Cosenseのススメ ブラケティングとは何か
要約
- Cosenseは学びの工学装置
- 学びは 注目と中断 = 再注目可能な注目 の反復
- ブラケティングは再注目可能な注目のエレガントな実装
- ブラケティングは注目のプレースホルダ
- ブラケティングは再注目のためのセーブポイント
前回: Cosenseのススメ 序論
道具とは、工学とは
ある道具が工学的に最適化されているとは、どういうことだろうか。いったん、道具の性能が最大化するように設計されている、ということだとしよう。性能が最大化しているとは何か。
移動のための道具として、自転車を例に挙げよう。舗装された道の移動に関して、自転車は二足歩行よりも最適化されている。歩行と比較して、移動のためのコスト ―― つまり時間や体力 ―― に対して、移動の成果 ―― 距離 ―― が大きくなっている。移動できる距離が長くなるのと同時に、出せる最高速度も上がる。自転車を使わない場合、速さを求めて全力疾走すれば、すぐに息切れして距離が短くなるし、長い距離を移動しようと思えば、ペースを守ったり、休息を取ったりして、時間を多く使うだろう。最適化とは、ある状態におけるこのようなトレードオフに対して、両方を同時に改善する。つまり、パレート境界を破壊し、描きかえる。どんなにトレーニングを積んでも、短距離走のタイムは頭打ちになるし、休みなしにマラソンできる距離も限界がある。自転車に乗った一般人は、マラソン選手に勝つ。
Cosenseは、学びの工学装置だと述べた。では、Cosenseは学びの何のコストを改善し、何の成果を最大化するのだろうか。
学びのプロセス
Cosenseのはたらきを理解するために、まずは学びのプロセスを詳細に見ていこう。
私たちが学んでいる限り、未知との遭遇は日常である。今、既存の表現ではとらえきれない、何かと出会ったとしよう。未知だ。普通、人は忙しい。詳しくは知らないが危険そうでもない、つまり生き死にに関係ないと"知っている"ものは、単に無視してしまうだろう。無視している意識すらないはずだ。それは背景に埋没している。
そこをあえて、注目してみる。これは何か。あなたはそれを表現する術を持たない。それについて誰かと話したことがない。何に似ているだろう?例えばそう、これは草だ、と思う。草だ。雑草だろう。雑草といえどいろいろある。もっと具体的には何なのだろう?調べてみると、チドメグサというのに似ているかもしれない。止血作用がある民間薬として使われたこともある、とあるが本当だろうか?白い小さな花をつけるという。
チドメグサは、人類全体で見れば、いやもしかするとあなたの身の回りの範囲でも、既に名の知れた植物であるかもしれない。だが同時に、あなた自身にとって、今まさに未知が既知に転じたのである。どのようなプロセスだっただろう?まず、それに注目する。仮の表現を得る。草、庭に生えてた草、葉っぱが密集してる、かわいい形の葉っぱの草。その表現の追求は、どこまででも具体的になれるが、それを一時中断する。いったんそれから離れて、分析が始まる。便利な時代で、写真を撮って画像検索すれば答えが出るのだが、機械化されたプロセスをもう少し掘り下げてみよう。まずは既存の知識にあるか確認するために、見た目などの特徴を抽出して、当てはまるものを検索する。つまり、詳しそうな人を連れてきて聞いてみたり、辞典を開いてみたりする。見つからなければ、検索範囲を広げていく。それでもなお見つからなければ、新種の可能性もあるだろうか。その先の調査についての詳細は、植物の専門家ではないので割愛させてほしい。
この流れを一段抽象化してみよう。まず何かに注目する。それが未知を含むと認識する。未知について仮説を立てる。情報を集める。仮説と情報を照らし合わせ、検証する。集めた情報が体験と結びつく。かわいい葉っぱ、という視覚の記憶に、チドメグサの音が結びつく。さらにそこに、止血作用、という情報が結びつく。血止め草、という漢字も連想されるかもしれない。かわいい葉っぱに、血の赤とそれを癒す落ち着きのイメージが重なる。情報の探究と検証には際限がないので、現実の要請により、どこかで中断されるだろう。あなたはまた、些事を無視するモードに戻る。しかしそこには、新しい知識と、それに紐づく体験と、そのさらに外側の未知が加わっている。もう一度その草を見たとき、「あ、止血の草だ。ほんとに効くか知らんけど」などと思うはずだ。それを教えてくれたデバイスの画面、あるいは人の顔まで思い浮かぶかもしれない。あなたの世界は一つ解像度を上げ、豊かになる。
