問題解決ブルドーザーと認知の構造 - 便利なアンラーン
以下の記事を読んで、アンラーンの使い方や、問題解決する際の推進力がどういう構造で生まれるか、という事を整理しておきたくなったので、整理します。
まず、この記事は筆者の認知が明瞭に出ているという点において、良い記事だと思います。記述されている事自体は、分析的な意味で、私の実感と合致しているように思いました。
一方で、この道の先に問題解決ブルドーザーがあるかというと、あるかもしれないがだいぶ時間がかかりそう、という事を思い、次のような事を整理したうえで説明していきます。
- 問題解決ブルドーザーの内部動作のメンタルモデル
- アンラーンできた場合・できなかった場合にそれぞれどうなるか
- アンラーンの方法の一つのイメージ
問題解決ブルドーザーの内部動作のメンタルモデル
問題解決ブルドーザーの定義は以下のようになっています。
自分が関わってきた中で、「解決する」の領域まで一気に持っていくめちゃくちゃすごい人が何人かいた。自分ができないと思っていたことや、問題の指摘、解決策の提示で止まっていたことを、ブルドーザーのようになぎ倒して解決していくのである。こういう人を、自分は「問題解決ブルドーザー」と呼んでいる。
以下は私の考えですが、問題解決ブルドーザーのメンタルモデルとして、次のような手順を考えることができます。
- なんらかのミッションや取組が与えられたとき、まずそれができる事を信じる、できる事を前提とする
- それを実現するための大きな段取を肯定的に考える
- 実現の障壁になる課題を列挙し、以下のことを検討する
- その課題はどれぐらい重要か
- 例えば全体が完全に停止する・実現の意義を完全に否定するレベルかどうか
- その課題はそもそも解決する必要があるか(避ける方法がないか)
- 避けた場合に他への影響はないか
- その課題を解決するにはどういう方法があるか
- その方法は具体的に可能なものか
- その課題はどれぐらい重要か
- 課題整理ができれば、後は原則として遂行するだけなので、遂行していく
- ただちに担当者が遂行できない時点で何らかの問題があるので、その問題は発覚時点で直ちに解消する
- 担当者がやるべき事を理解できていない
- 担当者が忙しくてできない
- 担当者の技術を超えている
- 担当者の心理的にやれない
- 「やれない理由がなければやれる」という考え方、やれてないなら理由がある
- ただちに担当者が遂行できない時点で何らかの問題があるので、その問題は発覚時点で直ちに解消する
私の考えによれば、「できる理由を考える」は問題解決ブルドーザーとしての動きをする上で欠かせないものです。いくつかの観点で説明できますが、まずメンタルモデルの先頭、大前提の部分がそうなっている、という事があります。
元の記事では、
「できる理由を考える」という言葉はあまり好きではないが、これは「前提条件を疑ってみる」と言い換えてみるとしっくりくる。
という風に書かれています。これは、いわゆる数理論理に近い意味では、そこまで間違っていないように思います。ところが、人間の考え方・発想方法という点においては、大きく機能が異なります。
進む方向、意志の欠如
私が示したメンタルモデルでいうと、「前提条件を疑ってみる」は「実現の障壁になる課題を列挙し、以下のことを検討する」や「ただちに担当者が遂行できない時点で何らかの問題があるので、その問題は発覚時点で直ちに解消する」などが特に該当しますが、単純にこの部分だけで物事を遂行しようとしても、根本的に向かう方向性みたいなものがうまく定まっていなくて、課題を解決したうえで特定の方向に進ませる という機能or戦略の部分が書けたような状態になってしまったりします。本当に課題を解決するという部分にだけフォーカスすると、確かにワークする部分があるのですが、その課題解決がどこに向かっているのかとか、あるいはどこに向かわせるという意志を持って課題解決していくという事ができないので、どうしても一歩欠けた状態になってしまうように思います。
システム1とシステム2
もう一つ、別の側面で重要な事としては、大きな推進力を出すためには、できることをシステム1で考える事が本質的なのだと思っています。「できる理由を考える」という頭の使い方をするとき、おそらくその思考は必然的にシステム1を用いたものになると思います。というのは、いくらでも多様な方法のある「できること」の取捨選択を、なんの限定も無しにシステム2で考えるのは、原理的に不可能ないし難易度が非常に高く、また時間もかかるからです。
そうすると、上記のメンタルモデルで思考をしていれば、自然とシステム1でまず可能な戦略をいくつか考え、それを実現する上での課題についてはシステム2で分析をしつつ対処していくという型になります。ところが、「前提条件を疑ってみる」にフォーカスすると、これはまさしくシステム2の使用のみを指摘している事になり、システム1には全くフォーカスがあたりません。
