シンガポール政府のエンジニア組織 Gov Tech が推進する高度な DX
(Gov Tech SingaporeWebサイトより引用)
本記事の概要
- 本記事では、筆者が住んでいるシンガポールにおける電子政府の現状と日本の現状を比較し、シンガポールの方が優れている仕組みなどをいくつか紹介します。
- また、シンガポール政府が日本政府より優れた電子政府のサービスを提供できている組織的な仕組みである、Gov Techについて紹介します。
本記事執筆の背景
この記事を書いている2020年12月現在では、日本で、何年かぶりに行政改革、電子政府、政府のDX(Digital Transformation)といったキーワードがニュースをにぎわせていて、行政のITサービスが再び脚光を浴びています。これはコロナ禍における自宅勤務が広まる中、ハンコが必要な業務があるため、出社させられている状況が多くの会社に見られることが批判を浴び、それを行政改革を進めたい管政権が着目して、政府の目玉として推進し始めたという経緯があったと認識しています。
先日、ニュースにもなっていた国連発表の電子政府ランキングでは、シンガポールと日本の評価はそれほど差はないように思いますが、実際にシンガポールに住んでいて利用する電子政府のサービスは日本よりも進んでいるように実感しています。
電子政府は、B2Cのサービスと異なり、UXがダメなら競合他社のサービスに乗り越えるという対処ができません。政府が非効率な手続きを変えない限りは、国民の貴重な時間を奪ってしまう状況が続きます。早く日本の電子政府が改善されることを切に願い、記事執筆を決意しました。
マイナンバーのおかげで給付金の支給が迅速
つい先日まで非常にホットだった話題であり、かつ日本とシンガポールの電子政府の差が如実に出てしまった事例として、コロナ給付金(生活支援給付金)を例としてあげます。
日本のコロナ給付金は、全ての国民に所得制限なしで、10万円を給付するという制度です(私は日本にいなかったので申請できず)。申請方法としては、政府のWebサイトを見る限りでは、
- マイナンバーカードを利用したオンライン方式
- 市区町村から郵送された申請書類を返送する郵送方式
があったようです。ここで問題になったのは、行政側の手続きの非効率性です。行政側の作業者2人ペアで申請された内容を紙に印刷し、申請内容を目視確認しているという実態が報道されていて、信じられないオペレーションをしていることに驚かされました。
一方で、シンガポールの方は、電子政府の歴史年表によると、2007年には納税や還付手続きの電子化、2009年には納税記録と銀行口座が納税者のNRIC(いわゆるマイナンバー)で紐づけられていたおかげで、コロナ給付金が発表された数週間後には、海外にいるシンガポール人も含め、申請手続きなしに自動的に政府から全国民の銀行口座に600ドルが振り込まれていました(ちょうど日本で働いてた頃の元上司がシンガポール人であり、日本に住んでおり、彼も給付金もらったとFacebookで報告していました)。
なお、直近で納税していない子供・シルバー世代などもいますが、政府から給付金が支給される機会があり、政府は働く世代以外を含め、ほぼ全ての国民のNRIC・銀行口座は把握しているので、給付金の支給が迅速に行えます。
日本でマイナンバー法案が審議されている際に、プライバシーの問題と言ったまともな指摘から、「家畜じゃあるまいし、人間を番号で管理するのは許せない」といった的外れな議論まで行われていたと記憶していたと思います。
一方で、シンガポールのNRICは2009年、アメリカのSSNに至ってた1936年に国民番号の運用が始まっており、現在ではマネロン対策といった主に国際金融犯罪対策を目的として運用されている同仕組みですが、先進国では日本だけ大きく制度化が遅れてしまった結果、給付金の支払い遅延という2次被害が出てしまったように思います。
マイナンバーを利用したコンタクトトレーシング
マイナンバーを利用したコロナ禍の事例としては、お店や公共施設に入る際のコンタクトトレーシングがあります。コンタクトトレーシングは、人が出入りした際にその人のNRICを記録しておくことで、以下の実現する取り組みです。
- コロナに感染した人が見つかった場合、その人の移動経路を追うことで感染経路を把握できる。
- またコロナ感染者が出入りした場所に出入りした人を洗い出すことで、2次感染のリスクがある人を洗い出すことができる。
非常時だから許されていますが、明らかにプライバシーの侵害なので、個人の人権意識が強いヨーロッパやアメリカでは、真っ向から反対されそうです(私が知らないだけでヨーロッパ・アメリカでも大規模なコンタクトトレーシングをやってたらすみません)。
シンガポールでは、国際的にコロナの感染者が出始めた直後から、お店や公共施設に入る際は、以下のいずれかの方法でチェックインすること(Safe Entry)、また体温測定が義務付けられました。
- NRICのカードのバーコードをスキャンする。
- SingPassのモバイルアプリで、施設に貼ってあるQRコードを読み込む。