学びは、注目、体験、中断、の3工程に分けることができる。まず、何かに焦点を合わせる。学びの対象として注目する。次に、それに対して感覚を開き、あの手この手で情報を集め、味わう。対象を体験する。体験には終わりがない。言葉による表現がどこまでも具体的になりえるように、体験による表現もどこまでも深めることができる。現実には、人間の側に限界がある。そこで最後の工程、中断が必要になる。その対象を完全に理解しつくせてはいない。理解しつくせることはない。それでも、最初に注目した時より、いくらか理解が深まっている。完全でないが、徒労でもない。それを受け入れる。
学びのプロセスの限界は何で決まるのだろう?私はそれを、認知負荷と表現したい。
少しシミュレーションしてみよう。今、あなたの夕食の献立に注目する。まずは昨日。何を食べただろうか。続いて一昨日。何を食べただろうか。続いて、というように、できるだけ遠くの日まで、全て思い出してほしい。次に、その全てを、何日先まで覚えていられるか、予想してみよう。もしかすると、これを読んでいるうちに、既に何日分か忘れてしまったのではないだろうか。では、昨日の献立1日分であればどうだろう。いくらか、長く覚えていられる気がしないだろうか。
このように、注目する対象が多いほど、覚えていることが――つまり、注目し続けていることが難しくなる。これは、運ぶ荷物が重いほど、長く持っていられないことと似ている。この認知的な負荷を、そのまま認知負荷と表現したい。
普段、私たちは、道端の雑草に注目しない。そこに認知負荷があるからだ。私たちはもっと重要なものに注目したがる。コスパが大事なのだ。しかし、実のところ、あるものが重要かどうかというのは、既存の経験から推測しているに過ぎない。そこに、学びの限界がある。
Cosenseは、かかる認知負荷と、扱う情報の複雑さのトレードオフを破壊する。
- ある面では、Cosenseは、覚えておける量を増やす。その裏では、Cosenseは、再注目にかかる認知負荷を下げている。
- ある面では、Cosenseは、連想できる量を増やす。その裏では、Cosenseは、検索にかかる時間を短くしている。
- ある面では、Cosenseは、注目の切り替えを速くする。その裏では、Cosenseは、関係を表現するコストを下げている。
つまりCosenseを使えば、より大量の情報を、より簡単に扱えるのだ。そのことが、注目できる対象を増やし、人間の学びの限界を引き上げる。その中核をなす機能が、ブラケティングである。
ブラケティングとは
余談から。ブラケティング (bracketing)は、bracketの動名詞だ。ブラケットは腕木という部品で、L字型の金具が一般的なようである。転じて、角括弧記号[]
のことを英語でブラケットと呼ぶ。Cosenseでは、角括弧で囲む動作をブラケットの動詞で表現し、その動作の名前をそのまま動名詞ブラケティングと表現しているようだ(脚注: TeXやwikiの歴史に詳しい人がいたら、正確な語源や歴史を教えてほしい)。
角括弧記号[]
で囲むと何が起こるのだろう。もし既にCosenseに興味津々であれば、さっそく無料プランをスタートして、手元で試してみてほしい。体験を共有できていれば伝達が容易だからだ。
さて、たとえばリンゴを囲ってみよう。[リンゴ]。
説明のために、同じ文章を2行書いている。下の行にはカーソルをあてている。記述としてはどちらも完全に同じで、[リンゴ]
と角括弧で囲んだ状態だ。
これで、リンクができる。リンクとは何か?またメッセージが増えてしまうな。今日はブラケティングについて説明している。
まだあなたのCosenseにリンゴが存在しない時、それは赤くなる。既に存在すれば、青くなる。赤は完全なる未知で、青は既知の可能性がある。私は表現の話をしている。
ブラケティングは注目のプレースホルダ
プレースホルダは ―― やめておこう。これも中断である。
