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まずは自己紹介

2024/03/21に公開

今はエンジニアとして働いていますが、もともとは、ゲームクリエイターを目指していました。

ゲームクリエイターを目指したきっかけはマインクラフトがあります。このゲームに出会ったのは、たしか小学4年生のころ、Youtubeでゲーム実況を見ていた際にたまたま現れました。明確にどの実況か忘れたけれど、自由気ままにマインクラフト方向音痴のマインクラフトのどっちかだった気がする。
このマイクラの実況を見続けて こんなに自由度が高いゲームがあるんだ!! という驚きと感動で沼にハマっていきました。
 そして、小学5年生から自分でもゲームをしたいと思い、親に買ってくれと頼んだところ そんな外国のゲームなんて買わない と断られ、渋々無料制限版(90分?ぐらいまでしか遊べない)を1年くらい何度も遊びまくりました。いきなり、テクスチャーパックをマリオ版に変えたりして、わけわかんないまま遊んでました。

んで、無料版を1年くらいやりまくった頃、親に泣き落としを使って渋々買ってもらいました。(確か2000円くらい)そこから毎日マイクラをやりまくって、回路とかTT(トラップタワー)とか色々とサバイバルモードで楽しみました。ここらへんでもう 将来はマイクラみたいな自由度の高いゲームをつくりたい!! って思いができてゲームクリエイターを目指し始めました。

そして、小学6年生の時に職業体験という自分の夢にあった職業体験ができるという行事がありました。その時に、自分はゲームクリエイターになりたい!と先生に伝え、ITの専門学校を紹介されました。その専門学校では、職業体験でゲームを作ろう!という感じで、scratchでゲームを作る体験をしました。小学生なので、アイワナみたいなクソゲーを作って発表してました。
職業体験とは別で、小学生の時はRPGツクールで設定値がバグったしょうもないRPGゲームを作ったり、ワザップでポケモンの裏技を使ってがくしゅうそうちを増やしたり、コードフリークでDSソフト内でチートを使いまくってました。

時は経ち、中学生になり、このころからマイクラで村人増殖バグというものを知ってハマっていました。そもそもの村人に興味を持ち始めたきっかけは茸さんという実況者の~もう俺、村人でいいや~という村を発展させる作品です。話を戻し、村人増殖バグとは、村の地下にドアを詰めまくり、それを家として判定させることで村が発展している様に錯覚させて村人を増やすというバグです。(今使えるかは知らない)
この村人増殖バグから、村人を100人以上くらいに増やしていたと思います。そして、ここから ただ村人を増やすだけじゃなくて、家をこだわりたいな という思いが芽生えました。三角屋根にしてみたり、窓をかっこよくしてみたり色々と試行錯誤が始まりました。
この試行錯誤をおこなっていた中、テクスチャーパックを変更する手があることに気づき、色々と変更を試みます。例えば、HalcyonDaysだったり、TEX-Dだったり使ってたと思います。(淡い記憶)ここから、建築の楽しさが加速し、どっぷり沼にはまっていきます。部活から帰宅したら、なによりも先にマイクラをする生活をしてました。

しかし、建築をする中で大きな問題が、圧倒的な資材不足に襲われること。このことがとてもストレスで、中2からはサバイバルモードを利用せず、クリエイティブモードで遊ぶようになりました。また、建築が楽しいとなっていたので、村人の存在は消え去っていきました。そして、もっと建築をこだわりたいなと思い、World EditというMODを入れたり、影MODを入れるようになります。

また時が経ち、高校生になりました。相変わらず、マイクラにハマる毎日。しかし新たなストレスが派生。それは、MODを入れるのに対してPCのスペックが低いこと。このことが原因で設定では軽くしているのですが、fpsが1桁が普通みたいな状態になっていました。流石にまずいなと思い、親に相談したところゲーミングのディスクトップPCを買ってもらえることになりました。(18万円くらいだった気がする)
ま話が前後しますが中学もゲームクリエイターの夢は変わっていなかったため、ゲームクリエイターになれる近道の 工業高校(情報系)に進学しました 。ここから、プログラムの勉強が始まります。

