MATLABとMATLABオンライン
MATLABとそのクローン、そしてクラウド化の流れ
MATLABにはMATLABクローンが提供されています
MATLABは科学技術計算の分野で長年にわたって標準的なツールとして使用されてきましたが、そのライセンス費用の高さやオープンソースの流れを背景に、多くのMATLABクローンが開発されてきました。それらは主に以下のようなものです:
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GNU Octave: 最も有名なMATLABクローンの一つで、MATLAB互換性を重視して開発されています。多くのMATLABスクリプトがほぼそのまま実行可能で、オープンソースコミュニティによって継続的に開発が行われています。
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Scilab: フランスで開発された数値計算環境で、独自の構文を持ちますが、MATLAB変換ツールも提供しています。科学計算、工学シミュレーション、データ分析などに利用されています。
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Julia: 直接のクローンではありませんが、科学技術計算に特化した近代的なプログラミング言語として注目を集めています。特に行列演算や数値計算において高速な処理が可能で、次世代の科学計算言語として発展しています。
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Python + 科学計算ライブラリ: NumPy、SciPy、Matplotlib、Pandasなどのライブラリを組み合わせることで、MATLABに似た機能を実現できます。特に機械学習やデータサイエンスの分野では、この組み合わせが標準的なアプローチとなっています。
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Jupyter Notebook: 直接のMATLABクローンではありませんが、インタラクティブなコード実行と可視化を提供する環境として、MATLABのワークスペースに似た機能を提供しています。
これらのオープンソースの選択肢が発展する一方で、MathWorks社自身もMATLABの進化を続けています。最近では特にクラウドベースのソリューションに力を入れており、その中心となるのがMATLAB Onlineです。
今日はMATLABとMATLAB Onlineに気がついたので記事を書いてみます
先日、研究室の同僚がブラウザだけでMATLABを使っていることに気がつき、詳しく話を聞いてみるとMATLAB Onlineというサービスを利用していることがわかりました。従来のデスクトップ版MATLABしか知らなかった私は、この違いに興味を持ち、両者を比較してみることにしました。その調査結果をこの記事にまとめます。
MATLABとMATLAB Onlineの比較:技術計算環境の変遷
科学技術計算の歴史とMATLABの誕生
科学技術計算の世界では、長らく専門家が独自のプログラミング言語やツールを駆使して複雑な計算を行ってきました。1980年代初頭、行列計算を簡便に行うためのツールとして、クレベック・モーラー(Cleve Moler)によって「Matrix Laboratory」、略して「MATLAB」が開発されました。当初は教育用ツールとして開発されましたが、その使いやすさと強力な行列計算能力から、1984年に商用ソフトウェアとしてMathWorks社が設立され、本格的なリリースが始まりました。
MATLABは、従来のFORTRANやCなどの言語と比較して、行列操作を直感的に記述できる構文や、グラフ描画などの視覚化機能を簡単に利用できる点が革新的でした。このアプローチは科学者やエンジニアに広く受け入れられ、数値計算、信号処理、制御系設計、画像処理など幅広い分野で標準ツールとなっていきました。
ソフトウェア提供モデルの変化とクラウド化
2000年代後半から2010年代にかけて、ソフトウェア業界全体がクラウドベースのサービス提供モデル(SaaS: Software as a Service)へと大きく転換していきました。Adobe Creative SuiteがCreative Cloudに移行し、Microsoft OfficeがOffice 365(現Microsoft 365)へと変化したように、従来のパッケージソフトウェアがクラウドサービスへと進化していきました。
この流れの背景には以下のような要因があります:
- インターネット接続の高速化と安定化
- モバイルデバイスの普及によるマルチデバイス環境の拡大
- コラボレーション需要の増加
- ソフトウェア継続開発のための安定した収益モデルの必要性
- リモートワークや分散チームによる研究開発の増加
MathWorks社もこの潮流に対応するため、クラウドサービスへの取り組みを開始しました。2012年頃にはモバイルデバイス向けの「MATLAB Mobile」を提供し始め、クラウド計算への最初のステップを踏み出しました。
MATLAB Onlineの登場背景と開発経緯
MATLAB Onlineの開発は、以下のような背景から進められました:
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教育機関からの需要:多くの大学や教育機関では、学生全員にMATLABをインストールさせるよりも、ブラウザからアクセスできる環境が効率的だと考えられるようになりました。
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クラウド計算への移行:大規模な計算をローカルマシンではなく、クラウド上で実行することへのニーズが高まりました。
