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ナイーブなデザインの進化3:フォークの歯はなぜ四本になったか(2章まで)

2024/04/25に公開


petroski, H., 忠平美幸 Trans. (en 1992; ja 2010) フォークの歯はなぜ四本になったか:実用品の進化論. 平凡社ライブラリー 693, 480p.

はじめに

デザインと進化学の関連について述べている一般書における進化学理解についてまとめる必要性を感じている。

  • 初回は太刀川英輔 (2021) 進化思考,
  • 第二回はLongo, G. (2009) Epistemological Turn,
  • この第三回はヘンリー・ペトロスキー著『フォークの歯はなぜ四本になったか:実用品の進化論』、原題The Evolution of Useful Things (1992)をとりあげる。

この文章はその読書記録。主な目的は進化学との不整合、デザインの本に蔓延するナイーブな進化観を明らかにすることだが、その過程でいくつかの誤訳にも触れている。Takramの田川さんと谷口さんによるTakram CastのInnovation Discovery - Episode 3 -フォークの歯はなぜ四本になったかを聞いてから読むと面白いかもしれない。

題名

この邦題は色々な意味で問題があるように思う。

  • もとの題は「フォークの歯はなぜ四本になったか」ではなく"The Evolution of Useful Things", つまり副題「実用品の進化論」である。原題を副題とすることじたいは訳書として許容される範囲の変更だと思うが、
  • この邦題は第一章の訳と同一だ。その第一章は原著では"How the Fork Got its Tines"であり、「フォークの歯はどのような経緯でこうなったか」くらいの意味であり、"フォークの歯はなぜ四本になったか"とは言っていない
  • 最後に、フォークの歯は四本になっていない。一本でフォークと呼ぶものはもうない(というかいつの時代もない)が、2、3、4、5本歯のものは現存する。単純に、明らかに間違っていることをなぜ題名にしたのだろう、そしてなぜ誰もそこを突っ込まないのだろうか…
  • また、チェイン的(AからBに、BからCに、そしてDに到達した)なのも進化の観点からいうと問題であるように思う

ということで訳者というかおそらくこの題名を強要したのではないかと思われる出版社はこのTikTokを見るべきだ:
https://www.tiktok.com/@jackie.mack/video/6810444953223728390?is_copy_url=1&is_from_webapp=v1&lang=en

Onek...

第一章 フォークの歯は四本になっていないのでは…

一つの人工物の進化の足跡をたどった
—— p6

人工物は進化しないが設計は進化しうるという区別はわりと重要だと思うのだが、そのへんがグズグズなのがこのあたりのナイーブな進化観を採用したデザインの一般書の特徴だ。

人工物が人工物から進化するように、書物も書物から進化する
—— p7

デネット(1995)の有名な司書は図書館がもうひとつの図書館を作るための方策に過ぎない A scholar is just a library's way of making another libraryのほうがたくさんのコンセプトを内包していて濃い。

ウンベルト・エーコ[...]はこう断言した。『今日われわれが使っている道具はすべて、先史時代の初期に作られたモノを基盤としている』
—— p14

この本を読んでると例の本のおもしろ記述のもとがたまに見つかる。「あらゆる創造は、共通の目的を持つ原始的な創造を起源として世の中に出現する」 (進化思考:p277)

切るための鋭利なフリントと、突き刺すためのとがった枝。この2つが合体し進化して
—— p16

たしかに合流したとしか言えないようなデザインというのはたくさんあるが、ナイフの成り立ちとしては憶測の域を超えない。

p31のあたりのエラスムスの行儀作法本やリシュリュー枢機卿のエピソードは、暴力の人類史p148あたりでもほとんど同じように取り上げられているのが面白い。

スプーンの製造に金属の鋳造が導入されると、くぼみの形は自然のままの形状に束縛されず、したがって顕在化した欠点に対応して、また流行に合わせて自由に変えることができた
—— p34

ここの訳文は少しおかしい。原著は:

With the introduction of metal casting to make spoons, the shape of bowls was not limited to those naturally occurring in nature and thus could evolve freely in response to real or perceived shortcomings, and to fashion.
—— The Evolution of Useful Things, PDF: p20

なので、椀の部分の形は自然に生じた形状に拘束されなくなったため、実際の、もしくは認識された欠点や流行に応じて自由に進化することができるようになったくらいがよいのではないか。

