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エキスパートキャリア(AI)で15年間高給を稼ぎ続けた感想

2024/10/21に公開
シラクサの王の臣下ダモクレスは、
1日だけ玉座に就かせてもらった。

1日中宴会を楽しんでふと上を見ると、
髪の毛一本で鋭い剣が吊るしてあった。

駆け出しエンジニア時代、技術力を上げてバリバリカッコよく稼ぎたかった。

確かに技術力を上げた結果、給与は上がった。

だが最近、技術力を高めるべきか問われた時、うまく答えられなかった。

本心では言葉にならない思いがモヤモヤしていた。

お金が生まれる背景にはそれなりに複雑な状況があり、技術力を上げて高給を得ようとしている人は、高確率で何もわかっていない。

一言で言えば、ダモクレスの剣なのだ。

いつか聞かれた問いに対する答えの言語化。

TL;DR

技術力が高い状態は存在しない

技術力と言われているものの正体。それは、歴史を振り返れば分かる。逆説的だが、「技術力の高さ」とは普遍的でなく、それどころか、一貫性すらない概念のようだ。

1976年、パソコンが誕生したころ、技術力とはトランジスタやICを組み合わせる能力であった。

1985年、Windows以前、技術力とはOSをC言語で書きあげる能力であった。

1995年、Webアプリ以前、技術力とはGUIとDirectX。

2002年、MVC Frameworkの開発能力。

2012年、ディープラーニングが出来ること。

2015年、技術力とはクラウドに詳しいこと。

2023年、技術力とはLLMをAPI経由で呼べることだ。

つまりソフトウェアエンジニアリングにおける技術力とは、10年以上の一貫性を持たない概念なのである。

ということは、電気工学を極めた人は白物家電の衰退と共にリストラされているかもしれないし、COBOLで技術力が高かった人はメインフレーム室に大量のマニュアルと共に押し込められているし、LLMで活躍したあの人も10年後にはいないかもしれない。

それにもかかわらず、ここ50年、技術力の高さという空虚な概念は、人間たちを右往左往させている。

第一の分岐点

なぜ、人は存在しない幻を追い続けるのか?

それは、ユーザーがクリエイターになれるという誤解をしているからだと思う。

例えばOSSを使ったプログラミングをするとき

  • OSSを作った人→クリエイター
  • OSSを使う人→ユーザー

である。クリエイターとユーザーのスキルは方向性が違うので、ユーザーを極めてもクリエイターにはなれない。

音楽で考えると分かりやすい。いくらカバーが上手くなっても、作曲スキルは上がらない。

※我々が技術記事を書くのも、クリエイターになりたいという欲求の変形なのかもしれない。「ディープなクリエイターへの憧れ」である。

※まずエンジニアをこれから始める人にとっての分岐点はここなんじゃないかなと思う。要は、オリジナルでディープな技術を発明したいなら商業的なものや、二次創作的な活動から距離を置かなければいけないのだと思う。

第二の道

筆者は、ディープなクリエイターではない。

  • 最初は電気工学的なトランジスタの電圧や電流の計算にやっきになり
  • Unixがどう作られているかをC言語で再現しようとして無駄に苦しみ
  • QtGUIフレームワークやDirectXに四苦八苦し
  • Springの新しいバージョンが出るたびにマイケル・ファウラーの本などを背伸びして読んで
  • Hadoopを家に立てて遊んで
  • Deep Learningが出ればすぐGPUを買いluaという謎言語でtorchを動かし
  • 去年もlangchainが出るや否や無駄にすぐ呼べるようになった

という、踊らされやすい愚者である。

どれも過去の技術で、技術力が高いとはもはや誰にも言われない。

全ての技術は忘れ去られ、自分の評価は下がってゆくだろう。そしてそれは世界が進化している証拠、喜ぶべきことでしかない。

つはものどもが、夢の跡。俺にマウンティングしてきたあの人《好敵手》もあの人《好敵手》も、今はかつての覇気を喪い、静かに過去を反芻している。世界が彼らを置いてけぼりにして、進化してしまったから。

分岐点からはふたつの道が伸びている。第一の道はディープなクリエイターの道。狭く、危険な道。我々は第二の道の住人である。その道には多数のユーザーがひしめき、押し合いへし合い、第一の道から吹き荒れる嵐に翻弄される。

ならば踊れ。この空虚な世界、忘却の塵を、舞い散らせる風が吹く世界で、虚空に吸い込まれるその束の間の一瞬を。

どうで死ぬ身のひと踊り。俺は「踊ること」「コピーバンド」で金を稼いできたのである。

消費社会へ迷い込む

僕は作曲もするが、音楽ジャンルを生み出す側か気まぐれなリスナーかと言えば、後者である。

そもそも全く新しい音楽ジャンルなど数えるほどしかない。そこにたどり着けるのは、選ばれしもののみである。

だが、音楽市場を支えているのは、圧倒的に大多数の気まぐれなリスナーだ。

今流行っているからEDMで踊っているのであって、EDMを作る能力が低いと言われてもピンと来ないというか、きょとんとしてしまうだろう。

しかしそんな消費社会へと迷い込んだ一般的エンジニアである僕から第一の道を眺めれば、技術力概念の一貫性というのは怪しいものである。

というのは、

  • パソコン時代
  • Windows時代
  • Webアプリ時代
  • ビッグデータ時代
  • ディープラーニング時代
  • 生成AI時代

において、そのときどきでもてはやされ神のように崇められている人間は単純に別人なのである(ウォズニアック・ゲイツ・アイク・ファウラー・カティング・ヒントン・サツケヴァー)。

