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英語赤点の田舎者が、米Goldman Sachsでエンジニアになるまで

2021/02/20に公開

* 全ての意見は僕個人のもので、特定の団体とは関係ありません
*この記事はただ僕が辿った道を記しているだけで、決して「アメリカでエンジニアになる方法」を記したものではありません。その目的で参考になる部分もあるかも知れませんが、それを目的で読むと期待を裏切られると思います😬

大まかな流れは、以下の通りになります:

  1. 中高英語赤点(英語大嫌い)
  2. アメリカ留学
  3. Bank of Americaでインターン、後に正社員採用
  4. 2年ごとに買収されていく
  5. 初めてのリストラ、しかもコロナ禍の中で
  6. Goldman Sachsに就職

中学、初めての英語の授業

中学のときに、始めて授業で英語を勉強することになります。この頃、僕は英語が大嫌いでした。国語も大嫌いでした。ついでに社会も大嫌いでした😓

特に英語に至っては、本当になんで勉強しなければいけないのか謎で仕方ありませんでした。「日本語で話せるからいいじゃん!どうせ英語使わないし」と。

このときの授業内容で覚えているのは、"I'm fine, thank you. And you?"だとか"Is this Daimonji?"だとか"Do you eat octopus?"だとか。全く頭に入ってない🤪

初めてのアメリカ人

ただ、ALTで初めてネイティブの先生が来たときは覚えています。アメリカから来た白人男性でした。田舎だったので、生で喋るアメリカ人をみるのは、記憶にある限りこれが初めてのことです。英語の先生がALT先生の紹介を終わらせたあと、それまでじっと立っていたALT先生がいきなり大声で"HOW ARE YOU EVERYONE!!!???!??😆😆😆"と叫び、「これがアメリカ人か...っ!」と衝撃を受けました。衝撃は受けましたが、特に英語への捉え方が変わったりはしませんでした。ちなみに今だから分かりますが、アメリカ人でもここまでテンション高い人は珍しいです。みんなこんなにテンション高かったら、たぶんうるさくてアメリカに残ってられませんでした(たまにならいける)。

英語と同じように国語も嫌いだったのですが、こっちに至っては特に漢字を覚える意味が分かりませんでした。機械で漢字を変換できるので、わざわざ人間が覚える必要はないと思っていました(今でも漢字は苦手です😬)。1日1ページ書かなければいけなかった漢字ノートを1年以上貯めていたので、3年生になってから何週間も居残りさせられ、全部書かせられた記憶があります。全部書いても全然漢字を覚えなかったので、「やっぱり意味ないじゃんこんなの」と思っていました。ただ、同じく宿題を年単位で貯めている居残り仲間がいたので、あまり苦ではありませんでした。

逆に数学や理科は得意でしたが、テストで80点や90点を取っていたのに、成績は2や3でした。これについて疑問に思った親が先生に質問したところ、どうやら宿題をやっていなかったから成績が悪かったそうです。教科に限らず、宿題は大嫌いでした。学校が終わると遊びたいんじゃ🤬(今は小学生になる子供がいますが、自分の過去のこともあって、宿題や勉強については強く言えない)

初めての自分のパソコン

3年生のころ、母に「次のテスト、何でもいいから100点とったらパソコン買ってあげる」と言われて、必死になって理科だけ勉強しました。他の教科は全然勉強しませんでしたが、理科では100点取ったのでパソコンを買ってもらいました。ここで初めて、プログラミングに触れることになります。

この頃はゲーム開発に携わりたいと思っていたので、色々なゲームを作りました。中でも一番覚えているのは「地中潜り屋さん」というゲームです。ジェットパックを背負ってどんどん地面の大穴に潜っていき、より深く潜れた方がスコアが高くなる、というものです。ただ単純に深さをスコアにしてもおもしろくないと思い、深く潜った方がお金が稼げる、深い部分の方が1メートル毎にもらえるお金の単価が増える、あまり動かない方がジェットパックの燃料代を節約できる、などとし、深さではなくて稼いだお金をスコアにするという工夫をしていました。

