オブジェクト指向無本質論【後期ウィトゲンシュタイン/家族的類似性】―「本当のオブジェクト指向」はない
copyright 吉田戦車『伝染(うつ)るんです。(1)』小学館, 1990 年 p.2
繰り返すが、考えるのでなく見るのだ!
―ウィトゲンシュタイン『哲学探究』
0587 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ W d723-SF0G) 2024/02/09(金) 13:57:34.52
というかオブジェクト指向が共通認識って自体が幻想だわ
誰もが納得する説明誰も出来てないのがその証拠
俺も含めてな『オブジェクト指向』:左矢印:これなに?10 年ぐらいプログラミングしてるけどわからん [158478931] - 5 ちゃんねる掲示板
https://itest.5ch.net/greta/test/read.cgi/poverty/1707369761
序
これから、「オブジェクト指向には、本質はない」ということについて語る。
最初から余談を語るが、
2024 年 8 月から、この『オブジェクト指向無本質論』を書き始めていたのだが、2025 年 10 月になっても完成させられずにいた。
なぜか。
オブジェクト指向の歴史をたどることが困難だからだ。
まず、一次資料の入手の難しさ。
オブジェクト指向は一般的にアラン・ケイが提唱者とされている。
そして、アラン・ケイ『アラン・ケイ』は、現在、絶版。一時期、Amazon では中古本が 30 万円もした。
図書館に行くとか、いろいろな手はあるが、親の介護とか、生来蒲柳の質であるとか、
先月階段から落ちて骨折したとか、いろいろなことが相まって、できない。
「オブジェクト指向には、本質はない」ということを「証明」するには、
オブジェクト指向の歴史を検討することが不可避だ。
だが、資料を大量に集めないとならないとか、時間がかかりすぎるとかいう理由でできそうもない。
そこで、「オブジェクト指向には、本質はない」ということを「証明」、あるいは、文献的に「実証」することはあきらめた。
アイディアのみ書き、証明は書かないラマヌジャン方式で行く。
つまり、これから、「オブジェクト指向には、本質はないのでは?」ということを語る。
が、オブジェクト指向の歴史についての考察を省かせていただく。
なので、これから、私的な随想、妄想の域を出ない。
しかし、このアイディアがずっと頭にわだかまっていて、脳のスペースが常に無駄にとられている感じがする。
なので、ここに置いていくこととする。
結論
結論。
オブジェクト指向とは、アラン・ケイのオブジェクト指向、C++のオブジェクト指向、Java のオブジェクト指向という個々の、
「オブジェクト指向の概念」「オブジェクト指向の実装」があるのみである。
それら《具体的な》個々のオブジェクト指向の実装を離れた、「本当のオブジェクト指向」はない。
つまり、オブジェクト指向の本質はない。
アラン・ケイのオブジェクト指向、C++のオブジェクト指向、Java のオブジェクト指向などのオブジェクト指向が、
ウィトゲンシュタインの家族的類似性に基づき連関しているのだ。
ウィトゲンシュタイン 家族的類似性(Familienähnlichkeit)
ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」とは、ウィトゲンシュタインの後期の哲学だ。
以下、講談社版『哲学探究』75 ページから、引用する。
例えば、我々が「ゲーム」と呼ぶ事象について、一度考えてみてほしい。盤上のゲーム、カードゲーム、ボールを使うゲーム、格闘的なゲーム、などのことを言っているのだ。
これらすべてに共通するものは何か?
「何か共通なものがあるに違いない、さもなければ「ゲーム」とは呼ばれない」と言ってはいけない―そうでなく、それらに共通なものがあるかどうかを見たまえ。―なぜなら、それらをよく眺めるなら、君が見るのはすべてに共通するような何かではなく、類似性、類縁性、しかもいくつもの種類の類似性だからだ。
繰り返すが、考えるのでなく見るのだ!例えば盤上の様々なゲームと、それらの間の様々な類似性を見てみよ。そして次にカードゲームへと移ってみたまえ。そこで君は先の第一のグループとの対応をたくさん見出すが、共通の特徴の多くは消滅し、別の共通の特徴が姿を現す。次にボールを使うゲームに移るなら、いくつかの共通点は保たれるが、多くは酒えてしまう。それらはすべて「娯楽」なのか?チェスと五目並べを比べよ。あるいは、すべてにち負けがあるか、つまり競技なのか?トランプの一人遊びについて考えよ。ボールを使うゲームに勝ち負けはあるが、子供が壁にボールを投げ、跳ね返ってくるのを受けている場合、この特徴は消滅する。技能と運がどんな役割を果たしているか見よ。そしてチェスの技能とテニスの技能がどれだけ違っているかを見よ。次に手をつないで輪になって行うゲームについて考えよ。ここには娯楽の要素はあるが、どれだけ多くの他の特徴が消滅することか!そして同じようにして我々は、実に多くの他のゲームのグループへと移ってゆける。様々な類似性が現れては消えてゆくのを見ることができるのだ。
67 こうした類似性の特徴を表現するのに「家族的類似性」という言葉ほど適切なものを私は知らない。
というのも、体格、顔つき、目の色、歩き方、気性といった、ある家族の成員間に見られる様々な類似性は、そのように重なり、交差しているからだ。様々な「ゲーム」は一つの家族を形成している、と私は言おう。
(中略)だがもし誰かが、「だからそれらに共通するものはがあるのだ―すなわちそれらの様々な共通性すべてを「または」でつないだ全体だ」と言おうとするのなら、-「君は言葉遊びをしているだけだ」と私は応えるだろう。そのように言うのなら同じように、糸全体をあらゆるものが貫いている、-すなわちそれらの繊維の切れ目ない重なり合いだ、とも言えるだろう。[1]
ここで、ウィトゲンシュタインは《ゲーム》という概念の無本質性を喝破している。
チェス、五目並べ、トランプ遊び……などのゲームは、類似性というもので、連関しており、すべてを貫く共通点(=本質)はない。
これは、ちょうど家族の構成員が「目が似ている」「顔が似ている」「背丈が似ている」という様々な類似性が重なり合うかのようだ。
これを家族的類似性(Familienähnlichkeit)という。
オブジェクト指向と家族的類似性
私はオブジェクト指向という概念も、上記で、ウィトゲンシュタインが、ゲームで例を挙げたものと考える。
アラン・ケイのオブジェクト指向、C++のオブジェクト指向、Java のオブジェクト指向……と個々のオブジェクト指向が、
家族的類似性で連関しており、すべてのオブジェクト指向を貫く「オブジェクト指向の本質」はないと考えるのだ。
オブジェクト指向の、家族的類似性、無本質性を知っていれば、不毛な議論を回避できる
以上を議論には、どのような功徳があるか。
オブジェクト指向の家族的類似性、そして、無本質性を知っていれば、
「本当のオブジェクト指向」をめぐって不毛な議論を回避できる利益があると考える。
上記の話は、「本当のオブジェクト指向などない」という議論である。
「本当の犬」というものが実在しないように。
また、自分がオブジェクト指向を論じたいとき、アラン・ケイのオブジェクト指向か C++のオブジェクト指向か、
いったい「どの」オブジェクト指向なのかを明確に定義してから、論じないとやはり前提の曖昧な議論になることがわかる。
以上が、私のオブジェクト指向の無本質論とその功徳である。
過去記事:
-
著:ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン 訳:鬼界彰夫『哲学探究』(講談社)p.75 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189677 ↩︎
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