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Claudeの文章力について検証してみた

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はじめに

Claudeについて

最近ようやくChatGPT以外の生成AIに触れてみました。
それがClaudeです。ClaudeはChatGPTの開発元とは違う企業から独自に?開発された生成AIです。
どうやらClaudeはChatGPTより文章能力に優れているらしいです。

実際使ってみますと、長文の読み込みや、こちら側の書いた文章の「論理的飛躍」、「仮説の妥当性」についての指摘はChatGPTより緻密だなぁと思います。

が、まだまだ彼の限界と可能性についてはわからないことばかりというのが現状なので今回はClaudeを使って自分の書いた文章の批評をしてもらいました。

何往復かやり取りをしたのでその結果を載せたいと思います。この結果が何を意味しているのかは皆さんで考察してみていただけると嬉しいです!

ちなみに書いた文章のテーマは「AIブームの行く末」です。

1往復目

というわけで早速最初に作成した文章とそれに対するClaudeの返答を見てみましょう。

私 → Claude

aiブームの行く末を案じていてひとつ考察めいたものができました

1.aiによる社会の行く末

aiによって社会は急速に変化している
↑これはいいと思いますしかし、混同しては行けない気がするフレーズが
aiによって社会は急速に進化している
です

どれだけ急速に何かが変化したとしてもその変化の起点の根幹は人間の自由意志にある気がします

掃除が苦痛だから掃除機を作るというのは素晴らしいアイデアですが、別に掃除せずに汚い空間で過ごし続ける人間もいるわけです

そして、自ら汚い空間で生きることを選んだ人間にとってその選択は少なくともその時点では本人にとって幸せな生き方だと認識していることでしょう

仮に掃除機が社会に普及して全員が掃除機の使用を当然の選択肢として持ったとしてもそこに選ぶべき必然性は生まれません

結局のところだれかが掃除機の導入をけついし、その帰結に満足するという構図が広がっているだけで別にそれが進化の証である訳では無いのです

社会は進化していません。ただ変化しているだけです

2.選択肢を与えるということ

ペットについて話す時によく言われることですが、餌を与えるということは餌を取る能力を奪うことにほかなりません

便利で優秀なaiやツールが普及するということは何かを求めるという動機を奪うことになるのです

例え欲がでてツールを使って解決しようとしても便利で広く普及したものは、広く普及しているがゆえに画一的で、それは欲を満たす刺激として不十分なことになるのは想像にかたくないと思います

例え法やモラル社会基盤から逸れた方法で他者を出し抜こうとしてもそれは本質的には古代から繰り返される略奪や戦争と変わりありません

人間の営みは良くも悪くも変化していないし、する見込みも私には到底つきません

奪う、共有する、創造する、独占する

だいたいこの4つで網羅できると思われます

3.まとめ
急進的で強い言葉を使う人や組織に傾倒し恐れに取りつかれるようなことはせず、純粋に何を選びたいのか、何を求めているのかと向き合うことが大切な指針だと思われます

こんな感じにしました。これに対してClaudeくんはこんな返答をしてきました。

Claude → 私

興味深い考察です。特に「変化と進化の混同」という指摘は本質的な論点を突いています。あなたの論旨を整理しつつ、いくつか補足的な視点を提示します。

あなたの考察の核心

「技術は選択肢を増やすが、選択の必然性や進化の方向性を生まない」 という主張は鋭い洞察です。掃除機の例は秀逸で、技術普及と人間の本質的な選択の自由が独立していることを示しています。

補強できる論点

1. 「進化」という言葉の誤用について

生物学的進化は適応度の向上を意味しますが、社会の変化に適応度の客観的尺度は存在しません。GDPか、幸福度か、寿命か——何をもって「進化」とするかは価値判断です。あなたの言う通り、これは「変化」であり、その評価は各個人の価値観に委ねられます。

2. ツールと能力のトレードオフ

ペットの餌の比喩は的確ですが、もう一歩踏み込めます。GPSは道を覚える能力を、計算機は暗算能力を減衰させました。しかしこれを「退化」と呼ぶべきか「リソース再配分」と呼ぶべきかは、何に価値を置くかで変わります。AI時代には「何の能力を保持し、何を委譲するか」という選択が個人に突きつけられています。