いくつか作ったクソゲーの中でもなぜこれを一番覚えているかと言うと、母がたまに「地中潜り屋さんやらせて🙂」と遊んでくれていたからだと思います。自分は反抗期真っ只中のなか、「チッ、仕方ねえなあ😒」なんていう態度を取りながらも、母が自分のゲームで遊んでくれるのがとても嬉しかったです。

同じ頃に3Dゲームを作りたいと思い、DirectXの本を買って勉強もしましたが、難しくて挫折したのを覚えています。結局、この頃DirectXでのゲームを完成させたかどうかは覚えていません。たぶん完成してない。

高校

志望動機、そして受験

僕はどうしてもある私立高校に行きたかったんです。志望動機は、僕が当時大好きだったスポーツの部を作りたかったからです。自分が住んでいた県どころか、となりの県を見渡してもこのスポーツの部活を持っている高校はなかったので、小学生の頃から一緒にそのスポーツをやっていた友達と一緒にその高校へ行き、部活を作ろうとしていました。

これはマイナースポーツだったのですが、地域によって強さが極端に偏っていて、僕が住んでいた地域はその極端に弱い方でした。地元の大会で10ー0で他のチームに勝ち、全国に出ると10ー0で負けるなんていう状態です。これを何とかしたくて、まずは選手人口を増やそうと思い、部活を作ろうと思ったのでした。

その高校は家から1時間以上離れた私立理系大学の附属高校でした。スポーツに力を入れていた高校だったのと、生徒数も多かったので、ここが一番可能性があるだろうという理由です。

受験を経験したのはこれが最初で最後でしたが、どうも興味がないことを勉強するのが苦なので、もう2度とやりたくないです。興味ない分野の勉強をできる人はすごいと思います。

僕はこの高校が第一志望だったので、これに受かったらもう受験勉強は終わりでいいやと思っていたのですが、何だかんだで公立受験のためにもう少し勉強することになります。こっちは行く気もない高校だったので、さらに勉強が嫌でした。ただ、そのことを個人塾の先生や親に言うと、意外とすんなり「じゃあもう勉強しなくていいじゃん!」という流れになったので、そこからは楽になりました。

部活、否、同窓会

入学して、うろ覚えですが1年の間にそのスポーツの同窓会を作ったと思います。経験者は僕と一緒に入学した友達だけだったので、最初は未経験者を集めるところからの出発でした。

僕は未経験者を集めるのが下手で、ほとんどの新入部員は友達が集めてきてくれました。あとは親の友達の息子だとか、その友達だとか。僕ももっと勧誘に力を入れなければならなかったのですが、当時知らない人を部活に勧誘するような勇気は持っていなかったので、クラスメイトが全滅した時点で絶望していました。今ならもっと積極的に勧誘できるはず😤

ただ2年にあがるとき、1年に他の経験者も入学して続いてくれましたし、「大きくなったらこの部に入る」と言ってくれている後輩も少なからずいたので、僕と友達が始めたことが確実に形になっている実感はありました。

マイナースポーツだったので、2年生の頃からたった1戦だけの予選を勝ち抜き、インターハイも出場していました。全国目線で見ると眼中にないほど弱い地域から、新しい部活(否、同窓会)としての出場だったので、そのスポーツ唯一の全国紙の取材も受けました。トーナメント表を見ても「同窓会」の肩書きでインターハイに出場しているのは僕の高校だけで、「これで勝ったらカッコいいなあ」とは思いましたが、普通に10ー0ぐらいで負けます😔ただ、今は部活を作り競技人口を増やすことに意味があると思っていたので、未経験で入ってくれている部員が楽しんで全国の場でそのスポーツに励んでいる姿を見て、悔いは残りませんでした。

試合後の「ありがとうございました!!!」の声だけは他の部にも劣らず、客席にも好印象だったそうです。確実に弱小地域のプレイヤーの姿を全国に示せていた感じがして、「何かを成し遂げている感」はありました。

