M5StackCore2とLVGLv9の習作のはずだったのだが?[ポエム]
LVGL v9で"Hello Arduino"を表示するだけではつまらないので、習作のついでにコンセントの電圧を測定するガジェットを作ってみようかと思った。
用意するもの
- M5StackCore2 for AWSもしくはM5StackCore2 + M5GoBottom2(PORTBを使うので)
- ZMPT101B
- GROVEケーブル
- コネクタとか
- 電気を取り扱う知識(電気工事士免許でも取っておこう。)
絶縁変圧器モジュールZMPT101B
絶縁しないとマジ危ないので、絶縁変圧器モジュールZMPT101Bを入手した。
これをそのまま机に転がしておくのは危険なので、3Dプリンタでベースを作って測定側を3ピンXHコネクタに変えた。
GROVEケーブルの準備
M5Stack PORTBの5V,GND,IN(G36)をZMPT101BのVCC,GND,OUTと接続する。
GROVEケーブルの端を切って、3ピンXHコネクタに変える。(GPIO-OUTは接続しない。)
ソフトウェアも含めて、すべてうまくできてるとこうなる。
インストール
ArduinoIDEでライブラリのインストール
ArduinoIDEとかLVGLの準備はこの記事を参照してください。
lv_conf.hを編集する
この後arduino IDEのキャッシュを削除する必要があるが方法がわからなかったので、
librariesフォルダごと削除してから、もう一度LVGLとM5Unifiedをインストールした。
FixedPointsライブラリをインストールする。
FIR フィルタライブラリをインストールする。
Arduinoスケッチ
UtilityPowerProfile.ino
ArduinoIDEでこのGistを開いて、ビルド&書き込みすると。波形を表示する。
測定確度が悪い理由は
VCC/2の中点2.5V位の直流に1.41Vp-pの交流電圧が重畳された波形をM5StackのADCに入力しているが、ESPRESSIFの資料によるとADC_ATTEN_DB_11のときに150 mV ~ 2450 mVの範囲が推奨電圧で、これを超えているから。
感度の調整
ZMPT101Bモジュールにある半固定抵抗で感度を調整する。
極端な例だけど、こんな感じに頭がつぶれているとZMPT101Bモジュールの出力電圧が入力限界を超えているので、ZMPT101Bモジュール上の半固定抵抗を回して正弦波になるように調整する。
入力電圧を測定する
きちんと正弦波が表示できたら続いてテスターでその時の電圧を測定する。
電圧感度を設定する
テスターで測定した電圧を設定する。
ギアの絵のボタンを押して、設定画面を出す。
Applyボタンを押すと同時にAruduinoIDEシリアルコンソールにsensitivityがでる。
この値をソースコードにあるsensitivity変数にかいておけば、リセットした後も調整を再度する必要がなくなる。
コンセントの電圧を測定してみる
コンセントから取る電気は「交流」というのは学校で習っているが、その交流電気の1周期。
東日本なら50Hz(1周期20ミリ秒)、西日本なら60Hz(1周期16.7ミリ秒)。
交流については以下のページの通り。
「電気にも「種類」がある!?」
「交流」と「直流」のとくちょうのちがいとは?
コンセントから取る「交流」の電気は、目で見ることはできないけれど、電気の大きさが大きくなったり、小さくなったり、向きが変わったりしているんだ。そして、「交流」の電気の大きさや向きは、「波」のように規則正しく変わっているよ。その逆に、電池から取る「直流」の電気は、電気の大きさや向きがずっと同じで、変わることがないんだ。ここまでで、「交流」と「直流」のとくちょうのちがいはわかったかな?