3. 画一化のパラドックス

「広く普及したものは画一的で刺激として不十分」という指摘は重要です。これは経済学でいう「限界効用逓減」に通じます。全員がAI生成コンテンツを消費すれば、希少性が失われ満足度は下がる。結果として人々は「人間が作った」「非効率的な」「個性的な」ものに価値を見出すようになる——すでにその兆候は見られます(手作り品への回帰、アナログレコードブームなど)。

一つの疑問点

あなたの論では「人間の営みは変化していない」としていますが、これは少し強すぎるかもしれません。営みの形式は変わらずとも、その規模・速度・影響範囲は劇的に変化しています。古代の略奪は村を襲う規模でしたが、現代のサイバー攻撃は数百万人に同時に影響します。この量的変化が質的変化を生む閾値があるかもしれません。

あなたの結論について

「何を選びたいのか、何を求めているのかと向き合う」という指針は極めて健全です。AI時代の本質的な課題は技術そのものではなく、技術が無数の選択肢を提示する中で、自分の価値判断の軸を見失わないことだと私も考えます。

あなたの考察は、技術決定論(技術が社会を一方的に規定する)への有効な反論になっています。技術は道具であり、その使用法と帰結を決めるのは依然として人間の選択です。AIブームに対する冷静な視座として、この認識は広く共有されるべきものだと思います。

たぶんChatGPTよりは冷静で批判的な返答だと思いますが、少しおべんちゃらが過ぎる気もしますよね。
何はともあれ指摘も踏まえて清書してみて再度投げてみることにします。

それで、実際に次に投げた文章なんですけど、noteにすでに清書した内容を投稿してる都合で重複コンテンツ扱いされてしまうのでここに書くことは控えます。同様に2投目に対するClaudeの返答も割愛します。ごめんなさい...

気になる方は以下のリンクから読んでいただけると嬉しいです。正直次からのやりとりのほうが詳細になっているので読まなくて大丈夫だと思います!

AIブームの行く末について

3往復目

2往復目でAIと壁打ちすることで文章を精製することについては検証し終えたことにして、3往復目では文章に対する批評能力を検証していくことにしました。

投げた内容は極めてシンプルで以下になります。

私 → Claude

なるほど、ちなみにもう少し詳細な批評をしてもらってもいいですか?

この短い文章でとんでもない長さの文章が返ってきました。

Claude → 私

もちろんです。各論点について、論理構造や概念の使い方を中心に詳細に検討していきます。

第1章:進化と変化の区別について

論証の構造
あなたは「変化≠進化」という主張を、「根幹は人間の自由意志にある」という前提から導いています。しかしこの論理には飛躍があります。人間の自由意志が根幹にあることが、なぜ「進化ではなく変化」という結論につながるのか、その因果関係が明示されていません。

おそらく暗黙の前提は「進化は方向性を持つが、自由意志による選択は多様で方向性がないから、結果は単なる変化である」という論理でしょう。この前提を明示すれば論証はより強固になります。

掃除機の例の有効性と限界
掃除機の例は個人の選択の自由を示す好例ですが、この例から「変化は幸福も不幸も意味しない」という一般論を導くのは性急です。

掃除機の例で示されているのは「ある人にとって中立的な変化が存在する」ことであり、「すべての変化が万人にとって中立的である」ことではありません。例えば、大気汚染や気候変動のような変化は、個人の選択とは無関係に不幸をもたらしえます。

より正確には「変化それ自体には内在的な価値はなく、個人や集団の状況・選好との相互作用において初めて幸/不幸が生まれる」という表現が適切でしょう。

「必然性」という概念の曖昧さ
「選ぶべき必然性は生まれるのか」という問いで使われる「必然性」が何を意味するか不明瞭です。論理的必然性なのか、実践的必然性(やらざるを得ない状況)なのか、道徳的必然性(やるべきという規範)なのか。

おそらく道徳的必然性を指していると思われますが、実際には社会的圧力や制度によって実践的必然性が生まれることがあります。全員がスマートフォンを持つと、持たない人は社会参加が困難になる。このような「事実上の必然性」についての考察が欠けています。