僕はこの同窓会のキャプテンだったのですが、それとは別に県代表のチーム(僕がいた3年間は毎年国体出場)にも所属していました。3年生のときに僕はこっちのチームで副キャプテンでしたが、一緒に高校にきた友達はそこでキャプテンを張るほどのやつだったのもあり、彼が一緒にいてくれて本当に心強かったです😊

といっても心残りがない訳ではなく、あまりいいキャプテンでなかったことに加え(これは上げだすとキリがないので省略)、個人的なものだと、実は2年生のときに鎖骨を骨折。大人しくしていればインターハイや国体までには治るはずの怪我だったのですが、練習試合のときに我慢できずコーチに「出れます」と言い、骨折を繰り返してしまいます。その年はインターハイも国体もベンチまでしか出られなくなってしまいました😔

このときに、当時の監督が僕を練習試合に出場させたコーチを怒りました(試合のとき、監督は不在だった)。中でも印象的なのは「選手はユニフォームを着たら出れると言うしかないんだ!出れるかどうか判断するのが俺たちの仕事だろう!」と言っていて、その監督なりのリーダーシップ像が見えた気がしました。当時「でも俺が出れるって言ったしなあ」と思いながらも、この言葉に何かリーダーとしてのヒントをもらえた気もしていて、今思えば僕の人生や価値観を変えた瞬間だとも言えます。

英語

僕がいた学科は、そのまま附属元の理系大学へ進む人のための学科だったので、自然と理系の教科に力を入れていました。ただ、だからといって英語がなくなる訳ではありません。

高校に行っても相変わらず英語が苦手だったのですが、前ほど「嫌い」という感情はなかったように思います。そういうものだと諦めていたのか、中学ほど宿題がなかったからか、精神的に安定してきたからなのか。英語担当の先生が愛媛出身で、日本語も英語も愛媛なまりで少しおかしかったので、授業中飽きなかったというのもあるかもしれません😛

また、高校の化学の先生が「テストで点取れるなら宿題なんてやらなくてもいい(けど点取れないやつは宿題出せよ)」という主義の人で、「こんな先生もいるのか」とやけに感動しました。宿題嫌いな僕はその言葉に共感しまくり(僕の場合は点取れてなくても宿題やらなかったんですけど🙃)。化学については全校で見ても良い点を取れていたので、あまり宿題のプレッシャーもなく、化学の勉強をするのは楽しかったです。

授業中の居眠りも、結構多めにみてくれていました。スポーツの方で毎年全国大会に出ていたので、「Shogo君は訓練で疲れているだろうから」と多めに見てくれていました。私立で、スポーツに力を入れていた学校だったのもあると思います。

プログラミングも趣味で続けていて、将来はプログラマもありだなと思うようになっていたので、大学はプログラミングを学びに行こうと思っていました。

アメリカ留学...だと?

2年生の終わり頃です。そろそろ本格的に進路を考え始めないと、手遅れになってしまいます。そんなとき、母から「アメリカ留学はどうだ」という話をされました。それまで英語は不要と思っていた僕が、「そんな道もあるのか」と、少しアメリカ留学について考えるようになりました。それまで特にアメリカに憧れを持っていた訳でも、アメリカに行きたいと思っていた訳でもないのですが、この頃から「何となくかっこいいなあ」という理由で興味を持つことになります。

考えてみるとソフトウェアの本場はアメリカだし、プログラミングを学ぶのには最適だと思い、アメリカ留学をすることにしました。あと、勉強したくなかった僕としては、アメリカの大学は受験がないというのも大きかったです。親があるエージェントにお金を払ってくれたので、そのエージェントに留学の手助けをしてもらうことになりました。

大学選びですが、最初に紹介された大学にしたので、実際選んでないようなものです。テキサスにある州立大学です。他国の大学なんてどうせ聞いても分からない、ガチャ要素が強すぎると思っていたので、色んな選択肢なんて聞いても無駄だと思っていました。なので、最初にその大学を紹介された直後に「じゃあそこでいいです」と言いました。今思えば「なんて割り切った子供なんだ😳」という感じですが、「もしあっちの大学に行っていたら」なんて考えることがなかったので、あの選択は間違っていなかったと思います。

