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アジャイル開発の課題を経営課題として捉える〜人的資本経営とFAST〜

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はじめに

みなさんは、良いプロダクトを作っていくために、良い組織を作りたいと考えたことはありますか?私は常にこのことについて頭を悩ませていますが、うまくいかないことだらけでいつも心が折れてしまいそうになります。

困り果てていた私は偶然「問題解決のジレンマ」と「5000の事例から導き出した 日本企業最後の伸びしろ 人的資本経営大全」という書籍を手に取りました。そして、その書籍から得た知見をこの組織を良くしていくことに使えるのではないかと考えました。組織をよくしたいと悩んでいるそこのあなた!この記事を読むことで、新たな武器を1つ手に入れられるかもしれません。

こちらがその書籍になります。この記事を読んで興味を持った方はぜひ手にとってみてください。超絶おすすめです。

https://str.toyokeizai.net/books/9784492557419/
https://str.toyokeizai.net/books/9784492534816/

なぜアジャイル開発はうまくいかないのか

突然ですが、みなさんの組織でアジャイル開発はうまく行っていますか?この問いに対して 「完璧にうまくやれています」 と答えられる人はそう多くないのではと思います。私もその一人で、常にもっと良くできるのではないかと頭を捻らせています。

アジャイル開発の導入は一筋縄ではいきません。例えば、スクラムを形式的に導入しても、自律的なチームは生まれず、振り返りは形骸化し、結局は従来の開発スタイルに戻ってしまうことがほとんどでしょう。そして、こうした状況に直面したとき、 「開発組織がもっと頑張らなければ」 と考えてしまうことが多いと思います。 しかし、それは間違いかもしれません。

例えば、アジャイル開発がうまくいかない理由として、人材を「資源」として管理しようとする考え方の方がまだ一般的ということが挙げられると思います。そういった環境では、自律性が認められず、失敗が許容されず、短期的な成果だけが重視される環境になりやすいです。そういった状況では、どんなフレームワークを導入しても表面的な変化に留まってしまい、本質的な変革は起きません。

そして、このアジャイル開発がうまく行かないという状況は、特にSaaS企業においてはより深刻です。SaaS企業ではプロダクト自体が事業の中核であり、企業価値そのものです。プロダクトの競争力が顧客獲得を決め、開発スピードや状況変化に素早く対応できるといった部分が市場での優位性を左右し、継続的な改善が顧客維持率に直結します。

開発組織の生産性、創造性、適応力が、直接的に企業の成長を決定すると言っても過言ではないと思っています。

そう考えたときに、アジャイル開発がうまくいかないのは、開発組織の課題ではなく、経営課題として捉えるべきなのです。

そうは言っても、開発組織だけでアジャイル開発を推進しようとしても、組織全体の文化や価値観が変わらなければ、いずれ壁にぶつかります。必要なのは、組織全体を巻き込んだ、根本的な変革です。では、その変革をどう進めればいいのでしょうか。

問題解決のジレンマ:アリとキリギリスの対立

この悩みにヒントを与えてくれた1冊目の書籍が冒頭で紹介した「問題解決のジレンマ」です。ここまで見てきたアジャイル開発の失敗は、実は問題解決のジレンマと呼ばれる構造的な問題の一例でした。書籍では、このジレンマを次のように説明しています。

PARTⅡでは、「問題解決」と「問題発見」のそれぞれに必要な価値観やスキルが異なるため、(狭義の)「問題解決」が得意な人は「問題発見」ができないという構造的なジレンマについて解説する。知(識)」が問題発見の妨げとなる「知(識)のジレンマ」、線を引くことが次の問題を発生させやすくする「閉じた系のジレンマ」、そして、「閉じた系」の「閉鎖性」故に次の問題の発見を遅らせるという、根本的な「問題解決のジレンマ」が存在するのである。

細谷 功. 問題解決のジレンマ―イグノランスマネジメント:無知の力 (Function). Kindle Edition.