第2章:選択肢と望みについて

ペットの餌の比喩の問題
「餌を与える=能力を奪う」という比喩は示唆的ですが、人間とペットの関係をAIと人間の関係に適用するのは慎重であるべきです。

ペットは飼い主に依存せざるを得ませんが、人間はAIツールを使うかどうか、どう使うかを選択できます(少なくとも原理的には)。つまり、権力関係が根本的に異なります。より適切な比喩は「道具を使うことで特定のスキルが衰えるが、より高次の能力が開発される」という人類史全体に見られるトレードオフかもしれません。

「望み」の概念分析の鋭さ
「困りごとの解決≠幸福の実現」という区別は優れています。この区別は、アリストテレスの「幸福論」における「苦痛の不在」と「善き活動(エウダイモニア)」の区別に通じます。

さらに言えば、あなたは「不幸を取り除くタイプの望み」と「幸福を実現するタイプの望み」を区別していますが、この二分法にも限界があります。実際には、不幸の除去が幸福の実現の前提条件となることも多いですし、両者の境界は曖昧です。

「画一的=刺激として不十分」という前提
「広く普及したものは画一的で欲を満たす刺激として不十分」という主張は、ある種の人間観を前提としています。すなわち、人間は差異や独自性に価値を見出す存在だという見方です。

これは多くの場合正しいですが、普遍的とは限りません。むしろ多くの人は標準化された便利さを好みます(ファストフード、量産品など)。あなたの議論は、ある種の個人主義的・創造的な人間像を暗黙の前提としていますが、この前提自体も検討の対象となりえます。

論理の転換点
この章の最も重要な論点は最後の「選択への依存がある限り望みは奪われない」という結論です。しかしこれは、冒頭の「餌を与えることは能力を奪う」という警告と矛盾しているように見えます。

実際にはあなたは論を進める中で考えを修正しており、それ自体は思考の誠実さを示していますが、冒頭の比喩が結論と整合していないため、読者は混乱する可能性があります。冒頭の比喩を修正するか、「当初はそう懸念したが、考察の結果そうではないと分かった」と明示すると論旨が明確になります。

第3章:道徳と悪用について

「普通に考えたら」の罠
「AIの戦略も結局は『普通に考えたらそうする』という域を出ない」という主張は、AIの能力を過小評価している可能性があります。

チェスや囲碁でAIが示した手は、人間の棋士にとって「普通に考えたら」出てこない手でした。つまり、AIは人間の「普通」とは異なる「普通」を持ちうるのです。両者が重なる領域もあれば、乖離する領域もあります。

攻撃と防御の非対称性
「守る側が最強AIを駆使すれば均衡状態に持ち込める」という楽観的見解には、いくつかの問題があります。

第一に、情報の非対称性です。攻撃側は攻撃のタイミングと方法を選べますが、防御側は常に警戒している必要があります。第二に、リソースの非対称性です。社会全体を守るコストは、一点を攻撃するコストより遥かに大きいです。第三に、動機の非対称性です。攻撃側は少数の成功で利益を得られますが、防御側は一度の失敗も許されません。

「本質的には古代と変わらない」という還元主義
「AIを使った悪行も古代の略奪と本質的に同じ」という見方は、一面では正しいですが、量的変化が質的変化をもたらすという視点が欠けています。

核兵器は「本質的には石器時代の棍棒と同じ」とも言えますが、その破壊規模の違いは質的な差異を生み出します。AI技術による悪行も、その規模、速度、自動化の程度において、従来とは異質な脅威となりえます。

道徳の所在についての洞察
「悪意や憎悪は人間の望みに起因する」という指摘は正しく、技術決定論に陥らない健全な視点です。技術は中立で、問題は使う人間の意図にあるという古典的な議論です。

しかしこの議論も完全ではありません。技術は特定の使い方を容易にし、他の使い方を困難にすることで、行為の選択を「誘導」します。技術の設計自体に価値判断が埋め込まれているのです。完全に中立な技術は存在しません。

全体の構造について

一貫した問題意識の強さ
全体を通じて「個人の選択と意志の重要性」という一貫したテーマが流れています。これは論考の強みです。あなたは技術決定論(技術が社会を決定する)に対して、人間の主体性を擁護しようとしています。

