知的な仕事の量と深さ - 10倍の成果とIQ、執念、知識、認知
知的な仕事に従事する人の成果には、個人差があります。
その個人差は、時に何十倍という差になります。
といっても、個人で何十倍という想像はしにくいかもしれません。後ほど、本文中で具体的に失敗ケースの流れを列挙しますが、ここでは話を簡単にするために集団での仕事を想像してみます。
何十億、何百億と費用をかけて、結果的に「使えないシステム」を作った、あるいは完成しなかったという事例を想像しましょう。このような事例は実際にいくつかあり、裁判にもなっています。そのようなプロジェクトの成果がほぼゼロとすれば、これらの効率はとんでもなく低く、効率を比較すると何十倍・何百倍では済まない事もあるでしょう。これは「結果的なもの」あるいは「プロジェクトの問題」かもしれませんが、しかし確実に個人の成果の"合計"には差があるということです。
では、知的な仕事において、なぜこのような成果の差が生まれるのか。この差をどう受け止めればよいのか。
私の思うことを整理します。
仕事を測定する単純な概念
ここでは、少し話を単純化して考えるために、次のような尺度に"分解"します。もちろん、実際には分解できない、あるいは他の要素もあるかもしれませんが、それを一旦忘れて単純化します。
- 仕事の量
- 仕事の深さ
- 仕事の難しさ
以下、具体的に説明します。
仕事の量
仕事の量というのは、単純にたくさんやったか少しやったか、というような事です。一般には、任意の2つの仕事AとBを量で単純比較する事はできませんが、同じ種類の仕事であれば、量を比較する事ができます。一定の時間内で多くの量の仕事ができるほうが効率的です。例えば、様々な観点で比較して品質が同等であるならば、1日の間に3画面作成するのと1画面作成するのでは、3画面作成する方が効率がよいでしょう。
↑肉体労働ですが、穴を掘る場合の量のイメージです。
仕事の深さ
仕事の深さというのは、いわゆる品質が良いというニュアンスですが、特に普通は考慮しないような部分まで考慮されているとか、一般的には到達しにくいような部分まで到達している、というような度合を表現するものです。例えば研究の考察が深い、というようなニュアンスですが、プログラミングであっても例えば「利用者の事をよく考えた深いUI」という概念はあるでしょう。機能要件を言語的に定義したとき、その言語から漏れるような部分も考慮できるのは、まさに深さの概念だと思います。
↑深さのイメージです。
仕事の難しさ
これらとは別に、仕事の難しさという事があります。例えば、「初心者には全く進めることができない、というような差を生じるような原因となる何か」です。これは、3画面作成するか1画面作成するか、という量や速さとは関係のない、別のことです。いくら頑張っても難しい1画面を作成することができない、というような事が実際にあったりするので、その「作成することができない」という状態を発生させている何かの事を、雑に難しさと呼ぶのです。言い換えると、「進捗が0:1になったり1:100になったりするような種類の差」です。オーダーが決定的に違うようなものです。
この難しさ(の一部)は、しばしば複雑性として説明される事もありますが、ここでいう難しさは複雑性に限った事ではありません。むしろ、複雑性がなくても難しい事もよくある、と私は考えています。
難しさは、量や深さと比べて異質です。
というのは、量や深さは、成果について定義される、客観的に比較ができる「仕事そのものが備えている要素」と見なす事ができます。一方で難しさ、つまり「進捗が0:1になったり1:100になったりするような種類の差」は、その仕事をする人によって変わるような概念となっていて、「仕事そのものが備えている要素」と言い切れず、量や深さ以上に比較することが難しい場合が多くあります。
仕事の難しさは、結果的に仕事の量や深さとして現れることがあります。つまり、Aさんにとって難しい仕事は量が進まなかったり、非常に浅い部分で(しばしば使い物にならないぐらいで)終わってしまったり、という事になります。
そのような点では、仕事の量と深さの2つに分解して考えた方が自然なようにも思われますが、ここでは敢えて難しさという概念を導入して、3つに分解するようにします。
この難しさが人によって変わる根本的な原因は、知識と認知です。
その人が持っている知識と認知によって、同じ仕事が難しくなったり、簡単になったりします。
