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武の心とは?

2023/05/05に公開

五月五日🎏子供の日😃
本日は、南東からの風があり曇りがち😊朝から、少し風が吹いています。

皆様、こんにちは🌞😃

さて、私のfb友達の大半が 武道関係の方々で有りますが、

空手に限らず様々な武道を修練されておられる方が 見えます。

その方々が武道を始められた理由、経緯は様々であると思います。

そして、始められた頃と今は違うはず。

当然、武人で有るのならば、そうでなくても、「師の教え心」を受け継いで行く事が、

学ぶ側の姿勢で有るべきだと、私見で有りますが思うもものです。

流儀、流派、学びの場での決まり事は、少なからずあるモノです。

師の方針、皆様方を導く為の指針もそこにはあります。

ここで、皆様に問いたいのは「武」とはなんなのか、

漠然とはしていますが、深く考える事をしなければならない時期があると考えます。

貴方にとって、何を学ぶ事が「武」であるのか・・。

簡単な思考で武を考えるのであれば貴方の武道は学び始めた頃とさほど変わりなく、

価値観もそれなりなのではないでしょうか?

そこに、疑問を持たず、ただたんに続ける事だけで、

自分を評価しておられるのでしょうか?

段位、修行年数、生徒の数、所属している組織の大きさ、

そこに価値を見出すのはごもっともな話です。

しかし、「武」が与える恩恵に、それに気づくのは貴方自身であり、

気づくことのできるのも、貴方自身であります。

そこに、段階がある事も確かな話であります。

進歩成長をなされているならば、

当然と言って技や武道に対する心持ちの違い、

身体能力の変化に伴う自信の保持。

或いは一般の生活の中からは学べない所作、儀礼、

「武」より学んだ「心」を優先した価値観の保持等々を習得していきます。

これは、どのような習い事をしても身についてく・・

日本人の価値観や習慣から生まれてきた文化に・・

それ以上もそれ以下も無いという事は周知であるのです。

その学んだ事全てが、その人の姿勢、為人(ヒトトナリ)として現される事が

とても重要である事は、間違いありせん。

「孫氏の兵法」では、「負けない事」を説いている?

そこに手段を択ばないという事があると言う事です、

しかし、鎌倉幕府初代頼朝公の側近、

初代別当であった大江広元が著した「闘戦教」という日本初の兵法書

(孫氏の兵法と併用する事)には、

日本人の心とは「正々堂々」と言う事が書かれています。

ここに、「心」というSENTENCEが出てくる事は、

その人にとっての武道観に大きな影響があると言ってよいでしょう。

源平の時代から重んじられた武将の対決方法の一つ

「一騎打ち」と言うものがあります。

現代風に言えば「タイマン」。

相手を殺すという事にルールはありません。

しかし、自分の生き様を大切に思い、相手の生き様に敬意を表す「心」

「正々堂々と一騎打ち」を行いその戦いを単なる殺し合いではない、

崇高な心さえかんじられる潔い(いさぎよい)モノに変える事を望んだモノ、

その表現の一つとしての「正々堂々」の心を持つことを

「武」は教えてくれるのではないでしょうか?

古来、思想と武は切っても切り離せないモノであった事は間違いない事であり・・

神仏崇敬の最大の守護者は、武人であった事は間違いないのです。

私は技や力に支配された心無い武道を崇敬しているような?

