大きな謎の答え・国語力・子供になっちゃう現象

受験国語と自分の表現についての気付き
「OAuthのaccess_tokenはサイトに紐づいていないので、別のサイトで取得したユーザーXのトークンを使われることで、X以外の人がXの情報を引き出すことができる。その情報を認証の代替として扱うと、X以外の人がXとして認証されてしまう(ログインできてしまう)」
と書けばいいのになあと思ったりしていた。
ただ、サイト間の事例はより攻撃を構成しやすい・致命的になりやすいだけで、実際にはサイトとアクセストークンが紐づいていたとしても、アクセストークンが漏洩したらそのサイトの中で別のユーザーとしてログインできる事になってしまうので、脆弱性が無い訳ではなく、本質的には認証の問題である。
というのをきちんと簡単に説明しているの、あんまり見たことがない。
私は最初に書いた説明の方が入口としては分かりやすいと感じるけど、微妙に問題を小さくしている部分がある上に、この説明が分かりやすいとは限らない。(「サイトに紐付いていないので」というところが、新しい要素でもある)
むむむ
「OAuthのaccess_tokenはサイトに紐づいていないので、別のサイトで取得したユーザーXのトークンを使われることで、X以外の人がXの情報を引き出すことができる。その情報を認証の代替として扱うと、X以外の人がXとして認証されてしまう(ログインできてしまう)」
これ国語の回答なんだな
まじで国語の理由を書きなさいの回答だわ
「OAuthのaccess_tokenはサイトに紐づいていないので」という理由づけがあると、
・そもそも記述されている事が真であることが自明かどうか
・理由づけとして適切かどうか
みたいな事を判断する必要があって、それが自明と思える場合は補助情報として機能するが、それが自明と思えない場合は端的に事実・現象を書き連ねた方がまだ正しい。
それによって、わかりやすい言葉についての個人間の逆転現象が起きる。理由や論理みたいな事で世界を捉えているのか、単なる事実の羅列として世界を捉えているのか、みたいな違いがある。
理解が構造化されているか、ということだな。
これは実感としてはわかるわ。
これ私は今までずっと数学力ではないと思っていたけど、ある種の論理的な理解で、数学と関係はあるな。
そして、一般的な理系的叙述/工学的叙述(?)との差があることもわかった。私はずーっと理由づけした方がわかりやすいだろと思い続けていたけど、その違いを言語化すると多分こういう事なんだ。
理由付けが先にあると回答として正しくても、認知に負荷がかかる。
わたし国語は得意だったけど、こういう回答の仕方がデフォルトになってるんだな。つまり、長文読解とかって、自分の理解を与えられた文字数で端的・簡潔かつ的確に書くというフォームの練習で、理解の方が本質なんだ。そのときの回答の書き方は、採点する人、文章を理解している人に伝える事が前提で、誰にでも伝わるような文の書き方ではない。これも一種の簡潔主義ということか。
たしかに、国語の回答をするつもりで会話ないし物を書いているのかもしれない。
なるほどー、これは衝撃だな。衝撃だ。
だから二極化するんだ。
意味が壊れない程度に要約するのは、説明にならないんだな。なるほど。
整理や理解を示す為の書き方は、伝わる書き方ではない。それは事実としては理解していたが、感覚的にイマイチ掴めていなかった。
大学入試の、本番だけやたら国語の点数が良かった理由まで分かってしまった。
いろんな事が繋がった。なんとなく、が確信になったな...
※国語、それまでの模試では30/100ぐらいだったのだが、大学入試本番では70〜80点ぐらいある計算になっており、自己評価的にはそれぐらい行ってもおかしくはなかったが、それにしてもどうなんだと思っていた。

アジャイルの教科書、みたいなやつを読んでの雑な感想
メモ
・事前にタスクを列挙する事についての課題(スクラムは開発ではあるが運用ではない)
・ストーリーポイントの検討?
・タスクを部分的にしかこなせないメンバー
・誰でも改修できるようにするための工夫
・朝会的ミーティングが必要か否か
・1on1を設けるか否か
・振り返りを定期実施する日を設けるか否か
・単純にチームを大事に育てる
・チームとしてのチャレンジを言語化する
・OEMをどうやってアジャイルで(顧客同意を取りながら)進めるか
※ただし顧客の情シスないし情報系子会社はアジャイルの知識はないものとする