英語の勉強

僕は英語力がなかったので、語学学校から入ることになっていました。その語学学校の学期は6月から始まるので、高校卒業から数ヶ月時間が空くことになります。

その期間に僕がやるべきことと言えば、英語の勉強。なのですが、お世辞にも熱心にやっていたとは言えません。恐らく一番時間を費やしたのはGunZ: The Duelというネトゲです。今思えばそこでもクランを作っていたので、僕はチームを作ってみんなで何かやることが好きなんだと思います。

クランの仲間も最大人数(確か64人?)まで増え、クランの運営用に、初めてまともなウェブサイトを作ることにもなります。HTMLとCSSのみのシンプルなサイトですが、今見ても結構デザインがよくて誇らしいです。

単語を覚えたりリスニングの勉強はしていましたが、申し訳程度です。よく映画を見ては勉強した気になっていました。

ただ、その中でも自分にとって一番効果的だったのは、洋楽の物真似だったと思います。もともと洋楽が好きだったので、それの歌詞を調べて聞き取り、歌いを繰り返すことで、段々とリスニングとスピーキングの力がついてきました。街中でふと耳に入ってきた洋楽の一部を聞き取れるようになったときなんかは、成果が出ているようで嬉しかったです😊

今思えばですが、リスニングとスピーキングの力は相互依存しているので、この勉強法はなかなかいいんじゃないかと思います。リスニングが上手くなれば、スピーキングでどう発音すればいいのか分かりやすくなりますし、スピーキングでどう発音するのか分かるようになれば、リスニングもしやすくなります。歌なのでアクセント(なまり)を気にすることもないですし、洋楽好きなら、単純に楽しいです🤘

留学

語学学校

なんせ英語が赤点だったので、最初の1年弱は語学留学に費やしました。僕が行った語学留学は7レベルに分かれていました。レベル0がABCから、レベル6が簡単な研究論文を書けるレベルです。

入学時には、僕のレベルを決めるテストがありました。細かいことは覚えていないのですが、作文のテストは3つあるお題の中から1つ選んで、それについて作文を書け、という内容だったように思います。1つは完璧を目指すにはどうしたらいいか的な内容、1つは何かのadvantage(メリット)とdisadvantage(デメリット)を書け的な内容、もう1つは忘れました。

僕は当時advantageとdisadvantageの意味が分からず、1つ目の完璧を目指すにはどうするかという作文を書いたのを覚えています。詳しくは覚えていませんが、「完璧なんて神にしかありえない。神になればいい」的な作文を書きました。適当に見えますが、ない英語力を必死に振り絞った結果です😤

結局、僕の入学時のレベルは3でした。レベル6を終えたら卒業、大学入学ということになります。

アメリカの英語学校には沢山の国籍の人がいます。最初の方は、よく韓国人と日本人のグループとつるんでいました。サウジアラビア人のクラスメートには、僕のサウジアラビア語の発音がうますぎてバカ受けでした。普通にカタカナ発音で「サラマリコォ」というと笑ってくれるので、サウジアラビア人とはちょっと仲良くなりました。ちなみに返すのは「マリコンサラァ」です。お互い英語できないから、挨拶から話が進まないけど🤪

頭では英語は話さないと上達しないということは分かっていたのですが、実際には英語で話すのが少し恥ずかしく、引いてしまうことも多かったです。そんなとき、ある先生が「英語が通じなかったら、聞き取れない相手が悪い」と確固たる自信で断言してくれて、気が楽になりました。また同様に、「聞き取れないからと言って流してしまうのは、相手の言葉を尊重していないから失礼になる」という価値観も教えてくれました。もちろんすぐに恥ずかしくなくなる訳ではありませんでしたが、それから数年間、恥ずかしいと思うたびにこの言葉を思い出すことで、だんだんと英語で話すことが苦じゃなくなりました。

