もしくは繁殖率に差があり(これはありえない。泡は繁殖しないし、一度できたら静的な環境であれば基本的には個体数は減るばかりだから。常に外部から泡を発生させ続ける機構があれば別である)、しかもその特徴が次の世代に継承されなければいけない(タイムステップを区切れば無理やりある時点t=t_0からt=t_1まで継承された、といえなくもないが…。しかしもし先述の通り外部の泡発生機構を想定するなら、ある「うまくいった硬くて長持ちする泡の、その硬さや長持ちを維持する要素が外部の泡発生機構にフィードバック」されなければいけない。これは考えつかないため、泡が進化すると考えることは基本的に無理であろう)、ということを論じなければいけない。このように、裏付けとなるメカニズムの精査なしに理論の適用範囲を闇雲に広げてもアナロジーが弱まるだけでなく、牽強付会の印象を与えるだけではないだろうか。 (松井)

p239: 放散虫 ↑のことと、放散虫などの生物の形状に泡のような構造が現れることの間に関連はない。泡は最小の材料で作れるので、進化状も有利の構造となりうる、という記述はそのとおりだと思うが、だからといって張力が直接自然選択と関係があるわけではない。同じ物理法則に従うこの宇宙で、1)自然選択が最小の材料で作れるようなある特定の形をfavorした結果似たような構造が生物にも非生物にも現れたか、2)発生の際に泡と同様のメカニズムで構造をつくるように進化したか、その両方であるだけで、張力が自然選択の決定要因であるわけではない。この反論の記述そのものが意味のわからない文章になってしまっているが、本書にそのように書かれているのだから仕方ない。生物の「形態はどのようにして決まるのか」に対して、「張力こそが、あらゆる形態を決定する鍵となるのだ」と記述されている限り、反論はこのような書き方になる。張力はあらゆる形態を決定する鍵とはならない。 (松井)

「張力観」 (p240)

という感覚を否定はしないが、さすがに文字のカーニングとカーデザイナーの空力に対する感覚を一緒にするのは無理がないか。そもそも科学的な泡やカテナリー曲線などの記述に続けて「張力観」という視覚的な感覚の話を続けてしまうことで、一気に擬似科学感が発生してしまっている。 (伊藤)

p241: 最適化 自然の世界での最適化(エネルギー最小化)と、自然選択による最適化と、人工物の改善プロセスでの最適化(なにかの(多くの場合数値的な)評価基準を改善するための方策)は似ている点よりも異なる点のほうが多い。自然の世界での最適化は、自己組織化のような条件が揃えば自ずと独特の形態をとり、それがあるパターンを形成する、というものだろうし、自然選択による最適化は適応度地形上を変異によって探索するプロセス(最適をめざすのであって最適であるわけではない。進化は完璧な生物を産まないというのは本書の指摘する通り)だし、人工物改善プロセスでの最適化は境界条件をはっきりさせたのちの(つまり問題設定がはっきりしており、ある数値を改善するためにチューニングできる変数も多くの場合限定される)試行錯誤プロセスで、問題設定次第では厳密最適解にたどり着ける場合もあるだろう。しかし本書ではこれらは明確に区別されておらず、「自然界には最小になろうとする小さな圧力がまんべんなく働いている」という曖昧な説明がされる。何が最小化されるのだろうか?たとえば煙は放っておけばどんどん拡散する。星は引力により大きくなる。生物も自然界に含めるのであれば、子どもは大きくなるし恐竜のなかには極めて大きくなるよう進化したものがいる。先述したように、無生物自然界であればエネルギーを最小化する方向にダイナミクスが働くという説明がされることが多いと思うが、生物・遺伝子の場合は自身の適応度を最大化するようなダイナミクスが働くというべきだろう。 (松井)

「進化のなかでは、不要な部位はいつかなくなる」 (p241)

これは誤りだろう。何をもって不要とみなすのかも曖昧で、なるべく正確に表現すれば「適応度の向上に直接貢献する部位をさしおいてその部位をつくるにはコストがかかるのに、その部位はコストに見合う適応度の向上が見られない場合、その部位を不要な部位とよぶ」ということだろう。そうだとしても、不要な部位はいつかなくなるには「不要な」部位をなくすような変異が起き、しかもその変異がその個体の適応度を顕著に害さない必要がある。その両方を進化プロセスは保証しない。直後に例示されるヒト(より正確にはヒト上科か?)にはもうない尻尾は「不要だから」ではなく、いわばコストパフォーマンスが悪かったために(つまり尻尾の提供するベネフィットが尻尾を持つことによる適応度低下リスクを下回ったために)たまたま起きた変異に十分な正の自然淘汰圧がかかったと考えるほうがよいのではないだろうか。 (松井)

「生物の形態進化の過程には絶えず、減らす負圧がかかりつづけている」 (p241)

それはそうかもしれないが、より強く、より大きく、より多い子孫を残し、と「増やす」正圧も場合によってはかかりつづけているので、負圧のみを取り上げることにさしたる意味はないように思う。 (松井)

「オリーブの木は、大まかに分類すると実・葉・枝・根・花の五種類の構造」 (p241)

幹は枝と同じものという認識だろうか。著者は植物の専門家ではないので仕方ないが、形態を考える際は地上部はshoot(苗条)を単位として考える。発生する葉や花弁をshootの一部と考えるか、別物と考えるかは人によるかもしれない。 (伊藤)

「生物の構成は現在の人工物よりも、はるかに効率的かつ美しくできている」 (p242)

そういう部分ももちろんあるだろうが、生物は進化という厄介なプロセスのせいで無駄だらけの設計になっていることに言及しないのはやや自然選択贔屓と感じる。たとえばヒトの網膜と血管のとんでもない位置関係(そのせいで脳での画像処理と盲点が生じる)。またそのような無駄・設計ミスが適応度を左右するレベルになっても改修がなされにくいのも、設計ミスの上でのさらなる新設計の積み重ねによって発生の根幹部分を変更できない(そういう変異が起きる可能性じたいはあるが、あまりに根本を変更するためほとんど確実にほかの部位で重大な欠陥が生じて淘汰されてしまう)という生物特有の宿痾で、人工物の創造はその宿痾からかなり解放されていることに言及したほうがよかったのではないだろうか。いずれにせよ、「無駄のない生物・無駄だらけの人工物」という二項対立はやや一面的という印象を受ける。 (松井)

「デザイン的観点から見れば、どちらが優れているかは明白だろう。」 (p242)

デザインを著者は「最小の形態によって美しい関係を生み出すこと」p240と定義しているが、「美しい関係」にはコストは含まれないのだろうか。それはともかく、オリーブの木と扇風機はそもそも機能が異なるので比較対象とすること自体無理がある。 (伊藤)

「シナジーという言葉は、シナジェティクスから来ている」 (p244)

おそらく確実に誤り。ngram english etymology (松井)

p244: ここでの著者の主張はつぎのうちどれだろうか。a)人工物はなるべくミニマルな見た目である「べきだ」という(私を含めた)デザイナーに広く受け容れられている教条を伝えたい。b)人工物は生物や非生物自然物同様に時が経つにつれミニマルな見た目になるのだ、という一般的な法則をアナロジーとして伝えたい。c)人工物を創造する際、生物の進化と同様に製造の無駄や部材の無駄を省く「べきだ」という教条を伝えたい。d) 人工物は生物や非生物自然物同様に時が経つにつれ無駄が省かれるのだ、という一般的な法則をアナロジーとして伝えたい。さすがにaではないと信じたいが、もしそうであれば著者のあげるようなラムスやアイブのミニマリズムと最適化・無駄の削減にはさしたる関係がないと私は思う。装飾としてのミニマリズムはその製造に多くの無駄が生じる(たとえば例に挙げられているMacBookはとても生産効率の悪いCNC削り出しで作られている)し、機構的な機能にも悪影響を与えがちだ(MacBookの角が掌に刺さる、他の「ミニマルでなく無駄な造形の」同程度の性能のノートブックPCよりも重い、など)。bであればもし人工物にミニマルな見た目になるような淘汰圧がかかっているのならどの製品もミニマルになっているはずだが、私にはそのようには見えない。cであれば私も同意するが、そのためにラムスやアイブのミニマリズムをあげるのは1.と同じ理由で不適当だろう。それよりも無駄な部材を使わないことによってコストを削減するトポロジー最適化の事例や、しばしば長年の洗練により力学的にムダの少ない形態をとることのある伝統的な民具などをあげるのが適しているだろう。また生物の進化には無駄を極限まで削減する力だけでなく、宿痾のような大きな無駄を保存する力もあるため、前者に絞ったほうが比較としてはよいのではないか。たとえば鳥の骨の部材削減などに限定したほうが議論が単純になってよいのではないだろうか。dはおそらく本文の主張する点とは異なるので考えない。人工物の傾向としてはある程度はあると思うが、必ずしも強くなく、しかもその洗練度合いは生物のそれに比較すれば明らかに低い。ただし、生物の神経回路や会話よりも圧倒的に高スピードで情報をやりとりできるようになった事例(電線やインターネット)など、明らかに生物側に不利な比較をしようと思えばできる。 (松井)