プログラムはC言語で、本当に基礎の基礎から学びました。高校1年生から週に1度は実習という形で、先生からこういう条件が成り立つコードを自分で考えてという課題が出され、先生に考えた フローチャートコード を説明するという授業がありました。自分はコードを考えるのに抵抗がない方だったので割とスラスラといけていた記憶があります。そして、実際にVisual Studioでコードを書いて、出力結果を先生に見せてOKをもらえればクリアという感じでした。んで、課題内容からフローチャート、コード、出力結果諸々をレポートとしてまとめて翌週まで提出みたいなことが毎週ありました。
蛇足ですが、実習はプログラムだけでなく全加算器のような回路を作成したり、はんだづけをしたりすることもありました。
この高校生活から、専門的な学習が始まります。

高校生になり、もうひとつ始まったことがあります。それは、X(旧:Twitter)です。スマホを持ち始め、Twitterという存在を知り、マイクラで建築しているものを発信し始めます。それが、このアカウントです。今は、稼働していないですが、今まで作った作品が見れます。ここで、日本中のマイクラ建築勢と繋がり始め、一緒に建築を楽しんだり、FF外からPvPのワールド作成を頼まれたり、より 刺激のある環境になりました

そして、高3の春、転機が訪れます。高校でも、ゲームクリエイターを目指していたため、高1からHAL東京という専門学校に定期的に足を運び、学校説明会を受けていました。ここに行けばゲームクリエイターになれる!とずっと思い続け、高校2~3の春休みにOCがあったため参加をしました。この時、学校説明の最後に 「本当にやる気のある人だけ来てください」 という重い言葉を受け、即レスでいくぞ!と思えない自分に違和感を感じました。この根源として、自分で 本当はゲームクリエイターになりたいわけじゃないんじゃないか ということに気が付き、専門学校から大学に行くことに方向を転換しました。(幸いなことに評定はクラス1を取れていたため、指定校で大学進学ができました)

ここから、大学生活です。大学1年は、高校で学んだ専門知識でプログラムの科目等を無双していました。その代わり、数3等学んでない科目は友達に助けてもらい、ギリギリで生きていました。

大学2年の春、また転機が訪れます。それは、コロナの存在。コロナで、授業もなかなか開始されず、将来への不安が募り始めました。また、2年からは専門的な実験も始まりどうなるのだろうという不安が重なっていました。この不安から、自分で勉強を進めなければ という思いが芽生え、Webの勉強をし始めます。Webの勉強をし始めたのは、学科の授業で扱われない、個人で稼ぎやすい技術の2点が理由です。ここから大学に頼らず、自分で学び、稼ごうと思い フリーランスを目指し始めます

Twitterで、今日の目標・積み上げをツイートしてとにかくアウトプットすることに注力していました。また、技術を学ぶ中で感じたことをツイートしたりしていました。
若干脱線ですが、今となっては教材のカモにされたなと反省していますが、7万円ほどの買い切りのオンライン教材も買っていました。

この日々の積み上げで、段々と自分に自信がついていき、ただの誰かのプログラムを真似るだけではだめだと感じて、人の役に立ちつつ学ぼうと思い始めました 。この時、InstagramでSFFという福島の団体を知り、ここなら自分も力になれそうという思いで、勢いでDMを飛ばしました。その結果、 ちょうどエンジニアが足りていなくイベントページを制作して欲しい という言葉をいただき、力になれることになりました。ページデザインから任され、不安なことがいっぱいでしたがなんとか作成することが出来ました。
この一件で、とりあえずWebの知識は人の役に立つレベルに達したなと判断して大学2年の終わりにひと区切りつけました。

大学3年生からはゼミに入り、画像処理の勉強を始めました。画像処理は思った以上に学ぶことが多く、いまだに力はついていないなと感じています。

また、大学3年の夏から就活が始まり、自分が改めて何の技術に興味があるのだろうという問いをするようになりました。マインドマップを書いたり、他己分析をしてもらったり色々としました。その結果、実は 小学生の頃からSFのような非現実な空間に関心が高い ことに気づきました。例えば、電脳コイルであったり、サマーウォーズが挙げられます。このことから、自分はXRに興味があるんだなと気づきました。

そして、XR関連のことが行えるエンジニアを目指し、無事今はXRに関するエンジニアになれました。

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