したがって、上記いずれの考え方にしても、「できる理由を考える」と「前提条件を疑ってみる」は、本質的に大きな差がある事になります。
自分の枠を捨てて真似をするか、自分の枠を保って真似をするか
ところで、先ほど少し述べたのですが、
「できる理由を考える」という言葉はあまり好きではないが、これは「前提条件を疑ってみる」と言い換えてみるとしっくりくる。
これは、数理論理的な意味では、2つの言い方に根本的な違いは無いように思っています。というのも、まず人間が思考するには前提条件というものが存在していて、演繹的な推論によってできないという今の現状をベースとしたとき、それを「できるようにする」というのは、前提条件を変える事にほかならないからです。つまり、前提条件を疑っていって、変更可能なものは実際に交渉等によって変更していく、という事を言っています。その数理論理的な構造、構造の分析としては、正しいです。
実際、私が示したメンタルモデルにおいても、最後に
「やれない理由がなければやれる」という考え方
というものを書いたのですが、これは前提条件を変えていくという意味としても解釈できます。
元の記事において、見えている部分についての描写は正確であるように思います。ブルドーザーの振る舞いには前提条件を疑ってみる機能性が重要だし、今書いたような数理論理的な解釈では、間違ってもいない。筆者自身の好き嫌いについても認知的に正確に捉えている。
ただ、その上で、それでも「できる理由を考える」という言い回しには重要かつ根本的な意味があり、それを外すと、私の考えるメンタルモデルは成立しない。
これ、めちゃくちゃ興味深いと思うんですよ。間違ったことは何も書いていないけど、ただ、嫌いな「できる理由を考える」という部分を私は本質だと思うし、少なくとも私からは、それができないからブルドーザーになれないように見える。
実際のところは、もっと難しい事があったりするのかもしれませんが、少なくともそうした構造があり得る、という事が非常に興味深いと思うのです。
ここまでの考察を踏まえて、アンラーンができる場合とできない場合でそれぞれ、どうなるかを考えてみます。
アンラーンができる場合
「できる理由を考える」という言い回しが気になったとしても、一旦その気になる感情をすべて忘れて、「できる理由を考える」という方式をそっくりそのまま試してみる。
そうすると、私が示したようなメンタルモデルの構造に触れることができ、あるいは抽象化して整理ができなかったとしても方法として確かにできる理由を考えるという事が有意義な場面もあると実感でき、ブルドーザー道を直進できるようになります。
アンラーンができない場合
今回の場合は特に、元の記事を単独で見た場合にそれ自体は間違っていないわけで、それを意図的に捨て去るという事は非常に勇気が必要です。狂気に近いかもしれません。
そうした勇気、あるいは狂気が持てなければアンラーンはできないのですが、そうすると、ここで示したメンタルモデルをもっとうまく言い換えたバージョンを獲得する機会がくるまで、その構造を理解することができません。
実際にアンラーンしなくても獲得できるようなメンタルモデルとしては、システム1・システム2という考え方を認めるならば(これも学術的に賛否あると思いますが)
- なんらかのミッションや取組についてのアブダクションはシステム1の利用が効率的なので、システム1を利用して考える(つまり、カンに従うが、しかしカンが否定的にならないように注力して考える)
みたいに言い換えをすることで、「できる理由を考える」という言葉が暗に持つ精神論的な側面を避けて、より受け入れやすい形になるのではないかと思います。
ただ、一般論として、ある考え方が部分的には正しくてかつ別の部分的に正しい事実と矛盾するならば、必ずそれらの考え方のアウフヘーベンがあると私は思うのですが、アウフヘーベンは一般に簡単ではなく、全貌を捉えきるまでは時間がかかります。アンラーンができれば、この過程を飛ばせるという意味で高速に成長できる事になります。
よく「素直な人は伸びる」と言われるのも、一つにはこうした側面があるのだろうと思います。つまり、意図的なアンラーンをどれぐらいできるかが、素直さと関係しているのだろうと思っています。
どうやってアンラーンするか
では、アンラーンしにくい物事について、アンラーンが必要だと認識した場合に、アンラーンを意図的にやるにはどうすればいいのか。
一つには気合と根性みたいな事がありますが、そうした事への言及を一旦避けるとすると、なぜ自分の認知が今の形になっているかを丁寧に振り返った上で書き換える という事が基本だと思います。