リフレクションの本のリーディング開始
内省的という事を考えるとき、
・技術が伴って内省的(いわゆる国語力がある)
・技術が伴わないが内省志向はある(内向的なのではなく、内省志向がある)
というのがあるな。
つまり、本人の性格として、(内向的でなく)内省的だけれども、知能や技術の問題で内省ができないというパターンがある。
これはどうするといいんだろ
単に技術の問題であれば、国語の勉強をすれば良いだけだが
今朝の話じゃないけど、技術としての内省が国語力と深く関係するということは理解ができる。正しい認知を持つための技術としては、いわゆる数理論理ではなくて、他の人の言っている事が事実か/意見かの分解が重要。特に意見については、経験なのか感情なのか信条(価値観)なのか、という事の分解が重要になる。ここ数年、父が国語がわかったと言っているメソッドも、一部はそこにある。
図はリフレクション(REFLECTION) 自分とチームの成長を加速させる内省の技術 より
それを感覚でやるだけでなくて、分類の種類として定義してメソドロジー的に分類するのは、一つの技術。国語もこれでテクニカルに点が取れる(かつこの手法はかなり汎用性がある)
いやー、これ適当にunlimitedで入れた奴だけど、想定より遥かに収穫があったな。
※と書いているが、本当に適当に入れたやつかは分かっていなくて、紹介を受けた本かもしれない
わたし的にタイミングが神がかっていたというのもあるが、この本は「いわゆる国語力を養うと人生にどう活用できるのか」という、国語の意味に直接的に答える本になっている。受験勉強がどう生きるかということね。(それが効率的かどうかとか、色々あるけど、国語力のダイレクトな意味として)
逆のパターンで説明するとわかりやすくて、国語力がないと、振り返りをしようにもまともな反省ができず、場合によっては延々と同じミスを繰り返し、やがて病んでしまう。
普通に高校生に読ませてみても良いと思うな、また父に紹介しよう

これは比較すると面白い、意見と経験は同じようなものがあるとして、感情は、悲しいはまああるとして、焦りは私の場合はないな。悔しさとかだと思う。
同じ事象で焦り/憔悴を感じるのと、悔しさを感じることについては、どうも根本的に性格が違う気がしている。そして、その違いがあるとキャリアプランとかが理解できない場合がある。
背後には「やってればできたのに」とか「正しいやり方ならできたのに」みたいな事がありそう

この図でいうと焦りは右の方(右下の方)かなと思うけど、私の思う後悔は明らかに左だ(左下に書いてあったけど、この位置かもっと左かは難しい)
予定通り進まないとか、やり方がわからない/実現の目処が立たない、みたいな場合の不安はあるけど、この場合はそういう事ではないな
取り残される、みたいな事への不安は皆無
それは結局は自信なんだろうな。

相手の言っている事が論理的に難しすぎる場合、どうやってリフレクションするかという事があるな。
単純な認知は技術的には誰でもできるようになるとは思うが
とにかく国語力だな。
これは対話についての話で、対話をするためには相手の意見を、その"論理的"(数理論理的ではない)な構成要素に分解する必要があり、この本では経験・感情・価値観としている。これは国語そのものだし、対話に国語力が必要という事は大いに頷ける。
アンラーンとリフレクション、首尾一貫感覚まで。
この数年考え続けてきた事が整理されていて、しかもそのベースが国語力にあるというのが、かなりびっくりする。
リフレクションの結論が国語力に行くの、個人的にはめちゃくちゃ納得感があるけど、同時に絶望的な部分もあるな...
技術でなんとかなるかな?
拡張的知能観、反脆弱性(の手前)、今への集中。これらが、つまるところ国語力でもたらされるというのは、正しいけど厳しい