ここで、敢えて知識だけではなくて認知と言っていることに注意します。というのも、仕事が難しいかどうかは、特定の知識を持っているというだけでなく、例えば「その知識を使って何をやりたいのか」「そもそもどういった問題を解決すべきなのか」といった 自然に発生する問題意識 や目的・方向性を共有できているか否かによっても変わってくるからです。
知識と方向性と 自然に発生する問題意識 のそれぞれのイメージを以下に示します。
知識の例)
方向性の例)
自然に発生する問題意識の例)
逆に言えば、
- 仕事を遂行するために十分な知識がある
- 仕事を遂行する上で 自然に発生する考え方・問題意識など を十分に共有できている
という前提があれば、量が多い少ないという事はあるにしても、確実に仕事を進めることができます。いわゆる自走できる状態、ということですが、ここで厄介なのは「単純に作業レベルで自走できたとしても、方向性や問題意識が合っていなければ成果に繋がる自走ができない」という事です。必要な知識が揃っていても、勝手に問題を作り出して"解決不要な問題"を解決したり、一人だけ違った方向性の作業をしてしまうことで、結果的に成果となるような仕事が進まないという場合があります。これはとても不幸なことです。
システム開発の仕事の場合、プログラミングの目的が仮に問題解決であるならば、そもそも何を問題と思うかという事によって自然と出来上がるプログラムの内容は変わってきます。それがそのまま成果の差になるということです。認知が成果に大きく影響する、ということになります。
仕事ではなく人の性質を考える(双対)
さて、すでに認知について少し考察をしていますが、上で述べた仕事の3つの要素、量・深さ・難しさについて、人を"主語"にして考えると、ざっくりと以下のようになります。
- 仕事の量←→速さ
- 仕事の深さ←→執念
- 仕事の難しさ←→知識・認知
つまり、「その人ができる仕事の量はどれぐらいか」というのは「その人の仕事をする速さ」です。同様に、「その人ができる仕事の深さはどれぐらいか」というのは「その人の仕事をする執念」であり、「その人ができる仕事の難しさはどれぐらいか」というのを決めるのが「その人の知識・認知」ということです。
個人差を考えるにあたっては、仕事というよりは人の性質が焦点になります。同じ仕事であっても成果が人によって変わるのは、それぞれの人の性質に差があるからで、人の性質について考える必要があります。
速さ:IQのようなもの
速さの差が生まれる大きな要因の一つは、IQのようなものであると思っています。
というのは、例えば単純な コーディングの場合には、単純な計算や反応速度のようなものと出力量が比例すると考えられます。これはまさにある種のIQで測るようなものです。それによって数倍程度の差はよく生まれるのではないかと思います。
(狭義のIQと一致するかはわからないので、雑にIQのようなものと表現しています。)
執念:どこまでこだわって時間をかけられるか
仕事の深さを生む原動力となるのは、執念、つまり「どれだけこだわるか」という性質だと思っています。執念は、究極的には「どこまで時間をかけられるか」というような事に通じます。もちろん、単に時間をかければそれだけで執念がある、とは言えないですが、しかし重要な指標ではあります。
執念はIQのようなものとは直接関係ない、独立な要素であるように思います。
知識:一つ一つは容易だが、積み重ねで差がつく
仕事の難しさの一つの要因である知識には、次のような性質があります。
- 知識は細かく分解できる
- 基本的には事実の羅列のようなもの
- 一つ一つの知識に限って言えば、比較的容易に身に着けられる
- ただし、知識に応じた適切な認知がないと、その知識を習得できない
- ある知識の理解に別の知識が必要となる場合があり、積み重ねが重要
- 一方で、個別に正しい知識が互いに矛盾して見えるような場合もあり、ときにアンラーンが求められる
なお、ここでいう知識には具体的な技術も含まれます。知識を習得する速度については、IQのようなものが影響する場合もありますが、影響しない場合もあります。
認知:ずれると致命的な差を生じる
仕事の難しさのもう一つの要因である認知には、次のような性質があります。
- 複数人で仕事をする場合、認知がずれると進捗が全く生まれない事がある
- 人と接触することで影響を受けて変化する
- 自分一人で意図的に認知を変化させる事は難しい
- 独学が難しいことの本質的な要因