さて、「交流」の電気の大きさや向きは、波のように規則正しく変わっているんだけど、「1秒間にくり返される波の数」のことを「周波数(しゅうはすう)」というんだ。そして、周波数をあらわす単位を「Hz(ヘルツ)」というんだ。下の図を参考にしてみてね。
https://www.kepco.co.jp/brand/for_kids/teach/2016_03/index.html
ちがう周波数の電気ができた理由
東京にやってきたドイツ製の発電機は、周波数が「50Hz」の電気を、大阪にやってきたアメリカ製の発電機は、周波数が「60Hz」の電気をつくる発電機だったんだ。
https://www.kepco.co.jp/brand/for_kids/teach/2016_03/detail1.html
問題はこの部分だよな。
今から約100年前から、日本の電気の周波数を、「どちらか1つに決めよう」と何度も話し合いをしたんだけど、うまくいかなかったんだ。
おまけ
東芝ライテック株式会社のページにあるマツダ新報の「第14巻(昭和2年)第1号」にある「電燈界二十年史」によると、電気事業の開業順が
- 東京電燈(明治20年11月25日)
- 神戸電燈(明治21年9月)
- 大阪電燈(明治22年5月)
- 京都電燈(明治22年7月)
- 名古屋電燈(明治22年12月)
- 横濱電気(明治23年10月)
となっていて、そのうち大阪電灯は創業時から交流で、他は直流で開業。
国立国会図書館
国立国会図書館利用者IDを手に入れてほしい。
大阪電灯株式会社沿革史
「大阪電灯株式会社沿革史」 は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。
この資料の面白いというか興味深いところはここよなよな。社長の月給と技師の月給が同格という、ゴリゴリの技術集団。
関係ない話はおいておいて、最初の交流電気はここに書いてある。
供給電気方式は単相二線式五拾「ヴォルト」百廿五「サイクル」なりしか、其後漸次改善を行ひ、現今の一百「ヴォルト」六拾「サイクル」に変更せり。
ご家庭に供給された交流電気は単相2線式50V/125Hzで、その後100V/60Hzという現在と同じ方式になったと書いてある。
横浜電気株式会社沿革史
日本2番目、関東地方最初の交流配電は横浜電気だとか。
「横浜電気株式会社沿革史」は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。
「設備の進展」のページにある
「明治23年12月常盤町発電所増設」に
- 直交流ノ別:交流単相
- 電圧:二、〇〇〇ヴォルト
- 周波数:壹参参
と書かれているから、発電機は交流単相2000V/133Hz。
ご家庭に供給された電圧はわからない、電圧はトランスで変えられるので。
100V/133Hzじゃないかな。想像だが。
周波数高い?
Wikipediaによると、最初の頃は毎分2000回転のエンジンと8極の発電機の組み合わせで得る
In the early incandescent lighting period, single-phase AC was common and typical generators were 8-pole machines operated at 2,000 RPM, giving a frequency of 133 hertz.
初期は
その後中間くらいの50,60ヘルツで落ち着く。
25ヘルツの起源はウエスティングハウス-テスラによるナイアガラ滝の水力発電所。アムトラックの一部は今でも25Hzだったりする。WikipediaにあるSafe Harbor Damってのはここ。25ヘルツの送電線があるでしょ。
ついでにドイツ、スイス、ベルギーとかは
50ヘルツと60ヘルツの起源
50ヘルツと60ヘルツの始まりはこの本でもみて。
周波数が同じでも接続されていないので統一されていなくても問題にならなかったみたい、系統というものがなく単独運転だからだと。
マツダ新報の「第20巻(昭和8年)第11号」にある「東京電燈在職中の追憶」でこの頃の話をしてくれている。
今日殆ど想像の付かぬことは、併列運轉といふことが出来なかった。五十サイクルの三相交流でありますから何でもないわけでありますが、實際にうまく行かず單獨運轉でありました。
水力発電登場
学問を身につけて、実業で活躍しましょうみたいな。
「実業論」が明治26年に出版されていて(もともとは新聞の社説)。
その中に水力発電やりなさいよ。とか書いてあって。
「ここな」。
電気を起こすに蒸気力を用いしものが近来は蒸気を廃して水力を代用せんとするに至りし
ということで、水力発電ブーム到来。火力発電から水力発電に替わる(水主火従)。
とは言え実際は水利権を手に入れて事業会社に転売する山師だらけだったみたい。「実業」をしなさいよ。
周波数はそれぞれの会社が自由に決めていたみたい。発電機とお客様設備が配電線でつながっているだけ。
事業用最初の水力発電所である蹴上発電所(1期目)も周波数バラバラ。「アメリカ製、ドイツ製、日本製の発電機が入り交じり、サイクルも様々」とか言ってる。
蹴上発電所の第一期はこのことなんだけど、どうも書き方が変。蹴上発電所の第15号機芝浦製作所製はこのことだから
横浜電気株式会社沿革史のカーチス・スチーム・タービンの採用の所に
カーチス・スチーム・タービンは当時電気界の最新式機械と目せられ、其の容量は気圧百五十
ポンド、無気二十八インチにおいて優に五百「キロワット」の発電機を回転する動力を発生し、回転数は一分間一千八百なり
と書いてある。これ毎分1800回転なら大阪電灯と同じ60ヘルツだわ、東京の隣なのにな。
送電の登場
「実業論」には続きがあって。
当初は瀑布等の水力を以て電気を起こすもその起こりたるものを遠隔の地に導き移すの法無きに困難したりしかども学問上の工夫を凝らして、今ははただ困難も去りいやしくもここに河の急流又は瀑布あればその水力を利用して非常の電気を起こし電線につたえて数十百里の遠方に移し以て動力を発して機会を運転す可し、以て熱を起こして物を温め物を焼く可し深山幽谷一條の瀑布を捕らえて人間世界身辺の実用を成さしむるものという可し
オランダ人がうらやましがるって、オランダは山が無いから。どっかの山オランダ人なら「山くらいうちにもあるで」とか言いそうだが。
発電と配電に加えて「送電」が登場。
紹介されている世界最初の送電線ラウフェン―フランクフルト間は40ヘルツ。
150回転毎分(
交流になる。
この後40ヘルツでは電灯がちらつくので、AEGは50ヘルツを標準にする。
同じく紹介されている安積疏水の郡山絹糸紡績沼上発電所は60ヘルツ。
猪苗代水力電気は東京に送電する目的で設立されたので50ヘルツ。
ちらつく?
