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国語力と認知と首尾一貫感覚と

さざんかぬふさざんかぬふ

※未完成なのでスクラップ扱いです!


楽しく、しあわせに暮らす。
具体的にどうやって?という事はさておき、多くの人は楽しくしあわせに暮らしたいと思います。
それを実現する確実な方法はまだこの世に存在しないと思いますが、その基礎として重要な事についてまとめました。
一言で言うと、「正しい認知をつくり、生きやすくなる方法」ということです。

何かを感じるということ

私たち人間は、様々なことを感じながら生きています。
楽しい、苦しい、腹立たしい、というような感情は、感じることの例です。
他にも、熱い、冷たい、明るい、暗い、痛い、といった、感情というより感覚というのも感じることです。
感じることは、言葉として整理できるものもあれば、言葉として整理できないものもあります。
また、感じた瞬間には言葉になっていないものもありますし、完全に言葉で表しきれない感情や感覚もあります。
例えば、あなたが犬を飼っていたとします。10年間。
もしその犬が亡くなった時、そのときに感じる感情は、ざっくりと言うと「かなしい」という事が多いのではないかと思います。
しかし、このかなしさは、数ヶ月前にコンビニで買った少しお気に入りのボールペンが壊れた時の感情とは、だいぶ差がある場合が多いでしょう。
あるいは、この犬がずっと病気をして苦しんでいたとしたら、この犬がようやく病気から解放されたのだと思って少しほっとする部分があるかもしれません。他にも、いろんな感情が同時に溢れていたり、複雑に入り組んでいるように感じられるかもしれません。
そのような感情を言葉で正確に表現するという事は、とても難しいことで、感情と言葉の間には差があります。

こうした感情は、私たちの行動に影響を与えます。
例えば、楽しい気分にある時は、普段よりも物事を前向きに考える傾向があります。
逆に不安な気分の時は、普段よりも物事を後ろ向きに考える傾向があります。

こうした感情による行動の変化は、その場に適している場合もあれば、適していない場合もあります。
例えば、友達と喧嘩をして、その後ずっと仲直りしたいと思っていたのに、いざその友達と話をしようとすると、相手の言葉がどうも腹立たしく聞こえて、結局さらに喧嘩をしてしまうとき。自分自身の考えを少し長い期間で見ると、本当は仲直りをしたいのに、ある短い期間の間だけ感情によって間違った行動を取ってしまう。こういった事は、しばしば聞くような出来事なのではないかと思います。
このような、長期的な自分の考えと短期的な自分の考えの間の違いが、悩み事をもたらす場合があります。
自分には長期的にやりたい事があるのに、短期的な感情に阻害されてしまう。やりたい事ができない。意志が弱い。といった事です。

※ここで一つ注意をしておくと、この仲直りをしないという行動が本当に間違った行動なのかというと、それは明らかなことではありません。
友達と会っていない間の仲直りしたいという考えの方が気の迷いで、実際に友達と会った時に感じる不快感の方が「正しい」ことで、ずっと不快感を感じ続ける事は無理だということを感情が警告していたのかもしれません。その場合は、実際に会って話をしたことで考えが変わったのは正解とも言えます。
そのような難しいことを考えると、「本当に取るべき行動」が何だったのかはわからなくなります。あまり簡単な話ではありません。

ただ、もしずっと仲直りしたかったのにその場で仲直りしないような行動を取ってしまったとしたら、長期的な自分の考えと短期的な自分の考えとの間で違いがあるのは事実ですね。
もし、このような矛盾が日常生活の中でたくさん出てきて、悩み事になってしまったとしたら、それはつらいことです。
こうした「自分自身の」矛盾のような事と、どうやってうまく付き合っていくか。
この矛盾を解消する技術を知らなければ悶々としてしまいますね。この矛盾を解消したり、受け入れたりするための技術について解説していきます。

認知とはなにか、認知の性質

いま、「感じること」についてざっくりと考えましたが、端的にまとめると次のようになります。

・感じることと言葉の間には差がある。
・感じることによって、行動が変化する。
・感じることによって、長期的な自分の考えと反する行動を取る場合がある。

この記事では、これにどうやって対策していくのかを考えるのですが、そのためにまず「感じること」を少し掘り下げます。
ここでざっくり「感じること」と呼んでいるものには、以下のようなものがあります。