「細部に神が宿る」 (p244)

その通り。本にも言えることである。重箱の隅すなわち細部に神が宿るの精神である。 (伊藤)

「シナジーという言葉は、シナジェティクスから来ている」 (p244)

語源が同じ、ならともかく、名詞が形容詞から来ている、などということがあるだろうか。 (伊藤)

p244: フラーはジオデシックドームを発見したから地球環境と文明の共生を目指した、という前後関係が正しいのか疑問だが、まあ故人がどう考えたかは証明のしようがない (伊藤)

「デザインを駆使して減らそうとしなければ、どこまでも無駄は増殖していく」 (p245)

ここでいうデザインが何を指すのかによるが、現代的な分業としてのデザイン業を指すのなら、上述の伝統的な道具の形態的な洗練からいってあてはまらない。もしそうでないのなら、伝統的な道具(例えば箸)にデザイン業ではなく能動的な「デザインの駆使」が働いてきたのかについては私は疑問で、むしろ様々なバリエーションの箸が生まれ、それらが文化の中で揉まれてあるものはコピーされあるものはコピーされなかったために落ち着いた形態だ(つまり能動的なデザインの駆使なしでもデザインの洗練はありうるし、大半の道具はそうやって進化してきた)という論のほうが説得力があるように思う。 (松井)

「無駄が発生する要因の一つに、過剰供給がある」 (p245)

過剰という言葉にそもそも「無駄」という価値判断が含まれているためややトートロジーのように感じるが、これをその人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限までコストをさげることを最適化というのならば、まあそれは無駄ではある。しかし生物の進化はこういった無駄をたくさん用意している。たとえばヒトの平均寿命(繁殖が不可能になる年齢を大きく超えて長生きする)や生理での出血、有性生殖のコスト、同性愛など。そしてこういった一見無駄に見える機能を適応の観点からよく調べていくことによっておばあさん仮説のような興味深い考察がうまれる。生理の出血はいくつか説がでているがよくわかっておらず、有性生殖のコストは有力な説がいくつかあるがコンセンサスには至っておらず、同性愛も同様だ。比較のために想定した「人工物の本来想定されている機能に必要とされる最低限」という閾値がそもそも主観によるものである。 (松井)

「いつのまにかそのモノは贅肉だらけの美しくないモノになってしまう」 (p245)

美しくないからと言って何が悪いのか?たとえば文字通り贅肉だらけのオットセイ(英語版Wikipediaによると厚さ15cmにもなるそうだ)は美しくないということか?ここでいう贅肉は比喩であってそのものではないということだろうけれど…。無駄があれば美しくない、というのと無駄があると競争に勝てず淘汰される、というのは別の問題だ。淘汰されないことが善であると仮定すれば様々な無駄があるにもかかわらず淘汰されずに繁栄しているデザインはいくらでもあげられるし、むしろ私が無駄であると感じるものがむしろ誰かにとっては価値のあるものであるからこそ繁栄している楽天のサイトのようなものもたくさんある。ここでいう無駄とはなにか?美しいとはなにか?がわからないまま、無駄、美しいなど主観に依存する価値観をもとに議論しているため説得力のないものになっている。 このように、「作りすぎるべきでない」とか「ミニマルな見た目にすべきだ」とか「美しくあるべきだ」といった著者がもつ「人工物の創造のプロセスにおいて創造する者はこうすべきである」という自論と、生物進化や人工物進化との関連はどんなに甘く見積もってもほとんどない。解剖を説明する章においては人工物をリバースエンジニアリングする際に生物学におけるリバースエンジニアリングと同様の手法が有用である、という主張にとどめておいたほうがよかったのではないか。「である」から「べきだ」を導くにはかなりの説得力が必要(理論としては不可能、主張としては可能)で、本章で説明されるアナロジーは最適化という言葉でゆるくつながった表層上のものになっている。 (松井)

「人工物は無駄に満ちあふれている。」 (p245)
「こうした無駄が発生する要因の一つに、過剰供給がある。「量が心配だから多めにしておこう」とか」(p245)

この本の無理やりな生物学の援用が正に過剰供給されて不適切な例が多く、無駄であると言わざるを得ない。 (伊藤)

「CX418遺伝子」 (p250)

最早固有名詞が間違っているくらいどうでも良いことのような気さえしてくるが、これは「CX41.8」遺伝子であった。渡邉・近藤両名による2012年の論文『Changing clothes easily: connexin41.8 regulates skin pattern variation』の本文を読むと、「CX41.8」という遺伝子が登場し(既にタイトルに「41.8」という数字が出ているので予想通りである)、「CX418」という遺伝子は登場しない。
ただし、本件に関しては情状酌量の余地がある。大阪大学の近藤滋氏のサイトには「CX418遺伝子」あるいは「The CX418 gene」とピリオド無しで書いてあるからだ。だが、他の論文や科研費の報告書などを読むとコネキシン41.8(connexin41.8)やコネキシン39.4について研究しているので、41と8の間に「.」が入ることは間違いなく、近藤滋氏のサイトのテキスト入力時の誤りであると断言できる。
通常、ここまでのファクトチェックが必要かと言われると微妙だが、一応一次資料に当たる習慣があれば、論文タイトルから気付けると思う。念の為にファクトチェックをしてみると、悉く間違っている本はやはり問題だろう。

「私たちのDNAに宿っている」 (p251)

この書き方一つで一気に随筆感が生まれてしまうように思うが。成人の感覚には後天的な学習も含まれる筈である。 (伊藤)

「外と内の適応から求められる性質に導かれ、適切なテクスチャーや膜の素材が選び取られる」 (p252)

外と内の適応というのは興味深い。 (松井)

「流動と張力が、さまざまな生物やモノの形を決定している」 (p253)

うむむむ。。。「内部と外部に発生する張力の類似によって、必然的に似た形態を生み出す」なぜ適応による説明をしないのだろう?張力は張力であって、サメやイルカ、ペンギンが流線型になるという流体力学的な要請とは関係がない。作用・反作用の法則を張力という本来別個の力に利用される用語で代表させているのだとしたらあまりに乱暴だと思う。作用・反作用が学習指導要領上教えられないからといってばねの力で無理やり教えようとしたつくばの理科の授業を思い出す。 (松井)

「形態がおのずと決定された」 (p253)

進化は試行錯誤の連続であって「おのずと決定」しない。本章を通して、著者は自然選択をひとつの最適解をまっしぐらに目指し、そこに落ち着くプロセスであるかのような説明を繰り返しているように思えるが、自然選択はそのようなプロセスではない。そうではなく、「無駄」な探索を繰り返し、「無駄」死にを繰り返し、あるものは局所最適解に陥って衰退し、あるものは自滅するという極めて惨たらしい無駄足を踏みながら、長期的には極めて優れた機能を蓄積する可能性のあるプロセスであるという説明が欲しかった。生物は決して最適化された体を持っていない。それどころか我々は最適化されていない体の、放置された問題箇所に苦しみながら生きている。痔になる肛門は無理な直立歩行の突貫開発が遺したといわれているし、目の網膜の上に毛細血管を置いてしまったものだから常に脳での画像処理でそれをキャンセルせねばならない。 (松井)

p254: スポーツカーやミニバンというジャンルで切り分けて収斂進化の例とするのは無理がある。スポーツカーはいわば「種」や種のグループに相当するカテゴリーなので、「まったく違う進化をたどったはずの種同士」とはいえないだろう。ある文化形質が収斂進化の成果である可能性を指摘するには、ほとんど交流のない文化圏で独立に発見された事実や発明された人工物をあげたほうがよい。たとえばベルヌーイ数がほぼ同時に発見された(関孝和)とか、ブランとスペースシャトル、電話の発明(文化的には同根だがグレイとベルはたしか個人的には交流がなかった)、ラクダの放牧(Mace & Pagel, 1994 説明は文化系統学への招待p10)あたりか。しかし基本的には相似よりも相同関係がまずは疑うべき第一被疑者であり、「収斂進化は最小限のはずだ」という前提をおいたほうが自然だろう。また、ここでスポーツカーのような人工物に種の概念を持ち出す意義が果たしてあるのかは一言ではいえない。ここでの種の概念の借用は「ポルシェのスポーツカーでできることはだいたいベンツのスポーツカーでもできるだろうけれど、ホンダのミニバンにはポルシェのスポーツカーではできないことばかりだし、逆にミニバンしかできないことも多い」という大雑把な交換可能性の高さでくくっている。曖昧と言われる生物種の概念よりもさらにその垣根は曖昧で主観的だ。 (松井)

p254: 解剖の文脈で収斂進化をとりあげるのも適切とはいえないだろう。ある機構(たとえば水中生物に共通する流線型)がどのように(HOW)機能しているか(流線型が抵抗を少なくし、同じスピードで泳ぐ際のエネルギー消費を抑える効果がある)という機構的な観点と、なぜ(WHY)そうなっているか(エネルギー消費を抑えることで繁殖にまわせるエネルギーを増やせるし、漁に行く回数を減らせるので漁に伴う生存に関わる怪我などのリスクを減らせる、行動時間が長くなるのでよりたくさんの魚を捕らえられる、など)という適応的な観点をわけるのが4つのなぜのキモとなる考えのはずだ。 (松井)

p254: 張力や流動といった用語がカーニング時に作業者が感じる文字間に働く「力」などにまで乱用されているため、全く進化と関係ないように思われる。進化学の概念を取り入れられていない以上は、進化という語を進歩に読み替えるなどしたほうが読者の混乱は避けられる。 (松井)

