わずかでも生きれば、もう別人格 ─量子テレポーテーションと“私”の境界線─
量子テレポーテーションを通じて、「自分とは何か?」を考えてみました。
脳のコピー、意識の分岐、人格の不在——。
もし、完璧に再現された“私”が遠くで目を覚ましたら、それは「私」なのか?
技術の話ではなく、「問い」を共有するエッセイです。
※この記事は、noteに掲載したエッセイを加筆・再構成したものです。
── コピーと“私”の境界線⸻
もし、自分の脳と記憶がまるごとコピーされて、遠く離れた場所に再現されたら──
それは「私」?
それとも、私にそっくりな“誰か”?
量子テレポーテーションの話を聞いていたとき、ふと思った。
コピーされた“その瞬間”は、きっと理論的には同じ存在だ。
でも、たった一秒でも時間が経てば、そこにはもう別の人生が始まっている。
つまり、“同じ”だったのはほんの一瞬。
それ以降は、もうオリジナルとは交われない道を歩いているのかもしれない。
結局、“自分”とは、ただの情報の固まりではない。
「時間の中で、なにを感じて、どう変わっていくか」
──その流れこそが、“私”という存在を定義している。
だからこそ、コピーされたあとに何かを感じた瞬間、わずかでも生きた瞬間に、もうそれは「私ではない」。
🔁 コピーは「その瞬間」は同一でも、
➡︎ “時”が流れた瞬間、違う人生を歩み始める
たとえば:
•コピーA’が、コピー直後に何かを感じた瞬間
•コピーB’が、0.01秒でも違う経験をした瞬間
→ もう“オリジナル”とは違う人格になっている。
🌱人格というのは:
情報の積み重ね × 感情の蓄積 × 時間の流れの中で生まれる
だから、ほんの一瞬でも違えば、もう別の存在。
☯️ “コピーされた瞬間に死ぬ”という不在
•コピーが死んでいる=もうその時点でオリジナルではない
•生きていても、時が流れれば分岐してオリジナルではなくなる
•よって、「生死」という状態そのものに、“同一性を保つ力”はない
🔍補足:この「不在」が意味するもの
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存在しなかったに等しい
コピーが「作られた瞬間」に死んだなら、その存在は生きた証も、感じた記録も何も残していない。
→ つまり、“在った”ことが証明されないまま消えた存在。
→ それは「コピー」ではなく、ただの情報の残骸。 -
“私”が立ち上がる前に終わった
―「コピーされた瞬間に死ぬ」とは―
“私”になる可能性すら持てなかった、未成立な存在。
✍ 結論:
この「不在」は、存在が成立するための最低条件を一切満たさなかったことを意味する。
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「コピーされた存在は、本当に“私”なのか?」
この問いは、おそらく昔から何度も議論されてきたことだろう。
この思考は、きっと私だけのものではないだろうし、
もしかしたら、いつか自分の中でも形を変えていくのかもしれない。
それでも、自分なりに向き合ってみた素人の思索として、ここに残しておきたい。
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