・感情。気分。例えば、イライラする、心が激しく燃え上がる、苦しくて思考停止してしまう、といったこと。
・感覚。熱い、冷たい、といった感覚器官の反応など。
・意見。イライラする、心が激しく燃え上がる、思考停止してしまう、といったこと【ではなくて】、「友達はズルをしたので許せない」といった理由・根拠みたいなものを伴った考え。

単純に何かを感じた瞬間では、まだ感じた事を言葉やその他の形で整理されているとは限りませんが、私たちは半無意識的に感じたことを整理したり意味づけを考えたりして、情報として処理しやすい状態にします。
たとえば、ネコの映像を人間が見た時には、視覚的な情報が感覚的に感じられますが、この映像について「ネコの部分に注目する」「ネコがいると把握する」といった情報の解釈、意味づけを人間は自動的に行なっています。あまり意識せずに。

このように、感じることそのものと、それに対する自然な処理をあわせて「認知」と言います。

ここで、冒頭で「感じること」という書き方をした事について振り返ってみると、認知との境界はあいまいです。
たとえば、仲直りしたかった友達と会って話をした時に不快感を感じたとしたら、それは単純な感覚・感情というよりも、何らかの解釈も通した認知であると考えるほうが自然でしょう。
そのように考えると、先程の「感じること」についての考察は以下のようにも言い換えることができます。

・認知と言葉の間には差がある。
・認知によって、行動が変化する。
・認知によって、長期的な自分の考えと反する行動を取る場合がある。

ちょっとした言い換えで、あまり本質的な意味が無いように感じられるかもしれません。
しかし、「感じること」というと少し受動的なように聞こえる場合があるので、「認知をする側の感じ方のような要素も含めて、必ずしも受動的ではない、積極的な行為であること」というニュアンスを強調するという目的があって、このように言い換えました。

認知と事実の違い

認知には、いくつかの性質があります。
まず、「感じること」が必ずしも言葉で表現されているものではないように、認知もまた必ずしも言葉で表現されているものではありません。
認知は整理された簡潔なものではなく、複雑でしばしば無自覚なものです。

次に、認知は実際の事実とは異なる場合があります。
たとえば、先程から例示している友達との仲直りを、相手の立場から見てみます。
もし、事前に相手に対して「仲直りしたい」という意思を伝えられていなければ、相手の人は会った時のやりとりから「こいつは仲直りしたいと思ってなかったな」と認知してしまうかもしれません。その場の言動からそのように認知するのも仕方ないかもしれませんが、「その前にずっと仲直りしたいと思っていた」ということが事実であったとしても、それと異なった認知が発生してしまうということです。このように「事実関係として正しいか否か」という観点において、認知は誤っている可能性があります。

また一方で、認知には「事実かそうでないかという事とは関係なく、単純に自分が感じたこと」も含まれます。
例えば、冒頭の飼っていた犬が亡くなった例では、「そこで何をどう感じるか」という事について、正解・不正解という事はありません。
しかし、そのような「単純に感じたこと」は、しばしば認知の結論に影響を与える事があります。それによって、同じ現象に対しても違う認知が生じたり、事実と異なる認知に至る場合があります。
このように、「単純な事実の受け止め方として間違いではなくても、その受け止め方を元に認知を進める時には誤りが生じる場合がある」というのは重要なことです。数理論理と呼ばれる論理的な推論では、推論が正しい限りはこのような事は起こりません。認知の仕組みと、事実に対する論理的推論の仕組みは違うという事になります。

しかし、人間は認知と事実を区別して考えられない場合があります。というのも、人間が何かを考える時に言葉で整理するとき、その言葉自体が認知を通して生じるものであるため、純粋な事実を取り扱っているわけではないからです。
また、熱いとか冷たいといった感覚を受けて考える場合も、その感覚が間違っていれば当然認知は事実と異なってきます。
認知と事実は異なるものですが、厄介なことに、私たちは認知のうち何が事実で、何が事実でないかという事を整理しにくいのです。私たちは無意識的に認知と事実を混同して、それらを分析する手法を間違えてしまう事があります。認知と事実は似ているので、表面的には正しいように見えても、実は間違っているという事がよくあるのです。例えば、認知した事を無根拠に事実だと考えたり、事実についての推論をする時に認知のルールを用いたりする事がありますが、これは誤りです。

