アイデアを言葉にする(Putting Ideas into Words)
これは ポール・グレアム翻訳 Advent Calendar 2024 10日目の記事です。
- 英語原文:Putting Ideas into Words
- Paul はエッセイの翻訳を許可しています
- 翻訳原稿は https://github.com/spinute/zenn/blob/master/articles/7af2a42ff85f9d.md で公開しています(修正・改善のための issue や PR を歓迎します)
2022年2月
何かについて書くとき、たとえよく知っていることでも、思っていたより理解できていなかったことに気づきます。アイデアを言葉にすることは厳しい試練であり、最初に選んだ言葉はたいてい不適切です。正確に表現するためには文章を何度も書き直す必要があります。さらに、アイデアは曖昧なだけでなく不完全でもあります。エッセイに含まれるアイデアの半分は書いている最中に思いつくものです。それこそが私がエッセイを書く理由の一つです。
何かを公開すると「その考えをもともと持っていた」と思われるでしょう。これがあなたのアイデアで、今それを表現しただけだと。しかし実際はそうではありません。アイデアを言葉にする過程でアイデア自体が変化するのです。そして、それは公開されたアイデアだけではありません。修正不可能の問題が判明して捨てられるアイデアもあるはずです。
アイデアの具体的な言語化が文章を書く際の唯一の課題ではありません。本当の試練は自分が書いたものを読むことです。自分の頭の中にある内容ではなく、書かれた文章だけを見た中立的な読者として振る舞わなければなりません。その読者の視点から正しさや完全さを判断するのです。努力すれば完全に部外者として自分の文章を読めますが、たいてい難しいものです。何度も推敲を重ねてようやく「部外者」の目を通せるようになります。「部外者」は合理的なので、彼の求めるものを理解すれば必ず乗り越えられます。触れていない要素があったり説明が不十分だったりして彼が納得していないなら、その要素を追加したり、さらに説明を加えたりします。この過程では文章の美しさを犠牲にすることもありますが仕方ありません。それでも、できる限り良い文章を作り上げて「部外者」を納得させなければなりません。
ここまでの話はそれほど異論を呼ばないでしょう。実際に文章を書いた経験がある人ならこの感覚に共感するはずです。考えが完璧に整理され、すらすらと言葉になる人もいるかもしれませんが、私はそんな人を見たことがありません。もし誰かがそう主張するなら、それはむしろその人の思考の浅さを示しているのではないでしょうか。映画でよくある場面があります。何か難しい計画を立てていると言いながら、詳しく聞かれると頭を指して「すべてはここにある」と答える人物です。映画を見ている観客は皆その意味を理解しています。その計画は曖昧で不完全か、致命的な欠陥があるということです。せいぜい「計画を立てるための計画」程度のものでしょう。
明確に定義された分野では頭の中で完全なアイデアを組み上げられます。例えば、チェスを頭の中でプレイすることはできますし、数学者も一定の範囲内なら頭の中で数学を展開できます。ただし、ある程度の長さの証明については書き出すまで確信が持てないようです。しかし、これはあくまで形式的な言語で表現できるアイデアに限られます。[1] このような人々がしていることは、実は頭の中でアイデアを言語化しているのかもしれません。私も多少は頭の中でエッセイを書くことができます。散歩中やベッドで横になっているときに思いついた段落が、最終版でもほとんど変わらずに残ることがあります。しかし、実際にはその時も「書いている」のです。書くことの精神的な部分を行っているだけで、物理的に指を動かしていないだけなのです。[2]
ある分野について深い知識を持っていたとしても書く価値があります。むしろ、知っていることを説明しようとするとさらに多くのことを学べます。私は Lisp プログラミングやスタートアップなど、よく知っている少なくとも二つの分野の文章を書いていますが、どちらからも多くを学びました。説明しようとする中でそれまで意識していなかったことに初めて気づくことが何度もありました。そして、この経験は特別なものではないと思います。多くの知識は無意識のうちに蓄積されており、むしろ初心者よりも専門家の方が無意識の知識の割合が高いものです。
私は、書くことがすべてのアイデアを探求する最善の方法だと言っているわけではありません。建築に関するアイデアがあるなら、実際に建物を建てることが最善の探求方法でしょう。しかし、他の方法でアイデアを探求して学ぶことがあっても、それについて書くことで新たな発見があるはずです。
もちろん、アイデアを言葉にすることは書くことだけを意味するわけではありません。従来通り話すことでも可能です。しかし私の経験では書くことの方がより厳しい試験となります。最適な言葉の順序を確定させなければならず、声の調子で意味を補うこともできません。また、会話では不自然に感じるほど集中して考えることができます。エッセイに2週間かけて50回推敲することは珍しくありませんが、会話でこれをやったら精神的な問題があると思われるでしょう。もちろん真剣に取り組まない人には書くことも話すことも意味がありませんが、正確に仕上げたいと思うなら書く方がより大きな挑戦となります。[3]
私がこの当たり前のことをここまで強調するのは次に述べる衝撃的な事実があるからです。アイデアを書き出すことでそれがより正確で完全になるのであれば、その主題について書いたことがない人は、そのことについて完全なアイデアを持っていないということです。書かない人が重要な事柄について完全なアイデアを持つことはないのです。
当人たちにはそうは感じられないでしょう。特に自分の考えを批判的に検討する習慣がない場合は。アイデアは完全だと思い込んでいるかもしれません。しかし、言葉にしようとして初めて不完全さに気づくのです。この試練を経なければ完全なアイデアを持つことができないだけでなく、その不完全さに気づくこともできません。
アイデアを言葉にすることがそのアイデアの正しさを保証するわけではありません。それどころか正しさからはかけ離れているかもしれません。しかし、十分条件ではないにせよ間違いなく必要条件ではあります。
謝辞
トレバー・ブラックウェル、パトリック・コリソン、ロバート・モリスに草稿を読んでいただき、感謝いたします。
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