淑女の手引きLadies' Guide to True Politeness and Perfect Manners
—— p38

[…]出版された』とはいえ、『多くの人びとは[…] Thoughなので「とはいえ」ではなく「にもかかわらず」だろう。
—— p39

「形は機能にしたがう」説はそんなにおかしいのか

p43では、有名な 「形は機能にしたがう」という説が不適切だ ということをまとめて述べている。その論拠として、食べ物を口に運ぶというidenticalなデザイン上の問題を解決するのに、箸を採用した東洋とスプーン・ナイフ・フォークを採用した西洋でこんなにも違うのだから、こういう決定論的な主張overly deterministic argumentをくつがえすreally demolishesとする。

食器類のような一見単純そうなモノについて、その形がいかに進化してきたかを想像してみるとはっきりわかるのは、人工物が今あるような形になった経緯を理解するための支配的原理として、「形は機能にしたがう」説が不適切だということである。ナイフとフォークの形がどのように進化してきたか、ましてや食べ物を口に運ぶというまったく同じデザイン上の問題を解決するのに、東洋の文化と西洋の文化でどれほど多様な方法がとられてきたかをよくよく考えれば、実際、あらゆる決定論的な主張はくつがえされる。食べるという基本的な問題に対する答は、明らかにただ一つではないのだから
—— p43

このパラグラフは本章で最も重要な部分であり、「形は機能にしたがう」説の否定は本書の根幹を成す主張のひとつだ。このパラグラフ以外は「カトラリーよもやま話」なので、もしこのパラグラフをいきなり読んで理解できるなら、ほかは読み飛ばしてもいいのではと私は思う。しかし、本書の根幹を成す主張のひとつにもかかわらずいくつかの点でよくわからない、説得力に欠ける主張だ。

  • まず、形は機能に従うform follows function説は、私の理解だと事象を説明する「説」ではなく、このようにデザイン「すべき」だという行動規範だ。Wikipediaにもルイス・サリヴァンが考えついたmaximだよ、と説明されている。つまり、あらゆる形はよくよくみると機能に従っているのだ、という現実の説明ではなく、あなたが作りたいその形はあなたが実現したいと意図した目的を達成するような機能を第一に考えようね、という教育的なガイドラインだ
  • とはいえ、この点を議論しても仕方ない。著者はここでFFFunc説を前者の文脈で使っている。つまり、FFFunc説は「あらゆる人工物の形はよくよくみると機能に従っているのだ」、という主張であると解釈することにする
  • しかし、それでもこの主張はおかしい。「あらゆる人工物の形はよくよくみると機能に従っているのだ」という観察は、「ある単一のデザイン上の問題を解決するときには、古今東西どこでも同じ解決法に至るはずだ」という主張を内包している/推論に自然に拡大できるとは思えない。さすがにFFFunc説支持者もそんなことは言っていないと思うので、藁人形論法のそしりを免れないのではないか
  • また、「食べ物を口に運ぶというまったく同じデザイン上の問題」という記述もかなり恣意的に思える。箸とフォークでやってることまったく同じかなぁ…。西洋と東洋で食べるものも習慣も違うのだから、同じデザイン上の問題とはいえないと思う。西洋と東洋で食べ物を口に運ぶ行為がまったく同じデザイン上の問題だとしたら、ラーメンを食べるときもカレーを食べるときもケーキを食べるときも同じデザイン上の問題ということになる。建物はほとんど例外なく雨風を凌ぐというデザイン上の問題を解いていると思うが、だからといって建築とは「雨風を凌ぐというまったく同じデザイン上の問題」とひとくくりにしたらさすがに建築家は白目をむくだろう。カトラリーもそうだ。箸とフォークはたくさんの点で「同じ」だし、たくさんの点で「異なって」いるので、どこにフレームを設けるかの問題になる。これも藁人形論法というか牽強付会という印象がある。

決定論的な主張overly deterministic argumentかどうかについては、私が決定論をいまいち理解しきれていないので触れない

p45「それとも、人工物は生物体と同じく、より大きな相関性のなかで個々がそれなりの目的を持っているから、進化の途上で増殖し多様化するのだろうか?」うーん、意味がわからない。原文にあたってみよう。

Or do artifacts multiply and diversify in an evolutionary way as naturally as do living organisms, each having its purpose in some wider scheme of things?
—— The Evolution of Useful Things, PDF: p24

私なら次のように訳す:

それとも、人工物は生物と同じくらい自然に、進化的なプロセスを経て増殖・多様化するのだろうか、分岐したそれぞれの枝の先はそれぞれの目的を得るが、どれも等しくより壮大な策動のなかで?