自分の思考のメタ認知という事については、おそらく定期的にやっていて、開発チーム理念とか、以下の2つの記事にまとめた内容とかがある
その取り組みが、さらに首尾一貫感覚を高めるという効果は確かにあって、灯台下暗しとでも言うのか、こうやってまとめて書くという行いこそが、後天的に首尾一貫感覚を高める為の取り組みであった。という事になる。
なるほど、経験・感情・価値観で漏れがあるんじゃないかとは思っていたけど、「飛躍のあるただの主張」があるんだな。そりゃあそうだ。
この本で説明されるリフレクションは、飛躍のあるただの主張を直接炙り出すフレームワークにはなっていないということか。
はじめの意見では、意見のところに書いた内容について経験・感情のところの内容から飛躍があって、その飛躍について、自分の経験や感情を入れ替えた場合に主張がどう変化するかを通して検出している。
なるほど、そもそも自分のリフレクションが論理的に正しくないという可能性を踏まえての話になっている。
さっきの人への関心の話じゃないけど、こういう客観的な入れ替えみたいな事ができるかどうかなんだよな。
実感としては、首尾一貫感覚と客観的な入れ替えの能力が関係しているような気もしないでもなかったけど、密接に関わるメカニズムがある、という事を知らされただけでも本当に驚いている。
これ本当にミッシングリンクだったんだよな、開発チーム理念における内省的という事は、まさにこれができるかどうかで、かつ、それができるとこれまで困ってきた首尾一貫感覚についても養われる。
必要と思っていた二つの要素が実は表裏一体の存在で、その根源は分析を行うための国語力である、というのは本当に出来過ぎた結論。。。
納得する能力は思考と国語だろ、と言われれば、確かにそれはそうなんだけど。
簡略化するスキームだから、やり過ぎるとおそらく失敗する。感情と価値観に分類できないとか、言いながら感情が変化してるとか、厳密にはいろんなことがある。
ただ、最終的に分類できないとしても各観点を持って分析をするという事には意味がある。完全な理解や整理はまた別としても、理解を深めるための道具として利用する事は確実にできる。それをどこまで上手く使えるか、という事はあるにしても、判断がきちんとできればマイナスに作用する事はない。

合意形成テクニックとしてのリフレクション(つまり分析)
優先する価値観の序列を遺恨なく決めるのが大変そうではある。最終的には、このフォーマットだけではなくて、コミュニケーション力的な部分の気がする。

(本来のなぜなぜ分析ではないのだが)なぜなぜ分析の誤解されがちな意味
つまり、このリフレクションのフレームワークのように意見/経験/感情/価値観に分解している場合、なぜという問いで聞いているのは「飛びつきやすい理由探し」ではなくて、「経験や感情や価値観」になる。そのような意味での深掘りは有効。もちろん、自分が好きなところに飛びついてないか、という事があるんだけど(いわゆるMECEとかにも通じる概念)
自然現象の因果関係は非常に難しく、それをなぜなぜと分析するのは事実上不可能な場合が多くて、素人が生半可にやるのでは意味がないという事には同意する。
一方で、自分の内面や考え方について、例えそれが後付けの理屈であるとしても、経験、感情、価値観というより根源的な「なぜそう思うのか」の理由(主張が正しい理由ではなくて、なぜそう思うのかの理由)を掘り下げる事は国語力があれば可能で、それは真理の話ではないので原則として間違いはない。
なんで間違ったなぜなぜ分析が流布しがちなのかという事もわかった。
真理の探究と、内的な考え方の分析(真理とは無関係だが、行動パターンに影響するので本質的)の二つが無考慮に混同されてるんだな。
国語のテストは、整理して書くだけでいいが、実際の場面では真理の意味で間違っている場合がしばしばあり、それをどう扱うかという事が大きな課題になる。
かつ、真理や真理を導くロジック(これは真の意味での論理)や経験と、まちがえた当人の経験/感情/価値観/飛躍に乖離がある場合、それをどう克服するかという事に課題が出てくる。
これは各個人=各人的リソースの質に関する問題なので、しばしばプロジェクトやプロダクトのマネジメント論ではスコープ外にされる。しかし、私は以前からそこには強い違和感があって、実際にはまちがいなく人的リソースの質や、人的リソースの継続的向上みたいな事がプロジェクト/プロダクト開発の中でも必要になるはずで、そこがずっと気になっていた。
この本は、そのミッシングリンクも埋めている。
面白すぎて眠れない...