これだけだと理解が難しいと思うので、開発現場の例で考えてみましょう。

  • (狭義の)問題解決:目の前のバグ修正、細かい仕様変更、短期的な機能追加
  • 本質的な問題解決:技術的負債の解消、アーキテクチャの改善、チームの学習、心理的安全性の構築

前者は、すでに見えている問題を片付けることに分類されます。これは評価されやすく成果が見えやすい、短期的で具体的で測定可能です。 一方、後者は、まだ見えていない問題を探し出すことに当たります。これは評価されにくく成果が見えにくい、長期的で抽象的で測定困難です。

だから、私たちは常に 「狭義の問題解決」 に追われ、 「問題発見+問題解決といった本質的な問題解決」 を先送りにしてしまいます。バグを修正することは評価されるが、バグが生まれにくいアーキテクチャを作ることは評価されない。機能を追加することは成果だが、チームの学習能力を高めることは成果として見えにくい。理解できない・分かりにくいことを避けてしまうという一面があります。

これが問題解決のジレンマの概要です。

アリの思考とキリギリスの思考

では、なぜこのようなジレンマが生まれるのでしょうか。書籍にかかれていたアリとキリギリスのアナロジーを使って考えてみます。

問題解決のジレンマを理解するには、 アリの思考(問題解決型)キリギリスの思考(問題発見型) の違いを知る必要があります。 この2つの思考には、3つの変換点があります。

変換点 アリの思考(問題解決型) キリギリスの思考(問題発見型)
ストック ⇔ フロー 知識を蓄積し、繰り返し効率的に使う。過去の経験やノウハウを資産として活用する。 知識を流動させ、常に新しいものを取り入れる。外部からの学びを重視し、既存の知識にとらわれない。
閉じた系 ⇔ 開いた系 既知の前提条件の中で、確実に問題を解決する。コントロール可能な範囲で最適化を目指す。 前提条件自体を疑い、外部環境との相互作用から未知の問題を発見する。不確実性を受け入れる。
固定次元 ⇔ 可変次元 決まった枠組み(ルール、プロセス、評価基準)の中で最適化する。2次元の世界で効率を追求する。 枠組み自体を問い直し、より高い次元から問題を捉え直す。2次元と3次元を行き来して、新しい視点を見つける。

ちなみに、このアナロジーはイソップ寓話から来ているが、そこで伝えられるメッセージとは異なっているため、そこは注意が必要です。書籍では以下のように記載されています。

アリとキリギリスのアナロジーは、有名なイソップ寓話から来ていることは言うまでもない。夏の間コツコツと働いて「蓄財」したアリは冬の間も困らず、夏の間「歌って踊って遊び呆けていた」キリギリスは何の蓄えもなく窮地に陥るという話であり、コツコツと働いて蓄えを増やすこと、いわばストックの重要性を教訓として教えるものである。

ここでは、こうしたこれまでの当たり前の価値観へのアンチテーゼを示す。

細谷 功. 問題解決のジレンマ―イグノランスマネジメント:無知の力 (Function). Kindle Edition.

なぜアリの思考が支配的なのか

学校でも会社でも、私たちは「アリの思考」を善として教えられてきました。計画的に、効率的に、確実にものごとを進めていく。バグを修正し、要件を満たし、納期を守る。大前提、これは間違いではありません。

しかし、この価値観が支配的になりすぎると、問題を発見する場面では逆に阻害要因となります。既存の枠組みの中で効率を追求するアリの思考では、枠組み自体を問い直すことができません。シングルループ学習、ダブルループ学習と呼ばれるのも近しい考え方です。ストック志向では、新しい知識を取り入れる余裕がなくなります。閉じた系では、外部からの変化に気づけません。

アジャイル開発は「キリギリスの思考」

ここで重要な気づきがあります。アジャイル開発は、本質的にキリギリス的な活動なのです。

継続的な実験と学習を繰り返すこと、レトロスペクティブでチームに潜む問題を見つけることなどは、キリギリスの思考と一致する部分も多くあります。

このような活動は、即座に成果が見えず、明日のリリースには直接貢献せず、評価されにくく、測定困難で、長期的な活動です。それでも、長期的にチームを存続させるためであったり、より良いプロダクト開発に向けて続けていかなければならない活動です。

