学びの導線として見るVBA
技術と畏れの距離感
それは、呪文のようだった。見慣れないアルファベットが並ぶ画面、わずか数行の文字列が、現実のExcelを動かしている。
プログラミングに触れたことのない人にとって、コードやマクロという言葉は、しばしば神秘の象徴である。それは、選ばれた者だけが理解し、使いこなすもの──そんな印象すら抱かせる。
実際、業務中に「マクロを少し修正した」と話すと、「え、それ自分でできるんですか?」と目を丸くされることがある。
技術は知る者にとっては道具だが、知らない者にとっては教義であり、魔術である。プログラミングはときに、構造の複雑さゆえに宗教的とも言える存在となる。
だからこそ、私たちには入口が必要だ。恐れずに踏み込める、やさしい導線が。
道具ではなく、導線としての技術
どれほど優れた技術でも、それに触れることができなければ意味はない。学びの最初の一歩は、正確な理解でも、高度な理論でもない。
「触れてみたい」と思わせること。それこそが、学びの始まりだ。
VBAは、まさにそうした導線の役割を果たしてきた。
Excelという日常に溶け込んだ環境に組み込まれ、
ほんの数行で世界が反応する体験を与えてくれる。
- 結果が即座に可視化される
- エラーが起きても破滅的ではない
- 自分の手で自動化できたという実感が持てる
それは「わかる」より前の、「できたかもしれない」という感覚。
この段階を踏めることこそ、技術が持つべきやさしさではないだろうか。
VBAという体験の橋
VBAが優れているのは、そのやさしさだけではない。
そこには確かな構造的学びがある。
変数、ループ、条件分岐、関数。
エンジニアが日々使いこなすそれらの概念を、VBAでは
目で見える現象として体験できるのだ。
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Range("A1").Valueはセルの中身そのもの -
IfやFor Eachは、Excelの上で動きの変化として観察できる
これは、GUIとコードが自然に結びついているからこそ可能になる。
コードが構造の学びと直結している──それが、VBAの真価である。
儀式のように、そして魔法のように
こうした構造と動作の体験は、しばしば召喚術に例えられる。術者(プログラマ)が、詠唱(コード)を紡ぎ、魔法陣(Excel)で処理を実行する。
成功すれば、想像したとおりの何かが現れる。
失敗すれば、暴走することもある。
不可視の論理構造が現実を動かす。
この感覚が、技術に対する畏敬と魅力の両方を生み出すのだ。
VBAは、その中でもっとも身近な魔法であり、もっとも入りやすい儀式だった。
スパゲッティコードという副作用
もちろん、儀式には副作用もある。
- 行き過ぎたネスト構造
- 意図しないループによるExcelのフリーズ
- コメントもない、誰にも読めないコードの迷宮
そうしたコードの悪魔たちは、知らず知らずのうちに召喚される。けれども、失敗は学びの一部だ。
次は少し整理してみよう、もっとわかりやすく書こう。そう思えた瞬間、学びは反復の儀式になる。
その先へつながる導線
VBAで得た知識と経験は、そのまま他の技術へと橋渡しされる。
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DimやIfは、PythonやJavaScriptの文法へと自然につながる - ループや関数の考え方は、どの言語でも変わらない
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WorkbookやRangeのようなオブジェクト操作は、DOMやDataFrameの理解を助ける
VBAは、技術の中心ではないかもしれない。
でも、中心へ向かうための正しい足場であり続けている。
おわりに:学びの構造に目を向けよう
技術が評価されるとき、往々にして「新しさ」や「効率」が基準になる。
VBAは、そうした文脈では古い,非推奨とさえ言われるかもしれない。
けれども、VBAのような技術こそが、人と技術の距離を縮め、
触れる勇気を与えてきた。
学びの始まりに必要なのは、「正解」でも「成功」でもない。
ほんの少しの反応と、そこから始まる驚きだ。
それがあるから、人は次の行を、次の構文を、自分の手で書こうと思える。
VBAは、そうした学びの火種としての価値を、いまも静かに灯している。
そしてこれからも、そういった存在が新しい何かに向かう人を、そっと背中で支えていくのだ。
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