つまり、内的な考え方の分析は、少なくとも本来のなぜなぜ分析ではないし、その分析で得られる結果は人的リソースの質の改善に関する事なので、プロジェクトやプロダクトのマネジメントからはしばしば変化させられない要素として扱われる。
例えば、プログラミング組織論への招待で言えば、メンタリングという形で近い内容が述べられるんだけど、本質的に他者の内面はわからないとしていて、もちろんそれはそうなんだけど、それを直接的に解消するための対話を取ろうというアプローチではない。
おそらく私のもっとも大きな違和感はそこで、気付くのが本人であっても、自分の思考を開示しつつ対話的に整理するという事は可能。
これを、私は便宜的に内向的/外向的と言っていて、外向的な場合には色んな答を外に求める。自分の内面の答すらも。
相互に理解できない前提でお互いにメンタリング等で影響を与えるのか、認知の元になる経験や感情、価値観を掘り下げて話をした上で影響を与えるのか。
前者のスタンスでビジョンの共有やプリンシプルの共有は本質的に難しい気がしている。その辺の向きが根本的に違う感じ。
関係ないけど、ペアプロで書くコード量の話、ペアプロで生産性同等以上になるのは、もともと難しい事をやりすぎなんじゃないか。
品質はわかるけど、単純なコード量は説明とか相談で減る。でも、単純なコードでなければその限りではない。
そういう事なのではないか???
たまに手が止まるAさんBさんとかだとたしかに改善しそう
本をそのまま論理的に読むと正しくないけど、著者フィルターを通すとその書き方で逆に正しく事実を描写している場合、というものがあるのか。なるほど、めんどくさい!
論理チェックを外すというか、著者フィルターで読んで、それを客観的に正しい主張にマッピングしなおせば正しい、という。
なるほど。
著者は見たものを書こうとしているけど、それが色んな意味で書き切れてなくて、でも適当に補正すれば正しくなるパターン
これが、論理的な事だけじゃなくて経験とか感情でも全然自分と違っていると正しく読み進めるのが難しい

メモ
・モチベーションを自分でつくる/内発的動機付けとの関連付けを行う技術
・自分自身を正しく理解するための技術
・感情の影響の客観的把握
・ビジョンの形成、クリエイティブテンションの生成
・会社のビジョンと個人のビジョン
単にビジョンを探すみたいな事をすると私の場合は無になる。人の為とかの何かの軸がいる。そういう、無にならない思考の軸が何かは掘り下げる必要がある。

性格的に内省的であるか否かとは別に、内省のフォームがあり、それが身に付いていなければ内省でダメージを受けてしまう。
これは一つの本質で、ダメージを受ける事象の内省であったとしても、感情と事象を切り離して、できる限りダメージを受けないように反省する術というものがある。
それとは別に、この本でいうリフレクションではないが、内省の手法を繰り返しても分からなかった事というのが結構沢山ある。
今回の国語力という結論は、それを避けて考えていたところがあるが、「能力のある人が上にいる時に正論を伝えると、伝え方が優しくても厳しくても結局下にいる人間が腐ってしまう現象」については、特に何かを避けたわけでもなく、私が下にいる時に何度も目にしたにもかかわらず、まだ説明ができていない。
内省の成功体験と、建設的な内省の仕方、つまり多くの場面で有効な内省の仕方を知る必要がある。
これはおそらく技術であって、性格ではなく、また、そこに国語力が生きる。
私の内定者〜新人当時で言うと、プロフェッショナルとか、怒られるとは何かとか、未来の紐解きとかあったけど、その前にまずリフレクション、反省・内省・振り返りの方法についての教育が必要だった。
これは、インターンについても思うところがあり、インターンで真に最初に教えるべきは、おそらくこれだった。
メンタリングとかも明示的に求められてはいたし、自分ができなかったと思った事もその辺で、能力と関係なく、リフレクションをメソッドとして教えるべきだった。
そういう事なんだろうな。
ただ、私は国語力でカンで適当にそこそこの最適解を引き当てていて、反省に関しては正直何も言語化できなかった。(し、今でも本当に根本的な事は言語化できない)
ただ、事実と過去の経験(認知)と感情と価値観およびそれらを元にした意見を分けるとか、そういうレベルの事は簡単に説明できる。一種の認知行動療法みたいな事ではあるが。
実際に、過去スポーツに関してはセンスレスな反省も沢山やってるので、私自身がなんでもうまく反省できる訳では決してない。ただ、うまくやれる場合にはうまくいった。
それのどういうポイントが本質的なのか、みたいな事は全然分かっていなかった。むしろスポーツの反省と別軸では存在していなかったと思う。実際、私の二つ上の主将が大学受験にたとえて練習を組んだので、共通する軸で捉えることを重視していた。それは間違いではないんだけど、根本的に異なる部分もある。
何事にもメンタル的修正・意図の修正の部分と、そうではない絶対的な動作や知識みたいな事の修正があり、本来は後者の方が技術的に必要だったのだが、その技術がなくてよく分からなかった私は前者の方だけ上手くなった(それまでよりは)
特定の技術が身に付いている/身に付いていないみたいな事を、再現精度から定義して、その精度を具体的に高める/精度というものをきちんと定めて練習するみたいな事は、私は全くできていなかった。
これを知った状態でもう一度スポーツやったらどうなるのか、というのを見てみたいような気持ちはあるな...
実際、リフレクションの事例には、ティラーを切り過ぎたとか、ヒール/パワーが安定してないとか、テルテールが1/3ぐらい剥離する角度になってないとか、そういう話は出てこない。まして、ティラーを切る角度が10°深いとか、上り角が1°上り目とか、そういうような事ではない。
これらの事実に対する振り返りは、やるべき事が決まっている場合はごく単純なことではあって、ただこの数値を支配している要因が何で、その要因をどう修正すべきか、という事を考える必要があった(本来のなぜなぜ分析に近いこと)
例えば、ティラーが安定しない理由は筋力なのか癖なのか反応が鈍いのか、仮に癖や反応の鈍さだとすればそれはどういう身体構造や認知がもたらしているのか、という事を事実ベースで振り返る必要があった。自分がコントロール可能な要素まで落とす必要があった。私はそのような要素化は不得意で、全くできなかった。頭を使わず、感覚と感性だけで生きていたために。
ただ一方で、定性的な反省は進んだ。メンタルをどう扱うか、疲れている時に考えるとどうなるか、だからそれを避けるという戦略を持つ、切り替え、みたいな事は練習できた。
リフレクションは必ずしも振り返りのみに利用するものではないというのは承知の上で、反省の方法というのが大別して2種類ある。
つまり、
A.自分の意見や認知の構成要素を、数理論理ではなくて国語的な意味で分析するという手法(リフレクション)
B.明らかな数値や結果を実測できるものについて、その結果と期待の差を検討し、その要因が何かを数理論理的・自然科学的な意味で考察して、
B-1.単にコントロールする技量がないだけであれば、それを練習して身につけるという結論を出す
B-2.自分自身にコントローラブルな領域に帰着する(追加分析)
という、A:認知的アプローチと、B:物理現象的アプローチがある。
人間の行動はどこかに意志的な要素が絡むのでAが必要、しかし普通に科学的な意味でBも必要、みたいな時に、A向けの手法とB向けの手法を混同して"反省"をしてしまうと効果が出ないのだけど、反省という事についてそういう整理をされていないから、多くの人はふわっとAB混同して考えている。
これを、最初に教えればよかった。
オリンピック無かったら、今のタイミングでまずこんなこと考えてなかったな...
さっきのAを長期的に繰り返す事で、ある程度厳しい状態でも主体的に意味を見出して、ダメージを受けずに乗り切れるようになる。
それは首尾一貫感覚を養う一つの方法であり、拡張的知能観を強化する一つの方法であり。