周囲がアリなら、キリギリスは負ける

しかし、ここには深刻なジレンマがあります。

開発チームがキリギリス的な思考でアジャイル開発や組織改善に取り組もうとしても、周囲の組織がアリ的な価値観で動いていれば、負けてしまうのです。また、これは開発チーム内においても同じことが言えます。誰か一人がキリギリス的な思考で声を上げても、打ち消されてしまう可能性は往々にしてあります。

開発チームや一部の人間だけがキリギリスでいても、全体がアリの思考で動いていれば、「非効率」「理想論」として受け入れられることはありません。バグ修正よりもリファクタリングが、新機能追加よりもチーム改善が優先される日は来ません。

(なぜアリが勝つのかというロジックは凄くおもしろかったのですが、そこはぜひ書籍で)

それでも多様性を受け入れる

こういった状況で重要なのは、アリを排斥してキリギリスだけにすればいい、という話ではないということです。それぞれのタイプの違いを以下のように整理しました。

思考タイプ 組織での役割 いないとどうなるか
アリ 短期成果の達成、日々の業務遂行、効率的な問題解決 業務が回らない、目の前の課題が放置される
キリギリス 長期投資、イノベーション創出、未知の問題発見 変革が起きない、競争力を失う

アジャイル開発に詳しい人とそうでない人、長期投資を重視する人と短期成果を求める人、どちらも必要な人材です。こうした多様性を受け入れた上で、うまく やっていく。それが、これからの組織に求められることです。二者択一になってしまってはいけません。

問題は、「アリの思考」だけが善とされ、「キリギリスの思考」が軽視されてしまいやすいことです。このジレンマを乗り越えるには、既存の評価軸そのものを問い直すために、メタ的な視点から問題を捉え直す必要があります。

つまり、これを単なる 「開発組織の理想論」 と捉えるのではなく、「経営課題」 として位置づけることが重要なのです。では、そのためにはどのような視点が必要なのでしょうか。

ジレンマを乗り越える武器:人的資本経営

そしてこの課題にヒントを与えてくれたの2冊目の書籍が冒頭で紹介した「5000の事例から導き出した 日本企業最後の伸びしろ 人的資本経営大全」です。

人的資本経営とは何か

書籍では以下のように紹介されています。

「人的資本」とは、個人が持つスキルやノウハウ、能力などのことを指します。
人的資本経営は、それらを「資本」、つまり「価値を生み出す元手」として捉え、その価値を最大に引き出しながら企業価値の向上につなげていく経営を指します。

田中 弦. 5000の事例から導き出した「人的資本経営大全」: 日本企業最後の伸びしろ (p. 4). (Function). Kindle Edition.

そして重要なのは、単純な「人を大切にする経営」とは異なるということです。 重要なことは「人を消費するのではなく人に投資する」「人を管理するのではなく人を成長させる」という考え方です。この違いが、組織の未来を大きく変えます。

では、なぜこれが問題解決のジレンマを乗り越える武器となるのでしょうか。

人的資本経営がジレンマを乗り越える理由

人的資本経営という視点を持つことで、組織変革を 「緊急ではないが重要な課題」 から、「経営にとって不可欠な投資」 として位置づけ直すことができます。

「心理的安全性を高めたい」「アジャイル開発を実践したい」といった話は、開発チームの理想論として扱われがちです。しかし、人的資本経営の文脈では、これらは人材への投資であり、企業価値を高めるための経営判断です。目の前のバグ対応と同じ、もしくはそれ以上に重要な経営課題として語ることができるのです。

なぜ今、人的資本経営なのか

こちらも書籍では以下のように紹介されています。

じつはいま、日本は人的資本経営にシフトしやすい「チャンスのとき」を迎えています。経営の仕方を変えるのに貢献する「条件」がそろっているのです。

田中 弦. 5000の事例から導き出した「人的資本経営大全」: 日本企業最後の伸びしろ (p. 4). (Function). Kindle Edition.

