20冊目 20歳の自分に受けさせたい文章講義
概要
項目 | 内容 |
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タイトル | 20歳の自分に受けさせたい文章講義 |
発表年 | 2012 |
読んだ日 | 2023/11/29 |
お勧め度 | ⭐️⭐️⭐️⭐️ |
読んだ理由
- Amp It Up 最高を超えるで文章力はいいぞって書いてあった。書く習慣 〜自分と人生が変わるいちばん大切な文章力〜に続いて2冊目。
- 考えを伝えるための文章の書き方を学ぶ。
狙い
- 文章力を上げる
- 文章を書く際の心の持ち方を学ぶ
実践
- 不特定多数への文章では、断定を意識的に使う。
→ 断定は、諸刃の刃だが、不特定多数が対象ならその中の誰かに刺されば良いから使っていく。 - 文章の構成で「主張→理由→事実」を意識する。
→ 主張、理由で止まることが多いので、事実を添えることを意識する。 - 「目からウロコが落ちる」要素は、全体の3割で十分だと思い、残り7割は「すでにわかっている」ことで良いと意識する。
→ 共感や納得の中に、凄い!が入ると良いと意識する。
刺さった言葉たち
文章の苦手な人が悩んでいるのは、「話せるのに書けない!」というもどかしさなのだ。
そう思う。リモートワークが普及して、対面コミュニケーションが減り思うのは、
ノンバーバルな情報(表情や仕草)がない中で、テキストコミュニケーションの難しさ。
「通話なら簡単に意図を伝えられるのに、テキストだと歪んでしまう」なんでだ・・・って気持ちはある。
言葉を話すとき、あなたは"テレビ"である。
一方、文章を書くときのあなたは"新聞"である。
なるほど〜、確かにその通り。
なので本書では、文章の作成とは、「会話や思考を翻訳すること」と言っている。
やっぱり、会話と文章は大きく大きく違うよね。
なぜ、若いうちに〝書く技術〟を身につけるべきなのか?
答えはひとつ、「書くこととは、考えること」だからである。
"書く技術"を身につけることは、そのまま"考える技術"を身につけることにつながるからである。
考える技術の重要性は、この本をまとめるのをやり始めてからひしひしと感じている。
そして、書く技術は考えをアウトプットすることであり、自分の思考とミックスさせることだと思う。
なので、この文章は自分にとって強く刺さるねぇ。
書くことをやめて"翻訳"するのである。
文章とは、つらつらと書くものではない。
頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に"翻訳"したものが文章なのである。
文章を書くとは、色々な思考を、相手に伝わるように翻訳する。
なので、この翻訳の仕方に注意を向ければ、文章力が上がる。
これは、やっぱりビジネス全般で使えるポータブルスキルだし、一生使うね!
「考えるために書きなさい」
いい言葉だな〜。
頭で考えるだけから、書き出し、翻訳する。これを習慣化すれば考える力も向上するし、文章力も上がる。
癖にしていきたい。
聞いた話を、誰かに話す。これは"翻訳"の第一歩だ。
取材に限らず、たとえば友達としゃべったことを誰かに話すのでもいい。
"翻訳"の基礎を身につけるために、ぜひ意識的にチャレンジしていただきたい。
翻訳の具体的な練習は、なんてことはない会話でもできる。
どんなことを意識して日々会話すると良いのかな〜?
話すことによってなにが得られるか?