いや、同レベルにめちゃくちゃな訳になってしまった…ともかく、ここでペトロスキーは生物種それぞれにそれぞれのpurposeがあると述べているように読める。違う?違わんよな…?しかもそれらはより壮大な策動wider schemeのなかにある、とする。生物進化はたしかにそれぞれの種よりも壮大な、マクロなものだが、別に企みがあるわけではない。デューク大学教授、こんなスロッピーな理解で進化を論じているのか?1992年に?そんなことある?そして極東のデザイナーはこれをありがたがって読んでいるわけ?21世紀に?私の訳が間違っていることを望む。

第二章  形は失敗にしたがわないのでは…

1章は最重要と思われるパラグラフの論は説得力に欠けるし、最後のパラグラフにはかなりまずい記述があり相当微妙な読書体験だった。しかしそこだけをあげつらってほとんど必読書扱いされている本書をここで断念するわけにはいかないので第二章も読む。

ひとことで言えば、それらにはまだ足りないところがある — p46

例の本でも何度かでてきた、あらゆる人工物は完璧ではなく不足している点があるという主張だ。それはそうなんだけど…。そして、こういった記述をオリジナルと思われるこの本で読むとやはり少し違った趣がある。「現状よりも上の存在があるはず」という態度に、どうしてもキリスト教的な梯子を感じ取ってしまう。われわれはけだものを経由して天使を、天を目指して日々研鑽するのだが、どうしてもたどり着けないのだ、的な。


Fig. 18. The Lullian Staircase. Raymond Lull, De Nova Logica. Valencia, 1512. Reproduced from The Cosmographical Glass by S. K. Heninger, The Huntington Library, 1977: 161." source

その後も本章では「完璧なデザイン」についてさまざまな方法で論じているが、なぜここまで完璧なデザインとその不在についてこだわるのか私にはよくわからなかった。完璧なデザインがないこと、そこにたどり着けないことがどう重要なのかがわからない。私に響かないだけで、完璧なデザインがありうると思っている人がたくさんいるのだろうか…?先史的な、非常に初歩的なデザインから完璧なデザインへとつながるひとつながりの梯子、というモデルがまず受け入れられない。進化を論じるなら梯子を登っていくことではなく枝分かれにこそ注目すべきだと思う。現生する生物種に優劣はないという文脈で、「すべての現生する生物種は等しく素晴らしい、絶滅せずにそれぞれが適応し、生き延びられるようになっているのだから」みたいなことをドーキンスが利己的な遺伝子で言っていた気がする…のだが、該当する記述を見つけられなかった。

ともかく、デザインの世界でもハーバート・サイモンのsatisficingという考えがある。

「satisfy (満足させる)」と「suffice (十分である)」を掛け合わせた言葉で、「不満なく事足りている (good enough である)」状態を表わしています。限定合理性 (bounded rationality) の研究で知られる認知心理学者のハーバート・サイモン氏 (Herbert Simon) による造語と言われ、人は課題解決において自ずと達成希望水準を設定していて、限定された条件下で手っ取り早くその水準以上の解決が成されればそこで満足しがちである (それ以上の理想の追求はしない)
—— Accessible & Usable (2016) 「satisficing」を考える. Accessed 2022-07-18

生物の進化においてもこのsatisficingという考えは適用できるように思う。特に有名なのが擬態や毒だろう。とても精巧な擬態やとても強い毒は、そこまで磨き上げなければいけなかったから生じたものだ。つまり、擬態を見破ろうとしたり毒を解毒してしまおうとする相手との競争が起きて、淘汰圧がそこまでかかり続けた結果、軍拡競争的に発達し獲得したデザインだからだ。逆に、こんなんで擬態の効果あるのか?本当に擬態か?と疑ってしまうような擬態もあるが、それでも彼らには十分satisficingだったのだ。なので、完璧など定義せずとも、good enoughといえるところまではみな適応度地形をかけあがるが、種内にせよ種間にせよそういった淘汰圧がかからなくなったとたんにそこは(局所的にせよ)最適解といってよいように思う。

こんな図をみつけた。本書もおそらく似たようなことを考えているのではないかと思う:


Lucy Collins (2022) Satisficing: how users browse online. Accessed 2022-07-18

この図にも賛成できない…。いや、ちゃうんすよ、別に私、ひとさまの作ったもの全てに文句をつけてまわりたいわけではないんですよ。単に進化とデザインの関連になるとろくな言説がないだけなんです。許して!

