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機械設計者を辞めてDX人材になった1(転職前の話)

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はじめに

新卒から何年か勤めていた会社で機械設計の仕事をしていたのだが、転職してDX人材(SIer)になるという(恐らくは珍しい)ジョブチェンジをしたので、記録として色々書くことにした。前職への不平不満は確かにあったが、やりたいこともあって現職を選ぶことになり給料も少し上がったので(最近は賃上げ効果も大きい)、一応ポジティブな理由でキャリアアップ転職をしたと思っている(ちなみに年代はアラサー)。文章を上手くまとめるのはいつも苦手なのだが、転職を考えている誰かの参考になって、転職仲間が増えることがもしあれば嬉しい。

ざっと経緯を話すと、学生の時には物理シミュレーション(電磁波の有限要素解析)の研究をしていて、大学院卒業後に中堅メーカー(家電の機械設計)の仕事に就き、その後にSIer(自動車のCAE業務請負)に転職したという流れになる。配属先は名前に「DX」が入っている、デジタル変革を進める部署という位置づけなので(どこまでDXの仕事ができているかは少し別だが)、一応は「DX人材」になったと見なされると思う。とりとめのないことも色々書いているが、自分の記録の意味もあるので、話題を削ることはあまりしていない。

さて、大卒の新卒者は3割が3年以内に辞める、という話はよく言われる。関連して、転職する人が増えたという話もよく話題になったりする。けれども実際の所、総務省のデータ内閣府のデータを見てみると、2000年頃からの比較で言えば、転職者は目に見えて増えている訳ではないらしい。ちなみにこの話は、転職活動中に読んだ『働くみんなの必修講義 転職学』という本で知ったのだが、本によると1990年頃から転職者率は横ばいらしい(正規社員で3%、非正規社員で10%程度)。

ネットだと「嫌な会社なら辞めちまえ」みたいな意見もよく見る気がするのだが、現実で転職したことを話すと「凄いですね」みたいに驚かれることも多いと感じていて、逆に転職者として居心地の悪い思いをすることもなくはない(仕事が長続きするか不安に思われるなど)。転職とはよく話題にはなるものの、実際には経験していない人の方が多いだろう(職種にもよると思うが)。

そうは言っても転職がよく話題になるということは、それだけ世の中の関心が高いということだと思う。転職した人が身近にいれば、「実際どうなの?」とか気になる人も多いことは想像に難くない(というか自分もよく聞かれる)。そういう意味で転職者の声というのは貴重で、自分も転職活動をしていた時は生の声をよく探していた。

そこで、自分も転職してから退職エントリを書こうと思ったのだが、よく見かけるような退職エントリを書く気にはならなかった。というのも、多くの退職エントリは辞めた直後の文章であることが多く、単に辞めた理由を羅列したような内容では面白くないと思ったからだ。読む人にとってはどうせなら、「退職した後どうなったの?」という所まで知って、参考にしたい人が多いのではと思う。

という訳で、転職して少し時間が経ってから(気付いたらもう3年近く経ってしまったが)、転職後の出来事も含めて退職エントリを書くことにした。実際、転職先で改めて働いてみることで、前の会社に対する新たな気付きなどもあったので、それくらいのタイミングで振り返った方が良いのではと思う。自分が文章を書くと膨大になりがちなのだが、そこは読みたい人が読んでもらえればと思う。内容としては大雑把に、「転職前の状況」「転職活動~現在」の2つの区切りで書いてみたい。

学生時代にやっていたこと

退職エントリで学生時代から書いている人は少ないと思うが、転職後の仕事に関係する部分があるので触れておく。学生の時には物理シミュレーション系の研究をしていて、化石のようなFortran90でプログラムを書いていた(数値計算の世界は速度重視なので、一応今でも現役という認識)。シミュレーションに興味はあって研究以外でプログラムを書いたこともあったのだが、いかんせん研究内容が自分にとってかなり難しく、おまけに放置系の研究室だったのもあり、挫折して自分には向いてないと思うようになった。頑張って大学院にも進んだのだが、職業としてプログラマになることは考えられず、もっと実物に触れられる製造業の仕事をしたいと思った。