このような認知と事実の違いを踏まえて、認知を言葉で整理する技術について説明します。

認知の整理をする技術

認知にはいくつかの種類がありますが、ここでは思考・意見についての認知を取り上げます。
理由としては、認知の中でも比較的言語化がしやすく、その点において取り扱いやすい部分があるからです。

さて、私たちが何かについて意見を持つという事は、「その何かを感じて、対象として把握している」という事を意味します。つまり、何らかの意見を持っている時点で、認知をしているという事になります。
この意見というものを、次の4つの観点で整理して捉え直すことによって、認知を言葉で整理することができます。

<観点>
・意見、主張。意見そのもの。
 「あなたの意見は何ですか?」

・経験。事実と、主観的に過去に感じたことも含む経験。
 「その意見の背景には、どのような経験や、経験を通して知っていることがありますか?」

・感情。この意見と紐づく感情がどのようなものか。
 「その経験には、どのような感情が紐付いていますか?」

・価値観。意見・経験・感情を踏まえて、どのような価値観を持っているのか。
 「意見、経験、感情を俯瞰して、あなたが大切にしていることが何かを明らかにしましょう。」

これは認知の4点セットと呼ばれ、「リフレクション(REFLECTION) 自分とチームの成長を加速させる内省の技術」において紹介されている手法です。
すでに述べたように、認知は常に言葉として整理されている訳ではなく、言葉として整理するには難しいものも多くあります。そのような時に、整理をより簡単に進めるための手法が、この認知の4点セットです。
これまでも、何かがあった時に自分の感情や考えを整理するという事をしている方も多いと思いますが、この4つの観点を明示して技術・手順として整理するということは、意識されていない方も多いのではないでしょうか。
この手法は多くの場面で利用できますが、自分自身の認知の整理だけでなく、他の人の認知の整理・推測にも利用できます。

認知の4点セットを試してみる

この認知の4点セットによる整理を、実際に自分の認知に対して適用してみましょう。この時に重要なのは、「価値観」についてよく考えるということです。
意見の根拠となる経験、感情を整理すると、その経験から感情が生じた理由にあたる「価値観」を見出す事ができます。
同じ経験に対しても、人が違えば発生する感情も変わります。この、生じる感情の違いをどう理由付けするか?ということなのです。
その一つの考え方が、「本人が気付いているかいないかによらず、自分自身の心の中で大事にしている事があって、それによって経験から感情が導き出されている」という考え方で、これを積極的に使っていきます。

さて、筆者である私自身の認知に関しては、次のようなものがありました。

・意見:この世が物理法則に従っている、という事を子供のうちに実感してほしい。

・経験:自分は理科が得意で、力学的な運動をする柔道部に中高と属していたが、この世の物が例外なく物理法則に従うという感覚や、力・加速度というものの意味をほとんど理解できていなかった。大学に入って、家庭教師で物理を教えるために整理をしたり、自動車や船の運転で惰性について考えたりした事でようやく万物が従う法則の意味が分かった。この事を小さい頃に理解していれば、もっと違った発展があったのではないかと思った。それまでは、苦手な運動については「自分にはできない」といった論理的根拠のないネガティブな思い込みがあったが、法則の存在を実感してはじめて「科学的に同じ動作をすれば同じ結果が得られる」ということを素直に信じられるようになった。

・感情:驚き、神秘に対する畏怖、理解への満足、納得感

・価値観:心の安らぎを求める性質、成長志向

これは私が別の記事でまとめた内容のうちの、一部の出来事についての振り返りです。経験に書いてあることは、まさしく出来事そのものです。感情は、特にこの事を理解した時の感情をベースに書いています。経験と感情は、ありのままに書けばそれで十分ですが、価値観の部分については考察が必要です。
私のこの出来事の場合は、「自分にはできない」という根拠のない、しかしそれまでの経験に基づいたネガティブな思い込みがどうやって形成されたか?という事がキーポイントです。私の場合、運動などができないという事についてはネガティブな感情がつきまとい、昔は悔しくて泣くこともありました。それについて、一種の諦めのような非合理的な説明を付けることは、心の安らぎを作るために必要なことでした。
一方で、そうした諦めのような考えを持ちながらも、どこかでは成長したい・自分がやれないように感じた事もやれるようになりたい、という考えもありました。実際、この一連の事実に気付いた上で、それを「子供のうちに実感してほしい」と思うという事は、ある種の成長志向のあらわれとも言えます。

