Scrum Guide Expansion Packの理解と使い方・付き合い方
Scrum Guide Expansion Packの理解と使い方・付き合い方
はじめに
2020年にスクラムガイドがアップデートされてから数年、私たちの開発現場は、AIの急速な台頭、DevOpsによるデリバリーサイクルの高速化、そして単なる機能開発からプロダクト全体の成功を目指す「プロダクト中心」の考え方へと、大きな変化の波に直面しています。
このような現代の複雑な課題に対応するため、スクラムの共同創設者であるJeff Sutherland氏らが中心となり、Scrum Guide Expansion Pack が公開されました。
これは、既存のスクラムガイドを置き換えるものではありません。いわば「拡張パック」として、スクラムの原則を維持しながら、現代のプロダクト開発チームが直面する新たな課題を乗り越えるための、より具体的で未来志向のガイダンスを提供するものです。
本記事では、このScrum Guide Expansion Packがもたらす重要な変化を読み解き、これからのアジャイル開発、そして私たちの働き方がどう変わっていくのかを探ります。
Scrum Guide Expansion Packがもたらす3つの大きな変化
Expansion Packは、スクラムのフレームワークにいくつかの重要な概念を追加・拡張しています。特に注目すべきは、「役割の再定義と拡張」「新しいコミットメントの導入」「理論的支柱の強化」という3つの大きな変化です。
1. 役割の再定義と拡張:チームはプロダクトのために
Expansion Packは、スクラムチームのメンバー構成とその責任を、よりプロダクト全体の成功にフォーカスする形で再定義しています。これは、単に役割の名称を変えるだけでなく、それぞれの役割が持つ影響範囲と期待される貢献を明確にすることで、チーム全体の連携と価値創造能力を高めることを目的としています。
プロダクトデベロッパー (Product Developer)
従来の「開発者(Developer)」という役割が、「プロダクトデベロッパー」へと進化します。これは単なる名称の変更ではありません。プログラミングだけでなく、設計、テスト、分析、マーケティング、UXデザインなど、プロダクトの価値を高めるために必要なあらゆるスキルを持つ人材をチームに含めることを明確に示しています。これにより、チームはより自律的に、そして多角的な視点からプロダクトの課題解決に取り組むことが可能になります。
プロダクトオーナー (Product Owner)
プロダクトオーナーは、単にプロダクトバックログを管理するだけの存在ではなく、プロダクトのビジョンを描き、市場のニーズを深く理解し、長期的な価値創造に責任を持つ「戦略的リーダー」として、その役割がより強調されます。彼らは、プロダクトの方向性を決定し、ステークホルダーとの連携を通じて、チームが常に最も価値の高いものに集中できるよう導きます。
新たな参加者:ステークホルダー、サポーター、そしてAI
さらに、Expansion Packは、チームの成功に不可欠な存在として、以下の3者を明確に位置づけています。
- ステークホルダー (Stakeholders): プロダクトの成果に直接的な利害関係を持つ人々。彼らのフィードバックと協力は、プロダクトが市場で成功するために不可欠です。Expansion Packは、ステークホルダーとの継続的な対話と協調の重要性を強調しています。
- サポーター (Supporters): チームが成果を出すために必要な環境やツールを提供する人々。(例:人事、法務、インフラ担当者、ツールベンダーなど)。彼らは、チームが直面する障害を取り除き、より効率的に作業を進められるよう支援します。サポーターの存在を明確にすることで、チームはより集中してプロダクト開発に取り組むことができます。
- AI (Artificial Intelligence): 人間の監督のもと、データ分析、コード生成、テスト自動化、ユーザーサポート、市場トレンド分析などを通じて、チームの能力を拡張する存在。AIは単なるツールではなく、チームの「知的なパートナー」として、意思決定の支援や作業の自動化に貢献し、チーム全体の生産性と創造性を高める可能性を秘めています。
これらの役割が明確に定義されたことで、スクラムチームは、プロダクトに関わる全ての人々を巻き込み、より大きな視点で価値創造に取り組むことが求められます。これは、現代の複雑なビジネス環境において、プロダクトが真に成功するための鍵となります。
2. 新しいコミットメント:「アウトプット」から「アウトカム」へ
Expansion Packが投じる最も大きな変化の一つが、2つの「完成の定義」 の導入です。これは、従来の「Definition of Done (DoD)」の概念を拡張し、より多角的な視点から「完成」を捉えようとするものです。
Definition of Output Done (アウトプットの完成の定義)
