MPVの自動運転を実現する技術的課題
1. はじめに
こんにちは。チューリングのDriving Software チームで車両制御の開発をしている相澤です。チューリングではTokyo30に向けて、E2E自動運転チームが車両の経路を直接出力するAIモデル(TD-1)を開発しています。一方で、実際にその経路に沿って車を動かす制御部分は、私たちDriving Software チームが開発しており、本記事では、その制御の概要と直面している課題についてご紹介します。
2. MPV制御に立ちはだかる壁とは?
自動運転技術は近年、目覚ましい進歩を遂げています。TeslaのAutopilotやWaymoのシステムは、低重心EVをプラットフォームに採用し、高速道路や市街地での実用化に成功しています。しかし、真に社会に広がる自動運転の実現には、より多様な車両への対応が不可欠です。
左図:Tesla 中図: Wayve 右図: Waymo
チューリング: アルファードで独自の自動運転AI「TD-1」の走行試験の様子
その中でも、アルファードなどに代表されるMPV(Multi-Purpose Vehicle、多目的乗用車。ミニバンやトールワゴンに代表される多人数乗車が可能なセグメントを指す)は乗り降りしやすく、高齢化社会における送迎サービスや、観光地でのロボタクシーなどと親和性が高く、MPVの自動運転の開発は、社会の交通課題を解決する一助となるでしょう。
これらの車両は乗客の快適性を重視して設計されているため、高重心で大きな車体質量という特性を持っています。こうした特性は自動運転制御において新たな技術的課題となっています。以下では、この本質的な課題を制御理論と実際の物理現象から解き明かしていきます。
3. バイシクルモデルの限界
現代の自動運転開発では、「バイシクルモデル」と呼ばれる簡易的なモデルが広く使われています。車両を自転車のように前後輪の2輪で表現し、ステアリング角から車両の進行方向を予測する手法で、多くの企業がこのモデルを基本として開発を進め、実際に自動運転やADASでもある程度の成功を収めています。
しかし、MPVのような車両で市街地走行をすると、低速での旋回や不規則な路面に対して限界が露呈します。たとえば、時速15キロでの右折時、ステアリング角から予測した理想軌道と実際の軌道に大きなズレが生じるのです。
その理由を探ると、MPVの挙動にはバイシクルモデルが考慮していない次のような要素が影響を与えていることがわかります:
- ロールダイナミクス:高重心のMPVでは旋回時に車体が大きく傾き、そのためタイヤの接地荷重が変わり、横力が非線形に変動します。
- 非線形タイヤ特性:2トン以上の重量がかかるタイヤは変形が大きく、スリップ角と横力の関係が複雑化します。
- アンダーステアの発生:前輪の接地力が低下し、旋回半径が想定よりも大きくなる傾向が顕著です。
これらの要素が互いに影響を及ぼすため、単純なバイシクルモデルでは不十分であり、内輪差、アッカーマン角や荷重移動を考慮するデュアルトラックモデルが必要になってきます。
【表1】 Bicycle modelとDual-truck modelの対比
特性 | Bicycle model | Dual-truck model (Ackerman model) |
---|---|---|
特徴 | ・単純で実装が容易 ・基本的な経路追従に有効 |
・左右輪の挙動の差を考慮 ・荷重移動の影響を反映 |
限界 | ・横力の非線形性を無視 ・重量配分の影響を考慮できない |
・ロール/ピッチの影響は考慮できない |
適用例 | ・一般的な自動運転開発 ・経路計画の初期検討 |
・高精度な軌道追従 ・差動制御 |
4. 複雑な路面状況への適応とベテランドライバーの技術
実際の市街地走行では、こうした複雑な要因が組み合わさって現れます。例えば、雨上がりの傾斜交差点を右折する場面を想像してみてください。路面が滑りやすくなる中で車体の傾斜が起き、横力も不安定になり、交差点通過時の安定性が大きく損なわれます。また、乗客の人数や座席位置によっても挙動が変わり、最適な制御がさらに難しくなります。