A/Bはざっくり文系/理系みたいなアプローチの違いがある。私が変な位置で浮いているのは、B文脈が強すぎるとA文脈を求めてしまう(個人の精神的な成長とかを必須の要素としがち)し、A文脈が強すぎるとB文脈を求めてしまうか、根本的に真実から外れていたり文として整っていないようなものに不快感を持ってしまうところにあるんだろうな。
極論、Xさんの言葉で説明してとなったとき、Xさんの認知がそもそもズレていると、それを事実として否定するところからスタートしてしまう。もちろん、Xさんの中での思考や"論理"をトレースしているだけで、それは事実性とは関係ないんだけど、事実ベースの話をしたくなってしまう。このとき、言ってる事を客観的に見た場合の私の主張は多分8割ぐらいは正しい。ただその言葉や"論理"でXさんが表現しようとした経験が、Xさんの主観内に存在する事は事実。感じたという事実までは私は否定していないが、そう聞こえる場合もあるし、主張そのものについては否定しているので、それらを混同する相手だとヒートアップさせちゃう。
事実・一種の自然法則としていわゆる数理論理が正しかったとしても、対話相手はそもそも数理論理を正しいと思っていない、または数理論理的な演繹ができない可能性がある。その場合、共通見解から演繹的に相手の間違いを指摘しようとしても、相手がそれを理解できないという意味で指摘が成立しない。
それは極端な一つの事例で、他にもパターンはあるけど、普通の人はそもそもいわゆる真理とか事実をそんなに重要なものとは思ってないんだな。少なくとも、特定の事実(蓋然性の高い事)からスタートして、これは事実(っぽい事)だ、これも事実(っぽい事)だ、というような演繹的なラベリングで世界を見てない。そのような整合性を持つように再構成もしていない。
まず、議論や相談の目的が何かという事がある。単に答えを出したい、正しい答えを出したいという事は一つ。しかし、仕事の場合は継続的な関係性に影響するので、必ずしも正しい答えを導く事だけが目的ではない。その後の効率化も考えると、単に正しい結論を出せば良いわけではなく、必ずしも正しい、または筋が良いとは限らないような考え方も含めて、理解する必要がある。
そのような場合には、「必ずしも論理的ではないが、本人の中で"根拠"となること」や「考え方」を理解する必要がある。それは、本人の意見と、それの"根拠"であるところの経験・感情・価値観がある。
まずは意見を経験・感情・価値観に分解する、つまり論理的でないものも含めて根拠を分析する。それによって、感情にあまり振り回されずに議論の構造を考える事ができる。
一般に議論を進める場合、正しさのみについての議論は論理的な意味での分解検討に終始するのだが、人間の継続的活動においては、その場で論理的な正しさを導くだけでは根本的な継続性がない。
だから国語力である事は変わらないんだけど、同時に、論理的でない主張に国語力を使うという事が一味違うポイント。
経験・感情・価値観それ自体は、意見の正しさと関係なく「尊重されるべき現象」ではある。
そうすると、議論が込み入ってきた場合は、経験・感情・価値観に分解する提案を都度入れる、という事が一つの方法論になる。
最初の会社でよく見た「子供になる現象」の答えが、ようやく分かりつつあるかもしれない。
反省会をする時、おそらく社長はこういう事(経験・感情・価値観の観点からの反省)をなんとなくそれっぽい表現はしていたんじゃないかと思うのだが、本質的にそれが届いていなくて、論理的に正しくないし、価値観は背伸びする感じ(自己否定)が入るような反省をさせていたんだと思う。
そういう反省が出てきた時に、論理的な整合性を突いてしまうと、それは正しい結論がその場で出るのだけど、根本的な原動力にはならない。人間が動いている原動力を正確に表現する事は難しいが、まだ非論理的に繋がっている意見・経験・感情・価値観の方が原動力の姿に近く、これが打合せや反省会などのタイミングだけではなくて、根本的に変わらないといけない。
理屈で説き伏せてはNGで、その場でYESと言わせてもNGだけど、じゃあ代わりにどうするか。答がこれ。
(最初の会社の)社長の反省メソッドは、論理的に正しい事を素直に受け入れられて、それに感情や価値観を従えられれば効果的だったのだが(だから私には適していた)、それが出来なければ追い詰められるという事なんだろうな。
だから、普通の反省メソッド(?)として、感情や価値観を踏まえた反省が必要になる。一足飛びに反省するのではなくて、まず認知から確認する必要があるというか。
これはかなりの納得感がある。
普通は論理的な演繹では理解できない、というか根本的に変わる必要がある事だと思って変わったりはできないんだ。