具体的には、以下の3つの要素があるとも紹介されています。

① 人口減少にともない、人手不足による経営の不安定さが増すなかで、経営戦略、とりわけ人事戦略の重要性が増してきた
② 有価証券報告書への人的資本情報の開示が2023年度から義務化されたことで、約4000社の上場企業がいっせいに「人的資本経営」の状況を発信しはじめた
③ その影響により、もともとプライム市場に上場している企業にコーポレートガバナンス・コードで求められていた「人的資本への投資状況の説明」がさらに充実し、人的資本を活かすことでプラスの変化を起こした企業の取り組み・事例も増え、そういった他社事例から互いに学び合うことのできる材料が飛躍的に増加した

田中 弦. 5000の事例から導き出した「人的資本経営大全」: 日本企業最後の伸びしろ (p. 4). (Function). Kindle Edition.

開発に関するところで考えてみると、VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)と呼ばれる環境下では、あらかじめ計画したプロセスだけで成果を出すことが困難になったのも大きな要因だと感じます。ソフトウェア産業やサービス産業が経済の中心となった今、変化に適応し学び続ける人材の持つ知識やスキルこそが企業価値を決定づけるようになったのです。

(このあたりも詳しくは書籍をぜひ)

企業主導から個人主導へ

この人的資本経営という考え方を実践するには、さらに根本的なマインドシフトが必要で、このマインドシフトが極めて重要です。

これまでの考え方:「個人の能力を『会社の意図に沿って』成長させる」
これからの考え方:「『個人の意思に沿って』成長を続ける個人の能力を会社が借りる」

従来の企業主導の考え方では、会社が「こういうスキルを身につけてほしい」「この役割を担ってほしい」と決め、個人を育成し、配置します。しかし人的資本経営では、個人が自分の意思で成長し、その能力を会社が活用する、という関係性に変わります。

これは、単なる言い換えではありません。個人を「資本」として捉えるということは、個人に主体性と選択権があることを前提とするということです。会社は、個人が自らの意思で能力を発揮したくなる環境を整える。それが、人的資本経営の本質なのです。

マネジメントとリーダーシップのあり方も変わる

これを実現するために、マネジメントやリーダーシップの在り方も変化が求められます。

世の中の複雑さは加速度的に増しており、なかでもAIの進化によって個人の能力は大幅に拡大しています。かつてはチーム全体で時間をかけて行っていた分析や制作が、個人レベルで短時間に実現できるようになりました。これは、個々のメンバーが高い自律性と判断力を持つことの価値を一層高めています。

このような環境では、従来型の「管理する」マネジメントは限界を迎えます。マネージャーがすべてを把握し、すべてをコントロールしようとすることは、組織の適応速度を遅らせ、イノベーションを阻害します。

代わりに求められるのは、「管理・統制」から「信頼・支援」へのシフトです。指示するのではなく、メンバーが自ら判断し行動できる環境を整える。個々の能力を最大限に引き出し、組織全体の適応力を高める。これが、人的資本経営におけるマネジメントの本質です。

つまり、人的資本経営は一時的な流行ではなく、世界の複雑化とテクノロジーの進化が必然的に要請する、新しいマネジメントの前提条件なのです。

アジャイル開発と人的資本経営の親和性

ここまでの話を整理すると、アジャイル開発は、実は人的資本経営が目指す世界を、ソフトウェア開発の領域で具体化したアプローチの一つ と捉えることができるのではないでしょうか。

複雑性と不確実性への対応

ソフトウェア開発の世界では、すべてを事前に計画し、予測可能なプロセスで進めようとするウォーターフォール型開発が限界を迎えました。要件は変化し続け、技術は進化し、ユーザーのニーズは予測不可能です。

アジャイルソフトウェア開発宣言にも、「包括的なドキュメントよりも動くソフトウェアを」「計画に従うことよりも変化への対応を」といった記載が存在しています。これは、固定的な計画ではなく適応力を重視する考え方、人的資本経営が求める組織のあり方と完全に一致しています。

戦略と実行の一体化

従来、開発組織は「ビジネス側が決めた戦略を実行する部門」と見なされがちでした。しかし、ソフトウェアが企業の競争力の源泉となった今、開発戦略は経営戦略そのものです。

アジャイル開発では、ビジネス側と開発側が密に協働し、継続的に価値を届けることを目指します。これは、人材戦略と経営戦略を分離せず、一体として機能させることと同じ構造です。アジャイルソフトウェアの12の原則にも「ビジネス側の人と開発者は、プロジェクトを通して、日々一緒に働かなければなりません」と記載があります。