- 例えば読書だけで根本的に認知を変化させるのは難しい
- ときに言語化された明示的な指示・依頼よりも認知を優先してしまう事がある
- 事実や目的からずれた認知に従って誤った行動を取る事がある
- いわゆる「常識」というものは本来は知識のはずだが、認知と融合している
- 「絶対的な正解」が存在しない場合が多々ある
- 客観的な事実は一つかもしれないが、それを整合的に解釈する方法は無数にある
- 周囲の人とのずれのなさ、相対的な正解はある
認知について、私は本質的にIQのようなものとは別の種類のものであるように思っています。ただし、IQのようなものの差によって生じた経験の差が、認知の差を引き起こすという事はあるので、IQのようなものの偏りが結果的に認知の偏りを生み出す場合もあります。
また、一般に常識とよばれるものは、それを個別に書き表わせば紛れもない知識ですが、実態としては認知としても機能しています。知識として常識を身につけると同時に、その常識を通した認知についても身につける必要があります。
(知識と認知の間に概念を区別する線を引こうとしたときに、ちょうど境界をまたぐような場所に常識があるのかもしれません。)
各性質の影響の整理
速さ・執念・知識・認知が仕事(量・深さ)におよぼす影響をざっくりと整理すると、次のようになります。
- 速さ:仕事の量に数倍ぐらいの影響
- 執念:仕事の深さに(おそらく数倍できかない程度に)影響
- 知識:仕事の量、深さともに数倍できかない程度に影響(知識がないと仕事ができない場合もある)
- 認知:仕事の量、深さともに数倍できかない程度に影響(認知がある程度は揃っていないと仕事ができない)
このように整理をすると、速さは重要な要素ではありますが、しかし他にもっと重要な要素があることがわかります。最低限の知識と認知です。
知識と認知を効率よく適した状態にしていくには
一言で言えば、教育という事になります。特に、 会話をしていく という事が重要で、既に専門的な知識を持つ複数の人から、会話を通して知識を学んでいくようにします。習得すべき認知には、明文化・整理されていないものもありますが、そうしたものも含めて会話で学ぶことができます。
その他の手法としては、相対化することがあります。つまり、例えば自分が何らかの専門的な技術や知識を有するとしたら、そうした技術や知識を相対化して、「同じような深さの違うこと」と比較したり、置き換えたり、社会の中での実際の貢献を考えたり、ある技術分野の中で自分の持つ技術がどういった役割・領域のものかを考えたり、といった思考をします。これによって、認知が一つの領域で狭くなるのを防止できます。
また、別の観点で重要なこととしては、 非言語的な確実に貢献できる作業を通して認知を培う という事もあります。認知を構成する要素は、必ずしも言語で明示的に培われるわけではありません。自分で作業をしたり、様々な経験を通して自然と培われていくような種類の認知もあります。こうした事は、短時間でピンポイントに習得していくというよりは、それなりの時間をかけながら培っていくものになります。このとき、自分で勝手に選んで作業をするのではなくて、他の人とも相談して 確実に貢献できる作業 を実施するようにします。
どんなことについて認知を合わせないといけないか、については次の記事で詳しく述べています。
ペーパーテスト等は速さの影響を過剰に受ける場合がある
試験の代表格であるペーパーテストですが、ペーパーテストは知識を問うだけでなく、速さの影響を強く受ける場合もあります。多くの設問がある場合など、時間内にすべて解ききる事が重要になってしまい、知識や認知よりも速さを測定する内容となっている場合がある、ということです。
特に、決まった範囲で答の存在する内容を問うことにして、かつその中で優劣をつけようとすると、知識だけでは優劣がつきにくく、速さの影響を受けやすくなります。
ペーパーテストでは優秀なのに実際の仕事はできない人がいますが、そのような人はこの速さの部分で過剰評価された、認知が合っていない人です。他の類似例として、ある種のコンテストや競技に特化した勉強をしている人なども挙げられます。
他の人と一緒に仕事をしなければ、認知は問題にならない事がある
認知は、知識の習得に影響する部分もありますが、影響しない部分もあります。
