アンチフラジャイルとハラスメント

ここ数年、あるいは10年の検討事項が、だいぶ核心に近づきつつある。
私はそんなものすごいことをしているわけではないが、私以外の人がみんなダメになったというようなパターンを経験したりはしていて、その固有の要素がなにか、という事をずっと考えていた。
あるいは、理屈として正しいはずの事をなぜ人は実践できないのか、みたいな事もよく考えていた。
私はいわゆる首尾一貫感覚が強い。これは疑う余地がなく、(おそらく本来の身体的特性はそこまで不確実に強くないはずなのだが)不確実耐性も基本的には高い。
この首尾一貫感覚はどうやると養われるのか?という事が気になっていたが、その源の一つは「国語力」であろう、という事が最近わかってきた。あくまでも源にすぎないので、国語力があれば直ちに首尾一貫感覚が高まるという事ではないのだが、国語力を用いた内省手法がある。私はそれを形式張らずに自然に実践するようになっていたので首尾一貫感覚が高まっていた。
首尾一貫感覚は、社会人になってから鍛えられた部分も大きくあるが、結構昔から強かったように思う。それによって、近年ではハラスメントとされるような環境下にあっても"平気で"過ごすことができたし、ハラスメント的な教育によって大きく成長した事を実感する出来事もたくさんあった。単にハラスメントが目的の行為(例えばセクハラ)を自分自身にとって効果的に解釈・利用するのはなかなか難しいと思うが、いわゆる厳しい指導においては、ハラスメント的手法を用いてでも伝えたいこと・事実・主張が存在する。その主張は何なのか?を読み解くという事を徹底していたため、特に年長の相手が真に伝えたい事を理解して、それによって学ぶという事が私は昔から得意で、自分の力になった。また、私はかつて物凄く苦手な事があって、それについて部分的には人並みに改善したという事を経験しており、そうした人間の柔軟さみたいなものを強く信じているところがある。
こうした事を考える時、相手の立場で考えないと真意はわからないので、
- 論理的思考力
- イメージ的想像力
- 非論理的推論としての思考力、想像力
といったものが備わっているかどうかによって、理解できる相手の発言や立場が変わってくる。私はこの能力には恵まれていて、人と話をする時に自然とこれができた。
私のこうした成長は、一般的にはハラスメントとされるような物事無しでは為し得なかったものである、ということを強く感じる。もう少し言い方を変えると、私個人にはアンチフラジャイルな属性があって、外力としてなにかのエネルギーが加わった時に、それを自分の中でのいろいろな解釈を踏まえて出来る限り正のフィードバックとして機能させることができ、それによってハラスメントとされる物事から多くの学びを得た。
しかし、一般にはそれが真似できるとは限らない。
首尾一貫感覚。その素になっているテクニックや国語力。性格(私は全体的には気が長い)。
いろいろな要素があるが、ハラスメント的だが真意はハラスメントでないような"教育"ないし"指導"について、それをうまく利用できる人は少ないし、世間の流れとしても、ハラスメント自体を封殺するように動いている。
そのような流れの中で、私はどう振る舞うべきか、そしてどう組織を作るべきか。
個としてのアンチフラジャイル性とは別に、組織としてのアンチフラジャイル性の概念もある。
できれば個としてのアンチフラジャイル性も高められるようでありたいが、最低限、組織としてアンチフラジャイルであるためにどうするか。そういう話。

以下はトゥートより。
全体的にカルチャーショックに近いところもあって、世間の一般的反応みたいなことが、3人でゲーム作るまんがの時よりはっきり出ていて、なるほどなあと思うところはあった。
3人でゲーム作るまんが
みんな、技術倫理とか競技とか責任範囲みたいな事よりも、ずっと違う事を重視しているんだな、というのを感じる
あと、漫画によく出てくる口は悪いけど能力があっていう事も正しいタイプの人、私は漫画脳なのでもっと普通に受け入れられてるもんだと錯覚してたけど、実際には全然そんな事はなかった。
そういうタイプの人、実際にはここまで否定されるもんなんだなと思うと、中々悲しいものがある。漫画は所詮漫画の世界なのか...
リアルマトリフみたいなもんでしょ?
違うのかな...
最先端(?)だと、五条悟とかが、かっこいいし若人の権利を守りたがるけど、人格破綻者的に描かれてるパターンがある。
五条悟の描かれ方は確かに興味深くて、直接若者を詰問するというやり方はやらない。
鬼滅は、話題になったパワハラ会議は無惨側だけど、判断が遅いとか、コミュ障義勇とかはある。
約ネバでは、ちょっと違うパターンだけどオジサンなんかは最初は敵対的で、その後も素直な感じではなかったが、人気なくはない。
人格の否定ではない、という事がある程度注意して描かれているとは思うから、それが大きいかな
単にハラスメントがよくないというだけであれば、ハラスメント問題視派もそれだけじゃなくて技術的・コンテスト的な問題点を検証するのが自然だと思う。
でも実際は、多くの人においてはそうなっていなくて、ハラスメント的問題点だけを取り沙汰している。(それこそハラスメントと分離して検証したのは yumetodo 氏ぐらいじゃない?)
そこは明らかにイーブンの扱いではなくて、門前払いみたいな感じ。