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コラボレーションの必要性:研究者や技術者が地理的に分散して作業する場合でも、同じ環境でコードを共有し協力できる仕組みが求められました。
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デバイスの多様化:ノートPCだけでなく、タブレットなど様々なデバイスからアクセスしたいというユーザーニーズが拡大しました。
これらの要因を背景に、MathWorks社は2015年頃から限定的にMATLAB Onlineの提供を開始し、2017年には正式なサービスとして一般ユーザーにも広く公開しました。当初は基本機能のみでしたが、段階的に機能が拡張され、現在ではデスクトップ版に近い機能を提供しています。
MATLAB(デスクトップ版)の特徴
技術的特徴
- ローカルマシンの全リソース(CPU、GPU、メモリ、ストレージ)を活用可能
- ローカルファイルシステムに直接アクセスできるため、大規模データの取り扱いが容易
- 専用のハードウェアとの接続(データ収集装置、計測機器など)に対応
- オフライン環境での利用が可能
- 詳細なパフォーマンス最適化が可能
ライセンスと提供形態
- 従来型の永続ライセンスまたはサブスクリプションモデル
- 個人、学術、商業利用向けの異なるライセンス体系
- 追加ツールボックス(Signal Processing、Image Processing、Statistics and Machine Learningなど)を個別に購入可能
ユーザーインターフェース
- ネイティブアプリケーションとしての応答性の高いUI
- カスタマイズ可能な作業環境
- 多画面対応などの高度な表示機能
MATLAB Onlineの特徴
技術的特徴
- ウェブブラウザベースの実行環境
- MathWorks社のクラウドサーバー上でコード実行
- MathWorks Drive上のクラウドストレージでファイル管理
- リソース(処理能力、メモリ)に一定の制限あり
- インターネット接続が必須
提供形態とアクセス
- 多くの場合、既存のMATLABライセンス保持者は追加費用なしで利用可能
- MathWorksアカウントを通じてアクセス
- 学術機関ではキャンパスワイドライセンスの一部として提供されることが多い
クラウドならではの特徴
- どのデバイスからでも同じ作業環境にアクセス可能
- リアルタイムでのファイル共有と共同編集機能
- 自動バックアップと版管理
- 外部クラウドストレージ(Google Drive、OneDriveなど)との連携
- 常に最新バージョンが利用可能
データ処理面での比較
データアクセスと処理
- デスクトップ版:ローカルファイルに直接アクセス。サイズ制限はローカルマシンのメモリとストレージのみ。
- MATLAB Online:データ処理前にMathWorks Driveにアップロードが必要。ファイルサイズと合計ストレージに制限あり。
大規模計算への対応
- デスクトップ版:マシンスペックに応じた大規模計算が可能。並列計算ツールボックスを使用した複数コア活用が可能。
- MATLAB Online:クラウドリソースに依存。非常に計算負荷の高いタスクには制限がある場合も。
データのセキュリティ
- デスクトップ版:データはローカル環境内に留まるため、組織のセキュリティポリシーに応じた管理が可能。
- MATLAB Online:データはMathWorksのクラウド上に保存され、MathWorksのセキュリティポリシーに準拠。
利用シナリオと適性
デスクトップ版が適している場合
- 大量のデータ(数十GB以上)を扱う解析
- 高速なリアルタイム処理が必要な場合
- セキュリティポリシーが厳しく、データがローカル環境に留まる必要がある場合
- 特殊なハードウェアと直接接続が必要な実験環境
- インターネット接続が不安定または利用できない環境
- 計算負荷の非常に高いシミュレーションや最適化計算
MATLAB Onlineが適している場合
- 複数の場所で作業する研究者や学生
- 複数のチームメンバーが同じコードやデータに協力して作業する必要がある場合
- 固定的なハードウェア投資を避けたい場合
- 管理者権限なしにMATLABを使用したい環境(一部の教育機関や企業など)
- 軽量〜中程度の計算処理が主な使用目的
- マルチデバイス(ノートPC、タブレットなど)からのアクセスが必要な場合
将来の展望
MathWorks社はクラウドベースのソリューション強化に注力しており、MATLAB Onlineの機能は継続的に拡張されています。最近のアップデートでは、より高度な並列計算やGPU活用など、これまでデスクトップ版の強みだった機能もクラウド環境に移植されつつあります。
また、ハイブリッドアプローチも進化しており、ローカルでのコード開発とクラウドでの大規模計算を組み合わせるワークフローも可能になってきています。AIや機械学習の普及に伴い、クラウドリソースを活用した大規模な学習処理と、ローカルでの開発を柔軟に組み合わせるニーズが高まっています。
今後は両環境の差異が徐々に縮小し、ユーザーのニーズや作業状況に応じて、シームレスに環境を使い分けられるエコシステムへと発展していくことが予想されます。
おわりに
MATLAB Onlineの存在を知ったことをきっかけに、MATLABとMATLAB Onlineの違いを調査してみましたが、それぞれに明確な利点と制約があることが分かりました。私自身は大規模なシミュレーションを行うことが多いため、当面はデスクトップ版を主に使用していくつもりですが、外出先での作業や、チームでの共同研究の際にはMATLAB Onlineも積極的に活用していきたいと考えています。
コンピューティング環境のクラウド化は、科学技術計算の分野でも着実に進んでおり、今後も動向に注目していきたいと思います。
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