まず、横軸がeffortならば、valueのあがりかたはeffortに対して学習/試行錯誤して獲得するものなので、価値との関係は学習曲線のようなS字曲線[1]のような曲線になるのではないか:


Whitney Johnson (2022) Manage Your Organization as a Portfolio of Learning Curves. Harvard Business Review. Accessed 2022-07-20

S字の曲線はイノベーションの浸透、シェアの上がり方をモデルするところから始まったらしいが、学習曲線としても知られる。学びはじめはわけが分からず効率の悪い努力を繰り返し、あまり効果もあがらないが、しばらくするとなんとか学んだことがさらなる理解を生み、学習が加速する(収穫逓増)。学習が大きく進展する。それもいつまでもは続かず、かんたんに学べるところ(low hanging fruits)はだいたい学習しつくしてしまい、だんだん学習の効率が悪くなってくる(収穫逓減)。それがS字のシグモイド的なカーブを描く、というものだ。

じつは学習曲線は、S字に加え小文字のrのような曲線もありうる。Mastery Curveと呼ばれるものはHype cycleのようなものを含むさまざまな形で表現されるが、League of legendsでは小文字のrのように勝率があがっていくことが示されている。文化進化での「誘導された変異」におけるシェアのあがりかたも同様の曲線になるが、関連はちょっとわからない…。あちらはfrequencyだし、あまりないのかとも思う。

https://twitter.com/blaustoise/status/1075515580570980352

つぎに縦軸のValueが気に入らない。本書もまた、これは適応度で考えるべきだ。Valueだと主観的なので。

完璧とか失敗とかのふわふわ用語を適応度地形で考える

ここで、「ナイーブなデザインの進化1で『最適に向かう』の類の言説を強く批判してたじゃん」と思われるかもしれない。局所最適解と全体最適解はちがう。莫大なデザイン空間(©Dennett (1995))のなかでの最適にむかうのではなく、それぞれのエージェントが、多峰性の適応度地形をすべっていて、たどり着ける範囲での山によじ登りに行くという理解のほうがずっといいと思う。ここで、局所的ながらまわりよりも高く、丘のようになっている部分がsatisficingな地形だ。

https://www.youtube.com/watch?t=29&v=4pdiAneMMhU

シューアル・ライト(1932)による適応度地形のメタファーは非常にわかりやすいわりにかなり面白いコンセプトを伝えられると思う。詳しくはWikipedia(en, ja)とか見てください。進化について定性的に考える上ではとても強力だと思うのだが、残念ながらデザイン系で進化を扱うときに登場しているのを見たことがない。私が本章について述べたいことは、この適応度地形を使うと非常にかんたんに表現できる。適応度地形の強力なメタファーで、「形は失敗にしたがう」「形は機能にしたがう」「なにものも完璧ではない」という本書の主張が進化の観点からはおかしいということを説明する。

形は失敗にしたがう…のか?

デザインの進化での「失敗」はどう定義できるだろうか。この本の「失敗」はかなり特殊(後述)なので、一般的な意味からは離れているように思う。失敗とはまずは悪性の変異、有害な変異のことだと私は思う。昔からある方法、ほどほどにうまくやれる方法ではなく、思いつきで何かを変えたせいで失敗する場合だ。ここではそのような失敗を次の図のような4つに分けて考えてみる。

思いついた人ideatorやその思いつきをコピーした実行者の利益と、思いつき/アイディア/デザイン/ミーム🐛ideaの利益。A:思いついた人も思いつきも利益を得る(繁栄する)。B:思いついた人は被害を被るが思いつきは利益を得る。C:思いついた人は利益を得るが思いつきは衰える。D:思いついた人も思いつきもひどいめにあう。ほんとうは思いついた人と思いつきをコピーした人の間でも利益が一致しない場合があるし、有益でも有害でもない中立なものがあるので、もう少し複雑になるが…

