Open10

イノベーションと組織とか、個人と組織

さざんかぬふさざんかぬふ

スポーツは、それを遂行するのが組織であるとはいえ、汚い部分が切り分けられて成立している。おそらくスポーツと真に同じ組織のあり方では仕事は成立しない。
例えば、スポーツはルールがかなり決まっているが、ビジネスは都合の良いようにルールを決めて勝負するとはいえルールが無い場合がいろんなレイヤーで存在する。
あるいは、責任を取るということ、アカウンタビリティではなくてレスポンシビリティの意味での責任がゲームセットで消失しない。

定型業務だけにしてしまえば、ルールの中での修正に集中できる状態になるので、内向的/外向的の差が大きくなくなるが、ビジネスでは非定型業務が必要になる事も多い。
それをうまく回す組織構造にしないといけない。

結局、失敗が起こった時に「全力を尽くした」と言うためには条件があって、それを満たさないと責任を果たしているとは言えない、という事が前提にある。
これを前提にするのは、責任消失系の組織の失敗を肯定したくない、という事がある。全力を尽くしたと言うに相当する事を本当に行動として選んだのか、という事は強く追及する。外向的である事も大事な要素だが、これも大事な要素。
全力を尽くさなければ仲間じゃない、みたいな事は確実にある(時間ではなくて密度で)
余力のある失敗、失敗ですらない失敗、みたいなのに厳しい。
この全力の定義が、才能に寄っていなければ私は正しいと思っているけど、一般にはそうでは無いんだよなー

真の意味で無条件に許す空間ではないよ、という事だな
私はその唯一の条件を努力にしたいんだろうな
ここでいう努力は苦しむ事ではなくて、人の話を踏まえて自分の頭で考えて成果に繋がる蓋然性が少しでも高い事をやりぬく、というメタ的な姿勢

扱う業務の幅を示す為に要素展開したけど、実際には何でもやるという事がベースにあって、個人の役割を明確化する事が必ずしも目的ではない。
わかった、だからこの辺の感覚が権限委譲ポーカーで違和感あったんだな。
やっぱり、仕事は本質的に明確ではないし、明確でない中でもやりきる、という事を意識している。そこをどうするか、というのはあるな。

やっぱりそうなんだ、組織として不確実性はなるべくネガティブに作用しないようにする、ただしそれは不確実性を根絶するという事ではない。個人がそもそも不確実性を飲み込む・乗り越える動きをベースにしたい。

さざんかぬふさざんかぬふ

(GitHubの類似サービスが日本にあまり大きなものがなかったし、ニコニコみたいに成長しなかったという事について)
つまり、日本だとソースコードを単に保有するという事で投資が受けにくいのかもということと、日本だけで企業向けに展開しようとしてもソースを外に出したがらなくて、しかも利益になりにくく、手厚いサービスを求められて日本では立ち上げが成立しない、みたいな感じかなと憶測では思うね

最近だと、国内データセンターであればクラウドにデータを置いて良いという話は増えているけど、一方でそういうのに大きなサービスが対応してきていて、厳しそうではあるね。
一昔前は、そもそもクラウド(非オンプレ環境)に設計書含めてデータ置いちゃだめという事はありそう

CI系の類似サービスとか、バグ通知の類似サービスって日本にある?
(Travis CIとかCircleCI、BugsnagとかSentryの類似サービス)

要するに何が言いたいかというと、本質的に技術が遅れている/データを外に出せないみたいな事情で、関連するようなサービスが国内であまり立ち上がってないのでは、ということ。
ただ、他の国の事情がわからないので、日本特有かというとそれはわからない。

まあ、私の実体験ベースでいうと、実際設計図を守ろうという意識はめちゃくちゃ強いと思うよね。
それに、とあるタヌキの人が、日本人が中国人に技術を盗まれることを危惧しているみたいなことをよく言っているけど、つまりそういうことじゃないかなあ

イラストや動画は個人やプラットフォームへの広告が対象であって、一方でGitHubはビジネスモデル的にターゲットが個人じゃなくて法人ということが大きな違いという事かな。

