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生成AIとの適切な距離感

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ここ2か月ほど個人開発でClaude Codeを使用して、生成AIとの距離感について考えたことをつらつら書きます。

生成AIに「命令」してもよいか

あくまで私の個人的な感覚の話です。

今の生成AIは「それっぽいデータ生成器」でしかありません。
プログラミング言語で同じ命令を1000回実行すれば、1000回同じ答えを得られます。しかし、生成AIは下手すると1000個の違う答えを返してくる可能性があります。
単純な自動化にはやや不向きですが、ある意味単純なプログラムより人間的です。

「命令」というのは「〇〇を必ず達成しろ」と誰かに言う、ということです。
命令された側は、〇〇必達の責任を負います。逆に言えば、命令された側には〇〇を必ず達成できるだけの能力が備わっている必要があります。

能力を見極める責任は、原始的に命令する側が負います。もし能力がない人間に命令を出して失敗しても、それは命令を出した側の責任となります(現実にはそうならないことも多いですが)。

さて、生成AIに何かを「必達」する能力があるかというと、現時点ではありません。
1+1=2という簡単な算数ですら、100万回お願いしたら何回か間違えるのでは?という気がします。
それくらい不安定で、頼りないのが今の生成AIです。

これは、法律上の「責任」というよりも「AIに何かを任せて失敗したとき、AIが悪いと思えるか」という心情的な話になります。今の生成AIでは、失敗しても「まぁ所詮AIだしな……」で終わるし、期待通りに動けばラッキー、変な動きをして当たり前くらいなものです。

なので、責任能力のない生成AIに「必達」を求める「命令」はしてはいけないというか、原理的に「できない」と思います。

murmur coding

"murmur"は英語で「つぶやく」「ささやく」というような意味です。
"vibe coding"に代わって"murmur coding"と呼んだ方がいいのではないかな、と最近思い始めています。

人がすべてコードを書いていた時代から、AIがコードを書き人はAIに命令するだけ(vibe coding)の時代に変わりつつあります。
しかし、先ほど述べた通り、AIに「命令」(「指示」といってもよい)することはできません。

仮にAIへのプロンプトを「命令」だと考えてしまうと、おそらくAIの生成データに対してとても腹が立つと思います。
なぜなら、AIの生成データは期待外れのことが多いからです(AIの生成物が素晴らしく見えるのは、単にAIに対して低い期待しか持っていないから)。
もちろん、期待通り、あるいは期待以上の成果物を生成することもありますが、それはあくまで偶然の産物でしかありません。

能力に裏付けられた、信頼できる成果物とは呼び難いはずです。

なので、「命令」するのではなく「つぶやき(murmur)」をプロンプトに打ち込む方が、理に適っています。
自分のやりたいことをつぶやくと、親切なAIが勝手にやってくれる「ことがある」、くらいの距離間で生成AIと接すれば、イライラすることも減るのではないでしょうか。

私もここ数週間は「〇〇したい」「〇〇をやりたいなぁ~」など、自分の希望をできるだけソフトに投稿するようにすることで、使い始めの頃に比べて腹が立つ頻度が大分減りました。
自分のやりたいこと(WANT)にフォーカスするので、「従わせよう」「思い通りにコントロールしよう」という意識が弱まり、幸福度が上がった気がします。

苦労は手放し、責任は手放さない

AIに限らず道具・ツールを使うときのスタンスとして「苦労は手放す、責任は手放さない」というのが重要だと改めて思いました。
ツールに作業を任せることで、これまでの苦労を手放すことはできます。しかし、責任は変わらず自分で負わなければなりません。
人が人に提供するものには責任が伴うし、作り手は責任を負うだけの能力を備えていないといけない。そこは「それっぽいものは作れるが、具体的な人の期待に応えることはできない」AIにはまだ代替されない領域のはずです。

Claude Codeが出てきたとき、エンジニアの仕事がなくなるのでは、と怯えていたのですが、ここ最近先述のようなことを考え、また各モデルプロバイダートップのインベスター向けマーケティング?的なビッグマウス(「超知能」とか「ホワイトカラーの代替」とか)に逆に頭を冷やされたりして、もうしばらくは大丈夫だろうと考えるようになりました(能天気すぎるかもしれませんが……)。
何せ今のAIはまともに報連相もできませんからね。

憶測と決めつけで勝手に仕事を進めて、質問したら事実確認もせず嘘ついて逃げようとする[1]存在に仕事なんて任せられません。
「WANTをつぶやいたら実現してくれるかもしれない玩具」くらいの距離感で、自己責任で使うという感覚がちょうどいいと思います。

脚注
  1. ポチョムキン理解 ↩︎

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