例えば「できる理由を考える」について好きではないとしたら、それを好きになること、あるいはニュートラルにすることを考えるために、なぜ自分がそれを好きではないという認知をしているのかを深く掘り下げて考えていくということです。
これは、しばしば生育環境や学の志し方など、自分の根源的な部分まで遡って考える事が必要になります。また、そうやって遡って得られた結論も、実は拍子抜けするぐらい間抜けだったり恥ずかしかったりする場合もあって、そうした事を一つ一つ認めながら修正していくのはなかなか大変です。
私自身、じつは「できる理由を考える」という考え方は、社会人になるまで好きではありませんでした。現実的にできないことはできないし、できる事はできる。できないことに無理な理由をつけても、結局はできないし、できるできないは自然の法則等から割と明確に決まっている(それを自分が認知できていないとしても)。少なくとも大学までは、そうした考え方をしていました。
ただ、その考え方は社会人一年目で見事に「矯正」されました。この「矯正」は、実際に問題解決ブルドーザーに認知を修正された(あるいは、修正する機会を与えられた)事によるものです。
以下、万人に通じる話ではないですが、具体的にアンラーンする為にこうした考えをしているという事を記しておきます。(自分の認知をそのまま書いているのですごく読みにくいですが、一旦そのまま書いておきます)
具体的なアンラーンの道筋
「できる理由を考える」は、私の認知ではだいぶ根本に関わることだと思っていました。特に、最初は、数学を学んでいたという認知に強く関わっている事だと思っていました。実際、それは数学の考え方や数学に携わる一部の人の考え方とも関係していると思うのですが、ただそれ以上に、自分の能力観やできない事の不安への振る舞いというような、数学とは関係ない個人として本質的な事と強く関わっていました。
というのは、かつての私の考え方としては、例えばテストの点数みたいなものも含む「能力の証明」が自分の存在意義の重要な部分であって、能力の否定は自己の否定につながる大きな事として受け止めていました。それで、「できるかできないか」という事は私にとって極めて重要なことで、できない事があると、それは心を強くすり減らす要素になりました。
ただ一方で、現実的に明らかにできない事も沢山あり、また他人にできるのに自分にはできない(としか当時は思えなかった)事も沢山あって、できる・できないという事に明確に線を引くことが、自分の世界を保つ上で重要な事になったのでした。生活をしているうちに、できると思ってできない事をやる、という徒労感を味わいたくないという気持ちも強くなりました(小学校の頃に自転車を練習しようとして、結論全く乗れなかった事などが影響しています)。
そうして、できない事にはできないというラベルを早く貼るようになったり、できるかできないか微妙な事も心を守るためにできないラベルを貼ったり、とにかく最初に感覚的にできないと思った事についてはストレスを減らす為にできない事として、できる方法などは無意識的に考えずに済むようにしていました。
「できる理由を考える」を実践し始めた段階では、ここに書いたほどの掘り下げや整理はできていませんでしたが、ただ自分の過去の生き方も含む、本質的な考え方によって好き嫌いが発生しているという事はわかりました。以下、その修正の道筋を記します。
まずは、できるできないが真に自分の価値を定めるならば、最終的にできるようにしなければ無価値だ、という事を考えました。もちろんこれは若干極端な言い方で、最終的に達成できなかったとしても部分的に価値があるという事は世の中にありますが、それは結果としての話であって、できる事を目指すなら、当たり前にまずできる方法を考える事に全力を使うべきだ、という事を理屈としても感情としても考えました。自分は失敗しない冷笑家として生きたいのか、不格好でも全力で挑戦することを継続して生きたいのか?私にとって気持ちの良い・理想的な生き方は後者だと思って、であればまずは最初にやる方法を全力で考えよう、もし分からなければ目の前の問題解決ブルドーザーを信頼してとにかくやろう、と心から思うようにしました。
そのうえで、できない事の恐怖、できないと思った事を掘り下げて考えようとしなくなる自分の在り方について考えました。これは、例えば私の感受性が強すぎて、他の人が想定していないトラブルなどをあらかじめ感受してしまう事で恐怖が発生したり、そうした経験が積み重なってなんとなく怖いから考えたくない、といった事がありました。それについては、自分より感受性が低くてかつプロジェクトをうまく推進できる人の様子などを観察して、最終的には「適切に列挙してすべて対応すればよい(対応すべきタイミングで対応ができれば、この感受性は相対的な強みになる)」という事を中心に恐怖をハンドルするようにして、自分ができないと初感で思った事を考える事への恐怖が激減しました。(鬱陶しい感受性をようやく使いこなせるようになった瞬間でもあります。)