「形の背景には張力の流れが渦巻いていて」 (p255)

著者の〈美しさ〉感を認めるかどうかはさておき、この論調だと少なくとも「ピン角」やキューブは張力とも流動とも反するため「美しくない」、ということになりそうだ。フラードームは美しいが、ミースp242の建築は美しくない、ということで良いのだろうか。 (伊藤)

p256: 生物進化とデザインの進化のアナロジーと応用を語っているのかと思って本書を読み進めてきた読者は、ここに至って愛を持ち出した説明に頭を抱える。生産性と愛を結びつけるのは自由だが、この生産性というセクションには自然選択と関係のある部分は一文もない。私の理解では、ティンバーゲンの4つのなぜは「いま興味を持っている疑問は、どの立場から投げかけているのか」を明らかにするものであって、4つとも揃っている必要があるというわけではないと思う。こどもに「どうして目はものが見えるの?」と聞かれたときに、4つの非常に異なった答え方ができてしまう。なぜかというと当該質問には4つのなぜがオーバーラップしており、どの観点からの質問であるかが指定されていないからだ。同様に、「どうしてこのボタンを押すと写真が保存されるのか?」について4つの観点から答えることができる。それらを理解するのは重要だと私も思うが、はたして人工物に投げかけられる4つのなぜが、生物の4つのなぜのそれぞれに相当するほどに重要なのかは疑問がある。また、たとえばメスーディは文化的進化発生学は研究が進んでいない分野としてあげている(文化進化論、p325) (松井)

2 系統 (p260–)

p260: すべての創造は未完成であるという表現はとても興味深かった。ソフトウェアは永遠に未完成であるとマエダは言っていたが、その対比としてハードウェアは出荷されるたびにひとまずの完成をみるのだとされていた。どちらも正しいと思うが、巨視的に見れば確かにすべての創造は未完成であると私も思う。完璧な道具が存在しないというのにも感銘を受けると同時に、進化がそれ以上必要ない、という意味では、絶滅した種や陳腐化して誰も使わなくなった道具は完成したと言ってしまってもよいような気もするが、レトリック上の問題だろう。 (松井)

「分類学は、系統全体を一つの生物の身体と考えて解剖する学問だと言い換えてもよい」 (p267)

意味がよくわからなかった。そういえる根拠はなんだろう? (松井)

「評価軸を知るためにも、世界中のさまざまな分野のトップクオリティのモノを通常のモノと比較して、両者のあいだにある違いの因子を自分なりに定義してみるとよい」 (p268)

この作業のデザイン業での効果に異論はないけれど、それと分類学の間に、分類学を持ち出すほどの関連があるのだろうか。たとえばリヒテル演奏の平均律クラヴィーア曲集と無名のピアニストの平均律クラヴィーア曲集を聞き分けようとしている音楽愛好家が「私のやっていることは分類学です」と言ったとして、分類学の専門家は「そのとおりだ」と思ってくれるだろうか…。 (松井)

「進化図」 (p269)

系統樹のことだろうか。「個体のランダムな変異」とあるが、変異するのも淘汰の単位も遺伝子である。 (松井)

「進化はDNAの複製エラーによる『変異』と、生存競争や性淘汰などの『適応』が繰り返されることで進化が発生するという、統合的な進化論(セントラルドグマ)」 (p275)

適応ではなく自然選択が適当だろう。セントラルドグマはDNAからmRNA、そこからタンパク質へと情報伝達され、その逆がありえないという考え方のことで、現在一般となった進化理論全般を指す語ではない。統合的な進化論をまとめるのならばネオダーウィニズムでよい。セントラルドグマはネオダーウィニズムを構成する一部であり、進化学全体を統合する考えではない (松井)

「進化が自然発生しているなら、人工物に発揮される創造性も自然発生する現象と考えられる」 (p276)

まず、自然発生という言葉が何を指すのかわからない。進化は確かに条件が揃えば自ずと発生するメカニズムと言って差し支えないと思うが、創造性も自然発生する、とはどのような状況のことを指すのか?自然発生しない創造性とはなにか?直後の記述にあるように創造的な仕事は偉大な天才だけに可能であるという意味であれば、そう信じている人はあまり多くないのではないだろうか。そうではなく、積極的な創造性を想定しなくても、製造された人工物に差異があり、それの見た目が少しだけ好まれたり、それの機能が少しだけ向上していたり、それのユーザーが大変に魅力的だったり、その他いろいろな要因で好まれるときに、その変異体variantは他の競争相手に比べてよりコピーされやすいため、何かしらの変更が蓄積していくはずで、個々人に特筆すべき創造性がなくとも、文化は進化しうるということであれば私は全く同意する。残念ながらそういう文脈ではないようだ。「誰もが人工物にまつわる文化を進化させる一端を担える」という主張には私も同意できる(あなたがあるプロダクトのメーカーAとメーカーBで悩んでAの製品を選ぶとき、明らかにその一端を担っている)が、「誰もが積極的な創造性を発揮して人工物を意図通りに改善できる」という著者の提案する文脈は進化理論とはあまり関係がなく、進化理論によって裏付けがなされる主張ではない。 (松井)

「私たちは創造性を発生させられるという考え方が、進化思考だ。」「創造が自然発生するプロセスを解き明かし」 (p276)

発生させられる、なら人工発生とでもいうべきで、自然発生ではないのではないか。意味が全く逆になってしまう。 (伊藤)

「あらゆる創造は、共通の目的を持つ原始的な創造を起源として世の中に出現する」 (p277)

キーボードのキーキャップを外すクリップはどんな共通の目的を持つ原始的な創造があるのだろうか?無理やり、本当に無理やり結びつければ、たとえば「この工具の祖先は旧石器時代にも使われていたであろう、何かをほじる工具から派生したものです」などと主張することはできるだろうが、誰がその妥当性を検証できるのだろうか?現代の生活は旧石器時代とはかけ離れており、当時の環境では考えられないような要請によって特定の目的を満足するための手段としての現代的な道具は枚挙にいとまがない。むりに生物学的な万世一系の考えを援用を夢見るのではなく(生物進化の考えを少しでも人工物文化に応用したい立場からは非常に魅惑的なのだが、上記のように遅かれ早かれ破綻するので)、文化的な形質をコード化できる範囲で進化系統樹のロジックを借用する、というのが現時点での現実的な到達点だろう。この記述は「あらゆる創造は、原始的な創造を起源として世の中に出現する」であれば問題なかったように思う。共通の目的を持たなくても、キーキャップを外すクリップそのものには影響をうけた道具がある(たとえばピンセット)から、そこに直接の継承関係を見出すことはそこまで不自然ではない。目的の共通性さえ仮定しなければ、系統的な関連の強い道具どうしを時間軸を逆にたどっていくことは可能で、十分な回数を重ねればすべての現代的な創造も太古の原始的な創造を起源とするはずだと主張するのはそこまで無理がない。現代的なヒトには、アメーバのごときLast Universal Common Ancestorとは似ても似つかない「目的」を果たせる(ヒトはキーボードを叩く目的に従事させることが可能)としても、その間に先祖子孫関係がなくなるわけではない。 (松井)

「つまりライト兄弟の発明は、内燃機関の小型化がもたらしたのだ」 (p281)

リリエンタールは羽ばたき機構に拘泥していたので、仮に彼の存命中に内燃機関が十分に小型化されていたとしてもライト兄弟が得たような成功は収められなかっただろう。ライト兄弟の考案したようなプロペラによる推進をリリエンタールは嫌っていた。内燃機関の小型化だけでなく、プロペラの採用やねじれによる姿勢制御などいくつもの技術革新がライト兄弟とリリエンタールの間にはあるので、内燃機関の小型化のみがライト兄弟の発明をもたらしたわけではない。しかも、ライト兄弟は飛行機に搭載できるような内燃機関が市場に存在しないことを知ってそれを自作している。ライト兄弟自身がより大きな発明のために改良した部品だ。しかもリリエンタールの動力飛行は死の直前の試みであるし、使っていたエンジンも二酸化炭素エンジンらしい。二酸化炭素エンジンとは・・・?と思うが、内燃機関ではないのではないだろうか。ライトフライヤー号に使われたものよりずっと強力で鈍重なエアロドロームのエンジンと比較するのなら、この記述は間違ってはいないと思う。 (松井)