チューリングでは、実際にレース出場経験もあるベテランドライバーたちの協力を仰ぎ、様々なコースを走り込んでデータを収集しています。ここで興味深いのが、ベテランドライバーたちが直感的にこれらの要素に対処している点です。彼らは交差点に入る前にわずかに減速し、ステアリングをスムーズに操作することで荷重変動を抑えています。また、路面のわずかな段差やマンホールを避け、タイヤの摩擦係数を瞬時に読み取りながら微調整を行っています。経験豊かな運転手の「カン」と呼ばれるものは、実際には物理的な現象の理解に基づいた高度な技術なのです。
これを物理則で表現しようとすると、前章で述べたタイヤ、車体のジオメトリの関係性のみで記述されるKinematicsモデルではなく、運動方程式で各タイヤ(Bicycle modelでは、左右の車輪の滑り角を同一と考える)を記述するDynamicsを考慮に入れる必要があります。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1155/2010/541809
【表2】 KinematicsとDynamicsモデルの対比
特性 | 運動学モデル (Kinematics) | 動力学モデル (Dynamics) |
---|---|---|
考慮する要素 | ・位置関係 ・幾何学的な制約 |
・力学的な相互作用 ・慣性力の影響 |
計算複雑性 | 単純 | 複雑 |
予測精度 | 低速域で有効 | 全速度域で有効 |
用途 | ・経路計画 ・低速マヌーバ |
・車両安定性制御 ・極限運動予測 |
MPVでの課題 | ・大きな誤差が発生 |
・パラメータ同定が困難 |
5. 市街地右左折という難題
「時速15キロでの右左折なら、そこまで難しくないのでは?」
自動運転の世界では、低速での市街地走行は「解決済みの課題」として扱われることが多くあります。確かに一般的な乗用車であれば、水平面上の2自由度(前後・左右の移動)のみを考慮した単純なモデルで制御が可能です。しかし、MPVではこの「単純な」2次元の世界を超えた、6自由度すべての制御が必要になります。
たとえば、家族4人を乗せたMPVが商店街の交差点に差し掛かった場面を考えてみましょう。交差点に進入した瞬間、横断歩道に急に自転車が現れ、ブレーキを踏む必要に迫られます。自転車が通り過ぎた後、再びアクセルを踏むと、2トンを超える車体が前後に大きく揺れ、ロール挙動が変化し、後部座席の乗客には不快な揺れが生じます。
【表3】 市街地走行で想定される6DoF挙動とその影響
特性 | 運動学モデル (Kinematics) | 動力学モデル (Dynamics) |
---|---|---|
考慮する要素 | ・位置関係 ・幾何学的な制約 |
・力学的な相互作用 ・慣性力の影響 |
計算複雑性 | 単純 | 複雑 |
予測精度 | 低速域で有効 | 全速度域で有効 |
用途 | ・経路計画 ・低速マヌーバ |
・車両安定性制御 ・極限運動予測 |
MPVでの課題 | 大きな誤差が発生 | パラメータ同定が困難 |
これらの6つの自由度が相互に影響し合う中で、以下のような相反する要求を満たす必要があります:
- 軌道追従精度を高めるための素早い操作と、乗り心地を損なわないスムーズな操作の両立
- ロールを抑制するための減速と、姿勢変動を抑えたスムーズな再加速
さらに、乗客数や座席位置、積載量によってこれらの運動特性が大きく変化するため、6自由度すべてのパラメータを適切に制御することが求められます。
ベテランドライバーは、この6自由度の複雑な運動を直感的に理解し、一つの操作が他の自由度に与える影響を予測しながら運転しています。例えば:
- 旋回前の適切な減速により、ロールとピッチの両方を抑制
- ステアリング操作とブレーキ/アクセルのバランスによる姿勢制御
- 路面状況に応じた予測的な制御による振動抑制