大学

語学学校卒業後、クラスや食堂、パーティーなどでアメリカ人と話すことはありましたが、休みの日に一緒に遊ぶというようなアメリカ人の友達はいませんでした。このときの僕は卒業後に日本に帰る予定だったので、英語力も授業についていける程度でいいし、アメリカの文化にもあまり興味がない、という考えでした。なので一緒にいて楽な日本人とよく遊んでいました。お陰で日本中に友達ができましたが、もうちょっと現地の人と遊んでてもよかったな、とは思います。

僕はテキサスの州立大学に行ったのですが、州立大学では州の住民は授業料が安くなり、そうでないと授業料が高くなる仕組みでした。僕は住民ではなかったので、授業料が高いほうでした。

しかし、大学の図書館で働けば授業料が住民と同じになるということで、図書館の仕事に応募しました。面接ではblame(非難)とresponsibility(責任)の違いは何ですかと聞かれ、blameの意味が分からずに「broom(ほうき)の亜種か何かか?ほうきと責任の違い?」なんて思い、パニクって質問に答えられませんでした。落ちました🎉

大学で一番大変だった授業が、歴史と政治の授業です。子供の頃から嫌いな教科!特に卒業後は日本に帰る予定だったこともあって、何でアメリカの歴史や政治を勉強しなければいけないのか分かりませんでしたが、単位が必須だったので取らなければいけませんでした。ただこの2つは先代の日本人留学生の中でも大きな課題だったようで、楽な教授の授業や、テストを使い回す教授の授業が出回っていて、それに助けられました。なので今でもアメリカの歴史や政治は何にも分かっていません。それじゃダメだけど!

渡米から2年たったぐらいで、ようやくアメリカの楽しみ方が分かってきました。例えば食事も「美味しい日本食が沢山ある日本が恋しい」から「現地の人が作った、色々な国の料理を食べられるアメリカも悪くない」という風に認識が変わっていきました。

3期生のころ、ゲームを作る授業を取りました。その教授は毎回生徒の作品をインターネットで公開していたのですが、それを見たBank of America(アメリカの大手銀行)の採用担当の方から、「この授業で優秀作品を作った生徒の中から、うちのインターンに興味がある生徒はいないか」と連絡があったそうです。僕はゲーム会社に就職したいと思っていたので迷っていたのですが、当時の彼女(今の妻)が後押しをしてくれ、面接を受けてみることにしました。前々から「お金でお金を作る仕組み」にも少し興味があったので、それを勉強できるのもいいな、と思ってました。

Bank of Americaでのインターン

Bank of Americaといえば、アメリカにいる人なら知らない人はいないほどの大手です。正直ダメ元です。授業でも卒業できる程度の成績は取れていたけど優秀という訳ではなかったし、英語力もまだまだ自信がありません。

面接用に、このとき初めてスーツを買いました。僕はスーツのことなんて全然分からないので、友達についてきてもらい、選ぶのを手伝ってもらいました。インターン先のオフィスがちょっと遠いところにあったので、彼女とドライブがてら面接までの道を下見もしました。ダメ元だったのですが、無下にはしたくはありませんでした。そんなこんなしていると、面接の日がやってきます。

面接

面接は3段階ありました。最初はコーディング、次は1人と面接、最後は2人と面接しました。細かい面接内容は覚えていませんが、2つ目の面接が終わったあとに倍率を聞いたところ、120倍だと聞いて度肝を抜かれました🤯ただ、不思議とダメ元だった心持ちも、ここまでくると「これ受かったらすごいじゃん!」とテンション上がってきていました。受かったと知らせを受けたときは、現実だと受け止めるのに少し時間が必要でした。

何で受かったのかは分かりませんが、担当の人(僕の最初の上司になる)が、実際に僕が作ったゲームを見ていたというのも大きかったのかもしれません。ゲームはなんちゃって3Dのレーシングゲーム(スーパーファミコンのマリオカートみたいなもの)でした。

インターン初日が近づくにつれ、「やべぇ、英語できないのにどうしよう」という不安にも駆られました。しかもアメリカの企業の空気感なんて全然知らないので、日々どう振舞えばいいのかも分かりません。