自分から見ると、自分たち国内100万人の普通のエンジニアは、技術的な「フェス」のようなものが毎年あって、ステージに上がっている今年のトリのアーティストは毎年違うのだが、それに気づかずにその年を代表する音楽でノっている大多数のモブだ。

もちろん趣味であれば2024年現在も小難しいプログレバンドで難解なオリジナル曲をやってよいのだが、ライトリスナーをターゲットにドサ回りをしている商業バンド、すなわち仕事でやるのであれば、今年のヒットチャートが気になるものなのである。

極論、普通のエンジニアが技術をキャッチアップするのは技術トレンドの消費に過ぎない。それは極めてポップな営みであり、オリジナルバンドというよりはコピーバンドのありかたである。ポップでキャッチーな技術トレンドを消費することこそが、我々が仕事で求められていることなのである。

ディープラーニングでモデルをいちはやく学習したいときに、OSのプロセスコールに詳しくなることは求められていないのである。これは単に、EDMが流行っているときにフォークソングを演奏しても客がしらけてしまうのと同じである。仕事で求められるのはEDMをやることである。

するとお金がもらえる。

技術のユーザーである普通のエンジニアにディープな技術力は無いし、それは残念なことですらない。ハッキリ言って、X(Twitter)で流れている技術情報など全部ポップでキャッチーなものでしかない。当たり前だが、ポップでキャッチーだからこそバズるのである。定義上、バズっている時点でディープでイマージェントな技術ではありえない。

ディープな技術の発明を目指すなら、いるべき世界はポップの世界ではない。研究所やOSSコミュニティがメインの居場所だし、極論エンジニアとして働いていない有名人だっている。有名OSSの多くが非商業的なプロジェクトであったり、ボランティアによって保守されている。あまり金銭を軸に活動内容を決めるべきではないだろう。

中途半端は良くない。

第二の分岐点:過酷な競争

消費社会へ迷い込めば誰でもお金をもらえるかというと、そんなことはない。そこには競争がある。

うまいコピーバンドとへたなコピーバンドは、ある。

ポップなコピーバンドで一発当て太郎に、何よりも必要なのは「速度」である。

速度を上げるには、適切なラーニングとアンラーニング(忘れること)が重要である。

短距離走が速くなるには、ハムストリングス等の速筋繊維を増やさなければいけない。投擲力を高めるには、大腿四頭筋等の速筋繊維を増やさなければいけない。解像度高く、目的に沿った部位の筋力を強化し、それ以外は重さを削ぎ落とさなければならない。

エンジニアにとっての筋トレは基礎の勉強だ。

OSを理解する際にはfseekを理解しなければならないし、ディープラーニングを理解する際にはSGDを理解しなければならないのは当然だろう。

それ以外の知識はアンラーンする。

ここで重要なのは、アンラーニングが先で、ラーニングが後ということ。知識を入れる容量を空け、関心ベクトルの向きを合わせたりしなければならない。そうしなければ、人間はたやすく混乱してしまう。

解像度を上げるのは、速くなるためである。楽しみながら解像度を上げるのは素晴らしい。楽しむことは必要要素とさえ言えるが、いずれはアンラーニングしなければいけない宿命。コピーバンドをやるのはラクではない。

ランナーズ・ハイ

こんな感じに競争に勝つと、いよいよ売れ始める。

売れるとはどういうことか。全ての技術が再現出来ると"思われる"ことである。

売れるとはどういうことか。脳内に収まり切らない大量の情報を、覚えては忘れ続けることだ。

売れるとはどういうことか。罪悪感を抱えながら、人の発明したもので食い繋いでいくことだ。

売れるとはどういうことか。会社の全員から相談がひっきりなしに舞い込むことである。

売れるとはどういうことか。技術が陳腐化し才能が枯渇しても、期待に応えるため走り続けることである。

売れるとはどういうことか。それは死ぬまで誰かの曲を演奏し続けなければならない地獄である。

第三の分岐点

技術的なバブルが終わるたびに考えるのだが、どこでも「降りられる」。これが第三の分岐点。

このまま走り続けられるのか?精神と肉体に限界が来て、次の技術に追いつけなくなることが怖い。

例えるなら高速道路でパーキングエリアに寄ろうとしながらも、うまく車線変更出来ないので次のパーキングエリアに期待する。そんなシチュエーションみたいだ。第三の分岐点の誘惑は何度だって来る。

漏れそうなのだが、もう少し我慢できる気もする。だが自分がパーキングエリアに寄れることは本当にあるのだろうか?

それは分からないまま、競争は続いていく。

新しい景色

商業エンジニアの世界をくだらない世界だと思うだろうか?

僕にはむしろこれが心地良い。

コピーバンドはくだらなくない。くだらないのは芸術家ぶったそのエゴだ。

それは地獄なんかじゃない。地獄は、その人次第で地獄にも天国にもなる。

自分の曲があるのにそれを封印し、年280回のドサ回りでひたすら求められるカバーをやっていた竹原ピストルさんのインタビューを読んで欲しい。

人前で歌うのが好きで好きでたまんないから
ステージに上がるんですよ。
だから、歌う内容なんてどうだっていいんですよ。本来ね。
何でもいいの。
自分が作った曲でもいいし、カバーでもいいし、
何でもいいし、
その場においていちばん喜んでもらえそうなやつをやる。
「だって俺は歌いたいだけなんだもん」

なんてカッコいいミュージシャンなんだろう。

僕にもその景色が見えかけている気がする。僕もまだステージに上がり続けたい。その果てに、冒頭の彼に、君も走るんだと自信を持って言い聞かせられる世界に、きっと辿り着く。

だからまだ、パーキングエリアには寄らないで我慢している。

🚗走り続ける人はいいねお願いします🚗

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