とはいえ、特に好きな製品がある訳でもなかったので、就職活動ではひとまず会社説明会に沢山行くようにした(簡単にでも事業や雰囲気を知れたのは良かった)。けれども正直なところ、特に興味を持てる会社は見つからなかった。露骨に囲い込みをやってくる会社もあったが、仕事内容を聞いているとミスマッチがあることも多く、選考に進まないでほとんど蹴ってしまった(今思えば、もう少し選考に進んでも良かった気はする)。

ちなみに、自分が就活していたのは2016年だったが、トヨタなどは「EVが広まるのは2030年以降」などと言っていて(テスラがModel Xとか出してたのに)、中部電力などは「あくまでも火力発電を重視する」などと言っていて(太陽光パネルが増えて価格も下がり続けてたのに)、JR東海などは「リニアは2027年に開業予定」などと言っていて(当時も談合とか色々問題になってたのに)、三菱重工業などは「既に注文が入ってるMRJを納入する」などと言っていて(既に5回くらい延期してたのに)、見通しがよく分からない会社が多いとも感じていた。実際、5年も経ったら状況は様変わりしてしまい、企業の言うことは当てにならないと後で思った。ただ、自分が少しネガティブに考えすぎていた所もあったとは思う。

そんな感じで選り好みをしていたので、就職先はなかなか決まらなかった。最終的には、ニッチ産業でシェアが高い某家電メーカーに就職することにした。なぜそこかと言われたらたまたま受かったからというのもあるが、自分の中でいくつか決め手になった点もあった。第一に、職種別採用をしていて、興味があった機械設計職にまず間違いなくなれると分かっていたことがあった。第二に、機械、回路、ソフトと一通りの設計部署があり、それなりに技術力がありそうだと思えたことがあった。第三に、就職四季報を見て給料や残業など悪くないと思えたこともあった。他、実家から通勤できて貯蓄しやすそう、事前に職場訪問ができて雰囲気が分かった、子会社でないので仕事の自由度は高そう、といったこともあった。今でも、(世の大多数の会社と比較して)そこまで悪い会社ではなかったとは思う。

余談だが、研究室時代にやっていて、今に活きていると思うことが2つあるので書いておく。まず1つ目として、情報を探す時に図書や論文やネット記事など、色んな情報を突き合わせる癖が付いたことがある。研究室で研究テーマを与えられた時は、何をすべきかネットで調べた程度では何も分からなかったので、やがて自然と図書館などへ行くようになった。図書館でも何か情報を探すと本が1棚分くらい出てきたりしたが、分かりそうな本を手にとっては棚に戻し、かろうじて読めそうな本があれば借りたり買ったりして、時間をかけて情報を調べていた。家に帰ればそうして集めた本が何十冊と積まれていて、結局全然読めずに自分はなんて馬鹿なんだと思ったりもしたが、そうして情報を探す経験は、社会人になってから結構役に立ったりした。

2つ目として、研究が進まない時の気分転換として、2016年頃からPythonで数値計算などのプログラムを書いていたことがある(就活の現実逃避の意味でもやっていた)。当時、Blenderなどのオープンソースソフトなどで使われ始め、科学技術計算ツールとしての話題も出ていたので、長く使われそうな言語として学んだのだった(人気が廃れて他の言語を覚え直しになるのは避けたかった)。研究室の中では「研究や就活と関係ないことをやってる変なやつ」と思われていた所もあったと思うが、結果としてPythonはどんどん人気の言語になっていった。その後の仕事でも、VBAよりPythonで処理する方が楽だと感じることがよくあって、ちゃんと活かせる場面が出てきたのは幸運だった。

機械設計の仕事で経験したこと

就職後、機械設計職に就いたということで、まずは3D CADの操作とか、製品の評価試験の方法を学んだりした。周囲の年齢層は学生の時と比べて当然高くなったが、Excelなどパソコン関係の知識に疎い人が結構いることには、新入社員としてはかなり面食らった。しばらくすると、設計職のおじさん達から設計の何たるかを教わる傍ら、パソコンで分からないことがあれば自分がサポートに回るということも時々起きた。ただ、そうした役割関係などは他の会社でも似たようなものだろうと思い、だんだん気にしなくなっていった。

