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なぜ、日本のSIerたちはキーエンスになれないのか?

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はじめに

日本のSIer(システムインテグレーター)業界は、長年にわたって国内IT産業を支えてきました。しかし、ここ十数年で業界内外から「SIerビジネスは儲からない」「これからはオファリング(製品型サービス)に転換せねばならない」という声が繰り返し上がるようになっています。その一方で、製造業界においてはキーエンスという企業が圧倒的な利益率を誇り、驚異的なスピードで製品開発と販売を繰り返して成長を続けています。

こうした対比から、「なぜSIerはキーエンスのようになれないのか」という議論がたびたび登場します。しかし、この問いは一見もっともらしく見えて、実際には前提を大きく取り違えている場合が少なくありません。本稿では、日本のSIerがキーエンスのような高収益企業になれない構造的理由を明らかにし、あわせてその背景にある人的資本と対象構造の問題についても考察します。

SIerとキーエンスでは「作っているもの」が根本的に違う

まず最も根本的な違いとして、両者が「作っているものの性質」が全く異なります

キーエンスは、センサ・画像処理装置・測定機器・PLCといった物理法則に基づいた普遍的課題を解決する製品を作っています。顧客ごとに製品を一から作るのではなく、現場で収集した多様な課題を共通化し、製品という形に閉じ込めて量産・販売することで利益を得ています。個別案件で必要なのはパラメータ設定や治具の工夫といった軽微な対応であり、一度開発した知識や技術を何千回も再利用できる構造になっています。

一方、SIerが扱うのは企業ごとの業務システムです。企業の会計ルール、稟議フロー、人事制度、在庫運用、既存資産、政治的力学はどれも異なり、課題構造が歪で再利用がほとんど効きません。結果として、案件ごとにゼロベースで要件定義・設計・実装・試験を行う必要があり、労働集約型でスケールできない構造になっています。

つまり、キーエンスが「共通化できる課題」を扱うのに対し、SIerは「共通化できない課題」を扱っており、ここに製品化できるか否かという構造的断絶があります。

「探索と実行」の扱いが真逆である

両者は、開発工程における不確実性の扱いもまったく異なります。

キーエンスは、営業が現場で得た顧客課題をR&Dにフィードバックし、不確実な探索をアジャイル的に繰り返します。そして、十分に普遍性と再現性が確認できた段階で製品仕様を凍結し、製造工程に移行してウォーターフォール的に量産します。この構造により、不確実性を製造工程に持ち込まないようにしています。

対してSIerは、不確実な要件や政治的調整を、最初から「確定した仕様」とみなしてウォーターフォール的に開発を始めます。その結果、実際には要件がズレていることが多く、手戻り・遅延・追加工数が頻発し、不確実性を爆弾のように抱え込んでしまう構造になっています。

つまり、キーエンスは「探索(不確実)=アジャイル」「実行(確実)=ウォーターフォール」と切り分けているのに対し、SIerは不確実性をそのままウォーターフォールに載せてしまっているのです。

製造という儲け口を失ったSIer

かつて日本のSIerは、今ほど不利な構造ではありませんでした。1980〜1990年代頃までは、NEC・富士通・日立などはメインフレームやUNIXサーバー、端末、ワークステーションなどのハードウェアを自社開発・製造しており、製造業としての収益基盤を持っていました。仮にソフトウェア開発案件が赤字でも、ハードの販売利益で相殺することができたのです。

しかし、サーバーがx86汎用機に置き換わり、端末はDellやHPなどグローバルメーカーに駆逐され、さらにクラウド(AWS, GCP, Azure)が普及することで、SIerは製造という儲け口を完全に失いました。今やSIerは、知財が残らず再利用もできないスクラッチ開発だけを売っている状態です。この構造では、どれだけ頑張ってもキーエンスのような利益率を生むことはできません。

低スキル大量投入モデルによる人的資本の希薄化

さらに、日本のSIerはもう一つ大きな問題を抱えています。それは、低スキル人材を大量投入する労働集約モデルに依存してきたことです。

案件ごとに要件が異なり再利用が効かないため、SIerは作業を細かく分解して単純作業に落とし込み、多数の低スキル要員を動員する構造を取ってきました。この仕組みは一見合理的ですが、個人が経験知を蓄積して高スキル化する経路を断ち切ってしまうという副作用を生みました。

その結果、スキルが上がらない→高単価が取れない→さらに低スキルを詰め込む→優秀人材が流出する→スキルがさらに下がる、という悪循環が業界全体で起きています。
つまりSIerは、共通化できない対象を、低スキル大量投入で処理するという、極めて非効率な構造にロックインされているのです。

なぜ制度論では変われないのか

こうした現実に対して、「キーエンスを見習え」と唱える論者は少なくありません。しかし、彼らが語るのはスクラムや心理的安全性、1on1制度といった制度や手法といった上層レイヤーの話ばかりです。
これらは外からでも観察・輸入できるため語りやすく、成果が出なくても「やり方が悪い」と再帰的に言い訳できるため人気があります。

しかし、制度や手法だけを輸入しても、人的資本(スキル)と対象構造(共通化可能性)が整っていなければ機能しません
つまり、制度論だけで変えようとする試みは、問題の根幹である人的資本の希薄化と対象構造の非共通性を素通りしており、いくら輸入しても構造的制約を突破することはできないのです。

業界全体として見える変化の兆し

もっとも、ここ数年で国内大手SIer各社が人的資本の強化と対象構造の再定義に目を向け始めている兆しも見られます。

たとえば、従来の人月前提の要員プールを廃止し、個人を専門性ベースで社内市場に流動化させる動きや、数万人規模でクラウド・AI・英語などのリスキリングを行う取り組みが進められています。
また、個別スクラッチ案件を縮小し、共通化可能領域を製品・サービス化する戦略も徐々に広がっています。

こうした動きはまだ途上ですが、制度や手法の輸入ではなく、人的資本と対象構造という根幹に着手する試みであり、もしこれが軌道に乗れば「キーエンス的構造」をソフトウェア業界に取り込むための足がかりとなるでしょう。

まとめ

日本のSIerがキーエンスになれないのは、怠慢でも制度の未整備でもなく、構造的に「共通化できない課題」を扱っているうえに「低スキル大量投入モデル」に依存しているからです。
キーエンスは「共通化できる課題」を扱い、不確実性をR&D段階で潰し、製品化して大量販売するという構造を持っていますが、SIerは再利用できない成果物を都度納品するだけで資産が残らず、利益が雪だるま式に増える構造を持っていません。

さらに、SIer業界では低スキル労働集約モデルが人的資本の希薄化を招き、構造転換を試みるための知的基盤すら不足しています。
制度論や手法論はこの現実を無視しており、いくら輸入しても構造的制約を突破することはできません。

日本のSIerが本当に変わるためには、制度改革ではなく、まず人的資本を再構築し、共通化可能な対象領域を抽出・製品化することが不可欠です。
最近になってその兆しもようやく現れつつありますが、これを本格的に実現できたとき、初めて「SIerのキーエンス化」は現実味を帯びてくるでしょう。

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