「敬意と疑問の繰り返しによって前例を超えたとき、初めてその創造は歴史に刻まれる」 (p282)

敬意や疑問がないと歴史的な創造は生まれない、というのは成り立つのだろうか。石器が改良されるとき、ヴァイオリンのf字孔が改良されるとき、箸がピンセット型から分割型になったとき、そこに敬意と疑問はあったのだろうか。それらの存在をどのように調べるのだろうか。 (松井)

「系統樹に正解はない」 (p284)

正解と正確は違う。真の系統樹(仮にそれがあったとして!)に達することはできなくても、新しいデータや精密なデータを追加したり、過去の解析の誤りを正したり、より精密な仮定をおいたアルゴリズムの開発などにより、より正確にすることはできるはずだ。 (松井)

「近年まで生物の進化図も厳密な正確さは保証されていなかった」 (p284)

厳密な正確さとは?真の系統樹には至っていない、という意味であれば、今もそうだろう。どれだけデータを追加しアルゴリズムを改良したとしても、我々は真の系統樹に至ることはできない。そうではなく、より正確になった、ということであれば、近年のどのような進歩によって正確さが保証されるようになったのだろうか。生物の進化系統樹にはconfidenceを付記することがあるが、それはアルゴリズムから見た自信であって、たとえそれが100であってもそれが「絶対に正しい宇宙の真理」であるということにはならない。また、p293などにもでてくるが、進化図=系統樹ならば系統樹に統一したほうがよいのではないだろうか。 (松井)

「正確な系統樹が描けるようになった」 (p284)

表現型をもとにした分岐学が、遺伝子型をもとにした分子系統学へ発展したことに言及したいのだろうと推察するが、そのためにはまず分岐学の説明をしたほうがよいのではないだろうか。また恐竜など遺伝子型をもとにできない古い昔の生物に関してはまだ表現型をもとにせざるをえない。 (松井)

「分子生物学の台頭によって、いきなり系統の順番がわかるようになった」 (p284)

今までも地層などで判定する方法はあったのだし、表現型をもとにした分岐学でも表現型が出現した順番は推測することができる。また分子系統学を使えば100%の確度で順番が「わかる」ようになるわけではなく、より頑健で信頼性が高く客観的な証拠が手に入るようになったという改善だった。それが途方もない改善だったことに異論はないが、「いきなり」すべてがありありと見えるようになったわけではない。 (松井)

「分子生物学が登場する以前の系統樹は、正確ではなかった」 (p285)

分子系統学の登場前後で不正確な系統樹が正確になった、というのはあまりに単純化していないか。前述のように、正確性や信頼性は飛躍的にあがったけれど、分子系統学の登場以前からの手法も依然として使われているし、それらすべてを分子系統学が置き換えられているわけでもない。 (松井)

「系統樹による分類の細部は、自然科学ですらも絶対的ではない」 (p285)

自然科学に絶対などあるのだろうか。「ですら」とあるが、自然科学ほど「絶対」から遠い理念もない気もする。反証可能性のない絶対的な分類が自然科学で受け容れられることはないと思う。 (松井)

「その発明の先祖を正確に定義することは不可能といえるだろう」 (p285)

定義する?推定する?ここでいう定義とはなんだろう。数学での定義のはずはないし。もしこれが推定(もしくはそれに準ずる言葉)の誤植であるとすれば、発明の先祖をより正確に定義する試みは不可能ではない。前述の生物の進化系統樹と同様、より精密で信頼のおけるデータの追加や推定アルゴリズムの改善などによって。たとえば人工物のコード化を考えてみよう。椅子の差異を印象からコード化する方法(日光浴にむいていると思うか、ワクワクする気持ちになるか、3万円なら欲しいと思うか、など)よりも、形状や部品の有無によってコード化する方法(背もたれがあるかどうか、背もたれはフカフカか、背もたれの材質は布か、など)のほうが客観的で信頼がおけるだろう。 (松井)

「創造の系統樹は、私達が納得のいくまで調べて、間違いを恐れず忠実に描けばよい」 (p285)

あまりに非科学的で、ダーウィン登場以前の博物学と大差のない思い込みに感じる。文化系統学を使わない理由はどこにあるのだろう。本書は進化学に関連する本であると謳っているが、進化学が提供する既存の手法や考えをしばしばとりあげずに自らの思うところを述べるのみにとどまる傾向があり、進化学との関連は基本的にないと言わざるをえない。 (松井)

「近い遺伝子プールを共有した生物間にだけ生殖的交配が成立する」 (p286)

遺伝子プールの定義が「繁殖可能な個体からなる集団が保有する遺伝子すべて」なので、「近い遺伝子プール」が何を指すのかよくわからない。また、通常「交配」は人為的なものをさす言葉なので、「繁殖」としたほうがよいと思う。生殖的交配とは同語反復ではないか。交配は生殖的なので。生殖的でない交配は存在しないと思う。交配という言葉の濫用はp462「交配的思考」でも多い(「交配、すなわち有性生殖の獲得」)。 (松井)

「遺伝子の変異では、数百万年かけて適応してきた遺伝子を未来につなぐほうが生存確率が高い」 (p286)

なんの生存確率だろうか?もし遺伝子であれば、生存確率ではなく継承される確率ではないか?遺伝子に生存・死滅の概念はないからだ。保存・絶滅であればよいかもしれないが、そうであれば保存確率よりは継承される確率のほうがやはりよいだろう。もし遺伝子ではなく個体であれば、適応してきた遺伝子を未来につなぐというのは生存には関係ない。サケは遺伝子を未来につなぐ行為によって生存確率をゼロにする。もしここでの著者の主張が、交雑によって大きく遺伝子を変異させるくらいなら古から受け継がれてきた秘伝のタレたる遺伝子をそのままコピーしたほうが適応度が高まる可能性が高い、ということだったらそのように記述すべきだろう。実際には交雑によって適応度が大きく下がる場合もあれば(たとえばラバは不妊なので生まれても次の孫が生まれず適応度はゼロになる)、交雑がそもそも成り立たない(生まれるまでに死ぬ、受精しない、など)、適応度にたいした差が生じない場合も(バフンウニなど自然で起きている交雑はおそらくだが適応度にたいした影響がない)、適応度が大きく伸びる場合もわずかながらあるだろう。いずれにせよ、この記述はよくわからない。 (松井)

「既存の遺伝子を保存する仕組みが働くようになった」 (p286)

これもよくわからない。遺伝子が大きくかけ離れたヒトとイヌの間で繁殖が成り立たないのが自然選択による適応であるという主張だとしたら誤りではないだろうか。たとえば天変地異により一つの繁殖可能な集団が地理的に分断され長い時間が経ち、その2群からつがいを作ろうとしても遺伝的な乖離が大きすぎて繁殖できない場合、その乖離自体には自然選択が貢献していた(隔離されたうち片方には水源があまりなく、水の消費を抑えるように発汗が少なくなった、など)としても、自然選択がその2群を遺伝子的に乖離させようとしたわけではない(つまりこの場合の片方の群もしくは両方の群に、もう一方の群と相対的に異なる遺伝子を蓄積するような方向に自然選択が働くということは考えられない)。ただ、生殖的隔離自体は適応的なシチュエーションは考えられると思う。たとえば虫Aのうちの一部がある特定の花Xの形にあわせて口吻を変化させBに進化したが、ほかの花Yの形にあわせて進化したCと交雑すると口吻の形がXにあわなくなってしまい適応度が下がるとする。そのためCとは交雑しないように性器の形を独自のものに変えたりすることはありえたのではないかと記憶している。このあたりは専門家ではないので確かではない。 (松井)

「異種交配は、自然界では稀にしか発生しない」 (p286)

それはそうだが、まず種の定義が生殖が可能な場合に同種と考えるので、まず種が思ったほど明確な分割を提供しないことを念頭に置く必要がある気がする。また人為的な交雑であれば自然界ではまず起こらないものも起こせることを説明したほうがよい気がする。 (松井)

「創造では頻繁に(異種交配が)発生する」 (p286)

