AIはまだ記号設置できない以上、記号設置を大事に
これを読んで思ったことをつらつら喋ったのをまとめてもらった。それ自体が思考を放棄しているが、、、
かいてみて思ったが、AIの任せて要約してもらったから、文脈が少しずつズレている。そのズレを許容している時点で、僕の文脈は薄れているし、僕は凡人なんだと思う。ただ、これを発露している時点で、すこしマシだと考えよう。次からはちゃんと書きます。
答えられないという危機感
コードは動く。タスクも、ひとまず終わる。しかし、技術的な議論で「なぜそう書くのか」「どこまで通用するのか」と問われると、言葉が出てこない。自分の頭の中で本当に理解できていないからだ。自分はこの空洞感を、職業的な危機として受け止めている。参照記事も問題の所在を同じ地点に置く——欠けているのは情報量ではない。むしろ、過剰な供給が「思考の時間」を圧迫し、断片のみが堆積して体系を形成しないことが本質だ。
自分の実情も、その分析に符合する。生成AIに質問すれば、数十秒で整った答えが返る。暫定的な部品を縫い合わせれば、見かけ上は機能する。だが、問いに対して自分の言葉で理由を述べるだけの内部モデルが育っていない。自分は「やれること」をこなす一方で、「やっていること」を説明できない。ここに立ち止まり、方法を組み替える必要がある。
1. 「情報不足」ではなく「情報過多」がもたらす擬似理解
記事は、表層的な知識の蔓延が逆に情報過多をもたらしたとしている。AI、技術ブログ、SNS、動画チュートリアル——これらは「できてしまう」速度を加速するが、「わかる」ための疲労を取り除きすぎる。自分自身、エラーが出た瞬間にGPTに投げている。その結果、理解はGPTに任せて、自分自身は理解していない。その結果、「これどうなっているの?」ときかれても、説明できない。
2. コミュニケーション技法では埋まらない“深さ”
そこで、自分は、エンジニアのコミニュティーション術的な本をいくつか読んだ。自分が説明できないのは、話し方が下手だからと考えていたからだ。だが、問題はそこではなかった。先述の通り、理解していないのが問題なのだ。アウトプットが問題なのではなく、そもそもアウトプットするためのインプットができていないからだ。そりゃ、コミュニケーション術の本にも書いてない。
自分が停滞しているのは共感の態度ではなく、概念と現実を接続する自力の不足である。すなわち、「他人の文脈」をなぞるのではなく、「自分の文脈」を構築する営為が足りない。
3. 「仮止めの継ぎ接ぎ」と「本物」の距離
自分は今、与えられたタスクに対して、AIの出力を切り貼りすることしかできていない。これ自体は現実的な開始点だが、そこから抜け出す意志がなければ、永続的な代替行為になる。ただ、これを抜け出す石はあるが、その方法を見つけられずにいた。
ただ、この記事でも示されていたし、自分自身、それに気づいていた。「凡人の戦い方」を隠さない。浅い理解を誠実に積み重ねること、そして実装・失敗・検証を通じて解像度を上げることだ。才能の有無を嘆いても、理解は深まらない。必要なのは、測定可能な仮説と反復可能な試行である。
4. AI依存の副作用——「他者の文脈」を自分に移植しすぎない
AIは有益だ。AIは他人の文脈を知るために使うべきものだと考える。つまり、新たな視点を知ることに目的があって、その後、自分の文脈にどう落とし込むのかということをAIは教えてくれない。だからこそ、自分の言葉で咀嚼する必要がある。咀嚼せずに他人の文脈を使うと、自分の文脈が希薄化する。
5. 「違和感」を測定可能にする——記号設置としての手を動かす
記事が強調する「違和感の感度」に自分は賛同する。違和感に激しく反応すれば、自然と手を動かすし、頭の中で考える。その手や頭を動かすことが、自分への記号設置ヘトとつながり、理解を促進させる。けど、大抵の人はめんどくさくて手を動かさないし、頭を使わない。そんな暇があればYoutubeでも見ておきたいのだ。ただ、そのコストが高いからこそ、凡人と天才を分ける基準になり得る。
コードリーディングも同じ文法で効く。他者の文脈に自分の線を交差させるには、入口(エントリポイント)から状態遷移、エラーハンドリング、データフローを追い、「もし別設計なら」を仮説として当てる。読むとは、模倣ではない。反事実の投影で意味面を厚くすることだ。
結語:Fakeで始まり、Fakeで終わらない
私たちは多くの場合、いきなり「本物」にはなれない。仮止めの継ぎ接ぎから出発する。しかし、誠実さ——わからないときに「わからない」と言い、暫定を暫定として管理する——を失わなければ、浅い理解はやがて深さへ繋がる。重要なのは、スピードではなく勾配だ。今日からできるのは、テーマを一つに絞り、思考の時間を予約し、最小の変更を計測し、短い記録を書き、AIは後段の批評に回すこと。
Fakeで始まってもいい。そこで終わらないための手触りを、手を動かすことで取り戻す。これが、情報飽和時代に“中身”をつくる、自分の最短距離である。
Discussion