日常の中で、あなたは何ともなしにCosenseを開くことができる。この瞬間、あなたがあなたの生活を見る目は少しだけ変わっている。日記のようなものと思ってほしい。普段は直ちに忘れてしまう、何気ないことに、もう一度目を向けてみる。学びの第一段階、注目である。
Cosenseで注目を為すアクションはいくつかある。一つは、ここが気になるな、という部分を後から範囲選択してブラケティングする方法だ。とりあえず適当に書いてみて、後から注目するのである。
もう一つは、おもむろにページ作成ボタンを押し、またはブラケティングの[]
を用意して、とりあえず注目してみることである。これは新しいぞ、というものに、受け入れるためのスペースを作る。注目のプレースホルダである。スペースを作ったら、なんだかわからないが、とりあえず仮のタイトルをつけてあげる。タイトルが決まらなければ、タイトルについては適当に中断して、本文を書いてみる。なぜそこに注目したくなったか、思うまま書けばよい。この、Cosenseに何かを加えていく行為は、すべて体験である。雪だまを転がすように、体験は繰り広げられる。書きたいことがなくなったら中断すればよい。体験に最低ノルマやサイズ制限はなく、両端にはナンセンスな極限だけがある。今、気持ちのよいところで中断すればよいだけだ。大事なものは必ずいずれ再注目される。
もし書いている途中で、その中に注目したいものが出てきたら、さらにブラケティングできる。ここで、あなたは直ちにその(赤または青の)リンクをクリックし、それに注目して、体験を始めてもよい。このとき同時に、リンク元の体験は中断している。または、そのリンクによる注目の方を即座に中断して、元の体験に戻ってもよい(単に続きを書くことにより)。もちろんどちらも中断して、Cosenseを閉じてもよい。中断したページは、また開けば、いつでも再開できる。Cosenseに書いたものに認知負荷はかからない。忘れるのは人間の特性だ。
ブラケティングしたとき、過去に似た表現があれば、サジェストされる。一致する表現があれば、青リンクになる。もちろん、いつでも、今の体験を中断して、青リンクに注目してよい。クリックすれば中身が見える。このようなブラケティングの機能により、過去、自分がどのような体験の中でそれに注目したのかが、自然と集まってくるようになっている。芋づる式に、体験と体験が結びつき、点と点が面に、面と面が立体に、立体と立体が時空になって、世界として立ち上がっていく。具体的に言えば、リンゴと、オレンジと、ブドウを食べてフルーツをなんとなく理解するように、体験と、体験と、体験をつなげ統合して、あなたの世界をなんとなく理解できる。理解により表現は豊かさを増す。これが学びである。
さて、プレースホルダについて再開しよう。赤リンクや、タイトルのないページは、ある種のプレースホルダである。そこに何かある、の、何かだ。ここで中断しておいても構わないし、すぐに説明を加えても構わない。プレースホルダはやがて、意味のある表現に置き換わる。体験を共有できたところで、語義を説明しよう。プレースホルダとは、値や情報を後で入力するために、一時的に置いておくための変数のことである。
オートコンプリートと 2hop-link による再開
実のところ、注目は認知負荷を大して求めない。それはもともと、息をするように可能である。では、何が負荷になるのか。認知負荷は、再注目のために注目を続けることにかかっている。
これが、紙や従来型の電子メモがうまく認知負荷を下げられなかった要因でもある。
普通、メモを活用するには、まずメモを取り出さなければならない。すなわち、必要な時に、再注目できる必要がある。このような特性を、再注目可能な注目 と呼ぶことにしよう。内容の詳細はともかくとして、どこにメモされているかを覚えておかなければ、必要な時に取り出せない。
つまり、メモは注目の対象を減らすが、ゼロにすることはできない。再注目のために、何か一部を覚えておかなければならないのだ。
検索機能は再注目に必要な注目の対象をさらに減らすだろう。
チドメグサを忘れたとき、「チドメグサ」という名前を憶えているだろうか?従来型の検索はテキスト一致型が主であるが、タイトル一致検索の成功率は十分ではない。
チドメグサは、認知負荷を下げて思い出せそうな既存の表現にするとなんだったか。知らん草である。しかし、本文が「草」にテキスト一致するメモは、いずれ多くなりすぎる。メモはそこに埋没する。埋没すると注目にコストがかかる。