仕事では、何か製品の不具合が見つかった時に、その対策を考えるという所から実務経験をスタートさせた。失敗なども色々したものの、放置系だった研究室とは違い先輩社員からのサポートがあり(逆に1人で試行錯誤していると、もっと相談に来いと言われて戸惑った)、小さな部品の3Dモデルを直しては試作品を作り、評価して工場向けに部品登録する、などの経験を積んでいった。学生の時には研究が全く上手くいかず自信喪失していたが、機械設計の仕事は徐々に成功体験が増えていき、意外と社会人としてやっていけるかもしれないと思えるようになった。

一方で、個人的にショックだったこともあった。それは、学生の時に学んでいた物理シミュレーションの知識が、実務ではそう簡単に役に立たないと分かったことだった。例えば、金属板を打ち抜けば「バリ」が発生するし、曲げれば湾曲して「ダレ」た形状になる。樹脂部品なら金型から取り出せば「かすり傷」が付いたり、収縮すれば「反り」が発生して大きく変形したりする。こうした変形形状は3Dモデルで事前に作ることが難しく、CAE解析などを行うのもコストがかかるし再現はしきれない。そのうち、懸念点があれば「試作品を作って評価するのが早い」とも考えるようになっていた。

とは言え、やがて会社の設計現場に慣れるうちに、仕事の進め方が「勘と経験に頼りすぎなのでは」と思うようにもなった。例えば、とても不安だったことの一つとして、「会社で機械製品を作っているくせに、材料力学に出てくる『安全率』の概念を分かっていない人が多い」ということがあった(作っていた製品は壊れても人命に関わるものではなかったので、安全性の設計について疎い所があったのかもしれない)。例えば、(安全率)=(引張強度)/(許容応力)のような関係とか、安全率が1を下回ったら理論上壊れるみたいな、機械系の学科を出ていれば知っていそうな話を知らないのだった。

後で入社した後輩からは、「力学的エネルギーって、運動エネルギーと位置エネルギーを足したものでしたっけ?」と中学レベルのことを聞かれたこともあった。こんな状態なのに設計者にもCAE解析をさせて、安全率がいくつだったか聞かれることもあった。他の人の解析を見てみたら、案の定めちゃくちゃな解析条件を設定していて、せめて人によるバラつきを無くすための取り決めを作るべきでは、などと思った。そう思っていると「解析のノウハウ集みたいなの作ってよ」と上司から言われ、自分なりに情報をまとめたりしたが、まあそうしたマニュアル類はすぐに忘れ去られる運命にあり、変化はほぼ無かったと言っていいと思う。

今までどうやってモノを作れていたのか疑問にも思ったのだが、どうもひたすら評価試験をして、トライ&エラーで製品を作ってきたようだった。そんな下地で会社がIoTとかAIとか言い始めた時には、馬鹿じゃないかと言いたくもなった。ただそれでも、会社は一応プライム市場に上場できていて、世界中に製品を販売している実績はあった。入社数年目の自分でも、ボーナスは手取りで50万円程度は入っていて、ニッチ産業でシェアを取っている優位性とはそんなに凄いものなのかと思ったりした。

一方でやがて、自分なりに試行錯誤をして、業務の進め方のノウハウとか、「思想」のようなものも出来ていったりした。例えばある時、3Dモデルを作っていないような初期段階でも、材料力学などを使った手計算で製品形状のアタリを付けられると、その後の設計の参考にできて便利だったことがあった。特に、計算式をExcelに入力しておけると楽で、わざわざ3Dモデルを修正してCAE解析までしなくても、どの寸法をどう変えたらどのくらい変形しそうかを推測できたりした。これは今思うと、1D CAEに近いことをやっていたと思うが、「こう考えると便利なのでは」と思うツールや思想がいくつか身に付いたのは良かったと思う。

前職の環境で良かった点、悪かった点

そうして何年か働いている内に、職場で良いと思う点、悪いと思う点などが、いくつか出てくるようになった。まず、良かったと思う点を書いてみる。

  • 会社はもの凄く大きい訳ではなかったので、幅広い業務を経験できた。CADでの図面作成も製品の評価試験もやったし、金型部品や試験装置の外注などもやった(ただし、事務作業など雑務も大量にやらなければいけなかった)。
  • CADでの図面作成については、未だに2D CADで描いている会社も多いらしいのだが、一応3D CADでモデルを作ることをしていたので、3Dモデルで干渉チェックなど評価してから図面を作る、という設計プロセスを経験できたのが良かった。
  • まだ中小企業だった頃の牧歌的な雰囲気が残っていて、上司を説得できれば割と色んなことができた(ただし、何をどこまでやれるかは、上司によって変わりやすかった)。
  • 統計やデータサイエンス的な取り組みをやれる時間があった。職場の業務改善の取り組みとして、開発費などを予測したいという話が挙がったことがあったが、ExcelやPythonを使った回帰分析などを学ぶきっかけになった。