アメリカのインターン

インターンと言っても、日本のインターンとアメリカのインターンは少し違っていて、アメリカでは基本的に週20時間労働を1学期間(4ヶ月間)行います。給料が出るインターンも多いです。

僕がしたインターンも週20時間で、給料は月に約20万円出ていました。なので親からの仕送りはなくなり、金銭的支援は奨学金で足らなかった分の授業料だけになりました。

インターン前期

なんせアメリカの企業の中で働くのは初めてなので、最初はカルチャーショックが大きかったです。最初の頃は会社に着いたら上司に挨拶をして、帰る前も挨拶をして帰っていました。上司を呼ぶ時は"Sir"をつけて呼んでいました。

そんなことしていると、ある日1人だけ呼び出されて「Shogoは礼儀正しすぎるから、それを止めてほしい。普通に友達みたいに接してくれて構わない。下の名前で呼んでくれ」と言われて、また度肝を抜かれました🤯礼儀正しすぎるなんて言葉は、日本では聞いたことがなかったからです。

ただ上司の言うことなので、その日からはみなを下の名前で呼び捨てにし、かしこまった挨拶もしなくなりました。するとめちゃくちゃ楽で、例えば話し合いなんかでも、あくまでも同じチームの人間が、ある問題を解決するために話し合っているというだけになり、自分の思っていることを発言しやすくなりました。この頃から、英語の方が楽な場面も多いなあと思うようになりました。

最初は何で礼儀正しいのが嫌なのかが分かりませんでしたが、一般的なアメリカ人の特徴として、フレンドリーで近づきやすい人であろうとするところがあります。そこであまり礼儀正しくされると、「あなたには近づきにくい」というメッセージを送っているように思われることもあります。

最初に任された仕事は、ある特殊なフォーマットのテキストデータを分かりやすく見れるようにするソフトを作るというものでした。MFCで作ったWindowsのGUIソフトです。もう枠組みは出来ていたので、僕の仕事はこのソフトに色々な機能を追加するというものでした。結局のところ、このソフトが世界中のBank of Americaの社員に使われることになり(と言っても数は少ないですが)、自分が書いたプログラムが人の役に立っているということが嬉しかったです😊

インターン後期

このころにはアメリカでエンジニアとして働きたいという気持ちが強くなり、もう日本に帰ることは考えていませんでした。なので、例えば留学生御用達のボストンキャリアフォーラム(主に卒業後日本に帰る留学生をターゲットに、日本の企業が多くくる)にも行きませんでした。もしアメリカで職が見つからなかったら、日本に帰ってフリーターしながら、取り敢えず携帯アプリを作りつつ生計立てようかな、とも思っていました。

インターンも2学期分(8ヶ月分)終わったころ、アメリカに残る意思、そしてまだ働き先が見つかっていないことを当時の上司に伝えたところ、卒業までの残り1学期もインターンとして雇ってくれ、その後に正社員としての採用をしてくれることになりました。全部で1年間インターンをしていたことになります。

Bank of Americaへの就職

就職後は、自分がインターンをしていたときとは違うチームに配属になりました。ここではバックエンドからモニタリングアプリのGUIまで色々なものを触り、勉強しました。

2年ごとに買収されていく

約2年後、僕が働いていた部署が買収されることになり、社名が変わり、会社のリーダーも変わりました。ここで、様々な現代のソフトウェア開発の概念を知ることになります。例えばアジャイル、CI、DDD、TDDなど全部上げればキリがありませんが、色々と世界が開けていきました。今までも難なく楽しんでやっていたソフトウェア開発の奥深さを知り、さらに開発が楽しくなっていきました😊

また、このころから採用の面接をする側にも周り、企業がチームを作るというのはどういうことか、ということも学んでいきます。これはソフトウェアよりも更に奥が深く、いつまで経ってもあきません😁

その後およそ2年ごとに僕が働いていたところは買収されていき、その度に社名は変わったのですが、一緒に働いている人はずっと一緒でした。

そんなゴタゴタの中で、色々な経験を経て今はWebの開発(フルスタック)を主にやっています。

アメリカの企業の価値観

僕は日本で働いたことがないので、日本とアメリカの比較はできません。ただ、僕はそれまで働くということに対して、「お金を払っているんだから、上に言われたことをやりなさい」という価値観を少なくとも持っていました。これは日本で生活していく中で、僕が勝手に身につけた価値観です。