開発チームを「人的資源」として管理するのではなく、「人的資本」として投資し、その自律性と判断力を引き出すこと。それがアジャイル開発の本質であり、人的資本経営の実践でもあります。

だからこそ、経営課題として取り組む

このように、アジャイル開発と人的資本経営には、共通する部分が多くあります。

アジャイル開発を成功させることは、人的資本経営という経営レベルの取り組みを成功させることに繋がるはずです。開発組織だけでアジャイル開発を推進しようとしても、組織全体の文化や価値観が変わらなければ、いずれ壁にぶつかります。

問題解決のジレンマを乗り越え、本当に重要な課題に取り組むには、アジャイル開発がうまくいっていないという事実を経営課題として位置づける必要があるのです。

FASTと人的資本経営

これらの書籍を読み進めながら、「FASTの考え方や取り組みと似ている部分がありそうだな」と思いました。

FAST(Fluid Adaptive Scaling Technology) は、私たちが1年間実践してきたスケーリングアジャイルのフレームワークです。人々が仕事を中心に自己組織化する方法であり、流動的なチーミングや透明性を重視します。

https://www.fastagile.io/
https://drive.google.com/file/d/1jkKpvhWcF1N0-7B-9tCkRNXZnphHrHxP/view

人的資本経営という言葉を知る前から、私はFASTを通じて、その思想を実践していたのです。私はスクラムとFASTの経験しかありませんが、特にFASTを実践する上で似ているポイントがあったなと強く感じました。

では、なぜそう思ったのか。FASTには「価値(Values)」「原則(Principles)」「柱(Pillars)」という構造がありますが、その中でも特に人的資本経営との繋がりが深い要素をいくつか見ていきましょう。

より詳しく「価値(Values)」「原則(Principles)」「柱(Pillars)」を知りたい方は以下の記事も合わせてお読みください。
https://zenn.dev/loglass/articles/fast-values-principles-pillars

また、私がFASTを実践する上での学びをまとめた登壇資料もありますので、こちらもよければご覧ください。
https://speakerdeck.com/wooootack/fast-taught-me-large-scale-agile-hardships-and-fun

個人の自律性と主体性を尊重する

1つ目のFASTの特徴は、個人の自律性と主体性 を特に重視していることです。これは、人的資本経営における「企業主導から個人主導へ」というマインドシフトと完全に一致します。

この思想の裏付けとなる、価値・原則・柱をいくつか紹介します。

【価値】自律性(Autonomy)

個人やチームが、「誰が、何を、いつ、どのように」を自分自身で決定する裁量を持つこと。FASTミーティングでは、メンバーは自分が貢献したい活動を自ら選び、その進め方を自己管理します。マネージャーやリーダーが配置するのではなく、個人が選ぶ形を取っています。これは、人的資本経営が目指す「個人の意思に沿って成長を続ける個人の能力を会社が借りる」という関係性そのものです。

【原則】自己組織化(Self-organization)

チームが自らの働き方を決め、創造的な解決策を見出す力を持つこと。従来の「管理・統制」型マネジメントでは、マネージャーがすべてを決定します。しかし人的資本経営では、「信頼・支援」型マネジメントへのシフトが求められます。FASTの自己組織化は、まさにこの実践です。実際に、FASTではFASTミーティングだけでなく、バリューサイクルの過ごし方も自由に決めて良いと定義されています。

【柱】Y理論によるガバナンス(Theory Y Governance)

「人間は本質的に仕事を楽しむことができ、自己実現を通じて積極的に仕事に取り組む」という人間観に基づいた組織運営。従来の管理型マネジメント(X理論)の「人は怠けたがる」という前提ではなく、「人は成長したがる」という前提で環境を整えるという考え方を取ります。これが、人的資本経営における人間観の転換です。

学習とコラボレーションを重視する

FASTのもう一つの特徴は、継続的な学習と、チーム間のコラボレーションを重視していることです。これは、人的資本経営における「人材を伸ばしながら活かす」という考え方と直結します。

この思想の裏付けとなる、価値・原則・柱をいくつか紹介します。

【価値】熟達(Mastery)