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
「有機交流電燈」がなんなのかは知らないが「交流電灯」であればこれは日常で見ている。
ドライブレコーダーで信号が点滅しているってのがあって。
LED信号機は本当にLED一つ一つが同期して「風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅」している。
増えたり減ったりしながら、1周期の間に2回ある0付近で消灯しているので、50ヘルツ以上ないとちらつきで気分が悪くなるよということ。
引用したが「春と修羅」は電気とは関係無い。
おじいさんのランプ
このころの生活がどんな感じだったのかは、おじいさんのランプというお話から引用する。
巳之助の村では夜はあかりなしの家が多かった。まっくらな家の中を、人々は盲のように手でさぐりながら、水甕や、石臼や大黒柱をさぐりあてるのであった。すこしぜいたくな家では、おかみさんが嫁入りのとき持って来た行燈を使うのであった。行燈は紙を四方に張りめぐらした中に、油のはいった皿があって、その皿のふちにのぞいている燈心に、桜の莟ぐらいの小さいほのおがともると、まわりの紙にみかん色のあたたかな光がさし、附近は少し明かるくなったのである。しかしどんな行燈にしろ、巳之助が大野の町で見たランプの明かるさにはとても及ばなかった。
電灯が登場するのがこの部分。
ところでまもなく晩になって、誰もマッチ一本すらなかったのに、とつぜん甘酒屋の店が真昼のように明かるくなったので、巳之助はびっくりした。あまり明かるいので、巳之助は思わずうしろをふりむいて見たほどだった。
「巳之さん、これが電気だよ」
巳之助は歯をくいしばって、ながいあいだ電燈を見つめていた。敵でも睨んでいるようなかおつきであった。あまり見つめていて眼のたまが痛くなったほどだった。
「巳之さん、そういっちゃ何だが、とてもランプで太刀うちはできないよ。ちょっと外へくびを出して町通りを見てごらんよ」
巳之助はむっつりと入口の障子をあけて、通りをながめた。どこの家どこの店にも、甘酒屋のと同じように明かるい電燈がともっていた。光は家の中にあまつて、道の上にまでこぼれ出ていた。ランプを見なれていた巳之助にはまぶしすぎるほどのあかりだった。巳之助は、くやしさに肩でいきをしながら、これも長い間ながめていた。
「誰もマッチ一本すらなかったのに、とつぜん甘酒屋の店が真昼のように明かるくなった」と。つまりスイッチに触れていない。通りのどこの家どこの店も全部な。
現在の感覚では想像できないけど、当時の電灯は、昼間停電していたってこと。
消灯時間は「終夜燈」なら夜明けまで、「半夜燈」なら午前0時に消灯。
のどかなもんだ。
ついでに神戸電燈と神戸瓦斯との間で先行する(古い)「電灯」に対して新しい照明として登場した「ガス灯」との間で勝負しているころの広告を神戸瓦斯四十年史から引用する。
凡そ瓦斯の使用は輕便にして人身に危険なく、晝夜とも自由に點火し得べく、又燈具の伸縮光力の大小自在にして、瓦斯代は各戸毎にメートルにて實際の消費高を計算する故、平常數十燈装置するも無益の點燈料を支拂ふことなく、極めて經済にして眞に實目的の燈火なりとす。
電灯に対してのガス灯の優位点を広告しているので、この反対が電灯になる。
昼間は点灯できない、「メートル」つまり現在の「メーター」がない定額電灯契約(取り付け灯数での月額課金)、契約通りの電球しか使えないので明るさは変えられない。
おじいさんのランプで
ランプはもはや古い道具になったのである。電燈という新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。