そのため、偏った認知を持っている人でも、他の人と一緒に仕事をしなければ、その認知が問題にならない場合があります。例えば、一人でのびのびとアプリ開発をすれば良いものを作れるが、チームで開発しようとするとうまく作れない、というような場合がこれにあたります。これはシステム開発に限らず、他の知的な作業においても言えることでしょう。
量と深さ、場面によって評価は変わる
これは各性質というより仕事についての話かもしれませんが、仕事の量と仕事の深さについては、一律にどちらが重要と決めることはできません。量を評価すべき場面も、深さを評価すべき場面も、どちらもあります。生き残るためにまず量をこなす事が必要な場面もありますし、逆に深さを徹底的に求めるべき場面もあります。
重要なのは、いま自分たちにとって何が必要なのかを判断して、その方向に進むことです。これは、車の運転をするときに、左に寄りすぎても右に寄りすぎてもどちらも行き過ぎれば道を外れて事故になるのと同じようなことで、 自分たちの目的を達成するために必要な道を進んでいくことが大事 なのです。
認知がずれると具体的にどんな事が起こるか
ここで、依頼者や周囲の人間と仕事をした人の認知がずれていた場合にどんな事が起こるか、少し掘り下げて具体的に考えてみましょう。
MECEに整った項目の列挙ではなくて、実際に発生する雑多な事象を乱雑に列挙しています。
目的未達成、品質不足
単純に目的を達成できない、水準に達していない、といった場合です。
仕事を依頼された場合に、その仕事の目的だった事が達成されていない、単純に仕事ができていないという事になります。
よくあるパターンとしては、依頼されていた仕事について、全く想定外の観点Xからいきなりダメ出しをされたり、いわゆる鶴の一声でひっくり返ったりというケースです。この場合の鶴の一声は極めて真っ当な場合も多いのですが、指摘を受ける側としては、認知できていないところから指摘が飛んでくるように見えて怯えたり混乱したりといた事が発生します。
過剰品質
逆に過剰品質になるという場合もあります。これは致命的な問題にはならないケースも多いですが、コスト・期日等の面で失敗になることもあります。
仕事の正しい価値を認めてもらえない
少し複雑なケースでは、過剰品質のように見えるが実際には必要な事を正しくやった、というようなパターンもあり得ます。これは、むしろ認知がずれていた事で必要な仕事をしているというケースですが、しかし依頼者等と認知があっていないとその価値を認めてもらえず、片手落ち・残念な結果になってしまうというケースがあります。
ダブルバインド(ではないが、認知の中でダブルバインドとして捉えてしまう)
典型的なダブルバインド事例として、「質問をしろ」「それぐらい自分の頭で考えろ」という2つの指示がダブルバインドになる、というものがあります。実際には、この2つの指示には背景情報があって、「◯◯の場合は質問をしろ」「△△については自分で考えろ」というように何らかの条件があって、その条件がダブルバインドではなくしているという場合もあるのですが、この◯◯や△△が認知の中で抜け落ちてしまう事でダブルバインドが発生してしまいます。自動車の運転の例で言えば、左に寄り過ぎたら「右に寄れ」、右に寄り過ぎたら「左に寄れ」と言われますが、その文脈を全く無視すると「右に寄れ」「左に寄れ」はダブルバインドになります。
これはダブルバインドを自分で作っているようなものですが、苦しいですね。
※もちろん、一般論としては、本当に厳密に解釈するとダブルバインドになるような言及も存在します。
ずれの矯正ができない(類似の失敗を繰り返す)
ダブルバインドに限らず、何か失敗をした場合に、根本的に失敗を繰り返さないようにするためにどうすればいいか、というずれの矯正ができない事があります。
認知にずれがあるため、振り返っても正しい反省ができず、根本事象がそのままになって失敗を続けてしまう、というような場合です。
回避1:事前に沢山の質問をして「身を守る」マインドセット
上述のような認知的不協和のある状況で、回避的に行動する場合に、事前に沢山の質問をするというような行動に至る場合があります。
ここで注意しておきたいのが、仕事をするうえでわからない事について事前に質問をするのは、非常に大事なことです。大事なことですが、その上で 質問の目的が本質的に何か はよく意識しないといけません。
「認知を合わせて良いものをつくる」という事が目的であって、「言質を取って自分の作業の正当性を担保する」という事は目的ではないのです。ダブルバインドやずれの矯正ができないような状況を通して、「何が正解かわからないが、とにかく正解にあたる行動を取る」みたいなマインドセットになってしまうと、逆説的ですが"真の正解"にいつまでもたどり着かない事になります。
