データドリブンな政治という皮肉
前回はトルコ語についてちょっと書いたので、今日はデータに関する小ネタを。
最近の風潮として、あらゆるものをデータ化し、データに基づいて活動するというものがある。
これ自体は素晴らしいことなのだが、何でもかんでもこのやり方がうまくいくとは限らない。
何故か。前提が違うからである
データは嘘つきが苦手である
誰でも嘘つきは苦手なのだが、データドリブンな試みというものはとにかく嘘つきが苦手である。
データドリブンなことをするためには、当然良いデータを準備しなければならない。
よいデータの定義は様々だが、例えば以下のような特性を満たすものが望ましいとされる
- 完全性 (必要なデータが全て揃っているか)
- 正確性 (データは表したい事柄を正確に記述しているか)
- 一貫性 (データは互いに矛盾しないか)
これらは良い解析をする上で大事な特性であるが、悪意を持ったものに対して非常に脆弱な特性である。
何故なら、このどれもが、その悪意を証明することができないからだ。
例え悪意をもってそのデータを、都合の良いように揃えたとしても、上の特性を満たすならば「データ」としては優れている。そして、そのデータを使った解析は間違っているとは、そのデータからは言えない。そのデータ以外を使った解析を通じ、多角的に慎重に評価しないといけない。
データは嘘はつかないが、嘘つきはデータを用いる
ここでタイトルに戻ろうか。
政治家とは古今東西、嘘つきであることは誰もが知っていることである。
言葉巧みに人々を騙し、自分に都合の良い政策を実現することに心血を注ぐ、そういう存在である。
必要悪だ。
で、こういう連中が流行りに乗っかって何かするときは、大体何かしらの腹づもりがあるものである。
データドリブンな政治とは聞こえが良いが、その実、今までよりも露骨に人々を洗脳するようになるだけの可能性が高い。
大衆には触れることのない知識を用い、データの枠組みを操作し、都合のよい結果のみ出るように分析。その結果を、さも大衆の理に叶う政策を支持する何かであるように見せかける。
あまりにも起こり得てしまう未来だろう。
最後に
とまあ、データドリブンな洗脳という皮肉な結末を知らぬ間に迎えてしまいそうだ、というのが現在の日本の大衆の姿に思えてならない。
どうか、そうならないよう、徳のある方に政治家になってもらいたいものである。
以上、今日はデータについての小ネタでした。
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