となって、新しいほうが良いみたいな話の流れになっているけど、神戸では(大阪も)「ガス灯」の方が新しいんだけどね。
古い「電灯」に対して新しい「ガス灯」と営業活動しているところに反論していますし。
外國では石油の點燈に亞いで、瓦斯、次に電燈と云ふ風に發明されてありますから、瓦斯は電燈より一時先んじて居るのでありますが日本ではさう行かぬ。先づ瓦斯と云ふものは東京にでも行くか、或いは當市では居留地の一部にでも行かんと見ることが出來ませんが、電燈は古くからありますから今日の有様から見ますと、石油、電燈、瓦斯と云う順序になつて居ります。併し瓦斯會社の事業が始まれば一時は随時電燈を止めて瓦斯を試みるものが澤山出來ると云ふことは免れまいと覺悟はして居ります。
神戸瓦斯四十年史って読み物としてもわりと面白いと個人的に思っている。
魚尾灯の青白い光が神戸の地に始めて燃え上がった時とか。
まあ、知る限り神戸では「青白い光が町の明かりになったことはないよな」って思う。電灯があるので。
マントル點火式で「電灯をも駆逐してしまう」とかの所で(この後の歴史を知っているので)少し笑っちゃいましたし。このあと大正時代に「電球の5大発明」が出そろって、ガス灯を圧倒するので。
瓦斯用途のところとか。
瓦斯は最初石油ランプに代わって燈火用として登場し、其の燦然たる光は非常な好評を以て迎へられたのであるが、歐州大戰を境としてその地位を電燈に奪はれ、今日では纔かに豫備燈としての餘命を保つてゐる狀態である。また瓦斯燈の出現と前後して瓦斯はその用途を動力方面に開拓し漸く蒸気機関を壓迫せんとしたが、是また電動機のため其の用途を閉塞せられた。斯くして燈火、動力ふたつながらの用途を奪われた瓦斯は、新らしく熱源としての用途を開拓し、今や家庭用燃料として確固たる牢固たる地盤を獲得する
ガスなんか2回いてこまされて復活しているんだから、巳之助さんの撤退は早いんだよな。
話の最後にランプを割って処分するけど、この後の時代に電力不足が叫ばれて石油ランプが復活しているんだよな。
新聞紙の極端な論調と報道ぶりは、電氣を使ふこと自身が罪惡であるかの如き感を一般に與へ、その結果電燈を廢して石油ランプに代へ、以て國策に添ったと得意になつて居る人さへ現はれた。
戦後も電力不足なんで。「馬鹿しちゃったね」と思うが?本人も認めてる。
「馬鹿しちゃったね」
と東一君は孫だからえんりょなしにいった。
「うん、馬鹿しちゃった。しかしね、東坊――」
ランプ亡国論
「ランプ亡国論」つまり「ランプを使うと、当然外国の油を輸入する。なので国富が流出するので国が亡ぶ」とか訴えていた「佐田介石」に賛同してかつて石油ランプ排斥運動が起きていたんだけど
明治の初年に「ランプ」亡国論を唱えた佐田介石の議論である。此人は当時金貨の流出することを憂えて其防禦策として極力外国品の輸入を排斥することを主張した。此人は栽培経済問答新誌と云う雑誌を発行して「ランプ」の使用の為に石油の輸入となり之が為に金貨が流出して亡国となるべしと迄主張し国産の種油の功能を説き『西洋品に心酔して日本品の貴き』を知らざるを戒めて居る。
頭の固い年寄りに新しいものを拒絶されながらでも、国産の行燈と種油を駆逐して石油ランプが普及する時代の流れを見てきているから、巳之助さんはこの先が読めたんでしょ。
因果応報って。
「先の日米戦争は油に始まり、油で終わった」とは第124代天皇陛下裕仁陛下のお言葉。
石油に依存したことで国際情勢に振り回されたというこの後の歴史を知っていると、「ランプ亡国論」も鼻で笑っている場合でないよな。
大正元年版電気事業要覧
ここでいったん「電気事業要覧 」を見てみる。とりあえず大正元年版で。