まず創造における種と異種、交配の概念を整理しなければこの主張はできないだろう。本書では「空想のなかでの犬」や「空想のなかでの人」が種であり、それらが異種の関係にあり、狼男はそれらの交配であるとしている。まず、ここでの文化的な交雑を無理やり「思いがけない、くっつきそうにもない文化的な概念がひとつの塊として新たに生成される」ことであると定義してみよう。「思いがけない」とか「くっつきそうにもない」といった判断基準が主観的で好ましくないと思う方は、「今までくっついたことのない、実践されたことのない、実装されたことのない、発話されたことのない、概念」でも構わない。すると犬と人は、生物学的には、生殖的隔離が甚だしいために「かけ離れた」種であることは一目瞭然である。それに対し、「空想のなかでの犬」と「空想のなかでの人」はそこまでかけ離れているといえないのではないか、という気がしてくる。それどころか、理念や概念に関して言えば、いくらでもかけ離れた二者をくっつけて発話し、他のひとに伝達することができそうだ。「メタルなごぼうが支配する非営利国会」。「1億年先から来た家康がノートPCを開発する」。いくらこれらがクレイジーで意味不明であっても文としては成り立っているし、あなたの脳にはメタルなごぼうに支配された国会が思い描かれているはずだ。それに対し、持続的に、継続的にある人からある人にその新概念が伝達され、変異されるかどうか、つまり文化的な適応を獲得できるかどうかを基準に加えると、生殖的隔離ならぬ「アイディアが融合してひとつになれるかどうか」の隔離の基準になる。メタルごぼうの党のような突飛すぎるアイディアは受け入れられず(と仮定するが、必ずしも突飛すぎるとは言えない。ここでは突飛なものであると定義しよう)、この新概念が継続的に伝達されて人々の意識や知識の片隅を占拠し続けることは難しくなる。さらに、単なる概念ではなく、実際に現実世界に存在できるか、になると一段と厳しい隔離条件となる。まずは異種交配ではなく、単体で存在できるかを考えてみよう。永久機関の考えは昔からあるものの、それが頭から漏れ出して現実世界で実現したことは一度もない。三角形の概念は小学生以上であれば誰でも持つことができるが、この世に三角形は存在せず、概念の世界でのみ存在できる。創造にも前述のような「自然条件下」の交雑と「人為的な」交雑のような区別はしようと思えばできる。たとえば前者が意図しない交雑、たとえば誤植によって「不幸の手紙」が「棒の手紙」になった事例のように、棒の概念が不幸の手紙の文脈と「交雑」するもの、後者は意図した交雑、たとえば狼男のようなものだ。 (松井)

「進化の結び目」 (p287)

進化学には水平伝播という用語がある(し、本書でも紹介されていたと思う)ので、そちらを使ったほうがよいと思う。 (松井)

「生物にも「進化の結び目」 (p287)

は頻発しているのだ」生命の歴史全体を眺めればたしかに水平伝播は頻発しているし、その進化上の意義も非常に大きい。しかし、その前のパラグラフでは「異種交配は、自然界では稀にしか発生しない」としているのが気になる。多細胞の有性生殖を行う生物の間では、異種交配は水平伝播よりも頻繁に起きているのではないだろうか(そもそも種の概念が人間による恣意的なものであるため)。どのタイムスパンを想定して「頻発」とか「稀」と表現しているのだろうか。たとえば大量絶滅は生命の歴史全体のスパンであれば頻発しているが、日常的な人生くらいのタイムスパンであれば極めて稀だというべきだ。 (松井)

「今から50年前の道具を、私たちはもうほとんど使っていない」 (p289)

実感できない。「今から50年前の道具」の意味するところが「50年前に使われていた道具」であれば、服、鉛筆、メガネは50年前も今も使われている。「ちょうど50年くらい前に開発・発明されたもの」であれば、MRIは1969-1977年あたりだ。パーソナルコンピュータはXerox Altoが1973年だ。Altoそのものを使っていないからPCは50年前の道具ではないというなら、私が使っている万年筆は1970年代に製造されたものだし、テーブルは1960年代の製造だ。開発・発明がそのころで、そのころからほとんど全く姿を変えずに使い続けられているものであれば、Wikipediaを参考にすればペットボトル(1967)、ハイパーテキスト(1968)、CCDイメージセンサ(1969)、カップ麺(1971)などは(もちろん数々の改良が加えられているとはいえ)今も生きる技術だろう。電子メール(1971)やQWERTY配列(1880年代)など、今風にアップデートされるべきでないかとすら感じられるような化石技術も未だに広く使われている。 (松井)

「想像という現象もまた、生物の進化と同じように、適応に導かれて自然発生する」 (p290)

適応に導かれるとは一体どのような状況を指すのか?適応は進化の中核を1プロセスなので、生物進化は適応に導かれるわけではない。 (松井)

「道具も絶滅する。[...]失敗した前例」 (p290)

絶滅を失敗と捉えているのだろうか。恐竜は失敗したのか?あんなに繁栄したのに?リョコウバトは失敗作だったのか?あんなに繁栄したのに?Bf109は使われなくなったが失敗作だったのか?あんなに大量生産されたのに? (松井)

「失敗」 (p290)

著者は、アレグザンダーのいう不適合を失敗としており、しかもそれを「エラー」(「エラーの発見が、次なる創造性に火をつける」)と呼んでいる。アレグザンダーのいう不適合はmaladaptationなのではないか。エラーという言葉は進化の文脈ではコピーのエラーが多いと思う。 (松井)

「変化しなければ進化もまた発生しない」 (p290)

本文の失敗を恐れず変化していこう、という文脈を考えると、進化を進歩と混同しているのではという印象が強くなる。そのような文脈からの判断なしに純粋にこの文章を読むと、そもそもこの文章はトートロジーになってしまう。(生物)進化は(遺伝子頻度)変化だからだ。進化はよいものだ、進化とは数々の失敗を乗り越えた先にある成功だ、という印象は全編を通して常に拭えない。生物進化における変異から学ぶことがあるとすれば、変化は基本的に悪である(突然変異は大半が有害であるから。実際、現代社会でもほとんどの新製品は既存製品を置き換えられず淘汰されていくではないか)、現状維持は基本的に善である(既存の戦略でうまくやってこれたのだから、進化的に安定なはずだ。実際、現代社会でもほとんどの以下略)という、むしろ著者の主張の全く逆のことすら言えるのだ。同じ事実から全く逆の教訓が引き出せる場合、どうすればいいのかは私にはわからない。少なくとも無責任に「変化しないと変化できないから変化していこうよ」と焚きつけることではない気がするのだが…。 (松井)

「なぜなら私は、創造という現象もまた、生物の進化と同じように、適応に導かれて自然発生すると考えているからだ。」 (p290)

創造は「代行者」を依り代に「自然発生」する「現象」、という立場をこれ以降とるのだろうか。しかし、続く文では「個人の意志」が必要なようなので、いわゆるアイディアなどが「降りてくる」と言いたいのだろうか。だとすると「次なる創造性に火をつけるのだ」という文の「創造性」という語がよくわらかなくなる。「創造」の「自然発生」の確立を高める性質が「創造性」ということか? (伊藤)

「DNAプール」 (p291)

遺伝子プールの誤りだろう。そうでなければここでのDNAプールが何を意味する言葉であって、遺伝子プールと何が違うのか説明すべきだ。 (松井[^発表後、体裁を一部変更しました])
DNAと遺伝子の区別がついていないのか、単なる誤植なのか不明だが「遺伝子プール」である。
また、遺伝子プールはある集団の遺伝子全体を考える際に人間が勝手にモデル化した「概念」である。「仕組み」ではないし、「性質」もない。 (伊藤)

「一個体の失敗が種全体の失敗になりにくい」 (p291)

一個体の失敗とは有害な変異ということだろうか。有害な変異が種全体に広まらないためには、遺伝子プールの仕組みというよりも集団サイズの大きさが重要になる。たとえば絶滅危惧集団に蓄積した有害変異を解明という国立遺伝研究所のプレスリリースにそのことが書いてある。 (松井)

「かつてうまくいった方法をなるべく保存しようというDNAプールの仕組み」 (p291)

遺伝子プールそのものにかつてうまくいった方法をなるべく保存しようという仕組みはないと思う。むしろかつてうまくいった方法が環境の激変などによりmaladaptiveになりうる。遺伝子プールが多様であれば多様であるほどそういった急激な変化には対応しやすいはずだ。 (松井)

「個体が生まれるたびに細部に変異が発生する」 (p291)

とは限らないのではないか?単為生殖ならば子は親のクローンのはずで、ひとつの変異もなくコピーされることはしばしば起きると思う。 (松井)

「この2つのバランスが保たれたときに適応進化が発生する」 (p291)

よくわからない。そうなのか?個人的にはこの2ページの記述はよくわからなかった。一般の読者にもわかりやすく噛み砕くという意図なのかもしれないが強引な読み替えがかえってわかりにくく、ストレートに赤の女王仮説と進化的に安定な戦略の紹介をすればよいのではないかと思った。 (松井)

「長い時間を生き抜いてきた創造性は」 (p292)

著者の「創造」の語をどう定義しているのか全く把握できないが、ここは「創造性」ではなく「創造」なのではないか。 (伊藤)

「私たちの欲求は、本当に私たちの意思が生み出しているのかという疑問が湧いてくる」 (p292)

心理学では欲求は「動機付け」として整理されていることが多いのではないかと思う。つまり、意思より欲求の方が先だ、ということだと思う。 (伊藤)

ダグラス・ケンリックらが[...]新しい欲求のピラミッドを提案した[...]進化的に正しい欲求の段階は、「自己防衛」「病気回避」「協力関係」「地位」「配偶者獲得」「配偶者保持」「親族養育」だという (p293)

