🔥

異端の復活(Heresy)

2024/12/02に公開

これは ポール・グレアム翻訳 Advent Calendar 2024 9日目の記事です。


2022年4月

私が生きている間に目撃した最も驚くべきことの一つは「異端」という概念の復活です。

ニュートンの素晴らしい伝記を著したリチャード・ウェストフォールは、ニュートンがトリニティ・カレッジのフェローに選ばれた際のことをこう書いています:

ニュートンは快適な生活を保証され、好きなことに専念できました。フェローの地位を維持するには、犯罪、異端、結婚という3つの禁止事項を避けるだけでよかったのです。[1]

1990年代に初めてこれを読んだ時は中世的で面白いと感じました。異端を避けなければならないなんて奇妙だと。しかし20年後に読んだ時、それは現代の職場の状況そのものでした。

解雇の原因となる意見は増え続けています。解雇する側は「異端」という言葉を使いませんが、本質は同じです。異端には二つの特徴があります:(1) 真偽よりも重視されること (2) 発言者のそれまでの功績をすべて帳消しにしてしまうことです。

例えば誰かの発言を「x主義的だ」と非難する時、それは暗に議論の終了を意味します。そう言った後はその発言が真実かどうかを検討しません。このようなレッテル貼りは会話における例外処理のようなものです。議論を打ち切るための手段として使われます。

このようなレッテル貼りをよくする人と話す機会があれば、大切なものまで一緒に捨ててしまっているのではないかと問いかけてみるのもいいでしょう。ある発言が「x主義的」であると同時に真実でもあり得るのでしょうか?「はい」と答えれば真実を禁じていることを認めたことになります。それは明らかすぎるので多くの人は「いいえ」と答えるでしょう。しかし「いいえ」と答えるならその誤りを指摘するのは簡単です。実際にはそういったレッテルは発言の真偽とは無関係に貼られているからです。

最も明確な証拠は同じ発言でも話者によって「x主義的」かどうかが変わることです。真実はそういうものではありません。ある人が言えば真実で別の人が言えばx主義的(つまり偽)になるようなことはないはずです。[2]

異端のもう一つの特徴は普通の意見と違ってそれまでの功績をすべて無に帰してしまうことです。歴史の知識や音楽の好みといった一般的な事柄では意見の総合的な評価で判断されます。しかし異端は質が違います。天秤にウランの塊を落とすようなものです。

かつて(そして今でも一部の地域では)異端の罰は死刑でした。模範的な人生を送っていても例えばキリストの神性を疑う考えを持っていれば火刑に処せられました。今日の文明国では異端者は比喩的な意味で処刑され職を失うだけですが構図は同じです。異端は他のすべてを無効にしてしまいます。この10年間で何人もの子どもの命を救った人でもある意見を表明すれば即座に解雇されます。

これは犯罪を犯した場合とよく似ています。どれだけ立派な生活を送っていても犯罪を犯せば法の裁きを受けます。それまでの生活が模範的でも罪の判断には影響しません。

異端は犯罪のように扱われる意見です。単に間違っているだけでなく罰するべきだと思わせるものです。ある種の異端は実際の犯罪以上に厳しく罰する欲求があります。極左の多くは犯罪者の更生を強く支持していますが(私もその考えに賛成です)ある種の異端を犯した人は二度と仕事に就くべきではないと考える傾向があるようです。

表現することで罰せられる意見は常に存在してきました。しかし数十年前と比べて現在はその数が驚くほど増えています。なぜでしょうか?なぜこの時代錯誤な宗教的概念が世俗的な形で復活したのでしょうか?

不寛容の波を起こすには二つの要素が必要です。不寛容な人々と彼らを導くイデオロギーです。不寛容な人々は常に存在します。どんな大きな社会にもいるため不寛容の波は突然に起こることがあります。彼らが動き出すにはきっかけとなる何かが必要なだけです。

私は以前の「エッセイ」で攻撃的な同調者について述べました。簡単に言えば人々は(1) 自立的か同調的か (2) どの程度攻撃的かという2つの軸で分類できます。攻撃的な同調者たちが正統性の執行者となります。

彼らは通常、局所的にしか目立ちません。現在のマナーやルールに反することがあると真っ先に文句を言い出す人々です。しかし時として多くの攻撃的な同調者たちが一つのイデオロギーの下に結集することがあります。そうなると大きな問題となります。群衆心理が働き参加者それぞれの熱意が他者によって増幅されるからです。

20世紀で最も悪名高い例は文化大革命です。毛沢東が政敵を弱体化させるために始めたものですが文化大革命は実質的に自然発生的な現象でした。毛沢東は「我々の中に異端者がいる。見つけ出して罰せよ」と言っただけです。それだけで彼らを奮い立たせるのに十分でした。彼らは犬がリスを追いかけるような喜びでそれに飛びつきました。

同調者たちを結集させるにはイデオロギーが宗教的な性質を持つ必要があります。特に信者がその「純粋さ」を示すための厳格で恣意的な規則が必要です。そしてその規則を守る者が守らない者よりも道徳的に優れているという信念を植え付けることが重要です。[3]

1980年代後半、米国の大学でこの種の新しいイデオロギーが登場しました。それは強い道徳的純潔性を持っており攻撃的な同調者たちはいつもの熱意でそれに飛びつきました——特にそれまでの数十年間で社会規範が緩和され禁止するものが少なくなっていたためです。その結果生じた不寛容の波は文化大革命に似た形を取りましたが幸いにして規模ははるかに小さいものでした。[4]