  1. 思いつきがたくさん増え、思いついた人にもなんらかの利益がある場合(A)。これが思いつきにとっての最もわかりやすい「成功」だ。
  2. デザインが変異によって繁栄しなくなってしまう場合(C, D)。これはCの場合もDの場合も思いつきにとっては失敗だろう。デザインが思いついた者を傷つけ、不利益を与えた結果、自らの繁栄を阻害するDの場合は文句なしに失敗だ。アイディアを脳に巣食う寄生者だと捉えるならこれは寄生者が宿主を殺してしまう状況であり、しかもその行為が寄生者の不利益につながる。Cについては難しい。あるのか?
  3. デザインが思いついたものを傷つけ不利益を与えるが、自らの繁栄をむしろたすける場合。まねっこ自殺copycat suicideのようなmaladaptiveな行動や、宗教における殉教などが該当する。
  4. そのデザイン/アイディアが、人命に関わるような個体学習の失敗の例

形は失敗にしたがうのか?言い換えれば、人工物の形質(形状などの特徴)は、上で定義したような失敗(C, D)によってその変化がドライブされるのだろうか?

そうではなさそう

そもそも、本書の文脈での「失敗」はCやDのことではなく、「改善の余地」でしかない なぜ改善の余地を失敗というのかわからないが「改善の余地」を適応度地形で考えると、大域最適と局所最適の標高の差自分の登っている山よりも大きな、離れた場所の山に登るには、次の条件が揃っていないといけない設計もしくはそのエージェントが標高差を認識する?→設計は自らのデザイン空間について無知。彼らを増やすエージェントである設計者が認識する必要がある。テレポートする?シューアルライトもテレポートについてはシフティングバランス理論として主張している。ボイドとリチャーソンもそれについて研究している(文化進化の数理 p149)が、群淘汰なのであんまり深入りしたくない…。認識しなくても、いろいろ試していたら登れる場合がある(アレグザンダーと関連して)

「よりよい」の定義が私(適応度地形)とペトロスキーで違う。ペトロスキーはあくまで「利用者にとって」使いやすい、とりまわしやすい、長持ちする…などのよさを議論している。ミームそれ自身の真偽にかかわらず、伝播しやすさ・増殖しやすさがミームの性能を決めるように、使いにくくても広まりやすいデザインは「失敗」なのか?というと、上の定義に照らすとそんなことはない。宗教のごとき、「それ自体は繁栄するので強いが人にとっては(人によっては!)望ましくない」悪性のデザインには、タバコ、反ワクチンなどがあげられるし、人によってはスマホ(ながら歩きで死ねるので)やポケモンゴー(かなりの人を殺したすごいアプリ)も入るだろう。

なにものも完璧ではない…のか?

適応度地形はふつう、最大ふたつの連続的な形質について有限な範囲に限定して議論するのでこの概念を議論するのにはむかないかもしれないが、デザイン空間は莫大(「天文学的に大きいが有限の可能性」)なので、いまの

バベル図書館PPP図とデネットの可能性の図の関連PPP図は未来にむいている デネットのは未来にも過去にも使える 過去から、未来にどれくらいありうるの?という話になる

つぎに、「どんなものでも改良できる」という考えについても適応度地形で考えてみる。ボディプランの変更は基本的に何百万年あっても不可能我々は6本脚になれない飛べれば「よいはず」だが我々は飛べないので欠陥がある、というのはよく考えるとヘン 飛べれば本当に「よいはず」なのか?何をよいとするか→少なくともあなたの主観ではない。適応度で考えるしかない 設計も一緒 なにがよいかはあなたのなかにある、ともいえるが、むしろあなたのなかにはない。適応度で測る じゃあ適応度を確実にあげるような変化(不死とか、ガンにならない象さんとか)

強いて表現すれば、「形は成功にしたがう」がよいと私は思う。しかしこれも誤解を生むので、無理にアフォリズムっぽさをもたせようとせずに私の考えを記述すると次のようになる:

ある特定のカテゴリに属する人工物の平均的な特徴は、時系列的にその変遷を追っていくと、そのときどきでよりたくさんの正確な複製やまがいものをうんでいるようなデザインとわかちがたく結びついている(よりたくさんの複製やまがいものを生む原因となっているような)形質を追っている(followしている)かのようにみえる。

なんと回りくどいのか…。しかし科学的に妥当に記述しようとすると、得てしてアフォリズムのフォーマットにはならないのは仕方がない。

脚注
  1. もしくは小文字のrもありうる。後述 ↩︎

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