郡山絹糸紡績沼上発電所はこのページに周波数60となっている。
鬼怒川水力電気は東京市電に送電する会社なのでこのページに周波数25となっている。
横浜電気は江ノ電と合併しているので「電気鉄道および電気供給兼営事業」に分類されているのでこのページに周波数50と60と100あと直流となっている。
東京市電はこのページに周波数25と50と60となっている。
琵琶湖疏水蹴上発電所は京都市営なのでこのページに周波数60となっている。(1期目は取り壊して2期目になっている)
三菱長崎造船所にある40ヘルツ機は英国パーソンズ社からの技術導入なので、当時のイギリス仕様。
ながめていると、西日本に60ヘルツが多いのは当たり前として、東北地方と北海道地方に60ヘルツが多くないかなって。
周波数別の統計はこのページにあって
25Hz | 50Hz | 60Hz | 100Hz | 125Hz | その他 |
---|---|---|---|---|---|
53,950 | 119,615 | 176,489 | 1,231 | 1,739 | 1,845 |
まあ60ヘルツが多いが倍ほどの差はない。
「水主火従」はじめました。
国産エネルギーである水力開発が進んで、大正時代ごろから「水主火従」になる。 資源エネルギー庁もそう書いている。
水力発電と送電は一体ですよ。水力発電所は人を寄せ付けない山奥にあるので。
開発会社の変遷と木曽川の電源開発 その1
開発会社の変遷と木曽川の電源開発 その2
開発会社の変遷と木曽川の電源開発 その3
そろそろ周波数のちがいが問題になってくる。
「電力統一は急務なり」とは八木秀次博士の意見。
超電力連系構想
東邦電力調査部による「大正12年2月 米国超電力聯系に関する組織」という文書がありますね。
この計画は「松永安左エ門」氏が書いている。
東京、神戸間を連ぬる大送電線を建設し、之に東に於いては福島、群馬、長野、新潟、諸縣下の水力を、又中部に於ては岐阜、愛知、北陸地方の諸川を結び、且つ常磐炭抗を利用する発電所と北海炭、九州炭及海外炭の利用に便なる東京灣、伊勢灣、大阪灣の沿岸に優力なる大單位の火力發電所を建設聯系し、而て凡てを最高二十二萬ボルト線に統一し、
まあこんな感じの計画。
続いて「福沢桃介」氏が書いている
謂ふまでも無く、本邦工業原動力の資源たるものには、石炭あり、石油あり。されど、其孰れも埋藏壽命僅かに今後一世紀間に満たず。今にして之が浪費を慎む事無くんば、近く燃料の飢饉に陥るべきや必せり。
予想外に石炭も石油も21世紀まで使えているけど、限りある資源。水力は国産エネルギーだから上手に使えば枯渇を心配することはない。
国産の電球と国産の電気なら外資を排撃していた方々にも納得いただけるだろうと。
周波数統一に就て
東邦電力株式会社による「周波数統一に就て」という文書がありますね「大正12年3月」の。
50ヘルツと60ヘルツを比較検討している文書。
見積もりがあるけど、半年後の「大正12年9月1日」関東大震災でかなり変わっているので数字に意味はないと思うよ。
大電気時代と国策
「松永安左衛門 東邦電力社長」曰く。
我邦に於ける周波数たるや、実に区々で、或は六〇サイクルなるもあり、或は五〇サイクルなるあり、或は二五サイクルなるあり、然し、就中主なるものは六〇サイクルと五〇サイクルとで二五サイクルの如きは至って少いのだが、孰れも電気事業が我邦に於て今日の如く発達せざりし以前に於て、政府当局者が無関心の余り、周波数統一問題の如き、敢て之を念頭に置かず、凡て当業者の任意に放置し、毫も悔ゆる処の無かった結果で、五〇サイクルは欧羅巴系の機械を主として使用し、之をスタンダードとせるより来り又六〇サイクルは米国系の機械を主として使用し、之を同じくスタンダードとせるに由来するのである。