私がここで具体的な異端に言及しないのは意図的です。一つには異端狩りをする人々が昔も今も使う常套手段として彼らのアイデア抑圧方法を批判する者を異端として非難することがあるからです。実際この手法は非常に一貫しておりそれを使って異端狩りをどの時代でも見分けられるほどです。

これが具体的な異端を挙げないもう一つの理由です。このエッセイが将来も有効であってほしいからです。そして残念ながらきっとそうなるでしょう。攻撃的な同調者たちは常に我々の中にいて禁止すべき何かを探しています。彼らに指針となるイデオロギーを与えさえすればいいのです。そして現在のものが最後になる可能性は低いでしょう。

攻撃的な同調者は右派にも左派にもいます。現在の不寛容の波が左からやってきたのは単に新しい統一的なイデオロギーが左から生まれたからです。次は右派から来るかもしれません。それがどんなものになるか想像してみてください。

幸いなことに西洋諸国での異端の抑圧は昔ほど厳しくありません。ここ数十年で公に表明できる意見の幅は狭まりましたがそれでも数百年前よりははるかに広いのです。問題は変化の速さです。1985年までは意見の自由は着実に広がっていると考えられていました。1985年時点で未来を予測した人々は表現の自由がさらに拡大すると期待したでしょう。しかし実際には縮小したのです。[5]

状況は麻疹のような感染症に似ています。2010年時点で未来を予測した人々は米国の麻疹患者数が減少し続けると考えたでしょう。しかし反ワクチン主義者のために増加に転じました。絶対数はまだそれほど多くありませんが問題は変化の方向性です。[6]

どちらの場合も、どの程度心配すべきか判断が難しいところです。一部の過激派が子供のワクチン接種を拒否したり大学での講演を妨害したりすることが本当に社会全体にとって危険なのでしょうか?彼らの行動が他の人々の生活に影響を及ぼし始めた時点で警戒すべきです。そしてどちらの場合もそれはすでに起きているように見えます。

したがって意見の自由を守るためにある程度の努力を払う価値はあると考えています。このエッセイが現在のアイデア抑圧の動きに対する社会の抗体となることを願っています。それが本当の目的です。異端という概念を無効化するにはどうすればよいでしょうか?啓蒙時代以来、西洋社会はそのための多くの方法を見出してきましたがまだ他にも発見できることは間違いありません。

全体的に私は楽観的です。表現の自由は過去10年間で後退しましたが長期的には改善しています。そして今のところ不寛容の波が頂点を迎えている兆しがあります。私が話す自立的な人々は数年前よりも自信を持っているようです。最近では一部の指導者たちさえ行き過ぎではないかと疑問を投げかけ始めています。若者の間では文化的な潮流もすでに変化しています。私たちに必要なのは抵抗を続けて波を収束させることです。そして次の波に備えて新たな対抗手段を開発できるでしょう。

謝辞

Marc Andreessen、Chris Best、Trevor Blackwell、Nicholas Christakis、Daniel Gackle、Jonathan Haidt、Claire Lehmann、Jessica Livingston、Greg Lukianoff、Robert Morris、そして Garry Tan が草稿を読んでくれたことに感謝します。

正統性の表面的な要求は徳の手軽な代用品となります。そしてそれこそが悪人が正統性に魅力を感じる理由の一つです。自分がどれほど悪い人間でも正統であればそうでない人々よりも優れているのです。

脚注
  1. 正確には「ニュートンの伝記」です。ウェストフォールは「Never at Rest」という詳細版と「The Life of Isaac Newton」という簡潔版の2冊を書きました。どちらも素晴らしい作品です。簡潔版は読みやすいですが詳細版には興味深く時に非常に面白い細部が書かれています。この引用箇所は両方の版で同じです。 ↩︎

  2. もう一つのより微妙だが同様に説得力のある証拠として、x主義的という非難には決して程度の差が付けられないことが挙げられます。x-ist(差別的だ)やy-ist(別の差別的概念)という表現に「おそらく」や「ほぼ確実に」といった修飾語が付くことはほとんどありません。もしx主義的という非難が本当に真実を指しているなら「間違っている」に「おそらく」が付くのと同じように「x-ist」にも「おそらく」が付くはずです。 ↩︎

  3. ルールは厳格である必要はありますが過酷である必要はありません。そのため最も効果的なルールは教義の細部や信者が使うべき正確な言葉遣いといった表面的な事柄に関するものです。このようなルールは非常に複雑にできる上大きな犠牲を要求しないため潜在的な信者を遠ざけません。 ↩︎

  4. ある意味では二つの波があったと言えます。最初の波は2000年頃には落ち着きを見せましたが2010年代にソーシャルメディアの影響で第二の波が起きました。 ↩︎

  5. 幸いにも今日のアイデアを抑圧しようとする人々のほとんどは建前上は啓蒙主義の原則を尊重しています。アイデアそのものを禁止できないことを知っているのでそれらのアイデアを「有害だ」と言い換えて禁止できるように装います。最も過激な人々は言論そのものが暴力だと主張したり沈黙も暴力だと主張したりします。しかしそのような言い換えが必要なこと自体が良い兆候です。本当に危険なのはアイデアを禁止する理由付けすら放棄して中世の教会のように「我々はアイデアを禁止する、これがそのリストだ」と言い始める時です。 ↩︎

  6. ワクチンに関する医学的合意を無視する贅沢を享受できるのはワクチンが非常に効果的だったからです。もしワクチンが全くなかったら死亡率は非常に高くなり現在の反ワクチン運動の支持者のほとんどはむしろワクチンを求めるでしょう。表現の自由も同じです。啓蒙時代が築き上げた世界に住んでいるからこそ郊外の若者たちはアイデアを禁止する真似事ができているのです。 ↩︎

Discussion