自分のスキルや専門性を磨き続け、より高いレベルの成果を生み出せるようになること。人的資本経営では、人材を「消費する」のではなく「伸ばしながら活かす」ことが求められます。FASTの熟達は、個人の成長を組織の成長に繋げる仕組みです。

【原則】T字型であれ(Be T-shaped)

専門性の深さ(縦の棒)と、他領域への幅広い理解(横の棒)の両方を持つこと。単一のスキルだけでなく、多様なスキルを持つことで、変化に適応し、価値を生み出し続けることができます。これは、人的資本が持つ「適応力」の源泉です。

【原則】経験を分かち合い、学び合え(Mentor and be mentored)

自分の知識を他者に伝え、同時に他者から学ぶこと。人的資本経営では、個人の能力を組織全体の価値に繋げることが重要です。知識の共有と相互学習は、組織全体の能力を底上げし、集合知を形成します。

【原則】チームプレイヤーであれ(Be a team player)

個人の自律性を保ちながらも、チーム全体の目標達成に貢献すること。自律は「好き勝手に動くこと」ではありません。目的を共有し、協働することで、個人の能力が組織の価値へと昇華されます。

FASTがもたらす意義

今回紹介できたのは一部分ではありますが、このように、FASTは個人の自律性と主体性を尊重し、継続的な学習とコラボレーションを重視する仕組みで、これらの考え方を実践することが、人的資本経営の実現に繋がるのではと考えています。

「管理・統制」ではなく「信頼・支援」。企業主導ではなく個人主導。消費ではなく成長。これらは、人的資本経営が目指すマインドシフトそのものです。

アジャイル開発やFASTを実践することは、単なる開発手法の導入ではありません。それは、組織がどのように人を活かし、価値を生み出すかという経営の根幹に関わる取り組みなのです。

開発組織でFASTを実践し、人的資本経営の原則を体現する。その経験と成果は、「人に投資すれば価値が生まれる」ことを組織全体に示す、最も説得力のある証明となります。そしてそれは、全社へ人的資本経営を広げていくための、確かな足がかりとなるはずです。

FASTで経験した実践の難しさと学び

そうは言っても、これらを実践することは容易ではありません。私も、FASTを実践する中で数多くの壁に直面してきました。ここでは、その経験から得た学びをいくつか共有したいと思います。

マネジメントの難しさ

「メンバーは自分が貢献したい活動を自ら選び、その進め方を自己管理する」 となったとき、マネジメントはより難しくなると感じました。(私はマネージャーではありませんが)

従来のマネジメントなら、タスクを割り振り、進捗を管理し、問題があれば軌道修正する。しかしFASTでは、メンバーが自分で選んだ活動に取り組むため、原則としては「これをやりなさい」と指示することができません。

そして何より怖いのは、間違った方向へ進んでしまうリスクです。メンバーが興味本位で選んだ活動が、プロダクトゴールから外れていたら?技術的に美しいが、ビジネス的に意味がない実装に時間を費やしていたら?

こうした不安に直面したとき、マネージャーにはネガティブ・ケイパビリティが求められます。すぐに介入し、コントロールしたくなる衝動を抑え、メンバーの学びや発見を信じて待つ。 正しい方向へと導くために、マネジメントの権力を使って強制的に方向転換させるのではなく、対話を重ねて正しい方向へと進みたくなるように促すことが求められます。

権力ではなく、影響力とリーダーシップで組織を導ける人こそが、新たな時代における真のリーダーになっていくはずです。

組織外への説明の難しさ

さらに難しいのが、プロダクト組織外への説明です。

営業部門、カスタマーサクセス、経営層といった他部署からは「いつこの機能ができるのか」などといった質問を多く受けると思います。しかし、FASTではメンバーが自律的に活動を選び、市場のフィードバックに応じて適応するため、ここに対して明確な答えを出すことが難しいといった状況もありました。