そもそもメモを探し出すというのがよくない。探すためには、見つけられるような何かを覚えておいて、思い出す必要がある。それによる成否を確認する必要もある。はたして見つかったこれは目当てのメモなのか、否か?その判断にも認知負荷がかかる。これが再注目のコストである。
典型的には、再注目のコストを下げるために、ふさわしい索引や構造を先に用意して、その中にメモを分類・整理する。辞書はあいうえお順だし、辞典にも索引が付いている。同時に、価値あるものを見つけやすいように、価値の低そうな情報はノイズとして片付けて、捨ててしまう。ここに機会損失がある。中断できずに、学ぶ前の思い込みの状態で、情報の取捨選択を強要される。これではそもそも注目をしなかったのと同じである。このようにして、再注目のコストは注目のコストに跳ね返り、やがて注目そのものが抑制され、学びは閉ざされてしまう。[整理圧は学びの芽を摘む]のだ。
Cosenseはちがう。Cosenseは様々な角度から再注目を機械化し、人間側の負担を減らしている。一つの共通する鍵は、連想である。
人間の脳は連想が得意である。色と色が同じ。形と形が同じ。抽象化して同じグループに入るものを、人は関連付けて覚えている。つまり、連想は情報を扱う行為の中でも、認知負荷が低い。Cosenseはここに着目している。
Cosenseが再注目を助ける機能を、3つ紹介しよう。インクリメンタルサーチ、オートコンプリート、2hop-linkである。冗長になってしまうので、それぞれの詳細は割愛する。実際に体験してみてほしい。
チドメグサの例に戻ろう。あの時注目したものは、何はともあれ草だった気がする。検索して「草」のページを開く。すると、2hop-linkにより、関連ページに「10月2日の草」というページが表示される。それを見つけて、そういえばあれは秋のことであったと思い出す。開いてみるとドクダミとある。どうもこのページは違ったようだ。が、ドクダミに薬効のリンクがあった。薬効を介した2hopリンクにチドメグサが表示されている。そうだ。チドメグサというのではなかったか? あなたは思いだす。あなたはチドメグサへの再注目に成功した。
連想をたどるのは、検索クエリを作り出すのとは根本的に違う。先の例を、単純に草と薬効のAND検索ではないか、と感じるのは、草、薬効、という有効な枠組みを覚えていたからだ。さらに、草と薬効の2点だけで再注目が可能か、すなわち検索が成功するかは、結果論であって、事前にはわからないのである。
つまり、適切な検索クエリで見つけるのと、2hop-linkの連想を見ながらたどって思い出すのとは、認知負荷が全く異なるのである。あらかじめ覚えておくべき量や質が断絶している。とある詩を、母国語の文字で見ながら読み上げるのと、何も見ずに暗唱するのくらい難易度に差がある行為なのだ。
ブラケティングは、その動作の中に、インクリメンタルサーチとオートコンプリートを内包している。さらに、2hop-linkのためのインデックスでもある。それ以上小さくできない注目の表現でありながら、自動的に、再注目の条件をも整える。ブラケティングは、再注目可能な注目 という学びの根源的単位を美しく実装している。
注目は中断を求める。注目が実際に意味をなすには、つまり知ったことにするためには、中断の後に再注目ができなければならない。反復して暗記するだとか、検索しやすい構造にあてはめて整理するだとか。生身の人間では、そのようなまとまった認知負荷を投資して初めて、注目が注目として成立する。Cosenseでは違う。ブラケティングは注目のプレースホルダであり、同時に、再注目のセーブポイントだ。注目した瞬間、再注目の可能性が拓かれる。意味が生まれる閾値を超え、知った状態が即座に完成するのである。
注目した瞬間、同時に、再注目の入口が開かれる。右のペダルを踏んだら左のペダルが持ち上がるのと似ている。この円運動が、学びのプロセスを加速させる。そして、その注目=再注目準備を実現する行為が、極限まで小さく、素早く行えるものになっている。ブラケティング、つまり[
の1打鍵である。慣れてくると、ほとんど無意識に行えるのである。これは単純に効率が良いだけではなく、没頭に不可欠な要素でもある。