次に悪かった点を挙げていく(他の会社でも当てはまりそうな内容も含むが、とりあえず羅列している)。

  • 投資をしなさすぎる(業務関係):試験機がボロボロで更新されていなかったり、2020年頃でもWindows XPを使っている人がちらほらいたりした。CADも古くて使いにくく、環境変数を編集しないと使えない機能があったり、取引先のデータを上手く読み込めない時に手作業で直したりしていた。そのように無駄な工数も発生していたので本当は設備更新したいが、「誰がやるか」が問題になって対応が先送りされていた(自分が外注して試験機を更新したことはあった)。
  • 投資をしなさすぎる(建物関係):勤務先の建物もボロボロで、雨が降ると雨漏りで壁紙が剥がれてきたり、エレベーターの下に雨水が溜まったりした。また、トイレがすぐに詰まって月に何回も壊れたり、エアコンが壊れて建物全体が何日も灼熱になったこともあった。社内に対しては「我慢しろよ」で済むかもしれないが、インターンシップでの学生の反応はもちろん悪かった。
  • 必要なデータベースを作れていない:PLM(部品管理システム)などに必要な情報が入っておらず、UIも使いにくくミスや修正がよく起きていた。そういうシステムも変えないと仕事が効率化されないと感じていたが、社内でそうしたデジタル変革を専門で行う人や部署は無かった(情シスはいたが設計開発部門の業務システムまでは入り込んでこない)。試作品にかかったコストなども、活用できる形でデータベースを作る文化は無かった(まあ情報の更新は面倒なことではあるが)。
  • 技術開発の時間を十分取れていない:上に挙げた話も関係するが、「過去製品の不具合対策などに追われる」→「開発中の製品を検討する時間が削られる」→「新たな不具合を誘発する」という負の連鎖が起きていた。本当は先行的な技術開発などもしたかったが、不具合対策など緊急性の高い業務があればそれが優先になり、時間的にも金銭的にもゆとりがほとんどなく、先行的な取り組みをする意欲がある人も少なかった。特に、一人で複数プロジェクトを掛け持ちする部署だと、あまり難しいことやりたくない人も多い印象があった。専門性が高い業務を楽にこなすには、ひとまず2人以上で作業分担できればいいと思っていたが、専門的な業務だとやりたい人もやれる人も少ない、みたいな問題が起こりがちというイメージもあった(これは解決が難しいかもしれない)。
  • いい加減な企画に設計が振り回される:仕様としてどういう製品を作るのか、どのような理由でその仕様にしたのか、といった上流工程(仕様・デザイン)の決定が遅い上にいい加減で、自分まで仕事が来ずに手待ちが起きることもよくあった。曖昧な情報から構造検討などはするのだが、回路部門など他部署とも連携して動けないと、検討内容もほとんど妄想になってしまう。一度決まったはずの仕様がひっくり返ったり、仕様を見直す中でそもそも開発中止になることもよくあった。本当に作る意味があるか分からない製品を作らされて、急な残業が増えたりすることには腹が立つようになった。ある程度は仕方ないことだとは思うが、製品のビジョンが甘いために、仕様を決めるのに時間がかかるし、製品開発の途中で販売先がブレたり、販売台数も変わって単価も変わったりする、ということが起きているのではと思った。加えて、変な仕様で製品開発をさせられた挙句、問題が起きれば技術のせいになり企画の人間は責任を問われない、という構造があるのも問題だと思った。
  • 業務改善のやり方が古すぎる:組織末端(小集団)の業務改善には熱心だが、会社全体でのデジタル改革など、大きな仕組みを変える動きはほぼ無く、DXという言葉も聞いたことがなかった。業務改善の取り組みは部署ごとで年に数回発表していたが、「業務改善はこういうプロセスに従いなさい」という形式的な進め方(QCストーリー、8STEPなどと言うもの)に従う必要があり、新しい分析手法などを取り込みにくかった。課題(ギャップ)から目標を設定した後、方策を実施する中で新たな問題が出てきたりするのが常だと思うが、そういう試行錯誤を無視して一直線のストーリーを作らされるのが辛かった。