これは、良いとか悪いとか、そういう事ではなくて、端的に傾向を示すものです。
例えば成長志向は一般的には良い考えとして受け取られる事が多いですが、それを一方的に子供に押し付けたりしてしまうと、かえって子供の成長を阻害してしまったり、そもそも成長したくないという場合にはただの鬱陶しい人になってしまうかもしれません。
心の安らぎを求める性質というのも、単に安らぎを求めるだけでは成長や発展がなくなるかもしれませんし、自分にとっての安らぎを強く他の人に求めると、他の人にとっては問題のある振る舞いになってしまうかもしれません。
絶対的な良し悪しという事ではなくて、どういった傾向があるのか、ということをケーススタディ的に分析するという事が「価値観」の考察の意味です。

これはあくまでもケーススタディ的なものなので、常にそのような価値観を重視し続けているのか?という事までは分かりません。
人間、あらゆる局面において常に同じ価値観を維持できるという事は少なく、場面によって強く出るものが変わったり、時に矛盾するような事もあります。
しかし、論理的整合性のある事実とは異なり、認知というのは事実と違って矛盾することもありますし、時によって変化するものです。
価値観の考察自体も、必ずしも正確ではなかったり、時に間違ったりという事もあると思います。上で述べた価値観についても、「私の当時の脳の状態から、この分析は絶対に正しいと言える」といった客観性のある主張ではありません。主観的な一仮説にすぎない部分があります。
しかし、どんなことでも間違いながら練習・実践しなければ身につきません。
時に間違いながらも、このような整理を繰り返して自身や他者の認知についての理解を深めることで、行動を生じたメカニズムを理解したり、認知の歪みを修正できるようになります。

認知の整理と国語教育

この「考え方を4つの観点に基づいて」紐解く手法について、実は私たちは小学校〜高校でその一部を習っています。というのも、これは国語の読解の基本的な進め方にほかならないからです。
国語の問題では、
「筆者の主張はなにか。」
「筆者の主張の根拠はなにか。筆者はなぜそのように考えたのか。」
「筆者はどのように感じたのか。」
「筆者の考え方を述べよ。」
といった問題が出題されます。これはまさに、上の4点セットの内容と対応しているのです。
ただし、国語の設問では「常に4点セットで整理する」といったやり方ではなく、「この4つのうち指示されたものに答える」というようなやり方になっていると思います。認知の4点セットによる整理は、気が向いたもので整理をするという事ではなくて、常に4つをセットとして整理をするという方法になります。そこは方法論としての違いがあるので、注意しましょう。国語のテストでは指示に従って回答・読み解いていましたが、ここでは4つの観点で網羅的に考える事になります。

また、他に国語の授業やテストと異なる点として、【認知の整理をするとき、必ずしも最初から認知が言語化されているわけではない】こと、つまり【ある筆者が論として整理して書いた言葉が対象ではなく、自分自身や別の人が感じた言葉になっていない事などを整理して言葉にしていく必要がある】ということもあります。国語の問題の場合には、本文に書かれている内容を元にして経験や感情を探しますが、この認知の4点セットの場合はどこかに書かれていることを探すという事ではありません。むしろ、自分自身や相手の過去の経験や感情を、対話的に探る必要も出てきます。
そのような意味では認知の4点セットによる可視化の方が難しい部分もありますが、個々の観点に従った分析については実は小学校〜高校で教えられているのでした。

事実・客観的に正しいことを認知する

ここまで、認知の整理・認知の4点セットと称して、認知と言葉の間の差を理解した上で、それを言葉によって解き明かしていくという作業・技術を説明しました。
これによって、行動を変化させたり、長期的な考えと短期的な考えの相反を克服することを考察していきます。

認知を4点セットと別の観点で、次のような2つの内容に分類することができます。

・客観、事実。および、事実に関する主張。物理現象として客観的に正しい・正しくないということを判断できること。
 「このコップには水が入っている」「いま私の目の前に立っている人は自分の父である」
 「力が加わらない宇宙空間のロケットは等速直線運動をする」
 「人間は体温が42度を超えると、生命維持に必要なタンパク質が凝固して死ぬ」
 これらは事実についての言及です。こうした事実に関する認知は、誤る場合があります。