例のプロコンの件について、やはり審査員の指摘の本質については正しいとする見解もいくつかある。
そうした見解を持てる、一定の水準の人たちだけで組織を構成する、という考え方は一つある。
正直、私はマトリフを否定するような価値観で生きたくはないし、そのような価値観には触れるだけで疲れるとすら思う。
だから、この辺をきちんと言語化して、説明ができる状態にはしておきたい。

プレッシャーをいかに扱うか
こういう主張もある。時にはいい方向に働くストレスとは異なり、プレッシャーは決して役に立たない。プレッシャーは判断力、意思決定、注意や記憶などの、成功のためのツールに悪影響を及ぼす。
プレッシャーがある環境で生き残れるスキルが必要であるという事と、プレッシャーがある環境で効率的に成長する/プレッシャーがないと成長できないという主張は別で、プレッシャーを完全に取り除いて同じ事をやった時に同等の成長が得られる可能性はある(満足感や達成感は違うかもしれないが)
ドラえもんで、塀の上を歩く時に、その周囲に幻覚の畳を見せる事で歩きやすくするという道具があったけど、それと似たような感じ。
また、漫画だと一般に「本番中」に成長するという事がよくあるが、実際には本番よりも前に成長する事が可能で、その効率は練習と本番で差がないかもしれない。
ただ、本番で学んだ事は印象には残りやすいので、主観的にはその意味での成長の定着に影響する可能性もあるが。
OKRなんかは、しばしばプレッシャーを否定する文脈でも語られる
OKRは達成予想6〜7割程度の高い目標を掲げ、達成度合いの指標を明確にすることによって、普段できる以上のことを達成する目標管理手法。プレッシャーやインセンティブで人を動かす手法とは違い、わくわくするゴールに向かってメンバーが自主的に、最大限の力を発揮するために作られています。
ただ、かりであってもOを掲げる事において、プレッシャーが本当に無いのかというとわからないけど、まあ従来手法よりプレッシャーが低いというのは確か。
論理的には、「プレッシャーはないが果たさないといけない事を果たす事に対するブレもない」というのが最強であるようには感じるが、問題はプレッシャーが無い時に
- 方向性のブレ
- 義務への考慮が漏れる
といった場合があるような気がする事。
私個人でいうと、実は最近はプレッシャーが働いていない気はするが、私がこれはやらないといけないと思っている事を徹底してやっているのでセーフの状態になっているような感覚がある。最終的に必要な事から外れると、途端に大きく狂ってしまう可能性は全然あるし、実際そのような不安はある(私自身が作業する時ではなくて、他の人が作業をする時に)
私は今の状態がやりやすいので、何も言われない方が楽だし、それで成果も出せるけど、(少なくともいきなり)必要なものを見通す感覚について同じ感覚を求めると、それはNG。
これを支えているのは、必要になるものを外さない事で、私の場合は経験もあるけど大部分がカンに近い論理的思考。カンに近い論理的思考を働かせる原動力は、いわゆるホスピタリティみたいに感じるが、この辺のノウハウを言語化してスキル化しないといけない気がする。
プレッシャー以外でどうやって指向性を持たせるかという事が課題で、私は多分いくつかピンポイントな箇所を除けば相当柔軟なので、言われたら方向修正して適応してしまう。(これも良し悪しはあるが)
これを支えているのが読解力と性格なので、
- 顧客の言いたい事や本質がわからない
- 性格的に短気
の場合に、プレッシャー以外で指向性を持たせる方法が分かっていない。
最初の会社でもそうではあったが、短気なメンバーをうまく振る舞わせるのが全然わからない。
この局面での期待水準を下げるというのもあるが、とはいえ満足したい水準や満足しなければならない水準というのがある。

心理的安全性再訪。
改めてきちんと定義を抑えておきたいと考えている。
心理的安全性: 心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。心理的安全性の高いチームのメンバーは、他のメンバーに対してリスクを取ることに不安を感じていません。自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられる余地があります。
心理的安全性 - 「チームの中でミスをしても、それを理由に非難されることはない」と思えるか。
チームの心理的安全性がどの程度のレベルであるかを調べる際、エドモンソン氏は、次の文が自分自身に強く当てはまるかどうかをチームメンバーに尋ねます。
- チームの中でミスをすると、たいてい非難される。
- チームのメンバーは、課題や難しい問題を指摘し合える。
- チームのメンバーは、自分と異なるということを理由に他者を拒絶することがある。
- チームに対してリスクのある行動をしても安全である。
- チームの他のメンバーに助けを求めることは難しい。
- チームメンバーは誰も、自分の仕事を意図的におとしめるような行動をしない。
- チームメンバーと仕事をするとき、自分のスキルと才能が尊重され、活かされていると感じる。
エドモンソン氏は、TEDx Talks でのスピーチの中で、チームの心理的安全性を高めるために個人にできる簡単な取り組みとして、次の 3 点を挙げています。
- 仕事を実行の機会ではなく学習の機会と捉える。
- 自分が間違うということを認める。
- 好奇心を形にし、積極的に質問する。

心理的安全性を高めるためにマネージャーにできること

人として受け入れられることと成果とは別。
人として受け入れられている感のある何かの機会を設計するか否か。
まあ何にしても、人格と事実に対する指摘とを分けて考える能力が必要で、そもそもそれがない人に対しての心理的安全性を担保するというのは難易度が上がる。ひょっとすると感情的に見えるかもしれない指摘について、自分の中で切り分けて受け止めることができるかどうかと、他の人に対して変なことをしないかどうか。