というのも、根本的にずれた認知の上での質問の場合は、回答についても誤った理解をする事があります。自分の認知と回答が矛盾する場合に自分の認知を優先したり、言葉の表面的な意味だけを汲み取って自然な解釈ではそうならないだろうという解釈にたどり着いたりします。
回避2:思考停止して言われたことしかやろうとしなくなる、目的がさらにずれる
ダブルバインド的な状況が続いた場合に発生する別の行動パターンとしては、思考停止して言われたことだけをやるようになる、というものがあります。自分の解釈で行動すると誤った結果に至ってしまうので、言われていないことは回避する、といったものです。これは行動として部分的には正しいと思いますが、ただ、言われていないことを回避しようとする事を第一にしてしまうと、目的を考えて行動するという姿勢がなくなってしまい、さらに認知がずれるという結果を生じます。これも身を守ろうとした事による行動ですが、実際には状況を悪化させてしまいます。
解消するための苦悩
多くの人において、こうした苦しい状況を意図的に発生させたいという事はありません。
むしろ、当人としては貢献したいのになぜか失敗を繰り返すというような状況として発生します。当人には悪気はないのにダブルバインドのように聞こえたり、修正方法がわからず同様の失敗を繰り返したり、半無意識的に回避行動を取って状況をより悪化させたり、といった事が起こります。そうして苦悩して疲弊することになります。
無気力化
こうした状況が続くと、当人がその認知の枠の中で必死に考えて取った行動が逆効果になることが多く、無気力化していきます。
怒り:認知的不協和解消のための攻撃
回避や無気力化とは別のパターンとして、当人からするとダブルバインド的に感じられるような状況においては、認知的不協和が発生し、それを解消するために攻撃的になる場合もあります。作業を依頼している人や周囲の人の発言の表面だけを汲み取って、自身の認知と矛盾するような内容があった場合に、他者に対して攻撃的な態度を取るということです。当然ですが、この行動パターンが事態を長期的に改善させる事はありません。むしろ、認知を改善させてくれる可能性のある人を遠ざけるような結果に繋がります。
誤った信念の強化
ここで述べたような行動パターンは、総じて成果に繋がりません。また、問題を解消する正しい認知を得ることもできていません。そうした行動を繰り返すことで、自身の行動は成果に繋がらないという学習をしたり、その他の誤った信念が強化されたりします。
こうした各パターンを繰り返しながら仕事をする人の様子を想像してみましょう。成果を出せる人と比較して、ときに何十分の一の成果しか出せない、という姿が思い浮かぶのではないでしょうか。これは速さ・執念・知識には一切依存せず、認知だけで引き起こされる事象である、という事に注意します。もちろん実際に仕事ができない人においては、他の要素も揃っていないという場合はあると思いますが、 特に致命的な要素が認知である ということです。
もちろん、これはかなり悪い場合のパターンだと思いますので、実際にはここまでは悪化せず、部分的に発現するといった状態もあると思いますが、認知がいかに重要な要素であるかがおわかり頂けたのではないかと思います。
リカバリー、認知の改善
改善方法については既に述べたものと重複しますが、会話・相対化・確実に貢献できる作業の実施が有効であると思います。
認知の改善においては会話が重要です。噛み合わなくなる前の状態では特別に注意すべき事はあまりないように思っていますが、一度噛み合わなくなってからは認知が乖離している前提で認知を合わせていかないといけないので、注意が必要です。具体的には、相手の言葉尻に固執したり、表現として矛盾しているような事は一旦脇において、とにかく相手の言うことをすべて受け止めることに注力します。認知があまりに合わない場合は、そもそも会話が成立しない場合が多いと思うので、まずはキャッチボールとして会話が成立するようにします。つまり、相手の言っている事に直接答える。自分の言っている事に対して答が返ってきていないように思うときは、それが回答でないように感じることと、どういった回答であればキャッチボールが成立するかを伝える。