「凡て当業者の任意に放置し」そんな気がする。
日本の発電所 中部日本篇の神崎工場発電所のところにおもしろいことが書いてある。
周波数を決定するときに迷ったので官庁に聞きに言ったら将来は50ヘルツになるだろうと回答を得て、あと阪神電気鉄道会社から受電がしやすいのでやっぱり50ヘルツにしたとか。
そしたらみんな60ヘルツに転換したので孤立したと。
もう一度大正元年版の「電気事業要覧 」で阪神電気鉄道のページを見ると、50ヘルツになってた。
引用の続き
周波数問題の解決を試むるに当っては猶お全国の発電容量が漸く二百万キロに過ぬ今日の小電力時代こそ、絶好の機会であると謂うべきであって此の恰好の時機を空しく逸しサイクルを孰れにも一定統一せずして徒に姑息の方策のみを案じ其日其日を送るに於ては、百年を待たずして臍を噛むの悔あるに至るべきは、逆睹するに難からざる処である。
表を見ればわかる通り、六〇サイクルの方が多いよ。
話し合いを
このころ周波数統一を話し合っていたりする。
六十サイクル統一論をみると、
全国では六十の方が多いから「60ヘルツ。小異を捨てて大同につきなさいよ。」と思えてくるし、
五十サイクル統一論で、「世界的統一に適当なる周波数を選択するべきである」とか言われると「これは50ヘルツ。(世界的に)小異を捨てて大同につきなさいよ。」と思えてくる。
二割の速度上昇より寧ろ二割の速度低下の方が保安上有利で、且つ電線路の電壓調整も良好である。
これわかるな。大正12年に1800回転機が爆発しているしな、この頃に横浜電気ご自慢の1800回転機は改造されて(多分)1500回転機になってるし
旧一〇〇〇キロワットのものを三相式五十サイクルに改修の結果八五〇キロワットとなる。
回転速度120%なんて昭和のアニメであるまいし、レッドゾーンだろ。
そして「なにが55ヘルツやねん。問題を増やすな。」とか思えてくるわけ。
周波数は六十サイクル
ええですね。
「Vやねん。60ヘルツ」
話し合いの結果はとにかく、大正の終わりは原首相が暗殺されるし、恐慌なので高田商会が経営破綻するし、昭和の始まりは鈴木商店が経営破綻するし。
そんなことをやっている世相でないので頓挫しました。
「V逸やねん。60ヘルツ」
このあたりは東邦電力史の中の超電力連系に書かれているね。
昭和の始まり
大正時代が終わって、周波数がバラバラなまま昭和を迎える。
昭和十年末時点の周波数の地方分布図はぜひ見てほしい。
本州の東西で分かれているのは知ってるが、北海道地方と東北地方と九州地方が東西で分かれている地図。
なんでこうなった?と思えるから。それに対して中部地方から西側は60で統一されている。
全国的統一は理想論として切り捨てて、富士川を境に東を50、西を60に地域別に統一する話になってる。
福島県の郡山市から茨城県の日立鉱山周辺の60ヘルツ地域は郡山電燈⇒(茨城電力と合併して)東部電力⇒大日本電力の地域じゃないかな。
大日本電力二十年史によると、この後自主的に50ヘルツに変更している地域。
元東部系周波数六拾「サイクル」を五拾「サイクル」に變更、送電電壓の五萬を六萬に改造するの計畫は、凡て本年末迄に完成の豫定である。
あ、佐渡島は50サイクルね。富士川より東側に位置してるもんね。
電力国家管理時代
種々議論は行われたものの1938年(昭和13年)電力国家管理法と発送電一貫事業を行う国策会社「日本発送電株式会社」が承認され、13年間に亘る電力の国家管理・戦争という時代へと突入していったのです。
全国民待望の「電力国家管理」は実施された。
本当に?反対運動が起きてなかったか?