もしこれのことであれば、これは間違っている。ケンリックのバージョンにもマズローのものと同じく生理的欲求が最も根底に据えられているし、病気回避はでてこないし、parentingは親族養育ではなくむしろ子孫offspringの養育だ。何を参考にしたのだろう…。なぜ人の提案したものを何食わぬ顔で改変できるのだろう。 (松井)

「身体の進化によって生理的な欲求が生まれたという考え方はきわめて興味深い」 (p293)

それっぽい書き方をしているが、読めば読むほどどういう意味かわからなくなってくる。おそらく書いている本人も意味がわからず書いているのだろうと思うが、進化心理学ではこのような主張がなされているのだろうか。それとも単に「我々の生理的な欲求(immediate physiological needs)が進化から生まれたというのは興味深い」という意味だろうか。トイレに行きたいとかご飯が食べたいとかの欲求が進化から生まれたというのは、150年前ならともかく、21世紀においても興味深いとはさすがに思えないので、著者は説明し直したほうがよいと私は思う。 (松井)

「そもそも私たちは、人間以外の生物に共感することが苦手だ」 (p296)

この文が言わんとすることがよくわからない。「ペットに対して慈しみの愛情を感じる」という話は何だったのか。それとも植物とか大腸菌とかと共感できないといいたいのだろうか。その割には「「要求の系統樹」の要点」の最後が「異種間でも共感が生まれている」という結論なので、混乱する。最後を「共感が生まれ得る」とした方が良いのではないだろうか。
その前の「種が分岐を繰り返すごとに、本能的欲求も多層かつ複雑なベクトルの合成になっていく。そのベクトルの合成として本能的欲求が個体にも現れる」のあたりは何が言いたいのかよくわからない(何となくはわかるとも言えるが)。突然「ベクトル」の概念を持ち出すのが良くないと思う。特に、ベクトルの向きをどう捉えているのだろうか。少なくともp294の系統樹にはベクトルは描かれていない。点線のことだろうか? (伊藤)

「20万年間にわたって、人の身体はDNAレベルでは99.9%、変化していない」 (p298)

次のページの図14-14では30万年となっている。どちら? (松井)

「自動車に至る欲求の系統樹」 (p298)

面白いのだが、これは単なる関連部品の年表でしかなく、系統樹を援用する意味がない。むしろ前章で散々「変異」を語っていたのが台無しになってしまう。何かに変異が起こって新しい分岐が生まれる、というのが系統樹であり、1つの「道具の起源」から様々に分化した多用な道具が生まれた、という図になっていなければならない。 (伊藤)

「系統樹には、不変の願いが流れつづけている」 (p300)

意味がわからない。系統樹は変更の記録でもある。目を失えば著者のいうところの「ものを見たいという願い」が消えていることになる。そもそも欲求が系統樹を生み出したという考えがおかしいのだが…。「系統樹には、不滅のコイルとしての遺伝子が流れつづけている。我々の遺伝子の中にも、我々とは全く似ても似つかない生物だったころから維持されてきた根源的な欲求を生むようなものがある」であればある程度妥当だし、興味深い書き出しだと私は思う。 (松井)

「本来の願いを見失った創造は脆弱」 (p300)

本来の願いとか不変の願いとかの言葉の曖昧性を少しでも減らすため、「本来の願い」を「当初の設計意図」と読み替えよう。すると電子レンジの「本来の願い」は遠隔で人を煮殺すことだったし、ポストイットののりは強力に作ろうと意図していた。日本の古来の武術は安土桃山時代で一旦終わったが剣道や弓道、そして日本刀は美術品としてしぶとく生き残っている。著者の意図しているのはこういうものではなく、むしろ「最初はAを目指していたのに、途中からBばかり追い求めるようになった」かもしれない。その場合の反例はGoogleだろう。当初は検索エンジンと広告は根源的に相性が悪い(検索結果が歪む)ので広告で稼ぐビジネスモデルは絶対に嫌でござるみたいなことを言っていたのだが、こんにちのGoogleは今日も全力で広告にまみれた結果を返しているが、急速に廃れているだろうか。それとも、違うとは思うが、昔からの、系統樹に流れつづける不変の願いを見失わせるような創造は脆弱だということだろうか。もしそうだとしたら、コンドームは生殖という系統樹に流れつづける不変の願いを見失わせ、適応度を確実に下げるが、廃れるだろうか。 (松井)

3 生態 (p302–)

「そもそもヒトは、わかってもいないことを、わかったつもりになる生き物だ」 (p307)

ほんとうにそう (松井)

「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発されたソナー」 (p318)

もっと昔からある。加速したきっかけではあったようだが。「タイタニック号の沈没事故がきっかけで開発が加速したソナー」なら。 (松井)

「それぞれに特殊なルールに基づいてクオリティを競争する姿がよく見られる」 (p323)

クオリティの語の意味するところが不明だが、前文の「形質」のことなのだろうか?
また、「鳥の鳴き声は美しくなり」と並べられている「こうしてキリンの首は長くなり」は性競争の例ではないように思うが…。ラマルクにしてもダーウィンにしても高所のエサを取るためと理解されているのではないのだろうか?(伊藤)

「専門分野内での競争は、こうして目的を超えて特殊化する」 (p325)

目的を超えているのではなく、目的が増えているだけだろう。当初とは違う目的ではあるにしても。故事的消費についてはMillerのSpent (2007)が詳しい。(松井)

「日本の道路で時速490キロで走れば、スピード違反どころか殺人未遂で捕まってしまう」 (p325)

冗談で書いているのだろうから言っても仕方ないといえば仕方ないのだが、490キロでも人を死傷したり逃走したりでなければスピード違反で捕まるのでは…。一発免停は間違いないし、おそらく逮捕されるのかなと思うが、法律の専門家ではないのでわからない。 (松井)

「日本の道路で時速490キロで走れば、スピード違反どころか殺人未遂で捕まってしまう」 (p325)

思わず筆が滑ったジョークに対して野暮だとは思うが、「日本の道路で時速四九〇キロで走れば、スピード違反どころか殺人未遂で捕まってしまう」法的根拠が不明である。

p326: ランナウェイ説は行き過ぎを意味しない。性淘汰は、傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが、彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが適応度をあげるのだから、奇形のような非適応的な、行き過ぎた変異とは一線を画す進化である上に、自らの生存率を害するほどに奇妙な形質に投資しすぎ暴走した者は淘汰されるので、行き過ぎないギリギリのところまで発達させる。つまり、自然淘汰を性淘汰以外の淘汰と定義すると、自然淘汰と性淘汰が逆の方向をむいている場合、それらが釣り合うところまで(モテと生き残りの両者を同時に最大化するように)進化する。また、花の生息地の消滅のような環境の急変によって絶滅するからといって行き過ぎた進化と断ずることはできない。そもそも行き過ぎという言葉が主観的であり、少なくともそのような、特定の花にあわせて進化するのは適応であり、長期的にその適応のおかげでニッチを獲得できていたのなら、その当時は十分に成功した生物種といっていいと思う。しかしどんな生物種も著者がいうように完璧ではなく、しばらくは利益が大きくても、急な環境の変化に脆弱になるような変異はしばしば起きているはずだ。進化には先見性がないためだ。その後絶滅したからといって行き過ぎと評するのは後知恵だろう。 (松井)

「特定の花に合わせて、とても長いくちばしを発達させたが」 (p326)

これも明らかに「魅力をめぐる競争」ではないと思うのだが…、こちらが不安になってくる。(伊藤)

「こうした現象を、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に登場する軍拡競争になぞらえて『赤の女王仮説』と呼んだりもする」 (p336)

アリスに登場するオリジナルの赤の女王じたいは軍拡競争とは関係がない(はず。読んでない)。「同じ場所にとどまっているためには走り続けなければいけない」という物語上の奇妙な状況が、同じ地位・ニーシュを確保しとどまり続けるには進化し続けなければいけないという進化上の概念に援用されただけのはずだ。「こうした軍拡競争に邁進する進化の特徴を説明する仮説の一つは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王様になぞらえて『赤の女王仮説』と呼ばれている」 (松井)

「車は急に止まれないし、新しいことに挑戦しろと言われても」

無粋なツッコミであるが、車が急に止まれないのは慣性のためである。この例で言えば「新しいことへの挑戦」は「アクセルからブレーキに踏み替える」ことだろう。(伊藤)

「そこで生き残るのは激変以前の価値軸で強者だったものではなく、偶然にも変化に柔軟に対処できたものだ」 (p338)

ここにも著者の変態主義的な理解が色濃く現れている。生物の進化は環境の変化に「対処」してあるものが違うものに変わるものではない。(松井)

「恐竜の絶滅後にさまざまな形で進化を遂げた、私たちを含む哺乳動物があげられる」 (p338)

単弓類は?そして絶滅「後」という表現がまた変態主義的、チェイン的な進化の理解だ。哺乳類は恐竜が絶滅してから進化をはじめたわけではない。哺乳類は恐竜の後継者ではない。恐竜の絶滅はたしかに哺乳類にとっての環境の変化としては大きなもので、哺乳類とその繁栄に大きく影響したと思うが、恐竜がいたときも、恐竜がいるまえも、恐竜が絶滅したあとも、進化してきた。(松井)