それがさっきのSourceForgeの話につながるところがある。
SourceForgeがうざくなっていく≒広告が増えてユーザーを減らしたみたいなことについて、GitHubはユーザー的にだいぶセンシティブで、個人向けのビジネスが特に成立しにくい領域であり、法人向けにならなければビジネスが成立しないというのがあるね。

さっきのGitHubの件は結構示唆的なところがあり、GitHubみたいにビジネス的には「法人のおこぼれ」とか「大ユーザーのおこぼれ」みたいな感じの構造が生じるモデルの場合、法人・大ユーザーがある程度ゆるくないと、個人が受けられるサービスにダイレクトに影響する。
これは日本の場合に影響しているかもしれない。よくない意味で...

これ割と重要かもしれないなと思っていて、個人の流動性とか性質と比較して、法人が絡むと途端にうまくいかなくなる事象って日本の場合に割とあるんじゃないかという気がしている。
それに、いろいろなデータでは、日本人が個人として劣るような事はなさそうに見える。
法人のある種の性質が制約になってるんじゃないかなあ

さざんかぬふさざんかぬふ

閉塞感とか

登氏よりは現実路線(?)だね
私が昨日書いた事に近くて、実際私もマインドセットというか思い込み/考え方の問題だと思うのだけど、それを結論として誘導したい訳ではない

日本の閉塞感はマインドセットの問題 落合陽一氏が見出す、課題先進国の活路 https://logmi.jp/300068 @logmijpより

能力と関係なく、"同じ人間"が"生き生きと生活"できる環境を、地域とかのある程度の規模で実現して、それをロールモデル的に普及させる/良いところを周囲が模倣していく、というやり方は一つあるんだろうね。

地域通貨がそこに絡む本質的な理由が私はまだわかっていないものの、(うちの)ビジネス的にはたまたまそういう仕事もあって、それを突き詰めるというのは一つの貢献方法ではある。
私はバカなので、その辺をテクノロジーが本質的に解決する絵をあまり描けないけど、がんばる人がそれなりに報われる/働きやすい会社ぐらいは作れるんじゃないかという気がする。

(日本円はインフレしないけど特定地域通貨はインフレするみたいな状態を目指すのだろうか?)

仮にイノベーションの源泉が自己完結能力であるならば、たしかに小さい規模の集落が自己完結してゆるく結合する組織体の方がイノベーションの意味では良いと思うんだけど、本当にそういうことなんだろうか。
IT的な大企業にしても、実際に活動するチームとかはピザルールみたいな話もあるけど、とはいえ大企業という形を利用している。大企業、ないし大きな団体の方がワークする領域もあって、それの棲み分けみたいな事がよくわからない。

地域通貨とかは流動性の高い地域債と見るべきなんだろうか。
私が保守的な人間なので、ちょっと考える限りでは日本円より不便になりがちな地域通貨を敢えて使うメリットがあんまりわからず、高騰するからとりあえず地域通貨もっとこう、みたいな資産的な利便性しか考えられないところがある。資産なのか実用なのか、みたいな。

自己完結能力というか、「チャレンジを成立させるコスト」を誰が払うかだな。

・登理論→組織の中での下っ端の立場の言い出しっぺが、そのコストの大半を持って、意地でもやり抜く。そのためには各個人において大局観が必要で、広い視野が必要になる。
・私の従来のやり方→登理論に近いが、自分自身が所属する組織は承認フローが短い組織で、かつサービスに対してリスクを取って改変できる立場を維持する。組織の承認フローを通す機能は外部に委譲。登理論と比較すると、承認フローという形式ではないものの、他社の人にビジョンや商品特性を示す必要はある。
・小組織のゆるい結合→私の従来のやり方よりも、さらに「思いつきを述べて、核となる一部分を実現するコストを払うだけ」で周りが柔軟に機能して、勝手に思いつきが実現されていくような組織構造を作る。個人としてやり抜く能力が部分的でよくなる。

極論すると、「良い思いつき」があったときに、(もし可能であればそれを選別した上で)周囲がその良さを理解した上で自動的に実現していくような組織構造、というのが理想的なようには思える。

