なぜ組織は“仕組み”より“人”で動くのか
※ 本記事はTOB(公開買付)をきっかけに、組織や経営について自分なりに考えた内省記録です。
※ 特定の企業や人物を批判する意図はなく、あくまで個人的な観察と整理です。
はじめに
ある日、自分が所属する会社がTOB(公開買付)を受けた。
その一報を聞いたとき、どこか遠いニュースのように感じた。
けれど、社内の空気を吸い込むうちに、静かな違和感が残った。
会社とは何なのか。
組織とはどうあるべきなのか。
TOBという出来事は、組織という装置の「構造の綻び」を露わにした。
合理と情緒、人と仕組み——
その境界を考え直すきっかけになった。
合理の限界と非合理の効用
組織とは、本来「再現性をつくる装置」だ。
誰がやっても同じ結果を出せること。
それを支えるのが設計であり、仕組み化だ。
けれど現実は、驚くほど非合理だ。
「気合」「根性」「なんとかする」で回り、人が抜ければ仕事が止まる。
仕組みの不在を、人の努力で埋めている。
エンジニアリングで言えば、“自動化されていないビルドを毎回手で回している状態”に近い。
効率ではなく、慣習で動いている。
その非合理を「人間味」と呼んでしまうこともある。
だが、完全な合理もまた壊れる。
摩擦も誤差もない構造は、やがて軋む。
人がつくる装置には、ある程度のゆらぎが必要だ。
それは非効率の象徴ではなく、むしろ動的安定を保つための緩衝材である。
“完全な合理”を目指した結果
一時期、「完全に合理的な組織設計」を理想に掲げたことがある。
評価やルールを徹底的に整え、誰もが納得する構造を追い求めた。
けれど、そこに生まれたのは“正しさ”ではなく、“無機質さ”だった。
そのとき、気づいた。合理だけでは、組織は動かない。
多くの人は、理屈では理解していても、
感情やプライド、立場、承認欲求といった“人間のノイズ”を切り離せない。
それらを「欠陥」とみなして排除すると、
組織は正しく動いても、人が離れていく。
情緒や非合理は、組織における必要悪だ。
人で構成された装置が機能するためには、
一定の「余白」と「曖昧さ」がいる。
完全な合理は安定を生むが、進化を生まない。
非合理を設計できる組織だけが、変化を内包できる。
責任と権限の非対称構造
組織が歪むとき、その多くは権限と責任の位置ずれから始まる。
「指示はしないけど、うまくやっておいてね」
「失敗しても、それは自己判断だよ」
決定権は上に、失敗の負荷は下に。
その非対称が積み重なると、構造疲労が起きる。
システムで例えるならば、トランザクションのコミット権限を上層が持ち、
ロールバックの負荷だけが下層に落ちている状態だ。
整合性を取ろうとするほど、誰かが摩耗していく。
文化と社風はトップの鏡像
どんなに立派な理念を掲げても、
人は上司や経営者の「行動」を真似する。
トップが迷えば、組織も迷う。
トップが決めなければ、誰も決めない。
文化とは、トップの習慣が言語化されたもの。
経営者が日々どんな判断を繰り返しているか。
そのパターンこそが、組織の人格になる。
だから、文化を変えるとは、
人を入れ替えることではなく、判断の回路を入れ替えることに近い。
アクティビストは「人事」ではなく「構造」を変えに来る
アクティビスト(物言う株主)が最終的に手を伸ばすのは経営陣だ。
それは人への攻撃ではなく、OSの書き換えに近い。
文化を変えるには、まず判断の起点を変える。
構造を変えるには、文化のルールを上書きする。
だから彼らはトップを動かそうとする。
敵ではなく、システムのデバッガーのような存在。
“外圧によるバグ修正”は、組織が自分で自分を直せなくなったときにしか動かない。
「やめる」か「おとなしくなる」かの二択
この構造の中で働くと、
やがて選択肢は静かに二つに絞られていく。
- やめる(構造の外に出る)
- おとなしくなる(構造の中で適応する)
そして「やめる」ことを選べる人は、
自分の力量と市場価値を正しく理解している人だ。
非合理な仕組みの中では、合理的な人ほど早く限界に気づく。
それは逃避ではなく、設計上の移行だ。
エンジニアが古いシステムを見て、
「作り直した方が早い」と判断するように。
経営はエンジニアリングであり、科学である
経営は、勘や度胸ではなく設計だと思う。
人・仕組み・意思決定を、再現可能な構造として組み立てていく行為。
経営者とは、組織という分散システムのアーキテクトである。
観察し、仮説を立て、実験し、検証し、更新する。
これは科学の手順であり、同時にエンジニアリングの基本でもある。
「努力で解決できる構造」は、本来エラーだ。
努力ではなく設計で解く。
その思想が抜けたとき、組織は人の頑張りを搾取し始める。
法人格というフィクションのリアリティ
法律上の“法人格”という言葉は、案外正確だ。
会社とは、経営者の人格を社会に拡張したものだと思う。
トップが曖昧なら会社も曖昧。
トップが覚悟を見せれば会社も覚悟する。
社員が感じている“空気”の正体は、
トップの思考の反射なのかもしれない。
おわりに
TOBという出来事は、組織という装置の内部構造を露わにした。
合理的な設計を志向してきたはずの会社が、
実は人の情緒と保身に支えられて動いていること。
けれど、その不完全さの中にしか、温度も創造も生まれない。
組織とは、合理と感情のあいだで自律的に揺れる装置だ。
TOBは怖いものでも、悲劇でもない。
むしろ、それによって経営者が自分の設計ミスに向き合う機会が生まれる。
もし組織が“人間の集合”ではなく、“構造の集合”として成熟していれば、
外圧に揺らぐことはない。
それこそが、「会社が生きる」ということなのかもしれない。
仕組みの中に、人の息づかいが残っている限り。
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