ぼくは"3つの再"と呼んでいる。
①再構築:言葉にするプロセスで話の内容を再構築する
②再発見:語り手の真意を「こういうことだったのか!」と再発見する
③再認識:自分がどこに反応し、何を面白いと思ったのかを再認識する
分かるなぁ。文章書くと、自分の思考がクリアになるんだよね。
また、FBをもらいやすくなるのも利点。
再構築は、自分言葉でストーリーを描く行為で、再発見は他者の思考を改めて認識する行為で、再認識はそれを踏まえて自分で再度考える。
やはり文章化とそれを用いたFBの受領はとても重要な行為だと思う。
だから、文章力を学びたいんだ。
自分の言葉に"翻訳"する過程で、「あぁ、なるほどあの人の言っていることはこう言うことだったんだ!」と突然理解できる瞬間がある。
誰かから聞いた話を、別の誰かに伝えるとき、そこには必ず「私」というフィルターが入る。
そして自分の言葉に"翻訳"してみると、自分が話のどこにピントを合わせていたのか、あらためて思い知らされる。
3つの再の内容。これを見ると、誰かに伝えることの重要性が大きいと気づく。
例えば、自分のフィルタを通したときに、明らかにおかしい方向に行ってる場合、気づかせてくれる。
これを誰かに伝えないと、間違っている場合に戻れない。
これが結構危険なんだよな。。
「文体」とは"リズム"である。
文がおかしいのではなく、文と文の「つなげ方」や「展開の仕方」がおかしいとき、
その主張は支離滅裂になり、リズムよく読めなくなるのだ。
リズムが良い文章って確かにあるよね。
スラスラ読める文章。あれってなんだろう?って話。それは文章と文章のつながりや展開ね。確かに。
途中で詰まってしまうと、リズムよく読めない。
ここでようやく、次の問いが成り立つ。
「リズムのいい文章は、なぜ違和感なくスラスラと読めるのか?」 もう答えは簡単である。
支離滅裂なところがないからだ。
論理の軸がバッチリ定まって、論をうまく展開できているからだ。
文章のリズムを決めるのは、テンやマルではない。
韻を踏むことでも五七調に揃えることでもない。
センテンスの切り方でなければ、改行のタイミングでもない。
文章のリズムは、「論理展開」によって決まるのである。
小手先のテクニックではなく、文章の論理展開こそがリズムね〜!
この言い方は超好きだな。すごく腹落ちする。
接続詞を意識するだけで、文章は論理破綻しにくくなる。
接続詞の多用は忌み嫌われるけど、論理展開を確認するためにまず多用してみるのはありみたい。
この接続詞こそ、文章と文章をつなぎ、論理展開を導くので、これで確認して行くのが良さそう。
そして大切なのは”自分の意見”が完全な主観であり、感情だということだ。
文章という声も表情もないツールを使うかぎり、その”感情”は論理のレールに乗せてやらないと届かない。
われわれは”感情”を伝えたいからこそ、論理を使うのだ。”主観”を語るからこそ、客観を保つのだ。
あくまで自分の意見は主観で、他者から見ると異なると意識する。
しかしだからこそ、なるべく客観的も意識する。これで対話が成り立つ。
コミュニケーションの基本だよね。ここにインクルージョンが狙うべきものとしてはいるので、仕事はさらに難しい。
作成した文章をチェックする際、よく「音読しなさい」と言われる。
しかしぼくは、文章を書こうとする人の多くが、大事な視点を忘れている気がする。
それは、「読者は文章を"眼"で読んでいる」という事実だ。
われわれが新聞を読むとき、本を読むとき、メールを読むとき、耳を使って読むわけではない。
ときに音読することがあったとしても、基本的には黙読、つまり黙ったまま"眼"で読んでいるはずだ。
だとすれば、書き手の側も聴覚的なリズムを気にする前に、「視覚的リズム」を考えなければならない。
音読で、文章の論理的な詰まりは確認できるが、視覚的なリズムも存在する。
例えば文字が多すぎるとか、漢字が多すぎるとか、句読点がないとか。
これらは、見て確認するしかないってこと。
われわれは文章に向かい合うとき、「読む」より先に「見る」のだ。
ほんの一瞬のことかもしれないが、まずはページ全体を見る。
そして1行目に眼を移し、読むのである。
だとすれば書き手は、内容だけでなく「見た目」にも気を配らないといけない。
読んでもらうためには、論理展開だけではダメで、見た目に優しくないとってことね。
多くの文章のテクニックはこっちを語っている気がするね。
一文は40文字までとか、改行を使うとか、聞いたことある。
けどこの本は、まず論理展開、その後に見た目って形で説いてくれているんだなあ。
断定は諸刃の刃。納得する読み手には良いが、納得しない読み手は即離脱する可能性がある。
だから断定を使った文章では、いつも以上に論理の正確性が求められるのである。