これは、従来の「完成の定義(Definition of Done)」に直接的に相当するものです。プロダクトインクリメントが技術的な品質基準を満たし、リリース可能な状態であることを示します。つまり、機能が「正しく作られたか(built right)」を保証するものです。
このDefinition of Output Doneは、スクラムチームが形成される初期段階で、開発チームが主体となって定義します。そして、スプリントを重ねる中で、チームの成熟度やプロダクトの特性に合わせて、継続的に見直し、改善していくことが推奨されます。
Definition of Outcome Done (アウトカムの完成の定義)
新たに追加されたこの定義は、リリースされた機能が、顧客に価値を提供し、ビジネスインパクトという「成果」を生み出したことを証明するものです。つまり、「正しいものを作ったか(built the right thing)」を検証します。
これは単に機能がリリースされたことを意味するのではなく、その機能がユーザーの行動変容やビジネス指標(例:顧客エンゲージメントの向上、売上増加、コスト削減など)に具体的な影響を与えたことを指します。Definition of Outcome Doneを設定することで、チームは「何を作るか」だけでなく、「作ったものがどのような価値を生み出すか」に焦点を当て、真の顧客価値とビジネス成果の達成に責任を持つようになります。これは、プロダクト中心のアプローチにおいて極めて重要な概念です。
Output DoneとOutcome Doneの使い分け
この2つの「完成」は、それぞれ異なる側面からプロダクトの「完成」を定義し、補完し合う関係にあります。
- Definition of Output Done: 主に開発チームが、技術的な品質とリリース準備状況を保証するために用います。これは、スプリントレビューでインクリメントが「完成」しているかを判断する際の基準となります。
- Definition of Outcome Done: 主にプロダクトオーナーとステークホルダーが、プロダクトがビジネス目標や顧客価値を達成したかを検証するために用います。これは、プロダクトゴール達成の進捗を測る指標となり、次のプロダクトバックログの優先順位付けや、プロダクト戦略の調整に影響を与えます。
両者を区別し、適切に使い分けることで、チームは「何かを作ること(Output)」に留まらず、「作ったものが価値を生んだか(Outcome)」までを責任範囲と捉えるようになります。これにより、スクラムは単なる開発プロセスから、真の価値検証サイクルへと進化します。
3. 理論的支柱の強化:なぜスクラムは機能するのか
Expansion Packは、スクラムがなぜ複雑な問題解決に有効なのかを、単なる経験則としてではなく、以下の理論的背景を用いて深く説明しています。これらの理論を理解することで、スクラムのプラクティスが持つ本質的な意味を捉え、より効果的に適用できるようになります。
- 複雑系理論 (Complexity Science): 現代のプロダクト開発は、予測不可能な要素が多く、線形的な因果関係では説明できない「複雑系」として捉えられます。複雑系理論は、このような環境において、自己組織化されたチームが、試行錯誤と学習を通じて最適な解を見つけ出すメカニズムを説明します。スクラムの「検査と適応」のサイクル、そして自己管理型チームの概念は、まさに複雑系における適応的な振る舞いを促すものです。
- システム思考 (Systems Thinking): プロダクト開発を、個々の要素の集合体としてではなく、相互に関連し合う要素がダイナミックに作用し合う「システム」として捉える考え方です。システム思考は、部分最適ではなく全体最適を目指すことの重要性を示し、プロダクト、チーム、組織、顧客、市場といった全ての要素がどのように影響し合っているかを理解することを促します。スクラムがプロダクト全体としての価値提供を重視し、ステークホルダーとの連携を促すのは、このシステム思考に基づいています。
- OODAループ (Observe-Orient-Decide-Act): 米空軍のジョン・ボイド大佐が提唱した、変化の速い状況で迅速な意思決定を行うためのフレームワークです。「観察 (Observe)」「状況判断 (Orient)」「意思決定 (Decide)」「実行 (Act)」のサイクルを高速で回すことで、競合よりも早く状況に適応し、優位性を確立します。スクラムの短いスプリント、デイリースクラム、スプリントレビュー、スプリントレトロスペクティブといったイベントは、このOODAループをプロダクト開発に適用したものであり、チームが継続的に学習し、適応していくための強力なメカニズムを提供します。
これらの理論的支柱を理解することで、私たちはスクラムのプラクティスを単に模倣するのではなく、その背後にある「なぜ」を理解し、より状況に応じた適切な判断を下せるようになります。これは、スクラムを形骸化させず、真に機能させるために不可欠な視点です。
Scrum Guide Expansion Packとの付き合い方:理解し、実践し、進化する