  • 社内ルールが前時代的:昭和に作った社内ルールや評価基準が沢山あって、作った根拠が不明だったりした。自分が入社した時は、定時終了から1時間半後までは残業を申請しないという謎文化まであった。内部監査の時にこっそり自分が指摘したら、社内で問題になって残業代を付けるようになった(自分の行動によって社内ルールを変えられることがある、と学べたのは良かった)。ただ、早朝の出社については、退職まで残業代が付かなかった(アホらしいので始業ギリギリに出社して、始業まで寝たりしていた)。
  • 新しい制度などへの理解が無い:社員からフレックスタイム制の要望が出て試験的に導入したことがあったが、労働時間がむしろ増えたりして会社側のメリットはないという結論になり、本格導入が見送られた(人材を集める意味でも導入すれば良かったと思うが、目先の費用対効果を見られたのが残念だった)。コロナ禍の時期にはテレワークも一応できたが、コロナが収まってからは廃止された。コロナを通じて会社に変化が起きるのではと期待した時もあったが、結局はほぼ前と同じ姿に戻ってしまった。
  • 技術的な話が通じにくい:最近のCAE技術や機械学習などの話をしても、ほとんど誰にも通じなかった。日々の仕事に追われて、新しい話題を追う気のある人が少なかった。ある時に会社で使うCAE解析の代替ソフトを検討した時、「新しいソフトは元のソフトと同じ結果が出せるのか?」と聞かれたことがあったが、「そもそも今でも、条件設定のやり方に個人差があるし、同じ結果にはならないと思います」とポロっと言ったら、「じゃあ何のために解析してるんだ」と周りから怒られたことがあった。個人差のあるCAE解析をしている理由はこちらが聞きたかった。
  • ネットでの調べ物が遊びだと思われる:自分は何か調べ物をする時に、J-STAGEなどで論文を探したり、本の情報を知りたい時にはAmazonなどで試し読みしたり、個人のサイトなどをネットサーフィンしたりすることがある。だが、そうした調べ物の習慣がない人からすると、ネットを何時間も見てる様子は遊んでいるように見えるらしかった。なので、ネットで調べ物をしたい時は見つからないようにコソコソやり、しばらくネットを見ていたとバレた時には(割と真面目な調べ物でも)怒られるという目に遭った。Excelの関数について調べるくらいならあまり言われなかったが、技術的な話題を調べている時に白い目で見られるのはどうかと思った。
  • 優秀な人が辞めていった:入社した頃に参考になるなと思っていた優秀な人達が、時間が経つにつれてほとんど辞めていった。困った時に考えるヒントを貰える、と思っていた人達がいなくなると、少し目標を失った気にもなっていった。
  • 定年まで今と同じように働けると思えない:高校生の頃の話になるが、社会科の先生から「学生の時に人気ある会社に入れたとしても、40年経ったら業界が衰えているかもしれない。例えばかつての造船業はとても力があったが、今は見る影もない」といった話を聞かされたことがあった。この話はずっと印象に残っていて、自分の転職にも影響を与えていると思う。『未来の年表』という本があるが、日本の将来予測などを知った時に、普通に機械設計をしていても人手が劇的に増えることはなさそうだし、今の会社のままでは働き方改革などが進むようにも見えなかった。ぬるま湯の所もあるが、環境が古いゆえにトラブルが多発している職場にいて、40歳過ぎてから転職しようとして難しくなるよりは、今のうちに少し専門的な仕事にチェンジする方が正解であってほしい、と思うようになった(50歳くらいになってから、やりがいのない面倒な仕事ばかりやらされる状態からは、なんとか逃げたかった)。

色々書いたが、似た職種の人と話をすれば、仕事の悩みなどは共通点も多かったように思う。ただの愚痴に近い話もあるが、会社が利益を回収できなさそうなことに金かけてて不安だとか、同業種の製品を見たら細かい所まで見てしまうとか、新モデルを次々と作ろうとすることに腹が立つ、等々……。そうしたこともあり、「他の会社でもありそうな悩み」を理由に転職するのは止めようとは考えていた。

