なぜバイブコーディングをめぐる議論は噛み合わないのか
はじめに
先日、社内で「AIだけでプロトタイプを作ってみよう」というイベントがあった。
要件をAIに渡し、設計からコーディング、UI生成までをどこまで自動化できるかを試す——
いわば“AI開発耐久テスト”のような企画だった。
生成されたコードを動かしてみると、どれも意外なほどきちんと動いた。
致命的なバグもなく、UIもAPIも一応の体裁を保っていた。
つまり、少なくとも“動くもの”はAIだけで作れてしまった、というのが参加者全員の共通認識だった。
だが、その後の共有会では、意見が真っ二つに分かれた。
「もうAIで十分じゃない?」
「いや、AIだけではダメだよ」
最近はSNS上でもこの手の話題をよく見かける。
AIがここまで書けるようになった今、
「AI楽観派」と「AI慎重派」がぶつかる構図は、
もはや業界の風物詩になりつつある。
だが、側から見ると不思議なほど噛み合っていない。
互いに論理的に話しているのに、まったく会話が交わらない。
なぜか。
それは両者が、そもそも“見ている世界の層”が違うからだ。
1. AI楽観派とAI慎重派
議論を整理すると、おおよそこの二つの視点に分かれる。
立場 | 基本的な見方 | 前提にある思想 |
---|---|---|
AI楽観派 | コーディング=実装。設計書があれば、あとはAIが書ける。 | 機械は“再現”できる。人間は定義すればいい。 |
AI慎重派 | コーディング=設計。構造を定義する思考そのもの。 | 機械は“模倣”しかできない。構造の発見は人間の領域。 |
両者ともAIを使いこなそうとしている点では同じだ。
ただし、**「AIに何を任せられるか」**という前提がまるで違う。
2. 再現と模倣のすれ違い
議論の根底には、“再現”という言葉の解釈のズレがある。
-
AI楽観派にとっての再現:
結果が同じであれば再現できている。
→ 外形的再現(アウトプットの一致) -
AI慎重派にとっての再現:
同じ構造・同じ思考のプロセスを経て、同じ結果に至ること。
→ 内的再現(意味の再構築)
AIは確かに結果を再現できる。
しかしそれは、「思考の模倣」であって「思考の再現」ではない。
AIは“考えるように見える”が、“考えた”わけではない。
この一点をどこまで重視するかで、
議論の前提がまったく変わってしまう。
3. コーディングとは何か
-
AI楽観派にとって、コーディングは「実装」だ。
設計書や仕様があれば、それを機械的に翻訳する行為。
だからこそ「AIで十分」となる。 -
AI慎重派にとって、コーディングは「設計」そのもの。
手を動かしながら構造を発見し、命名や責務を整えながら思考を形にしていく。
コードを書くこと自体が“設計”であり、“考える行為”だ。
この違いを一言でまとめるなら——
AI楽観派は、手を動かす行為を自動化したい。
AI慎重派は、思考の構造を設計したい。
どちらも合理的だ。
ただし、合理性の軸が違う。
前者は「作業効率の合理性」、後者は「構造的整合性の合理性」を求めている。
4. “見えるもの”と“見えないもの”
この断層は、「見えているもの」と「見えていないもの」への関心の差でもある。
層 | AI楽観派 | AI慎重派 |
---|---|---|
見ているもの | コード、結果、出力、動作 | 構造、意図、文脈、依存、抽象 |
評価軸 | 目に見える正しさ(動くかどうか) | 見えない正しさ(なぜそう動くか) |
哲学的立場 | 現象主義 | 構造主義 |
AI楽観派にとって、「動く」ことがすべての証明。
AI慎重派にとって、「なぜそう動くか」がすべての理由。
両者が同じコードを見ても、
前者は「成果物」を見ており、後者は「思考の痕跡」を見ている。
視点の深度が違うのだ。
5. 設計=抽象、コード=具象
コードを書くとき、頭の中には「構造」がある。
それは最初から完璧ではなく、書いて、動かして、違和感を覚えて、直していく。
命名、依存、責務、階層を少しずつ整える。
この「書きながら考える」行為こそが設計であり、
設計書よりもコードの構造そのものが本当の設計書になる。
AI楽観派の前提は、「設計と実装は分離できる」。
AI慎重派の前提は、「設計と実装は不可分」。
この一点が、AI時代の開発を分ける境界線だ。
6. バイブコーディングの議論が噛み合わない理由
バイブコーディングをめぐる議論は、
実は技術論ではなく認識論の衝突だ。
- AI楽観派:AIを「手」として見る
- AI慎重派:AIを「鏡」として見る
前者は「どう書かせるか」に関心があり、
後者は「なぜそう書くのか」に関心がある。
つまり、議論している対象の層が違う。
AIの出力を「成果物」と見るか、「思考過程の断片」と見るか。
このレイヤーのズレこそが、
側から見ると“全然噛み合っていない”ように映る原因だ。
7. AI時代の開発とは、思考の分担である
AIは“コードを書く”ことができる。
だがそれは、「構造を理解して書く」ことではない。
過去の構造を模倣して“それっぽく再現する”ことだ。
AIに任せられるのは「見える部分」まで。
見えない部分──構造・意図・文脈──をどう扱うか。
そこに人間の役割が残る。
AI時代の開発とは、
“手の代替”ではなく、“思考の分担”を設計すること。
おわりに
AI楽観派は「見えるものの再生」を信じ、
AI慎重派は「見えないものの再構築」を信じている。
どちらが正しいという話ではない。
両者とも、AI時代における“開発”という行為の意味を
それぞれのレイヤーから見つめているだけだ。
ただ一つ確かなのは、
AIは「結果」を再現できても、「意図」を再現することはまだできない。
この差がある限り、
バイブコーディングをめぐる議論の噛み合わなさは、
しばらく続くだろう。
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