「こうした変化の激しい状況下では、強いものではなく、変化しやすいものこそが生き残りやすい」

r-K戦略説のことか?そうであったとしたら、変化しやすいものではなく「強く大きい、生き残りやすい子を少数ではなく、弱く小さい、生き残る確立の低い子を多数生むものの子孫こそが繁栄しやすい」であればそこまで間違っていないと思うが、変化しやすいものこそが生き残りやすい(変異率をあげると生き残りやすくなる?)というのは違う気がする。というか「強い」とか「変化しやすい」とかの言葉が定義されずに使われるのでよくわからない。 (松井)

「有性生殖などは、まさに生物が進化上で獲得した『変化しやすくなる仕組み』そのものだ」 (p339)

進化とは生物が変化することではない。それは変態だ。ポケモンのしんかはしんかではない。(松井)

「性選択によって、生物は偶発性を高め、生き残れる可能性を向上させた」p339

有性生殖が無条件に適応度を高めるのなら、あらゆる生物が有性生殖になっているはずだがそうなっていない。性選択によって生き残れる可能性を向上させた、というのは意味がわからない。性選択されたらその時点で生き残っている。間違いだらけでほんとうにどこから突っ込めばよいのか… (松井)

p340: 現代の引きこもりの息子は寄生者には基本的になりえない。寄生は、ヒトとシラミなど基本的に種間の関係だからだ。親子関係、きょうだい関係の共生関係であれば、競争があてはまる。生物の親子でも競争は生じており、親は不出来な子を殺すこともあるし、子は親が飢え死しないギリギリのところまで資源を提供させようとすることはある。しかしこれは競争であって、寄生ではない(ただし、体の大きさがあまりに違い、生殖後にメスの体に半ば吸収されるチョウチンアンコウのオスなどは寄生ということがあるらしい)。もし、現代の引きこもりの息子が母親の資源の大半を奪って生存しているどころか母親が生存に必要な食事をとろうとすると口に入る前にその一部を奪われていれば、それはたしかに寄生と言えるかもしれない。 (松井)

「自然界では、寄生者は宿主が死ぬと自身も死んでしまうので」

捕食寄生という、卵を産みつけて、孵化した子が宿主を食い殺すタイプの寄生がよくあるのだが…またそのあとに自分で「よりよい宿主を探すために、現在の宿主を殺そうとする」ロイコクロリディウムを紹介しているではないか。(松井)

「古典的ダーウィニズムでは[...]マイナスの適応関係の繰り返しによって[...]生物同士が利他的に互いを支え合うプラスの共生関係も」 (p344)

ここでいう生物同士が、血縁関係にある者のみをさしているならば問題ない記述だが、p474の利己的遺伝子に関する誤った解釈から類推するにここも混乱しているのだろうと思う。このパラグラフは誤りが多すぎるので、全面的に書き直したほうがいいだろう。 (松井)

「自然界の生態系は共生系によって保たれている」 (p344)

ここでいう共生が共生なのか相利共生なのかわからないが、どちらにせよ原因と結果を混同している。「保たれている」生態系には共生関係が多く成立しているだろうし、そのなかには相利共生関係もみられるだろうが、それはトートロジーだと思う。生態系が共生によって保たれているのではなく、生態系には共生がある。相利共生のことであれば、相利共生がなくても生態系は成立しうるのではないか。 (松井)

p345: これは群れの説明ではないか?少なくともミーアキャットの例は共生ではない(共生は基本的に種間関係なので)。 (松井)

「生物たちは、他にライバルのいないポジションを求めて進化していった」 (p347)

種を主語にして能動的な進化を語るのはやめるべきだと思う。種を遺伝子に置き換えても、能動的には起きないのが進化だ、という前提が全く守られていない。 (松井)

p348: 余剰を活かせば環境負荷が低減する、というような書き方をしているが、たとえば余剰であるプラスチックごみを埋め立てず燃やして有効活用すればそれだけCO2は「余分に」大気中に開放されるので、そんな単純にはいかない。 (松井)

p349: こちらが共生の説明だろう(おそらく誤植)。「生物学では相利共生あるいは「共生」と呼ぶ」このmutualismとsymbiosisの区別を全編通して行ってほしかった。これを混ぜてしまっているがために雑な記述になってしまっている。 (松井)

「イソギンチャクのなかにいれば外敵は攻撃してこない」 (p349)

むしろカクレクマノミを捕食しようとやってくる魚をイソギンチャクが捕食することもあるらしい(つまりカクレクマノミは囮、餌の役割をしている)ので、そうとは言い切れない。 (松井)

「共生は一般的な関係ではなく」 (p350)

相利共生と共生を混ぜてはいけない…。共生は非常に一般的でそこらじゅうにある。相利共生はたしかに「掃いて捨てるほど」にはないと言っていいと思う。「相利共生は一般的な関係ではなく」なら。 (松井)

「固い絆で結ばれた特定の種間」 (p350)

ここで相利共生を説明するのに絆という我々の社会でも曖昧な概念を持ち出す必要があるとは思えない。相利共生は単純に利益があるからやっているのだから、気持ちベースの絆ではなくもっと損得勘定に依存した関係だ。あえてヒト間の関係を持ち出して説明するなら業務契約だろうか。しかも相利共生は進化の過程でしばしば崩壊する(契約解除される)ので、そんなに固くもない。片利共生(寄生)関係に移行したりすることもあるので。 (松井)

「感動に乏しいことがある」 (p351)

私的な語りが他人に響き共感を呼ぶことがある、という表現側の話と「特定の相手を深く理解」するという受け手側の話を混ぜて語っている。共生関係にある相手と共感しあうことはできそうだが、共感し合った相手と共生関係を築けるかは互いの手持ちのリソースやポジションに依るだろう。 (伊藤)

「真に強固な共生関係は、お互いを深く理解した特殊な個と個のあいだに起こる」 (p351)

前ページの表現から、ここでいう真に強固な共生関係とは相利共生関係のことだと仮定する。その場合、少なくとも生物の相利共生関係から学べることはこれではない。お互いを深く理解していなくても利が生じる、渦巻の数式を知らなくても渦巻の殻が作れる、反応拡散方程式を知らなくても縞模様が作れる、カテナリー曲線を知らなくても垂れるだけでカテナリー曲線を構成できる、というデネットのいうところのcompetence without comprehension(理解なしの有能さ)が進化のキモであるはずだ。また個と個に限定する必要はない。削除すべき記述だと思うが、もし無理やり書くなら「真に強固な人間同士の共生関係は、お互いを深く理解した特殊な個と個のあいだに起こるべきだ、というのが私の考えだ」であればまだよいか。 (松井)

「それぞれの生物が異なった世界の認識を持つことを、「環世界」と呼んだ」

この文は「環世界」の語について誤解を招きかねないので、「それぞれの生物が異なった世界の認識を持つとし、そのそれぞれの認識のことを「環世界」と呼んだ」とでも書くべきであろう。(伊藤)

「イヌは青と黄を認識できるだけだ。つまり、イヌはほとんどモノクロームの世界に生きているのだ」 (p353)

イヌが二種類の錐体細胞を持つことを自分で書いておきながら、なぜ「モノクローム」と書いてしまうのか理解に苦しむ。 (伊藤)

「個の視点だけでは正しく捉えられないばかりか、その視点を相手に押し付ければ分断が生じるだろう」 (p354)

このリスト自体のことを指摘されているようで心苦しいが、我々と著者との分断は明らかであり、この分断は埋められるべきで、埋める(歩み寄る)作業はいくらなんでも我々ではなく著者がするべきだと私は思う。また、我々の視点の押し付けは、まずはこの分断を認識していただくために必要なことだと考えていただければと思う。問題を認識することが問題を解決する第一歩なので。 (松井)

p357: 生物間の競争や寄生があたかもよくないことであるかのように書いているが、理解に苦しむ。これらと人間による環境破壊を結びつけることは難しい。あえて環境破壊と結びつけたいのなら、生物の習性と生物進化の近視眼的な性質をあげたほうがよいと思う。たとえばシャーレの中の栄養を食い尽くし、自らの排泄物の毒素にやられて死滅する微生物など。"Are we better than yeast?" (Janek Schaefer / Richard Heinberg) Asleep at the Wheel (松井)

「闘争的な繋がりを遮断し、ポジティブな繋がりを広げていく」 (p374)

デザインの進化において闘争的な繋がりが悪であって害ばかりを生む、という立場なのだろうか。資本主義経済において各社はしばしば闘争的に競争をしつつしのぎを削っていると思うのだが、共産主義的なデザインを育みたいということだろうか。私としてはこういう闘争的な共生関係も興味深い進化を生み出す原動力だと思っているので、非倫理的な攻撃(丸コピや、逆にPatent trollなど)や全体の利益にならない破壊行為(相手企業のサーバーのクラッキングやコモンズの悲劇)は法律で縛りつつ、フリーファイトがよいと個人的には思う。 (松井)