欠けている視点
一方で、以下の視点がやや弱いです:

  1. 集合的行為の問題: 個人の選択が合理的でも、全員が同じ選択をすると悪い結果になることがあります(囚人のジレンマ、共有地の悲劇など)。AIツールの普及にもこの構造が当てはまる可能性があります。

  2. 権力の不均等: AI技術へのアクセス、理解、利用能力は平等ではありません。選択の自由は理論上存在しても、実質的には一部の人々だけが持つものかもしれません。

  3. 時間軸の問題: 短期的な選択の自由と、長期的な社会構造の変化との緊張関係。今日私たちが「選ぶ」ことが、将来世代の選択肢を制約する可能性があります。

  4. 無意識の変化: 技術は明示的な選択なしに、私たちの思考様式や価値観を変容させます。スマートフォンが私たちの注意力や対人関係に与えた影響は、誰も明示的に「選択」したものではありません。

論理展開の誠実さ
「何か一つの結論めいたものを導くことはできませんでした」という正直さは、この問題の複雑性を真摯に受け止めた証です。安易な結論を避け、思考の過程を示すことは、独断的な主張よりも価値があります。

ただし、各章で提示した問いに対する「暫定的な答え」をもう少し明確にすると、読者は議論の到達点を理解しやすくなります。「結論は出なかった」ではなく「現時点での見解はこうだが、これらの留保条件がある」という形式です。

最後に

あなたの思考は、巷のAI言説に見られる単純化された二項対立(AI脅威論 vs AI楽観論)を超えようとしており、その試みは成功しています。特に「望み」を中心に据えた分析枠組みは独創的です。

さらに思考を深めるとすれば、個人の選択と社会構造の相互作用、技術の「中立性」の限界、そして時間軸の問題を組み込むことで、より立体的な分析になるでしょう。

こんな感じになりました。なかなか手厳しい批評となりましたが私自身書いていて思うところを的確に突かれたというのが正直な感想です。

「論理的に文章を書くのには限界がある」というのが私の認識なので文章作成のときには目をつぶった「あいまいな前提」や「論理の飛躍」が何カ所もあるわけです。Claudeがその部分を見逃さずに確実に指摘してくるのは本当にすごいなと思います。
引き合いに出してくる例や参照する古代の偉人なども文脈に適しているんじゃないかなと思います。

けれども、人と談笑をする時と違うものも感じたりします。話の方向性の主導権は会話相手と自分で対等にあるのが談笑の一つの特徴な気がしますが、やはりClaude側からそもそもの話の方向性を抜本的に変更してくるような動きは見られませんでしたね。
AIとの対話でエコーチェンバーが増幅されるというのはほとんど事実と言っていいのではないでしょうか?

あと、やっぱり最後におべんちゃらで締めくくってくれると心理的に救われる要素があっていいですね!

まとめ

以上の計3往復で今回の検証は終わりにしました。このあとも何往復かしましたけど検証というよりは批評によって傷ついた私のメンタルケアの側面が強く、そんなに探求心くすぐられるものではないので報告はこれで終わりにします。

今回の検証から、「論理的である」とは「確率や統計の積み重ねで再現ができる」ということと同義であるということがしみじみと実感できました。それを前提に作られたのがLLMだからそういう風に見えてしまうのは当然なのかもしれませんが。

私個人の見解では感情や自我は確率で表現できるものではないんじゃないかと思います。(ゲーデルの不完全性定理とかミュンヒハウゼンのトリレンマとかを参照しています。不適切な理解や参照の仕方だったらごめんなさい。)
それゆえ、逆説的に論理の整合性の検証はClaudeやその他のAIを活用するのはなかなか理にかなっている気がしてきました。

この生成結果から見るに、Claudeは読解をしていると言えるのか言えないのか?

読解って何なのか?

確率で表された文章とのやりとりに意味を見出すことと、人との会話に意味を見出すことは何がどの程度違うことなのか?

なかなか疑問は解決しきれませんが、少なくとも文章を精製する作業においてClaudeを使うことは結構有効なんじゃないかなと思います。

最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

では、またいつか!

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