他にも、固定的なリーダーが不在になることで、外部から見たときに「誰に何を聞けば良いのか」といったコミュニケーションパスの不明瞭さも上がってしまいます。

こういった状況になっていることが良い状態ではないと思いますが、人や組織を育てこの先の不確実性が高い時代を生き抜くためには、必要な投資であると私は考えています。しかし、この必要性は、 人的資本経営やアジャイル開発の考え方への理解がなければ、説明することが非常に困難です。「計画がないのか」「管理できていないのではないか」といった疑念が生まれ、認識のズレは不満として組織内に蓄積していきます。

短期的な出力低下

組織変革には、避けられないコストがあります。それは短期的な出力の低下です。

新しい働き方に慣れるまで、生産性は一時的に下がります。その間、目に見える機能開発のスピードは落ちます。

スタートアップのような競争の激しい環境では、この一時的な出力低下を許容できないかもしれません。目の前の競合に追いつくため、今すぐ機能を出さなければならない、長期的な組織改善よりも、短期的な成果が求められるといった状況は珍しくありません。

これは、まさに問題解決のジレンマそのものです。組織変革というキリギリス的な活動(長期投資、フロー志向、可変次元)に取り組もうとしても、周囲からのアリ的な要求(短期成果、ストック志向、固定次元)によって圧倒されてしまう。「今この瞬間の成果」を求める声に押され、「未来への投資」を諦めざるを得なくなるといった状況に直面します。

先ほど組織外への説明の難しさを挙げましたが、これは開発組織内でも発生しうることです。組織開発のような目に見えない部分の投資は、技術的な目に見えやすい投資と比較して、後回しにされがちです。

実践から得た最大の学び

人的資本経営について考えながらFASTを実践のふりかえる中で、私が感じたことがあります。

「個を尊重する」と語るとき、優秀な個が集まることが重要な要素だと考える人が多いのではないでしょうか。僕もそう思っていて、個を強くしていくことが一番の近道なのだろうと思っていました。

しかし、本当に必要なのは、それを支えるマネジメントとリーダーシップ なのではないかと感じています。これは、FASTであっても人的資本経営であっても同じだと思っています。

曖昧さに耐える力、権力ではなく影響力で導く力、多様性を受け入れ対話を重ねる力、短期的な成果への圧力に抗い長期的な視点を持ち続ける力、メンバーの可能性を信じ続ける力、これらをマネージャーやリーダーが諦めないことこそが、最も近道なのではないだろうかと。

ここで挙げた内容を実践することは、非常に難しいと思います。なぜなら、これはキリギリス的な思考が強く、世の中にはアリ的な思考の人の方が大半を占めているとされるからです。そんな状況に置いて、粘り強くこれらを全員で続けていくことは、精神的な負荷も高くなります。

それでも、この道を進む価値があると、私は信じています。なぜなら、良いプロダクトを 作り続ける ためには、良いチームを 育て続ける ことが必要だからです。

そして、良いチームを育てるためにも、人を資源として消費するのではなく、資本として投資するところから始めましょう。 キリギリス的な思考で、今は成果が見えなくても未来への投資を続けましょう。

それが、これからの組織に求められる選択なのかもしれません。

まとめ

組織を良くして、良いプロダクトを作って、事業に貢献したい。そう願いながらも、うまくいかず心が折れそうになっていた私は、「問題解決のジレンマ」と「5000の事例から導き出した 日本企業最後の伸びしろ 人的資本経営大全」という2冊の本に出会いました。

そこで見えてきたのは、アジャイル開発がうまくいかないのは開発組織だけの問題ではないという仮説です。

アジャイル開発の失敗は、組織全体が人材を「資源」として管理しようとする古いパラダイムに囚われていることが原因です。この問題解決のジレンマ を乗り越えるには、既存の前提を疑い、メタ的な視点から問題を捉え直す必要があります。

その武器となるのが、人的資本経営という視点です。人材を「消費する/管理する」のではなく「伸ばしながら活かす/価値創造につなげる」。企業主導ではなく個人主導へ。このマインドシフトは、アジャイル開発が目指す世界と完全に一致しています。

アジャイル開発を推進することは、人的資本への投資となる。すなわち経営判断なのです。

おわりに

長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。もっと詳しく話してみたいなと思った方は、PittaでもXのDMでもなんでも良いので、ぜひ雑に1on1をやりましょう。

https://pitta.me/matches/CMegIkhpGqgD

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