それとは別に、製造業の仕事に就きたいという気持ちは割と昔から持っていたが、金属加工の会社にいる友達の話を聞くと、切断機で手の指を無くした人とか、荷物を落として足の指を粉砕骨折した人の話とかを聞いて、製造業で起きうる危険をあまり考えずに就活してしまったのは迂闊だったと思った。

新卒で働き始めた時点では、そのうち転職しようという気はなく、なんだかんだ定年まで働き続けるだろうと思っていた。だから会社で不満に思うことがあっても、まずは自分の工夫でなんとかしようとする気持ちはあって、改善活動なども割と積極的にやっていたと思う。しかし、何年か働いているうちに、自分の工夫では何ともできない悩みが出てくるようになった。上に挙げた「悪かった点」はその一例だが、特に社内の意思決定プロセスに問題があると思うようになった(ちなみに会社は同族経営で、社長はITに弱いワンマンな人だった)。

そうした中で、すぐに転職する気は無くても、いざという時には転職できるようなスキルを身に付けて、転職という選択をできることは重要ではと思うようになった(せめてスキルを付けて、会社で意見を言いやすくなりたいと思った)。実際、自分の努力で色々と改善できた所もあったのだが、経営層の姿勢など会社全体の空気までは変えようがなかった。自分の努力ではどうしようもないことが沢山あると悟る内に、今の会社のままでは不満が解決しない(少なくとも転職しなければいけない)と考えるようになった

コロナ禍からの出来事

「いつから転職を考え始めたのか」と聞かれることがあるのだが、真面目にはっきり書くのは難しいことだったりする。市場価値を測るためとか言って、なんとなく転職サイトに登録するくらいは早くからしていたが、オファーとして来るのは派遣の企業が多かったりして、基本的に給料が下がるので転職のメリットは無いと考えていた。

2020年、新型コロナが流行った直後は会社の業績が赤字になり、給料がどうなるかなど先が見通せない事態が起きた。ただ、ソーシャルディスタンスなどが重視された影響で、曲がりなりにもテレワークの制度が整えられ、今まで出来ていなかったデジタル化を進めようという機運も高まっていった。正直な所、会社で起きた変化については良いことも多かったと思っていて、簡素化やデジタル化の動きを社内で見る度に人知れず感動したりしていた。会社自体は保守的だから元に戻そうとする人も多かったのだが、コロナという革命家が半年おきくらいでやってくる度に、新しい取り組みが延長されることになった。

しかし、コロナ禍が落ち着いた頃にはテレワーク制度が廃止となった。主な廃止理由としては「テレワークには課題が多く生産性が下がるから」「テレワークが難しい部署が不公平だから」というものがあったが、そもそもとして今の仕事の進め方に多くの問題があり、テレワークよりも元々の業務課題の方が本質的ではないかと思ったりした。テレワークは一切廃止まではしなくても、必要に応じて選べれば良いと思っていたが、そうした制度の改変などに後ろ向きな姿勢が嫌になっていった。

振り返ると、たとえ設計開発の仕事に就いていても、紙の処理とか変なデータ入力が多ければ、その作業にかなり時間を取られてしまう。そういう業務課題に取り組む仕事も、ある意味では技術開発みたいなものではと思ったりしたが、そのような取り組みをサポートする部署なども存在していなかった。

実際に業務で経験したこととしては、自分が生まれる前に設計された部品を修正することになった時があった。この時、部品の図面が工場で持っている紙媒体のものしかなかったため、CADで図面を作る所から作業することになり、多くの工数を使ったことがあった。これへの対策方法は色々あると思うが、特定の部署ではなく全社的に取り組まないと無理な話なのだろうと思った。

「業務改革なんかしてる暇ない」という話はどこの会社でもあるかと思うが、長い目で見れば一時的に本業の仕事の方を減らしてでも、システム構築とかに取り組むのも重要ではと思うようになった。「急ぎではないが投資としてやっておきたいこと」を少しずつでもやれておくと、業務トラブルを未然に防げるなど利点が多いように思った。一方で、会社の技術レベルが低く、先進的な取り組みを行うのに限界を感じてもいた。不具合が起きた場合でも、欲しい情報を測るための測定機器がほとんどなく、そうした設備投資についても不満だった。