「[宗教の]拡散の道具を観察すると、[...]この繋がりの構造を知っていれば[...]共生的な繋がりを増幅させ、闘争的な繋がりを遮断し、ポジティブな繋がりを広げていく」 (p374)

ほかにもp390の空海の引用、p430の「もし私が神様だったら」p442「適応は愛を目指す」p472創世記引用など、スピリチュアルな表現が本書の終盤に向かうにつれて特に多くなっており、本書が学術書よりもビジネス書よりもスピリチュアル自己啓発本のカテゴリに近いのではないかと思わずにいられない。このような「共生」とか「適応」といった学術用語の濫用とスピリチュアルな概念との結びつけにあふれた記述は本書の科学的妥当性を直接に損なっているように思う。 (松井)

「キリスト教の伝来も同じで、江戸時代にハブとなっていたイタリアの聖地から遠路はるばる長崎へ、宣教師が越境している」 (p374)

確かに1602年にイタリア人宣教師カルロ・スピノラ(Carlo Spinola)が来日しているが、キリスト教の伝来は1549年のフランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸からという理解が一般的であろう。確かにザビエルはローマを発ってリスボンから出航したので「イタリアの聖地から」と表現し得るかもしれないが。何故「戦国時代」ではなく「江戸時代」と書いているのか理解できない。 (伊藤)

4 予測 (p392–)

p397: 図16-2、16-3矢印が何を表しているのか不明な図である。勿論フォアキャストとバックキャストの違いはなんとなくは伝わるが。上段中央が「未来 予測」、特に「予測」という語が不適当なのではないだろうか。中段から上段に向かう矢印はすべて「予測」のように思われる。また左右の「解剖」と「生態」はやはり「ミクロ」と「マクロ」という対になる概念で整理した方が簡潔で万人が理解可能なのではないか。それこそ1977年にイームズ夫妻が『Powers of Ten』で示したように、オーダーの大小を考えることはデザインにとって重要な視点である。 (伊藤)

p406「相関関係と因果関係を読み取る」p408「この例からも、相関関係だけを信じるのがいかに無意味化がわかるだろう。」

著者が相関関係と因果関係の違いを理解しているらしいことに驚いた。p31の狂人性云々を書いた人に教えてあげて欲しい。 (伊藤)

「すぐに諦めて二度と挑戦しない人がいるが、この人は確率を無視している」 (p413)

リスク回避的な行動は進化的に身に着けたものであり、べつに確率を無視しているわけではない。コストが見合わなかっただけだろう。このような計算こそ期待値計算であり、成功に対するリターンと、失敗した場合のコストを計算しているはずだ。それを無視している著者こそ確率を無視している。つぎの指摘にも書いたリスク回避的な本能に言及して、「現代的な業務の範疇で、すぐに諦めて二度と挑戦しない人がいるが、この人の心は小さな怪我や失敗が生死に直結したころに磨き上げられたものなので、失敗したときのリスクを過大に評価している可能性が高い」であれば。 (松井)

「成功確率が1%ならば、あと99回挑戦すれば、求めていた結果が得られる期待値計算になる」 (p413)

確率を無視するべきでないと言った直後でのこれはもしかしてギャグで言っているのだろうか…。成功確率1%の試行を100回繰り返しても一度も成功しない確率は0.99^100 = 37%もある。求めていた結果が絶対に得られる保証ができるのは無限回の試行を行ったときのみ。期待値の損得を議論したいのなら、コストとリターンを定義しなければいけない。もしくは、コストを考えず、「少なくとも一度成功する」ときの確率変数を1に、そうでない場合を0に設定すればたしかに期待値は100回の試行の際に期待値は1になる。が、それは「求めていた結果が得られる」期待値ではない。中学数学でやるはずだが…慶應義塾大学特別招聘准教授である著者は本書を出版する前に中学数学を復習するべきだったと切実に思う。バカにしているとかそういう問題ではなく、わからないことがあれば中学数学でも中学英語でもわかるところまで戻って学習すべきだ。私もしばしば三角関数や県の場所を忘れる。無知は恥ではない。無知を放置することは恥だと思う。と同時に、こんなに簡単なことを間違えていることなんてあるのだろうかという不安も正直ある。私の期待値の理解もはるか昔の中学数学でストップしているので、この記述が正しい保証はまったくない。しかし私の今の理解力ではこの記述はギャグに見える。そして、コストとリターンを一旦定義してしまえば、失敗はするもののリターンが大きいので何度も試すべきなのか、試行を繰り返すごとにコストばかりかかる、わりに合わないくじなのかが議論できるようになる。たしかに人間の損得勘定は現代の社会ではあまりにリスク回避側に偏っているために損をするという知見はあるので、それを引用すれば著者の言いたいことが説得力をもって伝えられるだろう。 (松井)

「成功確率が一%ならば、あと九九回挑戦すれば、求めていた結果が得られる期待値計算になる。」 (p413)

「釣り」なのだろうか。自己啓発本であれば「100回やれば必ず成功する!」というマインドでも良いのかもしれないが、確率というものはそうではない…。明らかな誤りである。
成功確率が一%の場合、100回挑戦しても、(0.99)^100≒0.366、つまり約37%の確率で100回全部失敗するのである。つまり、100回挑戦しても成功確率は約63%しかない。 (伊藤)

「考えたくないからといって悲観的シナリオから目をそむけているのは創造的な姿勢ではない」 (p416)

なにが創造的な姿勢かは限りなく主観的なものだ。悲観的なシナリオから目を背けながらも生まれた(私の感覚では)創造的なアイディアをいくつか紹介しよう。大戦末期はイノベーションの宝庫だ。ナチスドイツは敗戦というシナリオ濃厚だったが、Me262のような先進的なジェット戦闘機で爆撃機の迎撃をしようとしたり、戦況は変えられないことはおそらく知りつつもV2ミサイルで一矢報いようとしたりしており、これらの技術は終戦後の世界を形作った。旧日本軍は数々の希望的観測で「ユニークな」作戦を編み出した。そのなかには真珠湾攻撃のようにたまたま大成功してしまったものも、特攻のようなイノベーティブな(と表現せざるを得ないほど、自爆攻撃は第二次大戦以降世界各地で使われるポピュラーなものとなった。その前から存在していたにせよ、一般化するほどに普及させたのは日本軍の(恥ずべき)「功績」といってよいと思う)攻撃法もあるし、ちょっとした戦果をおさめたコンニャク風船爆弾のような特殊兵器、竹槍のような実際には使われなかったが当時のメンタリティの象徴として有名になったものもある。ナチスドイツにせよ旧日本軍にせよ、そんなおもちゃのような新兵器を開発して徒に双方の犠牲を増やすくらいならさっさと全面降伏すべきだった、それが悲観的シナリオを直視した際の創造的な姿勢だと後知恵ではいくらでもいえる。モアイ像にまつわる環境破壊には諸説あるが、モアイ像製造にあまりに莫大な森林資源を費やしてしまったために深刻な環境破壊に陥り、ヨーロッパ諸国に「発見」されたときには人口が激減していたという説がある(人口減の原因については奴隷狩りとその後の疫病によるものなど諸説あるが、森林伐採も関連しているのではないかとされていたと記憶する)。ナチスドイツや旧日本軍のような新兵器による戦況打開を狙う姿勢、イースター島の人々のような美?信仰?道楽により身を崩す姿勢を創造的でないと断じることは私にはできない。どうしてもこれを書きたいのなら、「考えたくないからといって悲観的シナリオから目をそむけているのは私がみなさんに望むような創造の姿勢ではない」などとしたほうがいいと思う。私はAだと考えていない、というのと、事実としてAではない、というのと、私はあなたにAだと考えてほしくない、というのは違う。 (松井)

「しかしこうした発想がSFや空想の中では数多描かれていて」 (p425)

「視覚的な思考力」を表現するのが文章による描写で良いのであれば、数ページ前の透視図法云々のくだりはまるで意味がなくなってしまう。またp427の図16-13のアルバトロス号の挿絵を描いたのはレオン・ベネットであり、ジュール・ベルヌ本人ではない。 (伊藤)

「成功組織には強いビジョンを持った人、すなわちビジョナリーがいるといわれている。」 (p426)

という話と「ディープラーニングなどの先端的AI技術は、CPUよりもGPUでの処理を多用している」というのは全く別の話である。 (伊藤)

「進化思考は、太刀川の言葉を借りれば」 (p432)

何故このフィクションにおける初出(前p431)では「Eisuke Tachikawa」と英文表記だったものをここで「太刀川」と和文表記するのか理解できない。わずか数ページの文章内で表記ゆれが発生してしまうのは良くない。 (伊藤)

「こうした適応圧にさらされた先には、意図したような知が自然発生する。」 (p440)

知の定義がよくわからない。他者が読み取ったものを知と表現しているのだろうか。

「細部に至る細かい配慮、過去から現在までの繋がりに対する敬意」 (p443)

が本書には足りていない。(伊藤)