「こうなればいいのに」と思った時に、"本質的でない苦労"(?)なしで実現される方がよく、そのような環境であればイノベーションが促進される可能性はある。
(本当にイノベーションが必要なのかはわかっていない)

まあ海外のVCとか投資家はそうかもと思うけど、お金にかぎらず文字通り実現に必要なことすべてについて、周囲が勝手に動くみたいな。
実際、本当にニーズがある物事は周囲が勝手にやりたがるはずなので、そのような勢いが思いつき+αで勝手に生まれるみたいな。ある程度の人数も巻き込んで。

確かに、ある程度の規模の人を気軽に巻き込めるような空間として一部の地方都市を整えると、活発化はするな。

さざんかぬふさざんかぬふ

最近のメモをBTした。
・日本にイノベーションが生まれにくい状況はおそらくある
・(必ずしも規定だけでない)組織構造や商習慣によって、イノベーションが生まれにくくなっている現実はある
・おそらく日本人が個人として劣ることはない
・のびのび生き生きと生活できた方が良い
・チャレンジしやすい風土を作りつつ、チャレンジをやり遂げる風土も必要になる
・達成のためのコストを色んな人で分かち合いながらも、遠慮の塊みたいなものは出さない
・いま見えていない責任が降ってきた時に、どこまでそれを全うできるか

さざんかぬふさざんかぬふ

日本の組織について考えれば考えるほど、とりあえず若返るしかないという結論に至ってしまい、中々厳しいなという気持ちになっている。
地域通貨みたいなのは、一種の参入障壁として、若者と同程度に柔軟な人だけの街を作るのに役立つかも。
これも結局は希望の国のエクソダスだな、基準年齢が多少増えただけで。
年寄りの軟着陸はどうすればいいのか...

でも高齢化が問題というより、単に常に年齢が上の人が上につきがちな状況を根本的に変えれば、若干マシになるんじゃないかなと思うよね。
一方で年寄りが暮らしにくくなる可能性はあるので、そこの軟着陸というか、棲み分け/インターフェイスの変更が柔軟にできればね
例えば紙文化にしても、紙⇆"デジタル"の行き来が簡単にできるようになれば利用者側のインターフェイスは多様なままで効率化できるはず(先の話だけど)

要はレガシー領域を定義して、レガシー領域の中だけレガシーで不自由なく暮らせて、その外は単純に効率的なやり方で暮らす、という
お金の使い道とかの理解を得る事は難しいだろうから、選挙権に年齢比例みたいな概念を入れるとかするのかなあ
人生長期的、あるいは自分と同世代の人とは平等でも、いま生きてる人横並びでは平等でなくしちゃう

C級学級委員長、わかる
典型的なオーバーアチーバーになりがちだけど

まあ学級運営の場合は、ビジョンとか要らなくて、タスクと役割だけなので

そういえば昔、生徒会の選挙の応援演説という謎の茶番をやった事があったな、茶番だったが

さっきこれ見てて、私はこの市長マジでやり方知らないのかな、現職への敬意とかないのかな、みたいな事を思ったんだけど
https://www.youtube.com/watch?v=I1NEtPN7MWQ
まともな人が政治家になりたくない世の中になっている事は間違いないけど、それも含めて年長者が人数的に有利な状況を変えないと変わらないという

番組の構成とかも恣意的で、Twitterという手段の問題ではなくて、居眠り議員へのある種の攻撃(情報公開とはいえ攻撃でもある)をそれこそまともな対話無しでバーンとやっちゃった事が問題なのであって、是々非々であればこそ、彼らの支持基盤(年長者)がこういう未知の攻撃喰らうと思ったら進むことも進まんだろ、それを論点ずらしてTwitterや新しい手法への反対みたいに思わせたら対立がますます加速するだけで対話からは遠くなって、ほんとこいつら(以下略
となったんだけど、とはいえ世代交代は必要...

