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【二次創作】学習の中動態的悦び #サロメ百万展

2022/09/26に公開約4,900字

すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するものは、血で書かれたものだけだ。

血をもって書け。

そうすれば、あなたは血が精神だということを経験するだろう。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ「読むことと書くこと」『ツァラトゥストラはこう言った』第一部 [1]

壱百満天原サロメ「一、十、百、千、………満天サロメ!!!!!!!」
壱百満天原サロメ「皆様方を壱百万点の笑顔にさせますわ💘💘」
壱百満天原サロメ「いつかお嬢様になりたい、今はまだ一般人系Vtuber。」
壱百満天原サロメ「壱百満天原サロメでございますわ~!!!!!

壱百満天原サロメ「それでは、本日は学習の中動態的悦びというテーマで」
壱百満天原サロメ「お話して参りますわ~。」

壱百満天原サロメ「そもそも、なぜこのテーマでお話しようとしたのかと言いますと」
壱百満天原サロメ「(情報)技術者が休日に勉強するということに関して、定期的にネットで話題になるのでございますが」
壱百満天原サロメ「個人的に思ったことがあったからです。」

「強いエンジニアは結局休日に勉強してるじゃん」って思うけど
https://rabspice.hatenablog.com/entry/2022/03/28/000158

休日でもつよつよエンジニアは勉強してる。勉強しないと不安が止まらない病を倒すために必要なこと⚔️
https://zenn.dev/hagakun_dev/articles/2b40cacdf557dd

壱百満天原サロメ「これを読んでおりますと、初心者とね、熟達者の間で、『努力』に対する感覚の違いが気になりましたわ。」

https://twitter.com/mizchi/status/1508238095442841602

https://twitter.com/mizchi/status/1508240152610582529

壱百満天原サロメ「これを読んでおりますと、初心者とね、熟達者の間で、『努力』に対する感覚の違いが気になりましたの。」
壱百満天原サロメ「一言でいいますと、勉強について、≪中動態的な悦び≫が重要だと思いましたわ~。」

壱百満天原サロメ「ここで突然、中動態の話に入るのですけれども」
壱百満天原サロメ「熟達者、エキスパートと言われる人は、中動態的な悦びを駆動力にしていると思いますのよね。」
壱百満天原サロメ「中動態とは、何かについては」
壱百満天原サロメ「國分功一郎様の御本『中動態の世界 意志と責任の考古学』を御覧くださいましー。(丸投げ)」
壱百満天原サロメ「とはいっても、いくらなんでも、丸投げが過ぎますので!」
壱百満天原サロメ「ここで、中動態について、軽く説明しますわ~。」

壱百満天原サロメ「中動態とは、態の一種ですわ。」
壱百満天原サロメ「態といっても、ふつうは、受動態、能動態が有名かと思いますけれども」
壱百満天原サロメ「中動態は、昔、インド=ヨーロッパ語に存在していましたわ~。」
壱百満天原サロメ「具体的には、古代ギリシア語やサンスクリット語ですわ。」
壱百満天原サロメ「では、中動態の定義とは、こちらですわ!」

主語と過程との関係にかかわる一つの区別が現れてくる。
能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。
これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座〔siège〕となるような過程を表している。
つまり、主語は過程の内部にある。[2]

壱百満天原サロメ「要するに!」
壱百満天原サロメ「主語が、動詞のプロセスの外か内かにあるかで能動態、中動態が分かれるのでございますわ。」
壱百満天原サロメ「例えば、ギリシア語の 『曲げる Φεῦγει(フェゲイ)』は能動態しかない動詞ですが」
壱百満天原サロメ「曲げるプロセスは、主語の外で完結していますわね。」
壱百満天原サロメ「それに対して、『欲する βοῦλομαι(ブーロマイ)」は同じくギリシア語の中動態の例です。」
壱百満天原サロメ「これは心の中から起こる欲望のことですわ。欲望によって突き動かされる過程に主語がございますわ。」

壱百満天原サロメ「ここで、話題がクソ変わって、『論語』についてお話しますわ~。」
壱百満天原サロメ「論語、そう孔子の論語ですわ。」
壱百満天原サロメ「次に上げるのは、論語の學而(がくじ)第一の冒頭の部分ですわ。」

子曰、
學而時習之、不亦說乎。
有朋自遠方來、不亦樂乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。

壱百満天原サロメ「こちらの『學而時習之』の部分ですが、伝統的には、『学んで適当な時期に復習する』のように解釈します。」
壱百満天原サロメ「その解釈に異を唱えたのが、安冨歩博士ですわ。[3]
壱百満天原サロメ「安冨博士は、経済学者なのですけど、老子や論語について独自の見解を持った方で」
壱百満天原サロメ「上の論語の學而第一の冒頭部分を次のように、『超訳』されています。」

(書き下し文)

子曰く、學んで、時にこれに習う。また說(よろかば)しからずや。
朋、遠方より來たるあり。また樂しからずや。
人、知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや。

(安冨歩超訳)

何かを学ぶことは危険な行為だ。
なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから。
しかし、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、
あるとき、ふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。
学んだことを自分自身のものとして、感覚を取り戻す。
それが「習う」ということだ。それはまさに悦びではないか。