このような高度な制御を自動運転で実現するには、6自由度すべてを考慮した動力学モデルと、状況に応じて各自由度の重要度を適切に判断できる制御則が不可欠なのです。
【表4】 2DoFと6DoFモデルの対比
自由度 | 運動の種類 | 主な要因 | 影響を受ける車両特性 | MPVでの特徴 |
---|---|---|---|---|
X軸 | 前後運動 | ・緊急停止時の前方への荷重移動 ・再加速時の後方への荷重シフト |
・制動性能 ・加速性能 ・乗り心地 |
・大きな車両質量による慣性力 ・乗客数による特性変化 |
Y軸 | 左右運動 | ・旋回時の遠心力 ・乗客位置による重心の偏り |
・横方向安定性 ・コーナリング性能 |
・高重心による大きな横力 ・乗客配置の影響大 |
Z軸 | 上下運動 | ・マンホール/段差による衝撃 ・サスペンションの伸縮 |
・乗り心地 ・路面追従性 |
・柔らかいサスペンション ・大きな車体の共振 |
ロール | 左右の傾き | ・旋回時の車体傾斜 ・不均一な荷重分布 |
・横転安定性 ・乗員快適性 |
・高重心による大きな傾き ・乗客位置の影響顕著 |
ピッチ | 前後の傾き | ・ブレーキ時の前のめり ・加速時の後傾 |
・制動安定性 ・加速安定性 |
・長いホイールベース ・大きな前後荷重移動 |
ヨー | 水平面回転 | ・ステアリング操作 ・横滑り |
・旋回性能 ・方向安定性 |
・大きな慣性モーメント ・応答性の低下 |
6. より良いモデルを求めて:物理とデータの融合への挑戦
この複雑な課題に対し、車両挙動のモデルにおいて、Bicycle model vs Dual track model, Kinematics vs Dynamics, そして2DoF vs 6DoFの3つの軸で対比を行いました。チューリングでは、MPVのように制御が難しい車両を様々な状況下で精度よく制御するために、以下の2つのアプローチに取り組んでいます:
(1) 物理モデルベースの制御:
MPC(Model Predictive Control)を活用し、精度を向上させたモデルによって、より実際の挙動に近い車両の予測と制御を行います。これは、制御工学でも一般的なアプローチです。
(2) データドリブンの制御:
一方で、人間はわざわざ複雑な数式を頭で計算して車を運転していません。それでもベテランドライバーは、視覚、聴覚やステアリングトルク、ペダルの反力から、五感全てを使って、今この瞬間にタイヤにどれくらいの荷重が乗っているか、サスペンションがどれくらいの縮んでいるか感覚で把握できるようになっています。そして、逆にどのような操作をすれば、同乗者に不快を与えないよう綺麗に交差点を曲がれるか、精度高く予測しながら運転ができます。
そこでチューリングでは、大量の運転データから学習し、路面や積載状態に応じた柔軟な対応を可能にする機械学習モデルの導入も検討しています。
この「ハイブリッドアプローチ」により、通常は物理モデルで制御しつつ、交差点での複雑な旋回や不規則な路面にはデータから学んだ制御則を適用するなど、高度な車体制御の実現が期待されるでしょう。
次回は、車体制御における物理モデルの限界について、具体的にデータ活用やその他の手法を通じてどのように補完・改善していくかを掘り下げていきます。
7. おわりに
所属するDriving Softwareチームは、自動運転AIモデルを自動運転ソフトウェアへ組み込み、それをさらに実車にデプロイするところまでを担当しています。
本記事では、MPVの自動運転における車両制御の課題と、その解決に向けたアプローチを紹介してきました。複雑な車両ダイナミクスの制御は、自動運転技術の中でも特に挑戦しがいのある分野です。
この記事で紹介したような技術的課題に興味を持っていただけた方は、ぜひ一緒に働けることを楽しみにしています。
詳細については、筆者のメール(bon.aizawa@turing-motors.com)にご連絡いただくか、チューリングの採用情報をご覧ください。
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