今はアメリカで色々な経験をしていくことで、アメリカでは「お金を払っているんだから、ちゃんとあなたの意見を述べて下さい」という価値観なんだな、ということも学びました。この価値観を持ってからは、何事に対しても意見するのを躊躇することがなくなりましたし、その分企業への貢献度も高まっていきました。

逆に、何も意見しない人は、いてもいなくても同じと考えられてしまいます。また、いつも他の人と同じことしか言わない人も、他の人と重複しているので必要ないと考えられます。企業があなたを雇うということは、あなたにお金を払ってでも、あなたの意見が欲しいと思っている証拠です。もちろん全ての企業がそうという訳ではないと思いますが(また、正社員か契約社員かによっても変わってきますが)、僕が働いたことのある企業は全てそういう価値観を持っていました。

初めてのリストラ

最後に買収された会社の方針により、僕がいたオフィスの全員がリストラされることになりました。このリストラはオフィスの場所を基準にしたもので、個人の貢献度などは無視したものでした。これを受けて、他のオフィスで働いていた人たちも「あいつらリストラするなら、私も辞める」と言わんばかりに続々と辞めていったのはおもしろかったです😝

ただ、リストラまで1年以上の猶予があったので、その間に転職の準備はできました。と言いたいところですが、僕が会社を辞める時期がちょうどコロナの時期と重なり、経済は低迷。採用を一時停止する企業も増え、就職が難しい状態になってしまいました。

ですが運がいいことに、Goldman Sachsが僕が住んでいる地域に新しいオフィスを作り、今大量に採用しているという情報が職場の人繋がりで手に入り、そこのリクルーターと繋いでくれることになりました。これは本当に運が良かったです。

ただ、次は金融業界以外に行こうと思っていたので、内定をもらってからもしばらく渋っていました。元々はお金でお金を作る仕組みに興味があって入った業界ですが、そろそろ他のことがしたくなってきたのです。なのでGoldman Sachsの内定を保留にしてもらいつつ、他の仕事も探していましたが、結局それ以外のところは見つかりませんでした。

リストラ後2ヶ月経って、ようやくGoldman Sachsに転職することに決めました。こう文章にするとめちゃくちゃ嫌そうに見えますが...、実際にあまり乗り気ではありませんでした😢

乗り気でなかった理由は以下の通りです:

  • 金融業界の仕事は技術的にはおもしろいが、もっと直接人の役に立てる仕事もしたい
  • 面接のときに学問的な質問が多く、もしかしたらビジネスと開発が離れているんじゃないかという不安がある
  • オフィスが家から遠い

Goldman Sachsへの転職

現在は何やかんやで、ここでの仕事が楽しくなりつつあります。ビジネスと開発の距離も近く、そこは心配無用でした。少なくとも数年はここで働くだろうと思います。

ただ、あまり面接方法が効果的でないとは思うので、今は人事の人の協力も得て、それをどうにかしようとしているところではあります。

個人的にGoldman Sachsの一番好きなところは、階級もなにも関係なく、ビジネス的に良い案は誰からの案だろうが聞いてくれるというところです。僕の働き方と合っているので、文化の面ではとても働きやすいです☺️

終わりに

ちょっと前に、「男尊女卑だった僕が、女性の人権問題に関心を持つようになるまで」という記事も書いたので、よければ読んでいって下さい:
https://note.com/wada_shogo/n/nde4fe2845b4d

中高では英語が嫌いで赤点連発でしたが、今ではアメリカ生活も約15年になり、ゲームも英語版を優先してやるぐらい英語が好きです。この直接的な表現方法と気軽さがたまりません🤩

運の要素が強く、あまり人様の参考になることはないと思うのですが、もし何か質問や相談などがあれば気軽にDM送って下さい:
https://twitter.com/wada_shogo

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