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アジャイル解説② ~アジャイル浸透の歴史~

2024/10/26に公開

ソフトウェア工学の黎明

1975年、フレデリック・ブルックスは著書「人月の神話」で、プログラマーの増員が必ずしも開発の効率化につながらないことを指摘し、従来の工業的な生産管理手法をソフトウェア開発に適用することへの警鐘を鳴らしました。さらに1986年の論文「銀の弾丸はない」では、ソフトウェアの本質的な複雑さに対して、単一の手法や技術による解決は不可能だと主張しました。この問題提起は、現場での新しい開発手法の模索につながっていきました。

反復型開発モデルの萌芽

1988年、バリー・ボームは「スパイラルモデル」を提唱し、リスクを軽減するために開発を小さな反復で進める考え方を示しました。この反復型の開発アプローチは、ウォーターフォール型開発への代替案として実務の現場で試行されはじめました。同時期、トヨタ生産方式から着想を得たリーン思考も、ソフトウェア開発における無駄の削減と価値の最大化という観点から、開発現場に影響を与えていきました。

XPの登場

1996年、ケント・ベックはクライスラー社での実践経験をもとに、エクストリーム・プログラミング(XP)を考案しました。XPは、ペアプログラミングやテスト駆動開発など、それまでの良い実践を極限まで推し進めた手法として提案され、プログラマー中心の開発手法として現場に受け入れられ始めました。

アジャイルの始まり

2001年に発表された「アジャイルソフトウェア開発宣言」は、これらの現場での実践を総括する形で、ソフトウェア開発における柔軟性と迅速な対応を重視する新しい考え方を提唱しました。この宣言は、従来の開発手法における課題、特にウォーターフォール型開発における変更への対応の難しさや、顧客との協力関係の不足を克服することを目指していました。

XPの時代

2000年代には「エクストリーム・プログラミング(XP)」がアジャイル手法の代表格として注目されました。XPは、プログラマーが中心となって開発効率と品質の向上を追求する手法でした。テスト駆動開発(TDD)やペアプログラミング、継続的インテグレーションなど、技術的な実践を重視し、「顧客との信頼関係の構築」や「継続的な改善」といったアジャイルの哲学をコードレベルで実現することを目指しました。この時期のアジャイル関連の書籍や資料は、技術志向が強く、**「価値に基づく文化」**としてのアジャイルの理解を広めることに重点を置いていました。

スクラムの台頭

2010年代に入ると、スクラムの普及によってアジャイル開発は大きな転換点を迎えました。それまでアジャイルの主な担い手だったプログラマー(アーリーアダプター)は、開発効率や技術的卓越性を重視していました。しかし、より広い層(アーリーマジョリティ)、特にプロジェクトマネージャーや組織管理者がアジャイルに関心を持つようになると、その注目点は大きく変化しました。
スクラムが支持された理由は、それが管理者の関心事に応えるフレームワークだったからです。スクラムマスター、プロダクトオーナー、開発チームという明確な役割分担は、組織における責任の所在を明確にします。また、スプリント計画、デイリースクラム、スプリントレビューなどの定期的なイベントは、進捗管理や品質管理、チームメンバーの管理を体系的に行うための枠組みを提供しました。この管理の標準化により、大企業やチーム構成が複雑な組織でも導入しやすい構造となり、それまでXPなどの技術的実践に重点を置いた手法では踏み出せなかった普及の壁(キャズム)を越えることができたのです。

スクラム導入の実態

スクラムの導入は、多くの組織でアジャイル開発の実践を促進しました。例えば、2週間から4週間のスプリントサイクルの導入により、定期的な成果物の提供が可能になり、また、デイリースクラムによってチーム内のコミュニケーションが活発化するなどの効果が見られました。しかし、その一方で、これらの施策を形式的に導入するだけで、本質的な価値を見失うケースも増加しました。

カーゴカルト化の事例

カーゴカルトとは、外見や形式だけを真似ることで本質を見失う現象を指します。スクラムのカーゴカルト化の具体例として、以下のような事例が報告されています。
‐ デイリースクラムを単なる状況報告の場として形骸化させる

  • スプリントプランニングで現実的でない計画を立て続ける
  • 振り返りを行っても実際の改善につなげない

このような形骸化により、アジャイルの本質である**「変化への柔軟な対応」「顧客との協力」**といった哲学が置き去りにされる結果となりました。

資料の変化

スクラムの普及に伴い、アジャイル関連の書籍や資料の性質も変化しました。初期のアジャイル関連書籍が哲学や価値観に焦点を当てていたのに対し、近年では「スクラムガイド」や「認定スクラムマスター」といった形式的な知識の習得に重点を置く実務的な「ハウツー本」が増加しています。これは、アジャイルの実践方法の標準化という利点がある一方で、本質的な理解の深化を妨げる要因ともなっています。

企業規模への対応

スクラムの普及に続き、2010年代後半になると大規模アジャイルフレームワーク(特にSAFe: Scaled Agile Framework)が注目を集めるようになりました。SAFeは、スクラムをさらに組織化・体系化し、企業全体でのアジャイル採用を可能にする枠組みとして多くの大企業に受け入れられました。これは、アジャイルの組織管理手法としての性格をさらに強めることになりました。
しかし、ジェフ・サザーランドをはじめとするアジャイルの創始者たちは、SAFeのような大規模フレームワークを強く批判しています。彼らの視点では、このような企業規模でのフレームワーク化は、アジャイルが本来持っていた「小さなチームの自律性」を損ない、意思決定や管理の中央集権化を招くものでした。

まとめ

アジャイルの歴史は、イノベーションが現場に普及する過程で本質が変容していく例を示しています。技術者主導の革新的な手法として始まったアジャイルは、スクラムという形でマネジメント寄りのフレームワークに姿を変え、さらにSAFeのような大規模フレームワークへと発展することで、大企業にも受け入れられていきました。これは普及の成功である一方で、当初目指していた価値観とは異なる形での定着となりました。

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