そう勘違いされる様な投稿を目にすると、心に痛みを感じるのです。

武道を始めた頃、自分の弱さ(精神や力や技術の無さ)を埋める為に始めました・・

その弱かった頃の自分も自分であるのです。

そして、今、自分が強くなったと錯覚している事の間違いに気づく謙虚な心こそが、

貴方を強さに近づけてくれる心であるのです。

「心」を学ぶ事は、武道の本質であると言って過言ではありません。

それこそが「道」であります。

自分の知らない知識を得、そして善悪の判断をしていく事を仏教では「三学の教え」とし、

とても大切な教えとして「戒・定・慧」を説いています。

「戒める事、定めを守る事により善悪のが出来る知恵を得る事」

「新陰流」ではこの教えを最も重要なSENTENCEと捉え、

最も重要な勢法(型)の名称に使っています「三学円之太刀」

今思うに・・・空手の著名な型にも「三戦」(サンチン)というモノがありますが・・・

三戦=三箭

この三箭の意や如何に?毛利の祖が三人の息子に説いたお話が思い起されます

空手の型「サンチン」の名称がが何故「三戦」なのか・・ずっと、考えていた事の一つでした。

「心」と言う観点でモノを観る事ができれば・・また、色々な思考に繋がって行くものですね☺

「心」ないモノを文化とは言いません。

「文化」とは・・その民族の「心」を表現する方法の一つでなければならないのです。

私が日本人である故に、私は日本を愛し、日本の文化を大切にする「心」を誇りに思うのです。

そして、こうして「武道」と言う日本固有の文化を学ぶ事によって与えられた心

「日本を思う心」を多少でも持つことができたことを恩恵として思い感謝しています。

色々な感性、個性があるのは当たり前です、

私を含む皆さんが、その道の上で迷っているのです、

だからこそ先師、先達の教えを道標に

正しい道の上を歩んでいく事の大切さに気付かなければなりません。

知人の空手家が言っていました、その方の師のお言葉だそうです

「空手に国境は無い」まさにおっしゃる通りです・・

言い換えれば「武道に国境は無い」と言い換えせていただきたい。

そして、その武道の道は多岐にわたります。

高い山を登る道のりは・・たくさん有るのです・・

その頂上にあるのは「心」の平安です。

自分の納得行くところが「頂上」になる。

が、その頂上はいくらでも高く出来るのです、

先師先達の作り上げてくださった道は、50年?ですが・・その歴史は500年に続いています。

が・・・いまだ、先師先達を超える人はいないでしょう。

もし、私がこの後30年武道をしっかりと稽古できたとしても

(現在43年ですが、最近全然稽古してません(-_-;))

流祖に及ぶはずもない・・と、

いう事はその心を知りうる事は出来ないという事です。

自分を高く評価したがるのは常ですが・・

その事の愚かさを知って居てください。

「貴方は、まだ何も知らないし、何も出来ていないのです」

先師、先達の示してくださっている500年の歴史を軽視してしまうような

貴方の心を反省するべきではないでしょうか・・

(^^♪すいません「貴方」とは・・特定の人を指しているのではないのです・・

が、「貴方」である事は間違いありません!(^^)!

そういえば・・先ほど、この文章を書いているさなかに

「死にたい、死にたい」と私に2年以上訴えてきている御仁から

やっとまともなメッセージが入ってきましたので・・

後ほど、内容をUPしましょう。山村 幸太朗 | Facebook

新陰流流祖上泉伊勢之守の言に

「他流を否定することは無いが、認める事もない」

と言う事「心」があります。

何人も、人の心を否定するに及ぶ修行をされている方は、珍しい。

己の信じた道を進み己の信じた高みに到達する事を惜しまない。

人殺しをした事がない私が人殺しの技術を学び、何を得ることができるのか?

それは、「人殺しの剣」ではない「剣」

「活人の剣」を学んでいるからその心をもっと学んでみたいと思うのです。

相手に対する優位性だけの価値観であるのなら、

私はもっと筋力トレーニングをして組手を沢山して・・

相手をどう痛めつけるかを考え・どう、勝つかを考える・・

堂々巡りを繰り返すのです。

が、そんな事を考える必要がないのが「新陰流」です。

すでに完成された最高の技がある・・

それを身に付ける修練をしていく事・・それに尽きるのです。

しかし、現代人の心持、現代人の武道に対する価値観、モノの見方感性で、

その技を体得し会得する事は「出来ない」と言って過言ではありません。

新陰流は、心も技も、勝ち方も・・全て完成されています、

個人の考えが入り込む余地はない・・

自分が最高峰だと考える人ほど、この完成された「人を活かす道」に独自の感性を盛り込もうとする、

傲慢で愚かな行為をなんとも思わないのです。

500年前の素晴し完成形をいかに体得し、心得るか

その価値の重さに気づいていただきたい・・・そんな思いで

この文章を書かせていただきました。

「心」ない「武」は「暴力」と言ってよいでしょう。

弱きをたすけ強きをくじく・・これは、武道の心ではありませんか?

貴方が、そんな心も持たずに「武道」という事を語るのであれば、

「武道」を冒涜していると思わざる負えません。

心ない武など・・修行するに値しないのです。

貴方方の大切にしているモノ、自分を作り上げている体の一部と言って過言ではない

「心」を自分で否定する事の愚かさに気づく事が要求されます。

「武道は人間形成を重んじる日本人の大切な文化」であるのです。

悪しからず・・(#^^#)

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