何にしても、 自分ひとりで考えるだけで改善する事はほぼ不可能である と思います。これは、他の人と会話しているように見えて実は会話をせずに自分ひとりで考えている場合も同じです。まずは噛み合った会話ができるようにする事が改善の第一歩であると思います。そのうえで、他の人から確実に求められ貢献できる作業に取り組みます。このとき、その目的がなにか・全体の中でどう機能するのかという事を考えながら取り組んでいくことで、次第に改善します。
「ここでないといけない」「ここがいい」という覚悟で認知を合わせる
認知を合わせるときの手助けになることの一つが、「ここ でないといけない」「ここ がいい」という覚悟を自分の中で持つことだと思います。ここ でやっていきたいと思っているならば、自然とここ への理解が深まり、また合わせていくためにここ における常識を獲得するなど、認知を合わせるために必要なことが自然と進められるようになります。
(常にその覚悟がないと認知が合わないという事ではないですが、こうした覚悟が一つの手助けになるということでした。)
受け入れる側として考えるべきこと
仮にうまく機能しないメンバーがいたとき、まずは速さ・執念・知識・認知の4つの要素のいずれが欠けているのか、という事を考察します。上述のような負のループが発生している場合は、まず確実に認知に関する問題があります。認知の問題は一人ではほぼ解決できないので、それを認知の問題として整理したうえで、会話を通して改善していきます。
知識の不足の場合には、単純に知識を補うように教育をします。
速さや執念が問題になる場合は、かなりレベルの高い状態だと思いますが、これは個人の特性などもあるので、それらを改善するのか別の任務を与えるのか、深い検討を要すると思います。(業務の内容が相当に先鋭化・明確化されていたり、あるいは事業の立ち上げなど特殊なステージといった状況でない限りは、速さや執念が直接的に問題になることは少ないと思います。)
組織的に成果のない仕事がうまれる理由
ここまで、速さ・執念・知識・認知の概念について整理して、個人の成果の差が生まれるメカニズムについてもある程度説明ができたと思います。そこで、最後に「プロジェクトの問題」、組織的に成果のない仕事がうまれてしまうメカニズムについてもごく簡単に触れておきます。
これも基本的には速さ・執念・知識・認知の4要素ですが、特に決定的な差を生むのは、組織としての知識・認知の差です。例えば、プロジェクトに携わるメンバーの認知が全くバラバラであれば、様々なレイヤー・プロジェクトの至る所で上述のような問題が発生し、成果が生まれない状態になります。また、仕事に必要な知識を組織の誰も持っていなかった場合には、知識の足りない状態になってしまうので、やはり必要な要素が欠けた状態になってしまいます。速さや執念ももちろんあるに越した事はなく、特に最終的な品質は執念が規定すると思いますが、もっと手前で決定的な影響を与える要素が知識と認知です。必要な知識を定義・確保して、認知を揃える事ができれば、想定外の極端な失敗は避けられます。(それが簡単にできるとは言っていない)
むすび
雑に10倍、100倍などと言ってきた成果の差のこと。仕事ができる・できないは頭の良さ(≒IQ)ではないと思っていたこと。最終的な仕事の成果は執念が生むということ。知識が仕事に大きく影響する局面があったりなかったりすること。メタ認知能力や首尾一貫感覚が成果に大きく影響するように思えること。才能とはなんなのか。我々はどういう状態を目指しているのか。
そうした事の全貌について、いま私が思うことをだいたい書きました。
ただし、当然ですが、関連するすべての事について触れられたわけではないので、あわせて関連リンクなどもお読みください。(私の書いていないものと、私の書いたものとがあります)
関連・参考)
おまけ
この記事で触れられていないこと
例えば感受性などについては詳しく触れられていません。認知の調整が効きやすいか否かの一要素として感受性があると思います。
新しい知識を作り出しながら獲得していくとき
速さは試行回数に影響するのでそれなりに重要ですが、ただそれよりも執念(志向性)の方が重要で、新しい知識の創出・獲得そのものについては速さはサブファクターないし無関係な要素なのだと思います。(ただ、サブといいながらも分野によっては強く相関しているケースもあると思いますが)
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