また、ほどなくしてチェックインをより効率化する仕組みとして、Bluetoothを使って常時、すれ違った人を記録するモバイルアプリ Trace Together がリリースされました。Trace TogetherはGoogleやAppleより先駆けて、シンガポール政府がBluetoothを使った応用例と仕様をオープンに公開しました。
現在は、従来のSafe Entryに加えて、Trace Together の利用も推奨されています(スマホが使えない人向けにモバイルトークン版もあります)。
この事例で、私が驚いたのはリリースの速さです。シンガポールでコロナが騒がれ始めて、数ヶ月目にはチェックインが始まり、NRICカードだけでなく、SingPassアプリでのSafe Entryが普及したことです。ロジスティクスの面で小回りが利く都市国家の利点もありますが、政府のアプリリリースの速度も早いと思いました。
UXが秀逸な例: 公立病院の予約から診療費の後払いをスマホで
一旦、コロナから離れて、日本の方に驚かれた事例としては、公立病院の診療費後払いがあります。
シンガポールでは、公立病院での診療予約や、支払いなどの一連の業務手続きの流れが、政府提供のSSO(シングルサインオン)の仕組みにより、NRICで紐付けられ、オンラインのサービスで一元管理されています。
シンガポールに来て、驚いたことの1つが、この政府がNRICで認証するためのSSOのサービスを提供していることです。NRIC・氏名・住所・メールアドレスといった情報は、政府のSSO認証サービスに登録され、利用者が許可した上で各種公共サービスに個人情報が提供されるため、各種手続きがNRICで紐付けされますし、個人情報を何度も記入させられる手間を省けます。日本では公共サービスで政府がマイナンバーのSSOを提供する状況は少し考えづらいので、非常に驚かされました。
予約の際の実際の利用手順は以下の通りです。
- (事前予約) どこの病院も混み合うので、事前に予約するのが普通です。公立病院の各種手続きは、政府のSingHealthという医療系のシステムを使っており、予約はWebやモバイルで行います。以下はスマホアプリの例です。ログインを促されていますが、上側に来ているSingPassが政府の提供するSSOのサービスです。
- (SingPassへシングルサインオン) Login via SingPassを開くとQRコードが出ます。これをタップするとSingPassのアプリが開きますので、そちらでログインします。
- (情報提供の承認) SingPassへのログインに成功すると、SingPassから利用サービス(今回は、SingHealth)へ個人情報(NRICなど)が提供する旨の注意事項が出ます。これを承認するとSingHealthに個人情報が渡り、SingHealth側にログインできます。
- (予約手続き) すでにSingHealth側に認証の結果と個人情報が渡っているので、SingHealthはNRICと予約の紐付けが行えます。
また、支払いの手続きもスマホアプリでできます。
- モバイルアプリでPaymentのページがあるので、ログイン済みであれば診療済みで未支払いの請求書が表示されます。
- 支払い方法を選んで支払いを行います。クレジットやデビットカードで支払う場合は、金融機関のサイトにリダイレクトされます。
上記の事例は、NRICやSingPass(政府提供のSSO)といった足回りがあるため実現できていますが、日本だと認証や与信管理(料金回収の仕組み)はどうするのか議論が紛糾して、実現が難しそうな事例だと思います。
効率的な電子政府を実現するエンジニアリング組織 Gov Tech
シンガポール政府が提供している電子政府のサービスはどれも、日本では実現できない高度な技術を使っているかと言えば、そうでもなく、日本の民間企業(特にB2Cのサービス)であれば実現できそうな内容です。
しかし、シンガポール政府が驚くべきことは、それなりに優れたUXのサービスやアプリを、コロナのような社会が混乱した状態であっても、迅速にリリースし、継続的に改善していることです(あるいはコロナ禍だからこそ、スピード勝負だったのかもしれません)。一方、日本政府は100%日本のSIerに丸投げしているので、おそらく同じスピード感と品質でリリースすることはできないと思います。また、直近が良かったという話ではなく、何十年と合理的な決断を積み重ね、改善してきた結果の積み重ねが両国の電子政府に如実に現れてしまったと個人的に思います。
なお、シンガポールにも、公共サービスの開発を受託する公共系SIer(日本でいうNTTデータのような存在)は存在します。これらの企業は、いわゆる、IT業界でSoR (System of Records)と呼ばれる類の淡々と事実を記録する硬めの業務システム開発を得意とし、オンプレで枯れた技術でシステムをデプロイしており、シンガポールも日本と変わらない感じなんだなと安心した記憶があります。
一方で、シンガポール政府が日本政府と大きく異なるところは、IT業界でいう SoE (System of Engagement) のような利用者が直接触り、UXに影響を与えるWebサービスやモバイルアプリの開発を得意とするエンジニアリング組織である Gov Tech(正式名称は Govoverment Technology Agency)が内閣直轄の組織として存在していることです。