Scrum Guide Expansion Packは、スクラムの「あるべき姿」を示すものではありますが、決して「こうしなければならない」という厳格なルールではありません。むしろ、現代の複雑なプロダクト開発において、スクラムをより効果的に活用するための「思考のヒント」や「対話のきっかけ」と捉えるのが賢明です。
1. まずは「理解」から始める
- チーム全体での学習: Scrum Guide Expansion Packの内容をチームメンバー全員で読み合わせ、それぞれの概念(プロダクトデベロッパー、Definition of Outcome Done、理論的背景など)について理解を深めましょう。
- 「なぜ」を問いかける: なぜこの拡張パックが必要とされているのか、なぜこれらの概念が追加されたのか、その背景にある意図を深く掘り下げて議論することで、表面的な理解に留まらず、本質的な学びが得られます。
2. 「実践」を通じて試行錯誤する
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対話の促進: 「自分たちのプロダクトにとってのOutcome(成果)とは何か?」「私たちのチームにとってのステークホルダーやサポーターは誰か?」「AIをどのように活用できるか?」といった問いを積極的にチーム内で投げかけ、活発な議論を促しましょう。
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小さく実験する: 全てを一度に導入しようとせず、まずは一つのスプリントや特定の機能開発において、新しい概念を実験的に取り入れてみましょう。例えば、「Definition of Outcome Done」を一つ設定し、その達成度をスプリントレビューで検証してみる、といったアプローチが考えられます。
- 設定のポイント: Definition of Outcome Doneは、プロダクトゴールやビジネス目標と密接に連携し、SMART原則(Specific: 具体的に、Measurable: 測定可能に、Achievable: 達成可能に、Relevant: 関連性高く、Time-bound: 期限を設けて)に基づいて設定することが重要です。例えば、「新機能リリース後3ヶ月で、特定ユーザー層のエンゲージメント率を10%向上させる」といった、測定可能な指標を含んだ形で定義することで、チームは真の成果達成に向けて集中できます。
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役割の本質を議論する: 「開発者」を「プロダクトデベロッパー」と呼称するかどうかは、チームの状況や文化によって判断が分かれるでしょう。重要なのは、名称そのものよりも、開発者がプロダクトの価値創造に多角的に貢献する「プロダクトデベロッパー」としての役割をどう果たしていくか、その本質をチームで議論することです。例えば、サポーターの役割については、自分たちのチームにとってどのようなサポートが必要で、誰がその役割を担うべきか、具体的な議論を始めてみるのも良いでしょう。
3. 「進化」を続けるための注意点
- Scrum Guideの精神を忘れない: Expansion PackはScrum Guideを補完するものであり、その根幹にある「透明性」「検査」「適応」の精神、そして「経験主義」の原則は常に尊重されるべきです。
- 文脈を考慮する: 組織の文化、プロダクトの特性、チームの成熟度など、自分たちの文脈に合わせて、Expansion Packの概念を柔軟に解釈し、適用することが重要です。画一的な適用は、かえってスクラムの形骸化を招く可能性があります。
- Scrum.orgとの関係: 現時点ではScrum.orgの公式なガイドラインではないため、認定試験の内容に直接影響を与えるものではありません。しかし、スクラムの進化の方向性を示すものとして、その動向を注視していく価値は十分にあります。
まとめ
Scrum Guide Expansion Packは、スクラムを単なる開発プロセスのフレームワークとしてではなく、現代の複雑なプロダクト開発における価値創造のための強力なツールとして捉え直すための、新たな視点を提供してくれます。
「プロダクトデベロッパー」や「サポーター」といった役割の拡張は、チームのコラボレーションと責任範囲を広げ、2つの「完成の定義」は、私たちの意識を「作ること」から「顧客への真の価値提供」へとシフトさせます。そして、その背後にある理論は、変化の激しい時代を乗り越えるための羅針盤となるでしょう。
この拡張パックは、すぐに全てを導入すべき「正解」ではありません。しかし、その内容を深く「理解」し、自分たちのチームや組織の文脈に合わせて「実践」し、常に「進化」し続けることで、スクラムをより効果的に活用し、プロダクト開発を次のレベルへと引き上げることができるはずです。
ぜひ、このScrum Guide Expansion Packを手に、あなた自身のスクラムとの「付き合い方」を見つけ、より良いプロダクト開発を目指してください。
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