特に断定した箇所の前後2~3行には細心の注意を払おう。
自信があるから断定するのではなく、自信を持つために断定する、というアプローチを考えてもいいのではなかろうか。
断定は自分もあまりしたくない。
だけど、書く習慣 〜自分と人生が変わるいちばん大切な文章力〜は文章は読む誰かに刺さればいいとも言っているため、不特定多数に届ける文章は断定を使っていってもいいのかもね。
特定の人に向けた文章なら、その人のことをイメージしながら断定を使うか。
映画の予告編は、ただ冒頭の数分を見せるのではなく、本編を短く再編集し、場合によっては一個の作品といえるくらいのクオリティで予告編を制作するのだ。
文章の導入も、全く同じだと考えるべきである。
いかにして読者の期待を煽り、本編まで読み進めてもらおうか。考えるのはそこだ。
映画の予告編は自分もめっちゃ好き。
あんなふうにまとめられたらって思うなぁ。
予告編の基本3パターン。
1 インパクト優先型
2 寸止め型
3 Q & A型
特に2は、もう少しで正体を突き止められる、
というギリギリのところまで情報を開示するのが、興味を惹きつけるポイントになるのである。
寸止め型で過去に勉強会で成功したことがあるので、たまーに使うw
論理的な文章のマトリョーシカは、次の3層になっている。
①大マトリョーシカ 主張……その文章を通じて訴えたい主張
②中マトリョーシカ 理由……主張を訴える理由
③小マトリョーシカ 事実……理由を補強する客観的事実
いちばん大きな「主張」の人形を開けると、なかにはちゃんと「理由」が入っている。
そして「理由」の人形を開けると、そこには小さな「事実」が入っている。
「主張→理由→事実」ね〜、意識しよう。
主張→理由で止まっていること結構あるから、事実を添えたい。
ここで考えなければならないのは「なぜ伝えるのか?」という自らへの問いかけである。
どうして文章などというまどろっこしい手段を用いて、多大な時間と労力を費やして、自分は書いているのか。
理由はただひとつ、読者を動かすためだ。
自分が有益だと思った情報を伝えることで、他者の心を動かし、考えを動かし、ひいては行動まで動かす。
文章を書くことは、他者を動かさんとする"力の行使"なのである。
文章を書くことは力の行使かぁ。
なんか凄い言葉だ。読む人の心と考えを動かしてr行動まで動かせる文章って相当すごい。
けど、これを意識して書くってことかなぁ。
想定する読者として、「10年前の自分」を考えてみると良い。
なぜ10年前の自分に向けて書くべきなのか?
今、この瞬間にも日本のどこかに「10年前のあなた」がいるからだ
これいい考え方だなぁ。
書く習慣 〜自分と人生が変わるいちばん大切な文章力〜でも言ってるけど、どこかの誰かが読んでハッピーになるって考えで書くのが良いっぽいね。
あらゆる人間に開かれた"平易な文章"ほど難しいものはない。
中学生でも分かるように書け、ですな〜
読者を"説得"するのではなく、"納得"させる、という方法だ。
「読者を動かす」という意味では共通しているものの、そのアプローチは全く異なっている。
説得:押しのアプローチ(読者を押し切る)
納得:引きのアプローチ(読者に歩み寄ってもらう)
納得させるアプローチっていいね。説得させようとすることが無理だよね。
起承転結のトラブルメーカーである"転"は、ほんの少し配置転換してあげることで
日常文でも大きな効果を発揮するのだ。
それが「起"転"承結」という流れである。
状況→展開→理由→結論という流れにすると、わかりやすいらしい。
文章には「自分の頭でわかったこと」以外は書いてはいけない。
これは本当にそう。わかって書いてないと、読んでいて読者側が不安になるからなぁ。
だから、文章を書くのって論理的に説明できるようにしないといけなくてめっちゃハードル高いんよな。
だけど、凄く勉強になる。続けていこう。
僕は「目からウロコが落ちる」要素は、全体の3割で十分だと思っている。
逆に言うと、残り7割は「すでにわかっている」ことでいいし、そうであるべきだと思っている。
なぜなら、われわれがノンフィクションの本に求めているのは、
「目からウロコが落ちる」ような体験だけではない。
ビジネス書や教養書、またそれに類する雑誌やブログの場合、
おそらく読者は次の3要素を求めている。
① 目からウロコ:「おぉ!!」「ええー!!」
② 背中を後押し:「そうそう」「よしよし」
③ 情報収集: 「ふむふむ」「なるほど」
おおー!これは目からウロコ!
確かに、いいこと言うなこの人!ってのをいっぱい入れるよりも、納得とか共感とかがあった方が安心感あるかも。
この視点は人生で一回も考えたことなかったかも。ありがたい!!
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