年表によると、2014年にSmart Nation Platformという電子政府をより拡張したプロジェクトを実現する過程でGov Techが組織されたようです。
私自身が、Gov Tech を知るきっかけとなったのが、以前、ブログに書いたコロナ禍での転職活動 です。データエンジニア、バックエンドエンジニア、DevOpsエンジニアといった自分の経験にマッチする仕事を探していたところ、良さそうなJob Descriptionを見つけたので、会社の事業内容を確認したところ、政府機関であることに気づき、驚愕した記憶があります。
Gov Tech のリクルーティング関係の情報は、以下で見られます。ミッション、採用のポリシー、具体的な要件を記載したJob Descriptionなど、民間企業の、しかも勢いのある企業のポジションとして見ても遜色ない内容であることがお分りいただけると思います。
- https://www.tech.gov.sg/careers/overview/
- https://sggovterp.wd102.myworkdayjobs.com/PublicServiceCareers/0/refreshFacet/318c8bb6f553100021d223d9780d30bes
これを見た後に、日本の自治体の技術職の採用ページを見ると、いかにも公務員の採用っぽい雰囲気でがっかりします。
以前、アメリカに1年ほど滞在した時も、エンジニア向けの勉強会において、州政府に雇用されたリクルータが募集告知しているのを毎回のように見かけたので、アメリカでは州政府がエンジニアを直接雇用するような慣習があることに驚きました。
前述の通り、SIerに業務委託することは当然アメリカにもシンガポールにもありますが、要所では政府が自ら、政府の戦略やミッションを実現するために必要なエンジニアやデザイナを直接雇用することは、シンガポールでは存在するのです。
これは、近年、シンガポール政府のSmart Nationといったプロジェクトのように政府が電子政府を超えた、より高度な公共システムを構築するニーズが出てきたこと、またサイバーセキュリティなど高度な技術を必要とする社会的情勢が大きく関係するのかもしれません。
なお、Gov Tech はどういう人を採用するんだろう?どんな人が働いているのか?といったことをシンガポール人の妻と話したところ、以下のようなことを教えてもらいました。
- もちろん民間企業で働いているシンガポール人やPRを採用する(一部、PRではできない仕事あり)。
- 政府機関のかなり重要なポジションには、政府の奨学金で英米の大学に留学した超エリートが着いたりすることが多い(卒業後に政府機関で働く規定あり)。
- 優秀な人を引っ張ってくるため、給料は結構高いらしい。
最後に日本政府のDXに一言
最近、個人的に行政のITでよかったと思うことは、Code for Japan という市民団体が開発したコロナ対策WebサイトがOSSとして公開され、それを東京都が公式に採用するという事例があったことです。東京都が開発した訳ではないですが、今まで日本で見ることがなかったような動きが出てきて、非常に驚いた記憶があります。
- https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00058/031000042/
- https://jp.techcrunch.com/2020/07/09/asukoe-tokyo-oss/
一方で、政府が自らミッションを立てて、エンジニアやデザイナを高待遇で採用して、エンジニアリング組織を作るといった事例はまだありません。日本政府は、海外事例で仕入れた流行りをうたってプロジェクトを始めたりすることは過去にもあったと思いますが、政府機関内に実現できる人がおらず、結局、SIerに丸投げして実績作りをして、お茶を濁すと言ったことを繰り返しているように思います(戦略領域は自分達で作るという概念がないのは、一部日本の大企業でも同じかもしれません)。
日本政府が真のDXを実現し、質の高い公共サービスや、業務効率性の高いシステムを実現したり、他国では前例のないスマートシティのサービスを実現したり、そう言ったことをやるには、政府自身がちゃんと予算をつけて、実務能力の高い優秀な人を民間から採用し、スタートアップのような文化のエンジニア組織を作るしか方法がないと思います。
アメリカ政府は、GoogleやAmazonと言った世界的なIT企業出身の人を要職につけるような事例があるようですが、果たして日本政府にできるのか?日本の民間企業でも苦戦している難事業です。簡単なはずがありません。デジタル庁が日本版のGov Techになるんだと思いますが、果たしてスローガン止まりなのか、本当に日本版 Gov Tech になるのか。後者であることを祈りつつ、政府からの続報を待ちたいと思います。
平井氏は「小さく産んで、大きく育てるスタートアップ企業の考え方に近い組織にしたい」と述べ、「スローガンはガバメント・アズ・ア・スタートアップ。(頭文字をとると)結果的に(菅義偉首相の愛称と同じ)GaaSu(ガースー)となる」と笑いを誘った。
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