これまで、学びは覚えられる人の専売特許だった。再注目の認知負荷を下げる有効な方法が、覚える以外になかったからだ。
ブラケティングと一連の連想探索機能により、「反復して暗唱する」のような、認知負荷の高い持ち上げ動作が要らなくなる。意味を成す最小単位が小さくなることで、反復を時間的に分散させられるようにもなる。継続してさえいれば、いつか複雑なものを理解できる。ちょうど、移動に必要な条件の閾値を超えられず――徒歩では日帰りで往復できない、のような――家と庭にしか行けなかった人が、自転車に乗り、やがてバイクに乗り、行動範囲が爆発するときのように。そう、オーバヘッドが小さいと質的に変わるのだ。
下り坂の自転車のように
Cosenseは認知負荷が下がるよう設計されている。だから、利用者である私達は、特に何も考える必要はない。自転車のペダルを踏めば前に進む。Cosenseでブラケティングすれば学べる。現実には、上りも下りもあれば、カーブも分かれ道もある。学びの世界にもそれはある。だが怖れることはない。Cosenseの中では、いつでもどこでも中断ができるのだから。上りたいときに上ればいい。休みたいときは休めばいい。そうして積み上げた体験は、やがて臨界点を越える。体験と体験がとめどなく結びつきはじめる。下り坂だ。思考は翼を得たように広がり、飛び回り、あなたは自分の世界の豊かさを堪能する。Cosenseの中断は、自転車のブレーキとは違って、慣性も保存している。一度得たエネルギーが失われることはない。それは複利で増え続ける。やがてあなたは巨人の肩に至り、別の巨人の肩を経て、あなた自身が巨人となる。
このメッセージの中で、あなたの赤リンクはいくつ登場しただろうか。リンク。プレースホルダ。トレードオフ。パレート境界。オーバヘッド。あなたは何に注目しただろうか。[未知との遭遇は日常である]。[それは背景に埋没している]。[できあいの狭苦しいパズルではない]。[整理圧は学びの芽を摘む]。[注目は中断を求める]。何でも構わない。それがブラケティングされている限り、表現は未来に開かれる。たったいま体験できた意味にとどまることはない。またいつの日か、あなたはその表現と出会いなおすだろう。その文脈の中で、表現は、再度分かたれることになる。ブラケティングは、表現に命を吹き込むのだ。
知らん草が、かわいい葉っぱに、後に血止め草にもなるように。生きた表現はあなたの中で進化し続ける。それこそが学びであり、世界の豊かさの根源である。中断を恐れないようにしよう。判断を保留しよう。Cosenseがあれば、認知負荷はかからない。現実は、注目してくれる相手に心を開き、その真の姿を現す。それは同時に仮の姿でもある。学びには際限がない。あなたの感性だけが、その中でmake senseし続ける。その主体性が、あなたの世界を愛で満たしていく。
まとめ
ブラケティングは注目のプレースホルダだ。ブラケティングしておけば、注目した事実が記録される。あなた自身がそれを忘れても、しかるべき時にそれがサジェストされる。再注目が促されるのだ。注目と注目がリンクし、気づきは意味を成し、表現が表れる。川喜田二郎の言葉を借りれば、よい注目は、包括性を獲得する。そして優れたアイデアに成長する。Cosenseは学びを効率化することで、あなたの世界を広げてくれる。
はしがき
このメッセージをここまで読んだあなたは、このメッセージにしばし注目していた。そして読み終わったこのタイミングで、中断するのだろう。もし手元にCosenseがあれば、この記事のURLをメモしておくとよい。ついでに何か適当に、[学び]とか[Cosenseのよさ]とでもブラケティングしておくとよいだろう。
あなたが再びこのメッセージと出会うときには、よりいっそう深く内容を理解できるはずだ。そのときには、粗も見えるようになっているだろう。コメントで教えていただけると幸いである。
Cosenseが認知負荷を引き下げ、学習の効率と限界を同時に引き上げるメカニズムの中で、ブラケティングの貢献は大きい。体験を共有していないと言葉は無力であり、このメカニズムを伝えるのは大変難しいのだが、控えめに言ってこれは革命的な発明なのである。この発明を、ノウアスフィアの車輪と呼ぶのはどうだろうか?ノウアスフィアというのは――ここにもブラケティングができたらいいのだが。
Discussion