RPA・ノーコードと学びの乖離
やさしさが導くのは、理解か、それとも錯覚か
RPAやノーコードツールは、誰もが簡単に扱えることを目指して設計されている。
複雑な記述を覚えなくても、ドラッグ&ドロップやGUI操作でそれっぽいものが動く。
この「やさしさ」は、たしかにプログラミング未経験者の背中を押すだろう。
だがその反面、「理解せずに使える」構造は、学びにとっての大きな落とし穴でもある。
まるで、理解の階段を飛ばして、いきなり屋上に立ったような錯覚。
その足元には、積み上げたはずの思考が抜け落ちていることに、気づきにくい。
「誰でも使える」のその先で
RPAやノーコードの世界では、GUIの操作がすべてを代替してくれるように見える。
複雑な構文を知らなくても、条件分岐や繰り返し処理が組めてしまう。
でも、それは「組んだ」のではなく「組めてしまった」に過ぎない。
- なぜこの順序で処理されるのか?
- どうしてこの条件で動作が変わるのか?
- どこでエラーが発生しやすいのか?
こうした構造の理解がなければ、作ったものの改善も再利用も難しい。
つまり、「最初の動作ハードル」が低いことと「本質的な理解」は、まったく別の話なのだ。
RPAやノーコードツールが提供するのは、確かにやさしさであり、サービスとしては強力な武器でもある。
うまく動かないときでさえ「ツールの仕様だから」と割り切れる。
だが、自分でコードを書くという行為は、そうはいかない。
すべての結果は、自分の書いたコードの帰結として返ってくる。
うまく動けば歓喜し、間違えればそのバグが己の未熟さとして目の前に現れる。
そのとき、人は選択を迫られる。
立ち向かうか、逃げ出すか。
コードを書くということは、自己責任と向き合い続ける覚悟に他ならない。
そしてその営みは、他者ではなく自分自身と向き合う時間そのものでもある。
ある意味で、プログラミングとは自己との対話だ。
外界に働きかける道具でありながら、
それを通じて本当に試されているのは、自分の思考の深度、忍耐力、そして論理の精度だ。
そのフロンティアに立ち続けられる者だけが、
知識の深淵へと至るのかもしれない。
METRの研究が示した理解の錯覚
2025年の初頭、AI支援開発についての調査がMETRから発表された。
経験豊富なOS開発者にLLMによる支援を与えたところ、平均で19%も開発速度が遅くなったという。
だが、当の開発者たちは「速くなった」「作業が楽になった」と自己評価では逆の印象を持っていた。
これは、ノーコードやRPAの世界にも通じる構造だ。
「使えた」ことが「理解できた」にすり替わる。
一見すると便利な魔法は、実は学びの芽を摘んでしまうリスクすら持っている。
LLMによってあらわになった錯覚の構造
こうした「理解した気になれる」体験は、ノーコードやRPAだけではない。
近年はLLM(大規模言語モデル)の登場によって、
この錯覚の構造がさらに可視化されるようになった。
- プロンプトを打てばコードが出力される
- 質問をすれば、理由付きで答えが返ってくる
だが、それを「自分の知識」と勘違いしたまま使い続ければ、学びは空洞化していく。
一度も泳いだことのない人が、泳げる気分になるような体験
LLMは、そうした気持ちよさを提供してくれる。だが、それは本当に泳げるということなのだろうか?
本質と向き合う導線を取り戻す
技術には、たしかにやさしさが必要だ。
だが、それは「見た目が簡単そう」であればいいという話ではない。
- 構造を観察できること
- 試行錯誤の余地があること
- エラーと向き合えること
こうした学びの導線を意識的に設計することが、
次の技術導入にとって欠かせない基盤となる。
やさしさとは、迎合ではなく、対話のためにあるものだ。
LLM時代の私たちは、その設計の意味をもう一度問い直す時期に来ているのかもしれない。
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