圏論とは:米田=グロタンディークの哲学から
まえおき
圏についてはすぐれた解説が多くあるが、圏論とはなにかについてのソリッドな説明はなかなかないように思われる。ここでは局所的に小さい圏について、圏の理論がいったいなにについての理論なのかを、米田=グロタンディークの哲学から説明することを試みる。そして圏論(局所的に小さな圏の理論)とは集合論の道具立てを一般の対象に持ち込むことの理論である、という視点を提示する。米田の補題に至る基本概念、圏や函手、普遍性による構成などについては説明しない。もし以下の内容がすでにどこかに書いてあるとか、瑕疵がある場合はご教示ください。
本題
米田=グロタンディーク哲学とは、圏は米田埋め込みによって函手の圏で考えるべし、という思想をここでは指す。小さな圏
を利用し、函手の直積
で定義できる。さらに、圏
なる対象
このさらりとした構成が重要なエッセンスを持っている。
- まず、函手の圏
には米田埋め込みによって元の圏[\mathcal C^{\mathrm op}, \mathcal{Sets}] が忠実充満に埋め込まれている\mathcal C - 次に、その函手の圏には容易に集合論の道具立てを持ち込める(ここでは
)。F\times G - 上の事実から、函手の圏は元の圏を集合の道具立てが持ち込めるように「完備化」したものであると言うことができる(この「完備化」は厳密な意味を持つ数学用語ではない※)。
- さらに、集合の道具立てを持ち込むことによって定義された函手が表現可能なとき(ここでは
なるよ_{A\times B}\simeq よ_A \times よ_B が存在するとき)、「集合論の道具立て」をさらに元の圏A\times B の中に持ち込める=普遍性による構成ができる。\mathcal C - たとえそれが表現可能でなかったとしても、函手の圏では
をあたかも「元の圏からはみだした」直積よ_A \times よ_B であるかのように扱うことができる。A\times B
つまり圏論(ここでは局所的に小さな圏の理論)とは集合論の道具立てを一般の対象に持ち込むことの理論である。また米田=グロタンディークの哲学とは、集合の圏への函手圏は元の圏を含みつつ、元の圏よりも性質のよい「完備化された」圏と見なす考え方であるといえる。米田の補題に至る圏論の諸々の定義は上の議論を保証するべく構成されているのである。
※函手の圏
具体例
たとえば加藤五郎『コホモロジーのこころ』では、射の集合がアーベル群となるような圏について、表現可能函手によってアーベル群の道具立てを持ち込める圏としてアーベル圏を定義し、さらにアーベル圏がアーベル群の圏に埋め込めるという定理(完全埋め込み定理)を紹介している。たとえば射
なる普遍性で定義される。左辺の
この論理展開はまさしく米田=グロタンディーク哲学に基づくものであり、応用が利くのではないかと思われる。
その他のつぶやき
圏論の普遍性・抽象性について
圏が様々な概念を包摂する普遍・抽象的な概念であるという印象を与えるのは、むしろ私たちが扱う数学的対象のほとんどがブルバキ流に集合論から構成されたものであり、集合論の道具立てを持ち込みやすいものばかりであることの表れかもしれない。
圏論の創造性について
このように圏論を捉えると、既知の対象をHom対象として持つような未知の対象へ、既知の道具立てを持ち込むことの体系が圏論であるといえる。つまるところ圏論は既知の道具立てを使いまわすための方法論であって、そこに創造性はないともいえるかもしれない。
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