「計算」ってなんだっけ - ずっと多項式が好きになれなかった私
この記事の目的
高校生の頃、多項式というものが今ひとつ好きになれなかったので、「計算とはなにか」みたいな事から解きほぐして多項式の項とはなにか、みたいな説明を書きます。
※数学を修了した一個人の見解であって、きちんとした引用をつけている訳ではありません。
計算ってなんだっけ
あるいは、小学一年生のたかし君に
結論を先に述べてしまいます。
一般に計算とは、「ある表現によって定められた対象について、別の表現で言い換えること」 です。
例えば、先程の
ただ、これはわかりやすい言い方ではありません。そこで、「より一般的で親しみのある言い方はなにか」という事を考えると、これは7になるのでした。
私達は普段、あまり意識をしていませんが、0,1,2,3,4,5,6,7,8,9という数字は、一つの文字で一つの対象を表すようにできています。0というのは「ぜろ」という言葉で表す対象を表します。
ところが、日本語で言うところの「じゅう」という言葉に対しては、漢字では一文字で十という文字が与えられていますが、数字では10という二つの数字を使ってようやく表現できる数になっています。11,12,13,...も、二つの数字によって数を表現することになっています。
例えば12という数は、
さて、先程の計算の話に戻ると、
ということと同じです。
もし手の指の数が7本の人が、10を一区切りとする文化に触れずに育って、この式を見つけたとすると、どうでしょうか。
そうすると、この計算は一体何をやっているのか?という気持ちになってきます。計算ってなんだっけ?
そこで、これらの
「ある表現によって定められた対象について、別の表現で言い換えること」
ということの意味です。
ちなみに、
- (なんでもいいけど)なにかの数を固定して、その固定した数ごとに繰り上がるような数の表現をすると、足し算や引き算について、10*10の組み合わせでどう振る舞うかを覚えるだけで計算ができるようになる(筆算)
- 上記の「固定した数」として具体的に10を選んだ理由は、究極的には偶然。それが12であっても問題はなかったが、おそらく人間の指の数などの理由により、10とする事が妥当であった。
ということと思います。この後者の部分は、人間の身体的構造などの理由で「人間にとって合理的」ということですが、前者の部分はそうではありません。自然の法則として、ある固定した数に対して繰り上がりを考慮すれば、そのような計算ができるという事実が「じゅう」だけでなく「きゅう」や「はち」、あるいは「じゅうろく」など任意の数に対して存在しているのでした。その中で"たまたま"「じゅう」を選んだのは人間ですが、どれを選んだとしても規則性を満たす世界が存在するということでした。
(インド人は九九においては20を選んでいるという噂をききますし、フランス人も20が一単位になっている節がありますし、時計は12や60といった数が一単位です。ダースという表現もまだ残っています。)
簡単にするってなんだっけ
さて、計算を「ある表現によって定められた対象について、別の表現で言い換えること」と定義しましたが、一般的な計算というのは、単に別の表現で言い換えることではなくて、何らかの利用しやすい表現に書き換えるという意図を持っています。
たとえば、小学校で習う「300円のりんごを2つ、50円のみかんを4つ買うと、代金はいくらですか」という問題については、
などと書く人は少ないでしょう。(この式の右辺は、総額をりんごの個数に置き換えると何個分を表すか、という表現に対応したものなので、それなりの合理性はある式ですが。)
さきほど言及したとおり、普通の十進表記にすると、他の計算を組み合わせて行うことが簡単なのですね。だから、800円と言われたら財布から800円を取り出すことができますが、「300円のりんご2つ、50円のみかん4つの値段を払ってください」とだけ言われると、財布から取り出すべき金額がすぐにわからず、100円玉を6枚、50円玉を4枚出す、または適当に千円札を出してみる、みたいなことになるのですね。
小学校の計算では、簡単にする方向性は明確ですが、中学以降の数学では、その基準がよくわからなくなる事があります。少なくとも私はそうでした。
例えば、
○○○○
○○○○
○○○○
と
○○○○○○○○○○ ○○
という書き方、どっちがわかりやすいかと言うと、正直よくわかりません。実際、素因数分解というものがあって、さらに細かく
そんな"屁理屈"みたいな事を考えたとき、
そういう事があって、私の人生には多項式というものに全く馴染めなかった時期があり、大学院に入るまでは多項式というものに親しみを見出す事が全くできませんでした。多項式キライ...そんなことばかり考えていました。
結合順序を否定する小学二年生
私はこと数学についてはそこそこ躓いていて、例えば四則演算の結合順序や分配法則というものも全く好きになれませんでした。
私が小学二年生の頃、父が気まぐれで1次方程式を私に教えたことがあり、私は文字を使って簡単な1次方程式をとく事ができました。一方で、やはり小学二年生の頃、一つ年上の従兄弟と遊んでいて、
私はその事がとても気になり、世界の不条理というか、「なんでそっちを答えにしちゃうんだ」という事に対してものすごく憤りを感じた事を覚えています。今思えば、当時にあっても1次方程式はそういう結合順序を使って解いているのに...(ばか)
その出来事は強烈な影響を私の中に残して、以降、小学校の教科書では、結合順序とか分配法則とかも習うのですが、もう全く私の世界の中に受け入れられないので、その授業の内容は完全にスルーしていた事を覚えています。分配法則を完全に軽視していたというか、世の中のきまりってそうなのねーとヤサグレていました。
そうして、私は素因数分解でヤサグレ、多項式でヤサグレ、ベクトルでヤサグレ、新しい概念に振れる度にヤサグレることも増えました。フィボナッチ数列の一般項にもヤサグレました。
確率の計算とか組み合わせの計算や、概念を考えることは大好きで、でも図形は概念がわかっても得意ではなく、素因数分解や多項式や方程式やベクトルは心からの拒否感がある。漸化式を習って、フィボナッチ数列の一般項、それ定義とどっちが計算しやすいの?と真剣に悩みました。
なんで数学の研究を志していたんだろう...