こういう時他の国だとどうなるのかと考えたら、もう少し若い人は若い人の感覚に近いので、いわゆるガバナンス的観点で適切に処理される。
オリンピック委員会にしても、ガバナンスの考え方自体が古いために世界からどんどん遅れていく側面があり、これは根本的に若返りしかないんだろうなと思った。ただ、単純に若返っても、忖度調整タイプの政治家だとガバナンスは結局従来のものになるが...

超雑に言うと、老人には天下り職とかマスターズ向けの職とかを作って、いわゆる現役世代への道を作りつつ仕事してもらう世界を作るべきなんだろうな、(けど天下りはめちゃくちゃ叩かれる)
多分その方が組織効率良いんだと思うけど...
厳しいね

さざんかぬふさざんかぬふ

いまふと再犯と更生ということについて考えていて、再犯率が高いという話がよくあるけど、生活習慣や行動習慣的に犯罪をしやすいパターンだとしたら、何もパターンが変わっていなければ人生の中で再犯するということは当たり前で、むしろよっぽどの理由でない限りは無措置だと再犯率100%なのではと思ってしまった。
実際、ある種の犯罪で初犯として捕まる場合に、それが本当の初犯である可能性はたぶんそんなに高くなく、何度かは犯罪行為を繰り返しているはず。万引き(窃盗)、放火、痴漢、その他迷惑行為、最近だとインターネットでの侮辱や名誉毀損とか...そりゃあ殺人を繰り返している人は少数だとは思うが

そのパターンが変わらなければ、そりゃあ何度も繰り返す...
(もちろん、課題として再犯率を下げる事が重要である事を否定している訳ではない)

さざんかぬふさざんかぬふ

個人の資質vs組織・リソース論
の構造がここにもある。(厳密にはvsではないが)
つまり、犯罪が個人の資質によるもので、かつ後天的に修正可能な資質なら、環境と無関係な更生が可能になる。
先天的な資質によるものであれば、根本的には厳しい。
一方で環境を犯罪の根拠とすると、その人個人の更生ということは意味がなく、環境を改善しないといけない。少し極端に言えば、犯罪者に援助をすべきとなる。

実際には、悪環境でも犯罪に走らない人はいて、また逆にある種の連続殺人犯のように病的な心理構造によって知的生産能力のある犯罪者もいる。
一方で、援助が必要ということそれ自体は事実で、援助という言い方をすべきかどうかはともかく、更生の為の諸活動自体が広義の援助である。
「同じ境遇であっても犯罪に走るか走らないかが変わる」とはいえ、「そのような個人の資質を後天的に作り替えられるとすれば、その作り替えを行えるか否かが環境の差である」という話もある(もっとも、ここでいう環境は必ずしも組織構造やリソースだけの問題ではないが)

難しいのは、個人の再犯率とは別に、個人が犯罪に手を染める率というものもあって、犯罪のハードル自体を低くすると容易に犯罪に走るのではないか、という不安がある事。
例えば、殺人の罪を一日謹慎のみにしたら、殺人がもっと増えるのではないかとか、痴漢の罪をゼロにしたら痴漢だらけになるのではないか、みたいなね。

さざんかぬふさざんかぬふ

「なぜAをしなければならないのか」「どうしてBが必要なのか」
私がそれを理解する時に、メカニズムの理解が必要な場合がある。一般的にもそうかもしれないが、とりあえず私の理解のパターンとしてメカニズムの理解がある。
メカニズムが理解できるとやる気になったり腑に落ちるというのがある。

だから私にとってはワークの仕方が大切で、考えの共有ということが組織の中でどうワークするのかを示せないと、経験的な事だけでは進めなかった。
プリンシプルと似たような事が、もっと一般の物事でも言えて、プリンシプルは物事の判断軸だけど、個々の物事の判断や対応も、具体的な内容はともかくとして、「それぞれの正解」を選べる必要がある。
私が考えていたプリンシプルはどちらかというと結果の共有・共通の結論を出す・結論に対する認知的不協和を無くすという目的で考えていたのだけど、場面によっては個別の結論自体を厳密な意味で共有する必要はなく、課題が解決されたという状態さえ共有できれば良い事もある。
課題解決の効率や品質は能力にある程度依存していて、"あまりに"効率が悪かったり品質が低かったりすると解決策として成立しないが、一般論としてはそれなりには成立する。
そのような課題解決能力を"引き継ぐ"、組織内に伝播させるには、そもそも解決すべき課題を"共有"できないといけない。これは、課題そのものを共有するという事ではなく、湧き出る課題を的確に見つけられるようにする事。これはプリンシプルではまだ薄い。