・主観。4点セットにおける感情や価値観は、それだけを切り取って正しい・正しくないということを決めることはできません。
 例えば、ゲームで遊んだ時に「楽しい」と思うことも「つまらない」と思うことも、どちらも個人の感じることであって、それについて正しい・正しくないという事はありません。同様に、「ゲームで遊んだ時に楽しいと思うような人格(価値観)」「ゲームで遊んだ時につまらないと思うような人格(価値観)」などにも、正しい・正しくないという事はありません。

もし、事実として正しくない認知に基づいて行動すると、「まぐれ当たり」のような偶然を除いて、自然と意図しない結果が得られることになります。
認知を元にして自分の期待する結果を得るための行動をしているのに、そもそも認知が間違っていれば期待する結果を得られない、ということです。
そのような誤った認知を避けて正しい行動を取るためには、
【認知の4点セットを主観的な領域と事実に分類して、事実の認識に誤りがないかを確認する】
という事が有効です。
特に、経験の内容について、その経験が客観的にも正しいものなのか、それとも主観的な感じ方に紐づくものなのか、ということを整理して分析しましょう。

ここで重要なのは、自分の主観をすべて否定してはいけないということです。
現実的には、主観が全くない客観のみの認知というものは存在せず、どんな認知にも必ず主観が混ざります。
それが悪いという事ではなくて、そのような主観が混ざることを踏まえて、自分がどのような認知をしているかを把握することが大事なのです。
その中で事実として誤ったものがあれば、それについては事実としての認知を修正していきます。

認知の修正をする時におすすめする手法は、【過去の認知を直接的に否定しない】ということです。
たとえ過去の認知が事実として正しくなかったとしても、【その認知を持つに至るような経験が存在すること】もまた事実です。
認知は、経験と感じ方の積み重ねで生じているので、理由なくいきなり認知が生じるという事もないのです。
ここでもしこの世界が物理法則に従っているとすれば、認知もまた物理法則に従って生じているのであって、理由なく突然間違うという事ではないのです。
その意味で、自分の過去の認知を直接的に否定するのではなく、「自分がそのような認知をした事にも理由があるが、結果的に認知が間違っていた」というような考え方をします。

どうしても認知を否定しないと気がすまないような場合は、その認知を忘れ去る、アンラーンするようにします。
この記事でも認知の修正方法については解説しますが、「リフレクション(REFLECTION) 自分とチームの成長を加速させる内省の技術」にも具体的な事例が述べられているので、ぜひ参考にしてください。

認知の修正をする例(アウフヘーベン)

ここで、やはり私の体験の中で、認知が修正された事例について考えてみます。

・意見:他の人が上手くいく事であっても、勉強を除く多くの物事については、自分が同じ事をやると失敗する。

・経験:昔から体育が苦手で、走るのは学年で一番というぐらいに遅く、他の運動もほとんどダメだった。自分が体型的に少し太っていたり、足の形や歩き方がおかしいところがあり、他の人が簡単に出来ることでも自分にはできなかった。また、クラスで一番忘れ物が多い、すぐ物を失くすなどまともな生活能力が乏しかった。

・感情:悔しい、(悔しさを通り越して)虚しい、諦め

・価値観:(必ずしも事実でなくてよいので)心を落ち着けるための説明や決め付けが必要、期待を裏切られてこれ以上苦しみたくない、苦手な事で勝負したくない

小学校、とりわけ低学年の頃の私は運動会が来るたびに泣いていたと言っても過言ではなかったです。本当に文字通り、学年一ぐらいに足が遅く、リレーでは自分がいるというだけで圧倒的に負けてしまう。小学校の間、私が居たチームで最下位以外を経験した事がありませんでしたし、最下位と言うのも割とダントツの最下位になります。当然みんなからは怨嗟の目みたいなものを貰うのですが、単純に足が遅い・負けるという事も含め、まあとにかく悔しくて悔しくて。高学年にもなるともはや達観してしまい、完全に諦めていたようなところがありました。
「やれば負ける」という事実を受け入れなければ、みたいなところがありました。