過去、私が話をしてほとんど通じなかったパターンや、私の意図せぬところで感情的な反論を生じる場合についても、いくつか整理ができつつある。
- 相手の一つ一つの認知が致命的に間違っている訳ではないが、全体で整合性を取る習慣がなく、事実として矛盾していることについて根本的に問題を感じないパターン。
- 認知に偏りがあり、書いていないことを読まれるパターン。
- 事象AとBが排他的(B=¬A)ではない場合にも、AかBかで推論を進めている場合。
- 事象Aについて本人の中で特定の感情と結びついていて、想定外の感情による歪んだ推論がかえってくる場合。
私の書く文章について、おそらく単純に論理的な推論をしにくいのであろうという事は確かで、いわゆる国語的な推論ができないと読めない部分がある。かつ、論理的な部分は構造や意味が複雑な場合がある。(AではないがBでもなく、Cでもない→それって端的に言うと何、みたいな場合)
これは、推論規則が実際には(数理)論理的な推論と、認知的な内省方法とがあるにも関わらず、言葉というものは"一つ"しかないので、事実についての話を認知的に読み解かれることによって生じる。
私はこれずっと分かってなくて、書いてる事が難しくて読めないのかなとか、そういう雑な理解だったけど、この読み方の区別ができない人にとっては、読み解き方がわからないという事になるんだろうな。
私も正直あんまり受験国語をきちんとやった訳ではないので、そういうのは感覚的にしか分かっていなかった。
これで認知の問題に帰着できて、認知を説明する手段ができたので、メカニズムをだいぶ理解できるようになった。分かるように伝えられるかはわからないが、従来の論理的に正しい意見の説明 or 飛躍のある箇所の感覚的な説明 ではなくて、そもそもの推論方法の違いという指摘ができるようになった。