計算のゴールが一つでなくてもいい、とようやく気付いたとき
思えば、高校までの私にとっての計算というのは、ある種の答えを出すことでした。
その答えを出そうと思った時、
ところが、計算の本質というのはこれらの2つの表現が同じものである(と示す)こと であって、用途や意味によって使い分ければよい、ということに大学生になってようやく気付きました。なるほどー。
そこまで考えて、ようやくこれまで受け入れられなかったものを10年越しぐらいで受け入れる準備ができました。
不定元を含む式をできる限り簡単にすること
一旦、一般的な結合順序の定義と分配法則を認めるものとして、不定元を含む式をできるだけ簡単にする事を考えてみます。
例えば、
これは、
という書き方もできます。このとき、最後のカッコは直ちに1+6=7と計算ができます。
他のカッコについても、分配法則を用いると
ということになるはずです。
これは、
が成り立つということでした。
このような"
そのような事を考えた時、いま苦し紛れに「パーツ」と呼んだ対象への定義が必要で、<掛け算だけが行われるパーツ>のことを指して項と呼ぶと合理性があるのでした。
これが、「なぜ多項式において、掛け算でくっついている場合にはそれらの一つ一つを項として"分割"しないのか」(なぜ項は掛け算でくっついたものを一単位とするのか)という事への一つの答えでした。
一方で、多項式を掛け算に分解して表現することにも、それはそれで意味があります。例えば、
ただ、ここには重要な問題があり、「あらゆる多項式を単純に掛け算の形で書くことはできないし、掛け算の形で書けるものであっても書く方法が難しい(場合が多い)」ということです。
どんな1より大きい自然数であっても、素因数だけを用いて積の形式で表すことができますが、多項式を表現しようとすると、どこかに
というところで、この記事の主要な部分は終わりです。
補遺
分配法則と結合順序
さきほど「一般的な結合順序の定義と分配法則を認めるものとして」という事を書きました。
しかし、私が最初に躓いたのはまさにこの事であって、これを説明できない限りはリトル339は納得してくれません。
これの答えも既にあって、何度か文字化していますが、また今度書きます。
もっと素直な世の中の受け入れ方
項という対象については、「掛け算でくっついたものを一塊に扱うとメリットがあるので、そのように呼ぶ」と言っておけば、それはそれで十分だと思います。仮に深い合理性があるにしても、最初に触れるタイミングでは全く理解できない合理性について、取り扱う中で分かってくるという事はよくあるからです。
そのような意味で、ここに書いた話はある一つの世界の受け止め方にすぎず、特に誰かに何かを強要するものではないです。昔の自分へのポエムです。
ただ、最近子供を見ていると、私が思っていた以上に秩序へのこだわりみたいな事が強くあり、そういう考え方の理解のための一助ではあるかもな、ともぼんやりと思いながら書きました。
多項式それ自体の面白さ
多項式それ自体を、数のようなものとして見たときに、割り算や多項式の因数分解といった事を考えられます。それは、応用上暗号や符号化といったことに使われたりもしますが、単純にその規則性・法則性みたいな事についての面白さがあります。この記事では、そうした本当の面白さには触れられず、入り口の入り口で躓いた自分への世の中の受け入れ方みたいな話になってしまいました。
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