強制的に全国の組織が統一されたので、この機会に全国の周波数を統一しようとする。
電力国家管理の効果として電力の東西融通は最も期待されていたが右は関東五十サイクル、関西六十サイクルと周波数を異にするため最近建設された両サイクル併用の発電力以外は実施不可能でその範囲は限られたものであった従って電気庁では日本発送電創立以来東西サイクルの全面的統一を企図していたが最近の電力不足によっていよいよその必要を痛感するに至り今回これが第一歩として既設発電所に両サイクル併用設備を行うことに決定
そして、こう。
大東亜共栄圏内における電気方式の統一に関してはさきに周波数を五十サイクルに、高圧配電線標準電圧を六千ヴォルトにそれぞれ決定された
決定されましたね。
50ヘルツ。
「なにがVやねん。60ヘルツ」
大東亜電力懇談会での議論は満州電業史に一部書いてある。
詳細はこの資料「大東亞に於ける標凖周波數の選定」 。
今日こそは電力界多年の懸案たる周波数問題を解決するに天興の好機であると言うも過言ではない。
(中略)
實施中のものは東北地方の50サイクル統一事業で實施計畫中のものは北海道地方が其の例である。
あとこの資料「周波數變更に就て」
昭和19年の周波数分布図がある。
もはや空襲が激しい時代なので、あまり変化がないような。
国破れて山河在り
戦争は昭和20年にご聖断で終了、連合国による統治を受けることになる。
工業地帯に位置する火力発電所は空襲で破壊されているか、保全が間に合わずに設備が荒廃しているが、山奥の水力発電所は戦争関係なく発電している状態。
過度経済力集中排除法に日本発送電が指定されて、電気事業再編成になる。
電気事業再編成法案に反対派が多かったみたい。日本発送電社史のこのページに「反対が最も激しかったのは九州であって」とか書いてあるし。
「28日公聴会を開いて」ってのはこの日のことよな。
この途中に「9分割」どころかその倍でもいい。みたいな話が出てくる。おまけに九州の「二分割論」とかが登場するわけ。「再編成はサイクルにより分割するを理想とする」と閣議決定だから周波数で分割する案だろうね。
周波数分布図を見ると九州地方は東側と日本窒素肥料の工場が50ヘルツでそのほかが60ヘルツと2つに分かれているから。
今御指摘がありました九州にこの九分割の問題が出て来ましてから、南北二分割論があるということは事実であります。この南北二分割論は、九州を南北二つに分けまして、発電圏と消費圏とはつきり分けてやろう。そうしてその中心を大体宮崎に置きまして、まあいわば宮崎の高天原から光を照らしてやろう。こういう思想なのであります。
戦後
全国の周波数を統一しようとする機運が起こり、この具体化の促進について官民双方より強く要望された。その結果周波数統一準備委員会が設けられ審議の結果我国の標準周波数としては60サイクルが最適であると結論され、その趣旨を政府に答申したのである。
ということで、全国を60ヘルツに統一しましょうね。
周波数分布図を置いておきます。
- 昭和30年4月1日現在の周波数分布図
-
昭和32年4月1日現在の周波数分布図
全島50ヘルツだった佐渡島に少しづつ60ヘルツが増えだした。 -
昭和33年4月1日現在の周波数分布図
高天原からの光がよわよわに。宮崎県の50ヘルツが高千穂町くらいになっちゃった。
佐渡郡の全部は60ヘルツ。 - 昭和34年4月1日現在の周波数分布図
- 昭和36年2月1日現在の周波数分布図
絶対量が不足しているので、新規電源開発を優先すべき時に富士川の東側の60ヘルツ地域を、50ヘルツに転換した直後にまた60ヘルツに転換など無理よなって。
東邦電力の意見ばかり引用するのは不公平なので、当時の監督官庁である逓信省の方の意見もおいておく。
周波数変換所があるからもういいでしょ。
ところで
前年度において隘路産業として生産増強を要請されたエネルギー部門でも、32年には産業活動の停滞に反し、発電能力と出炭の著しい増加から受給が大幅に緩和された。電力では製造業の動きに応じて産業用需要は、7月の需要を最高に逐月低下を示したが、動力としての電力依存度が高まっているためか鉱工業ほどには低下せず、そのうえ家庭用需要が電気器具の普及によって順調に伸びたため、発受電合計で前年度に対して12%の増加となった。豊水に加え、火力発電の増強と融通電力の増大によってこの需要増加に対処し、広域運営への足がかりを作ったのが特筆すべきことであった。
家庭用需要が増えた状況でも発電能力と出炭の著しい増加から昭和33年頃に電力に余裕が出てきたみたいね。
石油ランプを廃して気兼ねなく家電を使える時代になった。
昭和36年8月18日に訪れたソ連のミコヤン第1副首相との懇談の際には、会長は「あなたは人民を解放されたが、私は家庭電化製品をつくって、家庭婦人を解放した」と述べ、ミコヤン氏を感心させた。
ここで電力不足なら「ラジオを聴くのに石油ランプを点ける」とかソ連の技術導入とかになってたな。
この話みたいに天井からぶら下げてある石油ランプに立ち上がりさまに頭をぶつけて火だるまになるなんかいやすぎる。石油ランプは危険だから廃されてよかった。
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