課題認識能力さえ共有できれば、ある課題の重要性みたいな事はわかるから、能力がないならないなりに真摯に対応するし、対応方法の理解が進む事もある。いずれにしても、対応方法についての変な対立みたいな事は生まれない。
知識の不足が対立を生むという構造はあり、それは広義の技術的負債ではあるが、その根本的な対策は知識ではなくて知識を生み出すものであるべき。その解決を、課題を認識している側の持つ「個別知識を説明する能力」に求めてしまうと、課題に対応する側の「課題を根本的に認識する能力」は養われず、課題を説明する人が神クラスになり続ける。
課題を認識できさえすれば、質はともかく対応が進むようにはなるから、課題を根本的に認識できるような組織構造/仕事のやり方にする必要がある。

なんでこんな事に唐突に気付いたんだろうと思ったが、多分具体的なトリガーは昨日の営業の人の同報メールとその内容だな。
具体的には顧客の声で、そうそうそれ開発者もある程度思ってはいて、でも優先度確かに高くなかったから、さっさと対応するかって思ったその課題の共有・認識の共有というのが気付きの起点だ。

いま個別の課題解決能力が相対的にある私に判断タスクが集まること、それ自体は正しいと思っていたが、課題起票も私がやっている。開発実装できるレベルの開発課題を要件メモと別に起票管理する事自体は間違いではないと思うし、それを開発の人がやるのも正しいが、では私だけで起票すべきかというとそうではない。それはわかっていて、巻き取ってくれる人には積極的にそのタスクも流しているが、それだと能力主義というか、私の想定する最低限の能力がある人に引き取ってもらう事しかできない。
そこが根本的な課題で、私の仕事を引き継ごうとすると能力的に全く引き継げずスタックすることだらけでつらいと思っていたが、個別の具体的作業じゃなくて、課題認識を持てるように引き継ぎをするのが正しいんだな。

いやー、これ子供になる現象の一番の答えかも
つまり、
・課題を拾う能力および仕事
・課題に判断する能力および仕事
は別なんだけど、よく気付くリーダーがトップに来ると判断だけじゃなくて課題拾いまでやっちゃう。そうすると、課題拾い/認知の能力がほとんどの人において育たない。私みたいな例外は、そのような環境では逆に課題はこう拾えばいいんだとなり、今の私の部下もそれをやってくれるんだけど、普通はそうならない。
根本的に、説明以外で課題を拾えるようにする必要があり、どうしても拾うべき課題に判断組織構造やメタな考え方で対処する。そのような組織を設計する。

さざんかぬふさざんかぬふ

つまり、「視座が違う」で終わらせがちなことを、「視座が違う」で終わらせてはいけなくて、少なくとも課題としては理解できるようにしないといけない。
その解決を、最初の会社ではカリスマ性というか信頼でどうにかしていて、私も自分にわからないことはこの人を信じる、という信じ方をするのはするんだけど、それだと「自分にわからないこと」のまま変わらないので、結局分かる人がいなくなった時に問題意識を持ち続けることができない。それで思考停止しちゃう。

そういう事ではなくて、それが本当に大事なことであったならば、多分誰でもわかるはずだと思うべきなんだろうな。
実査にはわからない事もあるんだが...

さざんかぬふさざんかぬふ

もっとシビアに「自分がいつ消えるかわからない」という見方をしないといけない、ということだな。
もちろん、消える事を前提にするのではないけど、消えたときにも蓄積として機能する/混乱を生じないようにするという事が、子供になっちゃう問題を解決する(というか、子供になっちゃう問題が残ったままだと消えた時に混乱が生じてしまうので、混乱を生じさせないためには必然的に子供になっちゃう問題が解決していないといけない)