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なぜ、LLM AIは「秘書」として優秀ながら、「先生」としては無能だという事実に世間は向き合わないのか?

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はじめに

近年、大規模言語モデル(Large Language Model、以下LLM)が急速に普及し、新聞やネットニュース、さらには政策論議の場においてもAIの将来像が語られています。そこでは「AIが教師や指導者として人間の学習を代替する」という期待や不安が繰り返し報じられています。しかし現実には、LLMは「秘書」としてはきわめて優秀である一方で、「先生」としての役割には本質的な欠陥を抱えています。本稿では、なぜ世間がこの明白な落差に向き合わず、教師的AIの幻想を反復し続けるのかを論じます。

LLMが秘書として優秀な理由

秘書とは、上司の指示を受けて情報収集を行い、文書を作成し、予定を整理する役割を担います。ここでは「正しい指示」が前提であり、秘書は指示内容の妥当性を判断する必要がありません。LLMは自然言語処理の強みを活かし、調査や文書の下書き、議事録の作成、要点整理といった作業を高速かつ大量にこなすことができます。この点で、人間の秘書に近いどころか、場合によっては凌駕しているといえます。
また、秘書的業務では「入力が誤っていた場合に誤答する」ことは大きな問題になりません。責任は指示した側にあるからです。すなわち、LLMの「入力を額面通りに受け取る」特性が、そのまま秘書的役割に適合しているのです。

LLMが先生として無能な理由

対照的に、先生には「学習者の誤解を見抜き、正しい方向に導く」能力が求められます。教育学ではこれを「誤概念の修正」と呼び、単なる知識伝達以上に重要な役割とされています。
しかし、LLMは入力された前提を疑うことが苦手です。例えば「地球は平らなんですよね?」と質問されると、多くのモデルは「地球平面説」について長々と説明してしまいます。これは「質問の前提が誤っている」と診断する力を欠いているからです。
この構造的な欠陥は、教師としてのLLMを決定的に不適格にしています。生徒が間違った理解を持っているとき、正しい知識へと矯正できなければ教育は成立しません。つまり、LLMは「教える」能力ではなく、「与えられた前提を整形して返す」能力しか持ち合わせていないのです。

世間が「先生AI」に固執する理由:共通体験としての教育

では、なぜこの欠陥があるにもかかわらず、世間は「AI教師」という言葉に夢や不安を託すのでしょうか。第一の理由は「教育は国民的共通体験だから」です。秘書を雇った経験を持つ人は少数派ですが、教師に学んだ経験は誰もが持っています。したがって、新聞やニュースの見出しで「AIが先生に」と書かれれば、誰もがイメージできます。
メディアは記事を読んでもらうために「誰にでも理解できる比喩」を好みます。そのため、現実的に有用な「秘書AI」よりも、物語的に伝わりやすい「先生AI」の方が大きく取り上げられるのです。

社会不安との結びつけやすさ

第二の理由は「教育は未来への不安と直結する」点にあります。秘書的なAI利用は主にビジネス効率化の範疇にとどまります。しかし教師AIとなると、子どもの人格形成や社会の知的基盤に直結します。ここには「子どもがAIに育てられて大丈夫なのか」という直感的な不安が生まれます。メディアは不安を増幅させる話題を好むため、「秘書AI」よりも「先生AI」が記事としては格段に魅力的になるのです。

権力関係の隠蔽効果

また、秘書やアシスタントという比喩は「上司=人間、部下=AI」という権力関係を前提とします。これは読者の立場によっては受け入れにくいものです。多くの読者は上司よりも部下として働いているため、「上司目線のAI活用」は距離感を覚えます。
一方で教師という比喩は「大人と子ども」という非対称性を利用しており、しかも自分の経験と重ね合わせやすいのです。権力関係のニュアンスが目立たず、社会的に無難な語り方になるため、世間は「先生AI」を自然に受け入れてしまいます。

見出しの演出とマーケティング戦略

さらに重要なのは、実際にアシスタント性を強調している論者であっても、記事の見出しや番組テロップでは「先生AI」と書かれてしまう点です。編集部は「わかりやすく釣れる言葉」を選ぶからです。
ホリエモンや落合陽一のように、実務ではアシスタント性を強調する人物でさえ、メディア上では「AIが教師に」というコピーで語られます。本人たちもまた「大衆に響くならよし」とある程度は容認しているのです。つまり、現実の価値(アシスタント性)と流通するイメージ(教師性)の間に乖離が生まれているといえます。

歴史的な繰り返し

この現象は過去にも繰り返されてきました。1980年代から90年代にかけて、パソコンは「家庭教師マシン」として宣伝されました。NECのPC-6001「パピコン」などは「学習もできる」と強調され、家庭への普及を狙いました。しかし実際に普及の原動力となったのは、ワープロや表計算といった秘書的な役割でした。
AIにおける「先生幻想」もまた、PC普及期の「教育幻想」の焼き直しにすぎません。つまり、世間は「実用性を支えるアシスタント性」よりも「物語的に強い教師性」を過大評価する傾向を繰り返しているのです。

教師AIの本質的な限界

改めて整理すると、LLMが先生になれない決定的な理由は「誤った前提を修正できない」点にあります。人間の教師は、学習者の誤解や偏見を矯正する能力を持ちます。だがLLMは入力を疑わず、そのまま筋道をつけて返答するため、誤った知識を強化してしまいます。
この構造的弱点は、技術が多少進歩しても簡単には克服できません。なぜなら、教師的な役割は単なる知識の伝達ではなく、「診断」と「修正」を伴う高次の行為だからです。LLMを教師にするには「誤概念検出AI」と「知識提示AI」の二層構造が必要であり、それはまだ研究途上にあります。

まとめ

世間が「先生AI」に固執するのは、共通体験としての教育、未来への不安、メディアの演出、歴史的な前例といった複数の要因が絡み合っているからです。しかし現実に価値を生んでいるのは「秘書AI」です。人々がその事実に向き合わないのは、社会的にドラマを必要としているからに他なりません。
結局のところ、AIは現段階では「参謀」「秘書」「相棒」としては優秀ですが、「先生」としては無能です。この落差を冷静に直視することこそ、AI時代に必要なメディアリテラシーであるといえます。

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