私のこの認知は、違った経験によって少しずつ崩されていくのですが、根本的には「この世は物理法則に従っている」という主張の意味を理解した時に以下のように変化しました。

・意見:物事には適切なやり方があり、そのやり方に従わなければ何度やっても同じ失敗を繰り返し、また適切なやり方に変えればそれまで失敗し続けていても成功する。

・経験:ニュートンの運動に関する法則は、ミクロやマクロでは例外的な世界があるが、逆にミクロやマクロになりすぎない範囲では、力を発生させるメカニズムは不明であっても、相互作用が発生する場合の法則性を完全に定義できており、この物理法則を捻じ曲げるような現象は起きない。
一方で、個人的には上述のような「自分だからできない」と表現したくなるような経験もあった。
(これらを矛盾なく説明できるのは、私が失敗した理由は「私だから、自分だから」ではなくて、やり方が物理的に失敗する方法だったからである。という意見を持ち、それが経験/根拠となった。)

・感情:納得、驚き

・価値観:心を落ち着けるための「正しい」説明が必要、期待を裏切られてこれ以上苦しみたくない、勝ち筋・変わり目が見られるならば勝負したい

これを先程挙げたものと比較してみます。ベースになる価値観の方向性としては同じ部分が多くあり、根本的には自己否定で改善した訳ではないですね。差分としては、価値観の中に「正しさ」という概念が追加されています。小さい頃の私の体験には、完全な主観的な目線しかなく、例えば客観的に運動が下手な要因を分析したりとか、改善方法を科学的に探るとか、そういったアプローチをしていませんでした。この主観/客観という事への気付きが、意見を変化させる要因となりました。
このことに気づいた時は、今のように整理する方法を理解していた訳ではありませんでしたが、今であれば「認知の4点セットによって意見を分析した上で、それを主観と客観に分離し、主観的な部分が事実と反していないかを検証する」というアプローチを取ります。
認知の修正において難しいポイントは、まず「客観的にはただの決め付け・事実無根であっても、自分の中で法則・事実として確立されている場合は、それが事実無根であると気付くのは簡単ではない」ということです。
そのために、認知の根拠となる経験、および結びついている感情や価値観を文字・言葉で表現して扱いやすくします。そうすると、次のように自分の認知を疑う事ができます。

・経験について、それが主観か客観か。経験を表現する言葉は、事実だけを取り上げているのか、事実に対する解釈を含むのか。

・感情について、それはネガティブかポジティブか。いずれの場合も、物事の受け止め方・経験の解釈の仕方に影響していないか。仮に感情を排除した場合に、経験に記載している内容が変化しないか。別の感情を持ったと仮定した時に、経験が変化しないか。

・価値観について、その価値観のうちで特に主観的な要素は何か。価値観を変化させたときに、経験の表現が変化したり、受け取る感情が変化しないか。

このように、自分の認知を4点セットで表現できれば、ある程度決まった手順で主観・客観の分析ができるようになります。
これは、ある意味で算数の問題を解く事に似ています。つまり、問題に対してある程度決まった手順が存在していて、その手順通りにすれば答が見つかるという事です。少し形式的に説明すると、算数の問題を解くときは、
・問題を解く手順が分かるか
・手順で必要になる一つ一つの計算を正しく行えるか
という2つの要素があります。
認知の修正でも同じように、
・修正をするための手順が分かるか
・手順で必要になる一つ一つの分析を正しく行えるか
という要素があります。今回私が説明している方法においては、前者は認知の4点セットを用いるということを指し、後者は国語の勉強などで培われる能力を指します。
この2つが揃えば、認知を修正することを意識的に行えるようになります。ただし、この方法があらゆる場面において万能という事ではなく、時に修正できない認知があったり、あるいはもっと効率的な方法があったり、という事もあるでしょう。この方法自体に改善の余地のあるものであると認識した上で、積極的に使う事をおすすめします。

なお、ここで述べた認知の修正方法は「アウフヘーベン」、過去の考えを根本的には捨て去らずに、それを残した上で矛盾する内容のみうまく修正するという考え方です。
他の方法として「アンラーン」、過去の認知を根本的に捨て去ろうとする試みもあります。アンラーンについては「リフレクション(REFLECTION) 自分とチームの成長を加速させる内省の技術」を参照してください。