このように仕事をする内に、やりたい仕事をやれる会社よりも、市場調査に基づいて意思決定をできているかとか、新しい製品や技術や設備などに投資してるかとか、方針がきちんとある会社の方がストレスなく働けるのでは、とも考えるようになった。個人的には元々、あまり難易度の高い仕事はしたくないと思っていたが、もう少し専門的な業務ができる会社を目指してもいいのでは、などとも思うようになった。

また、前職では正社員が1000人を超えていたが労働組合は無く、社内の共済会のようなものが実質的に社内の声を代表していたのだが(労働基準法では一応、労働者の過半数の代表者を選ぶことが取り決められている)、賃金交渉などの取り組みも無いに等しかった。低成長の時代に慣れていた頭ではそれでも良かったのだが、コロナ禍の後で経済が回復し物価が上がり始めると、社員からの賃上げ圧力が無いことのデメリットも感じるようになった。

特に転職に影響を与えた出来事

特に転職に影響を与えた出来事としては、会社の不具合対策のためのリコール業務を手伝ったことが大きかったと思う。とある製品でリコールを行うことが決定し、アフターサービスの人間だけでは手が回らないので、技術の人間も含めて応援へ行くことになったことがあった。自分もまずはコールセンター業務の応援に行き、リコール対象の家庭からの電話を受け、製品交換の日時のアポイントを取る作業から手伝った。その後、特定の地方を車で回り、製品交換が決まった家庭を訪れて、交換作業を行う業務にも派遣された。

自分が交換作業を行うことになった土地は、福島県だった。海沿いを担当するか、内陸を担当するかを決めることになり、せっかくなのでと自分は海沿い担当を申し出た。福島県の海沿いは、あの震災から10年近くの時間が経っていたが、なお数え切れない程多くの土木工事が行われており、道行く道にはまた数え切れない程多くのダンプカーが土砂を積んで行き交っており、そこら中にある放射線計はまだまだ放射線量が高いことを示していた。

交換対象となった家庭へ行くと、最近作られたと思われる新しい住宅地の中にあることがあり、津波で家を流された後に新築したのではと想像できることがあった。そのような家庭に「すみません、製品交換の予定に伺った者ですが」などと名乗り出るのはなんとも気が重く(海沿い担当を選んだのは自分なのだが)、申し訳ない気持ちが込み上げてきた。また別の家庭へ行こうとすると、津波で流されたと思われる海岸沿いには果てしなくただの草原が広がっており、時折車を停めると犠牲者の慰霊碑が立っていることもあり、同じ名字で若い親子と思われる年齢の犠牲者名が刻まれていたりした。そのような浜辺近くで海風に当たりながら、休憩のために一息付いていたりすると、「自分はこのままでいいのか」という気持ちが自然と湧き上がってきたりした。

リコールの業務を終えて、改めて製品開発の仕事に戻ると、今の状態では不具合を繰り返すと思わざるを得ない状況に、再び何度も遭遇した。このままでは状況は何も改善せず、しょうもない理由のリコールが繰り返される。自分でできることは自分なりにやったつもりだが、これ以上できることにも限界がある。そして、自分が辞めなくても、他の誰かが先に辞めたら業務が成り立たなくなるのでは、という想像もするようになった。他の誰かが辞めてその後が立ち行かなくなるなら、その前に自分が辞めないと自分の身も持たないのではないか……。そのような考えから本格的に転職したいと考えるようになった。

一方で、初めての転職では何が起きるか想像できず、自分なりに考えを持ちたいと思うようになった。自分の会社は何が問題なのか、それがなぜ起きているか、改善するには根本的に何を変えるべきなのか、というメモのようなものを書いてみた。一通り書き出してみると思考が整理されて、転職活動を進める材料を得られた気がした、そして、転職活動を始め、転職先がある程度決まった段階で、本当に予想通りに大きなリコールが新たに発生した。もはやその時には、転職の意思は揺らぎないものになった。

ざっくり、このくらいが転職を決意するまでの情報になる。文章がかなり長くなったので、転職活動で行ったことや転職後の話は、また記事を改めたいと思う。

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