並行して、自分の認知を生んだ失敗経験として思い出せるものについて振り返り、そのほとんどは、単純に考えが足りていなかったりとか、間違った方法をやっていたりとかで説明ができて、その意味でも「闇雲な恐怖」を持つべきではないという事がわかりました。
また、過去の経験で、実際に「できる理由を考える」というマインドで取り組んでいた物事もありました。一般論として、数学においても、例えば何かの予想を証明したいと戦略を立てる時には、これが証明できればいける、あれが証明できればいける、というように「できる理由を考える」場合もあります。
こうして、自分の認知を整理して修正しつつ、実際に実践をしていくことで、私は「できる理由を考える」という考えが推進力を持たせるにあたって非常に重要な考えだと思えるようになりました。
むすび
ということで、問題解決ブルドーザーのメンタルモデルと、アンラーンの効用、私のやり方について述べました。なかなか説明するのが難しい話題ですが、ちょうどよい題材があったので、元の記事にはその意味でも非常に感謝しています。
一応念の為に補足をしておくと、「できる理由を考える」は常にあらゆる場面で有効という事ではなくて、もちろん失敗する場合もあります。個人の認知は、そうした失敗も含めて形成されているものなので、その認知が絶対的に間違っているというような事ではないと思っています。なにかの物事に忌避感があるとしたら、それも理由があることで、その感覚が実際に重要なケースもよくあります。ただ、自分がある方向に進みたいと思うときに、もし認知が進む邪魔になるとしたら修正したほうがよく、技術として意図的に修正する方法があるので、それを身につけると良いかもしれない。というぐらいの話でした。
ここで述べた方法論は汎用性があると思っていて、例えば「人に質問をする」という事についても、私は同じ事をしました。自分の生育環境や来し方を振り返って、そもそも人に質問する事のない人生・それを避ける人生だったという事を思って、一方で仕事をする上でどうあるべきかを考えて、自分がどういう生き方を選びたいかを考えて、あとは必死に人に質問をする。この必死というのは文字通り質問をしなければ死ぬぐらいの気持ちで物事に取り組む期間を持ちました。
私の尊敬する人の何人かは、そうやって努力をしており、それを見習うことで自分も多分できるようになりました。まだ足りてないかもしれませんが、それはこれから頑張ります。
おまけ
視座の可視化の5段階
・ そもそも気づいていない
・ 認知してる(けど言語化できない)
・ 問題指摘する
・ 解決策を提示する
・ 解決する
とメンタルモデルの対応をとると、
「実現の障壁になる課題を列挙し、以下のことを検討する」が問題指摘と解決策提示、
「課題整理ができれば、後は原則として遂行するだけなので、遂行していく」が解決のフェーズと対応しています。
私の場合は、当初は特に不安先行で、認知してるけど言語化できなくてできないに振るか、問題指摘までで終わりがちだったのが、「できる理由を考える」と組み合わせる事で解決策提示および解決と結びつき、かつその推進力としての全体の段取り・見通しができるようになった、という感じです。その意味でも、問題指摘と解決策提示の間のギャップは大きいのかもしれません。ただ、このメンタルモデルのように整理すると、課題を列挙して、それぞれの解決策がわかったら、「あとはやるだけ」のはずなので、「あとはやるだけ」をひたすらやっていくだけだと思っています。この「あとはやるだけ」が仮にできないとすれば、課題が解決しているようで実は解決していない、つまりそれを実施する人においては何かの課題があるという事なので、それを構造として理解したうえで、実施する人本人に解決してもらいます。 やるべき事がわかっていて、十分に時間があって、習得している技術領域内で、心理障壁もないとすれば、直ちに遂行できるはずです。遂行できないとすれば遂行できない理由があって、ただそれは究極的には本人が解決するしかないので、本人の中で本当に解決して心置きなく取り組める状態にあるかを観察します。これは、表情というか感情の観察と、技術力の観察でだいたい発言を見ていれば腑に落ちた状態か否かがわかるので、腑に落ちた状態に至るまで対話を繰り返せば、(スケジュール調整可能かつ技術的に足りている場合は)どうにかなります。
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