学習の悦びは、しばらく連絡もしていないような旧友が、遠くから突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。
この悦びほど、人間にとって大切なものはない。

学習の悦びを知っている人は、それを知らない人を見ると、
「なんてくだらないヤツだ」
と思ってしまいがちだ。
しかし、そういうときにも、心を乱さないでいる人が、「君子」なのだ。[4]

壱百満天原サロメ「安冨さんは、本のなかでは、『中動態』ということには、特には書いていらっしゃらないんですけど」
壱百満天原サロメ「この論語の「学ぶ」「習う」の解釈は、中動態的であることがわかると思いますわ。」
壱百満天原サロメ「一旦、外の異物として、知識を学ぶ」
壱百満天原サロメ「そして或る時、理解が起きて、知識が自分自身のものになって、感覚を取り戻す。」
壱百満天原サロメ「という過程が、主体(主語)を として発生する。」
壱百満天原サロメ「自家薬籠中の物にするということですわね。」
壱百満天原サロメ「このような中動態的な論語解釈の例として、安冨博士流の解釈を紹介させていただきますわ。」

壱百満天原サロメ「そして、この学習の中動態的な悦びというのは、哲学者の國分功一郎さん、千葉雅也さんも語られていますわ。」

國分功一郎
「僕も中動態プロジェクトのためにアテネ・フランセに通ったんだけど、
途中は大変でも、だんだん勉強自体が快楽になっていくわけですね。
「あっ、この例文読めるじゃん」とか、「ああ、これもうわかった」とかね。
勉強って本当に「強いて勉める」ですね。
よく「勉強って楽しい!」みたいなスローガンがあるけど、ウソだと思うんだ。
勉強は大変だし、キツい。絶対つらい。
けれども、そのつらい作業を少し続けると、ある時、わかったという喜びが確実にある。
楽しいと呼べるのはそこだと思う。
勉強の成果が出て何かが理解できた時。
その喜びは何ものにも代えがたいし、その喜びを知るとやめられなくなる。」

千葉雅也
「中毒性ですよね。勉強は依存症的なものであるから(笑)、
やっぱり中動態なんですよ。」

國分功一郎
「確かに人間はプロジェクトする存在だけれども、その中には中動態的な喜びがあり、
そして勉強はその中でも格別の喜びを与えてくれる中動態的な営みであるということかもしれません。」[5]

壱百満天原サロメ「プログラマーの世界でも同じで、熟達した技術者というのは、中動態的な快楽を知って、中毒状態になっている人ではないかしら。」
壱百満天原サロメ「でも、もし、学習の快楽に目覚めたとしても、」
壱百満天原サロメ「人、知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや。」
壱百満天原サロメ「学習の快楽をしらない人を馬鹿にしない君子でありたいものですわね。」

まとめ

  • 中動態は、動詞が主語がその座となるような過程を表している。
  • 論語 學而第一の安冨流解釈では、中動態的な解釈がなされていると言える。
    • 一旦、自分の外部の知識を受け入れ、それがあるときに自分のものとなる。その時に悦びが生まれる。
  • 熟達者とは、中動態的な悦びを学習の駆動力にしている人である。
  • 論語 學而第一の安冨流解釈では、君子は、自分は中動態的な悦びを知っているが、知らない人を見下さない。

過去に書いた哲学系の記事

https://zenn.dev/purenium/articles/logisch-philosophische-abhandlung-weltanschauung

https://youtu.be/AniQdstq4KM
脚注
  1. 『ツァラトゥストラはこう言った (上)』p.62 - 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b246790.html ↩︎

  2. 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』 - 医学書院 p.88 https://www.igaku-shoin.co.jp/book/detail/87748 ↩︎

  3. 以下、安冨歩(2012年)『生きるための論語』(ちくま新書)p.15 からの引用 [ https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480066589/ ]
    ======================================================
    『【金谷訳】先生が言われた、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。
    〔そのたびに理解が深まって向上していくのだから〕。
    だれか友だちが遠い所からも訪ねて来る、いかにも楽しいことだね。
    〔同じ道について語りあえるから。〕
    人が分かってくれなくとも気にかけない、いかにも君子だね。
    〔凡人にはできないことだから。〕」』
    しかし私は、このような解釈ではしっくりこない、と思う。
    というのも、私はそもそも勉強が嫌いだからである。その上、復習や練習はもっと嫌いであり、そんなことをやっても、よろこばしくなったりしない。それに、人が認めてくれるかどうかという問題に言及している段階で、あまり立派な感じがしない。学問というのは、そういうものではない。
    勉強や復習をして、それ自体で、よろこばしくなる人は、どのくらいいるのだろうか。
    もしいるとすればその方に、「それは本当によろこばしいのですか」と私は聞きたい。
    ====================================================== ↩︎

  4. 安冨歩(2012年)『超訳 論語』ディスカヴァー・トゥエンティワン pp.1-3 ↩︎

  5. 國分功一郎, 千葉雅也(2021年)『言語が消滅する前に (幻冬舎新書)』幻冬舎 電子版 ↩︎

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